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あれは晴れた日だった

作者: 楠木静梨

寝起きの頭で書いたものです。

 産まなければ良かった―――そう言ってくれれば、どれ程気が楽だっただろうか。


 母は完璧な人間だった―――運動も勉強も難なく熟し、父と結婚してからは家事と育児で弱音一つ吐かずに僕を育て上げた


 母の涙を、三度見た事があった―――父と僕で協力して、母の誕生日をサプライズで祝った日。

 そして、その父が車に轢かれて死んだ日。


 嫌に晴れた日曜の正午、僕と共に買い物中に連絡があった―――父は、即死だった。

 母は一晩泣き明かし、翌日は目元を腫らしながらもいつも通りの強い母に戻った。


 ただ半年程、上の空の時間が増えた。


 パンをよく焦がす様になった。

 風呂で湯を溢れさす様になった。

 洗濯物を取り込み忘れる様になった。

 夕飯後、日が回るまで玄関を眺める様になった。


 だが、母は持ち直した―――父の死後半年が過ぎた頃、僕の就職を機に。


 大学の卒業と僕の社会人生活スタート。

 一度話を聞いたからには、夜遅くに帰ってくる僕を見て父を思い出した。

 そして、強く支えなければと感じたらしい。


 僕が家を離れる事はなかった。

 元々都内暮らし―――就職すると言って、一人暮らしは必要ない。

 あの就職前の状態の母を一人にするとも出来なかったし、何より僕が嫌だった。


 知らぬ間に死んでしまった父の件が、トラウマになっていたのだ。


 幸い、僕の新社会人生活は順調な走り出しを見せた。

 母は僕の弁当を作ってくれ、それがあれば自然と働く力が湧いた。

 何かミスをしでかしても、次に進む気力となってくれた。


 そんな支えあり三年、僕も仕事に随分と慣れた頃―――会社の倒産が決まった。


 キッカケは役員の脱税発覚。

 そこから芋づる式に、上司曰く色々見つかったらしい。


 僕は余り傷付かなかった―――母の為にも、次の職を探さねばと前へと歩けたのだ。


 だが、その母が違った―――母の傷は、未だ癒えていなかったらしい。


 前に歩き出した母は、未だに心に重りを結び―――引きずりながら歩いていた。



 僕が仕事がなくなったと伝えた日、母は膝から崩れ落ちた。

 すとんと、全身から力が綺麗に抜けた様に。


 そして声を出すわけでもなく、波が流れた。


 昔の母ならば強く背中を叩いてくれたのだろうか、それとも優しく励ましてくれたのだろうか―――涙を流す母を見て、僕も思わず涙を流した。


 玄関先、涙を流す親子は側から見れば異質だったであろうか。



 それ以降母は、涙どころか少しの感情も見せなくなった。

 ただ生きているだけ―――僕が三年間で貯めた貯金と、父の残した貯金で日々飯を食った。


 二度目の僕の職探しは、順調とは言えず―――以前の会社の悪評が、僕にも張り付いて来た。



 その日、嫌に天気が良かった―――僕は今日こそと、面接会場に向かうべく玄関へ向かう。


 久々に、母が見送りに出て来てくれた―――少し気が晴れたのか、何かあったのかと思う僕の背に手を当てる母。


 その手、腕は、昔の肌艶などなく痩せこけていた。

 少し前に無理矢理連れて行った医者曰く、原因はストレス―――少し悲しくはあったが、背に伝わる母の手の温もりだけは変わらず。


 そんな思いが溢れ出した一瞬後、母は小さな声で何かを呟いた。


 何かと聞き返すと、もう一度復唱―――産んでしまってごめんねと、背筋が凍りつく様な冷たい声で言った。


 母は続ける―――私が産んでしまったから、貴方は今こんな苦しい日々を過ごしている。

 私が貴方を産んだから、父の死を経験したのだと、会社の倒産を経験したのだと、全て産んでしまった私のせいなのだと―――そう、母は言った。


 お前など産まなければ良かったと言ってくれれば、僕は死ねば済んだのだ。


 だが産まなければ良かったなど―――僕には、そうだお前が悪いのだと母を殺すつもりも勇気もない。


 どうしようもないのだ。


 刻一刻と、時間が過ぎて行く―――面接会場に向かわなければならない僕は、いち早く死ねと言ってくれと願った。

 今すぐ死ね、ここで死ね、惨めったらしく死ね。

 そう呪いを吐いてくれと、無様に祈った。


 母はきっと、自分では死ねないだろう。

 次に僕に、母の自殺という経験をさせるわけには行かないと思っているだろうから。


 僕も死ねないだろう―――この、既に割れてしまった硝子細工の様な母に、これ以上痛みを与えてはならないのだから。


 僕にはきっと、何も出来ないのだろう―――何を成そうと成功しようと、一生共に惨めったらしく生きて行くのだろう。


 僕は母に告げた―――もう家を出ないといけないから、ごめんなさいと。

 母は静かに僕の背から手を離すと、家の奥に戻って行った。

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