12話 天下の情勢
天下は依然として混迷を極めていた。
机の上に広げられた地図に、荀彧は駒を並べていく。
「ここ許昌が、今の我々の拠点です。そして我々の勢力を囲むように、数多の勢力が乱立しております」
北は、幽州の公孫瓚、冀州の袁紹。西は、涼州の韓遂と馬騰、益州の劉焉。
東は、徐州の呂布、揚州の袁術。南は、荊州の劉表、そして張繍。
曹操はこの群雄に囲まれながら戦に次ぐ戦を勝ち抜き、急速に勢力を拡大させてきたのだ。
今、こうして現実を目の当たりにすると、如何に曹操が人間離れした人物だったのかというのがよく分かる。
「現在、袁紹と公孫瓚が北方で争っています。曹操様はこの争いが終わる前に、呂布、袁術、張繍を滅ぼす算段でした」
「宛城攻めはその第一歩だったと」
「まさしく。されどこの戦略はもはや断念せざるを得ません。外よりも内に目を配らなくてはなりませんので」
先の兗州における反乱もそうだ。曹操の死による領内の動揺はまだまだ拡大するだろう。
そんな中で外に目を向けてなどいられない。つまり、曹操の目指していた拡張戦略はもはや成り立たない。
「曹操様は、袁紹と並び立って決戦を行う覇道を目指しておられた。されど今の我々にその覇道は歩めません」
「覇道でなければ、どうする」
「弱者なりの生き残り戦術を行わなければなりません。つまり、邪道に御座います」
まずは自分が弱者であることを認める。そして鼠のように立ち回り、隙を見て急所を嚙み千切る。
史実において覇者の勢力になるはずだったこの陣営が。それを嘆いても、何も始まらない。
「内側を固め、外交を通して戦を避け、国を富ませ、機を伺う。これが弱者に残された道に御座います」
「そんな悠長を周囲が許すか?」
「許してくれないでしょうね。袁紹以外は」
すると荀彧は冀州においてある駒を手に取り、幽州にある駒を地図の外へと弾き出す。
公孫瓚を指し示していたその駒はカラカラと音を立てて机を転がる。
「袁紹は、名君です。間違いなく王者の器であり、彼の目指す王道に寸分の狂いもない。公孫瓚も遠くないうちに滅ぶでしょう。されど惜しいかな。袁紹は既に天下を取った気でいる」
「まぁ、河北四州を取るという事は、天下を取ることと同義だ。光武帝も、そのようにして天下を取った」
「袁紹はよく配下の話を聞きます。そして自らの権力強化の為、功臣同士を争わせ、臣下の権力を削る。しかしこれは天下を取った後にすべきことです」
後世では、袁紹は「官渡の戦い」で敗北したこともあり「暗君」の評判を得ている人物だ。
しかし歴史をよく見てみると、袁紹が如何に大きな存在であったかが理解できる。まさしく王者だ。
袁紹が天下を取れなかった理由はただ一つ。曹操と同じ時代に生まれてしまったことだけだった。
ただ、今の俺の生きるこの世界に、その曹操はいない。間違いなく今、最も天下に近いのは袁紹だろう。
だからこそ、その袁紹とどう相対するのか。そこを定めないと話は前に進まない。
「殿は、私を信じていただけますか? いえ、潁川郡の者達を、信じていただけますか?」
「ここで無条件に頷くと、父上の心配も無碍になってしまう。結果を、見せてくれ。俺は結果だけを見て、信じることにする」
「ふむ、なるほど。ですが袁紹の足場を揺らすには、潁川郡出身者の協力は不可欠です」
袁紹政権の中核にも、潁川郡の出身者は多い。だからミイラ取りがミイラになる、それだけは避けないといけない。
荀彧は確かに信用できる。しかし、派閥というのは厄介だ。だからこそ曹操も、死の際に悩んだ。
どれだけ志が高い社長や政治家であっても、数多の思惑や派閥の圧力で歪んでしまうなんてよくある話だ。
人は環境で行動を変える生き物。忠誠心があるとはいえ、荀彧も例外ではない。
だからこそその圧力に、一つの楔を打ち込んでおきたかった。
「程昱の後任に、董昭の採用を考えている。それを許してくれれば父上の時と変わらず、潁川の者達に信頼を預けよう」
「董昭、ですか。程昱殿は剛毅で卓越した軍略家でしたが、その後任にするには、あまりに頼りないかと」
「于禁将軍の推薦だ。それに、袁紹の下に居た頃の実績もある」
「袁紹の下に最近までいたからこそ、危ういのです。あれは自分の為なら平気で周囲を裏切る謀臣です」
「毒も使い方によったら薬になる。ならば、郭嘉の下に置こう」
案の定、荀彧の反応は芳しくはない。実際に会ったことは無いが、そんなに癖の強い人なんだろうか?
ただ、程昱までもが死んでいる以上、その後任は欲しかった。それほど無茶な提案では無いようにも思う。
「兗州は、呂布軍の参謀である『陳宮』の影響の濃い場所。ただ于禁将軍が言うなら、分かりました。郭嘉の管理下に置く形で抜擢しましょう」
「その他の人事はこれまで通り、荀彧殿にお願い致す。この曹昂の命、好きに扱ってください」
「曹操様と共に死ぬことが出来なかった身です。もとより、殿と運命を共にするつもりでおります」
「それは心強い」
やるべきことは多く、もはや袋の鼠とも言うべき状況なのに、不思議と不安はない。
王佐の才と言われるだけあって、きっと大丈夫と、俺に思わせてしまう魅力が荀彧にはあった。




