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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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虚空太鼓

 一、捨丸(すてまる)


 ドンヨリとした油のように重く波打(なみう)瀬戸(せと)の海に、一隻(いっせき)白木造(しらきづく)りの弁才(べんざい)(せん)が、ポツリと浮かんでいる。

 (あつ)い雲に(おお)われた夜空には月もなく、海面(うなも)を照らしているのは、弁才(べんざい)(せん)()(たよ)りない篝火(かがりび)のみである。

 (あや)しく(うごめ)く波に乗りながら、右へ左へとユラリユラリと船体(せんたい)が揺れる様は、見るものを不安にさせる。

 このような不吉(ふきつ)(ばん)に船を出すことについて、波止場(はとば)の連中は当然だが反対した。商船(しょうせん)船頭(せんどう)である捨丸(すてまる)胸中(きょうちゅう)にも懸念(けねん)(かげ)(よぎ)らないわけではなかったが、(かれ)は目前に吊り下げられた(えさ)に飛びつかずにはいられなかった。要するに、捨丸(すてまる)欲望(よくぼう)に負けたのである。

 そもそも、捨丸(すてまる)()るを()る男である。海で生きる人間は()(ぎわ)熟知(じゅくち)しているものであり、捨丸(すてまる)もその(れい)()れない、(したた)かな男であった。瀬戸(せと)の海が(かれ)知恵(ちえ)経験(けいけん)(さず)け、(かれ)もそれに(こた)えるように、(たくま)しく生きてきたはずだった。

 ――それにしても、美しい女だ。この女を(いだ)けるならば、多少(たしょう)危険(きけん)(おか)すだけの価値(かち)はある――

 (たよ)りない篝火(かがりび)(ともしび)を受けて、整った面立(おもだ)ちに妖艶(ようえん)なまでの(かげ)を落とし、ひっそりと船端(ふなばた)腰掛(こしか)ける女を横目(よこめ)に見ながら、捨丸(すてまる)は思った。女の黒髪(くろかみ)(からす)()()のように宵闇(よいやみ)の中にしっとりと馴染(なじ)んでいる。捨丸(すてまる)は自身の(ふし)くれだった板のような(てのひら)(うず)くのを感じた。

 ――あの黒髪(くろかみ)()れてみたい。()()くことで指の隙間(すきま)から(こぼ)れる髪の感覚を味わいたい――

 鼻腔(びくう)には早くも女の甘美(かんび)(かお)りが(ただよ)い、(やわ)らかな肉の感触を捨丸(すてまる)に予感させていた。捨丸(すてまる)は自分に売られた女の顔を間近(まぢか)に見ていたいという欲求を(おさ)えながら、暗闇(くらやみ)の中で(かじ)(あやつ)り、小松(こまつ)沖合(おきあい)から周防(すおう)大島(おおしま)(いそ)へと(いた)船路(ふなじ)をますます急いだ。

 全てが順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に進みつつある中で、気に入らない事を()げるとしたら、女が(すで)に夫を持っており、その男もこの小さな商船(しょうせん)に乗ってる事実だけだった。それだけが魚の小骨が(のど)()()かったかのような違和(いわ)捨丸(すてまる)に感じさせていた。

 捨丸(すてまる)先刻(せんこく)から帆柱(ほばしら)()()かるようにして座っている男の横顔をジロリと(にら)みつけると、黒く(ねば)つく海に不満らしく(つばき)を吐き捨てた。

 ――()()らねえな。自分の(よめ)を差し出してまで、()まれ故郷(こきょう)から(とお)のきたい、という根性が()()らねえな。もっとも、それを承知(しょうち)で客として(むか)えた俺も俺だが――

 捨丸(すてまる)がこの一風(いっぷう)()わった夫妻(めおと)出会(であ)ったのは、安芸(あき)大畠(おおばたけ)にある場末(ばすえ)波止場(はとば)でのことだった。

 (からす)(かもめ)が腹を空かせて(いそ)(はま)をうろつく夕刻(ゆうこく)時分(じぶん)である。そろそろ仕事を終えようと、もやい(づな)手繰(たぐ)っていた捨丸(すてまる)のもとに、男が女の手を引きながら()()ってきた。

無理(むり)承知(しょうち)で申し上げます。どうか、これから船を出してはもらえませんでしょうか。一刻(いっこく)も早く周防国(すおうのくに)に行きたいのです。私たち夫妻(めおと)にこの小松(こまつ)の海を(わた)らせてはいただけませんでしょうか」

 青白(あおじろ)(ひたい)をした男は言葉に()まりながらも、()けた(たくま)しい身体(からだ)(ほこ)る海の男に(うった)えた。捨丸(すてまる)は初めこそ(とも)(つな)(もてあそ)びながら聞き流していたが、やがて、男の(うった)えが焦眉(しょうび)(きゅう)(てい)していることを(さっ)した。男が身を(よじ)りながら懇願(こんがん)してきたからである。捨丸(すてまる)は男の様子(ようす)軽蔑(けいべつ)眼差(まなざ)しで見詰(みつ)めると、嘆息(たんそく)()じりに口を開いた。

「今日はもう船を出さんと決めている。だいたい、船を出したところで、(もう)けにならん。商売(しょうばい)相手(あいて)の方が(みせ)じまいをしている時分(じぶん)だからな。(かせ)ぎにならないことはしないのは当たり前だ。お前さんに金がないことくらいは()かっているつもりだ。それとも、最後(さいご)財産(ざいさん)である嫁子(よめこ)でも売りに出す気なのか」

 捨丸(すてまる)は男を嘲笑(ちょうしょう)しながら言い捨てた。(くわ)しい事情(じじょう)は知らないが、こういった手合(てあい)を相手にしていたらキリがない。捨丸(すてまる)無理(むり)難題(なんだい)を吹っ(ふ か)けてあしらうつもりだったが、男の返事(へんじ)はギョッとするほどに意外(いがい)なものだった。

「じゃあ、()(あげ)げます」

 捨丸(すてまる)は男の(かたわ)らで小さくなっている女の表情(ひょうじょう)(うかが)わずにはいられなかった。今しがた、目前(もくぜん)で夫に売られた妻の気色(けしき)(おどろ)くほどに冷淡(れいたん)であった。捨丸(すてまる)はこの二人(ふたり)が本当に夫妻(めおと)であるかを(いぶか)しんでしまうまでに、女の顔には無関心(むかんしん)仮面(かめん)がベッタリと()()いていた。

「あんた、それでいいのかね」

 捨丸(すてまる)は女の(おもて)動揺(どうよう)(いろ)()すのを予想(よそう)していた。青白(あおじろ)(ひたい)をした男が横から何かを必死に(しゃべ)っていたが、捨丸(すてまる)関心(かんしん)はひとえに女に(そそ)がれていた。

 女は捨丸(すてまる)の強い声風(こわぶり)にピクリと(かた)(ふる)わせたが、()(しお)()びた者が()びる薄茶色(うすちゃいろ)(ひとみ)一瞥(いちべつ)すると、やがて、()ずかし()(うつむ)きながら小さく(うなず)いた。

 その仕草(しぐさ)から海の男に対する嫌悪(けんお)軽蔑(けいべつ)の色は(みと)められなかった。むしろ、捨丸(すてまる)気迫(きはく)を前にして、低迷(ていめい)していた感情の一切(いっさい)(よみがえ)ったかのようだった。

 女の(ほお)上気(じょうき)して赤く()まっていた。その様子(ようす)仔細(しさい)に観察していた捨丸(すてまる)は、無性(むしょう)にこの女が欲しくて(たま)らなくなった。

「おい、徳次郎(とくじろう)船出(ふなで)支度(したく)をしろ。これから周防(すおう)大島(おおしま)に向かう。絶対(ぜったい)(いや)とは言わせんからな」

 捨丸(すてまる)威勢(いせい)よく声を()(あげ)げると、浅黒(あさぐろ)(はだ)をした小柄(こがら)な男が船棚(ふねだな)からノロノロと()()てきた。いまだ少年の面差(おもざ)しを幾分(いくぶん)か残した男は、この弁才船(べんさいせん)(やと)われた唯一(ゆいいつ)水夫(すいふ)である。安政(あんせい)飢饉(ききん)(おそ)われて以来(いらい)、両親を亡くした孤児(みなしご)となった徳次郎(とくじろう)にとって、捨丸(すてまる)は親の()わりのような存在(そんざい)だった。

 荷物(にもつ)()ろして商船(しょうせん)整備(せいび)をしていた徳次郎(とくじろう)は、主人(しゅじん)である捨丸(すてまる)の並々(なみなみ)ならない気迫(きはく)(したが)うほかにしようがなかった。(かれ)は大きく返事(へんじ)をすると、またもや、ノロノロとした(あし)()りで船の中へと消えていった。

 捨丸(すてまる)徳次郎(とくじろう)の後ろ姿を見送ると、この奇妙(きみょう)夫婦(めおと)()(かえ)って、鷹揚(おうよう)(うなず)いて見せた。それは、秘密(ひみつ)商談(しょうだん)三人(さんにん)男女(だんじょ)(あいだ)(むす)ばれたことを(しめ)していた。

 ――この女を両腕(もろうで)(いだ)けるなら、俺はなんだってやってみせる。誰にも文句(もんく)は言わせないつもりだ――

 煩悩(ぼんのう)()せた弁才船(べんさいせん)()は風を(はら)んで大きく(ふく)らみ、(あつ)い雲に(おお)われた夜天(やてん)(した)順調(じゅんちょう)に進んで行く。これから(おこな)われるだろう甘美(かんび)な肉の交合(こうごう)を思うと、商船(しょうせん)(かじ)()りも捨丸(すてまる)にとって(かろ)やかに感じられるのだった。

 四人(よにん)男女(だんじょ)を乗せた弁才船(べんさいせん)は、小松(こまつ)の海を()けるように(わた)っていく。篝火(かがりび)が風を受けて、パチパチと小さく()ぜる(ごと)に、船板(ふねいた)の上の陰影(いんえい)不気味(ぶきみ)(ゆが)む。(あた)りに波のさざめきのほかに音はなく、あまりの静寂(せいじゃく)に耳が(うず)くようである。

 重い油のように黒く(ねば)る海に、一隻(いっせき)弁才船(べんさいせん)が、ポツリと浮かんでいる。()()まれそうな暗闇(くらやみ)の中で、篝火(かがりび)(かこ)んだ四人(よにん)男女(だんじょ)思惑(おもわく)が、錯綜(さくそう)して文目模様(あやめもよう)(えが)いていた。西から吹く風に(あお)られて、()(さか)(たきぎ)がゴロリと音を立てて篝火(かがりび)の中で(くず)れた。


 二、(きよ)


 ()(さか)篝火(かがりび)(たきぎ)がゴトリと音を立てて(くず)れた。(きよ)(たかぶ)った神経は些細(ささい)な音にも敏感に反応し、色褪(いろあ)せた着物の下に隠された華奢(きゃしゃ)な肩をピクリと(ふる)わせた。

 (ねば)りつく暗闇(くらやみ)海上(かいじょう)にあっても、(かれ)女の小さな頭蓋(ずがい)の内では万華鏡(まんげきょう)のような極彩色(ごくさいしょく)の光が火花(ひばな)()らし、これから(おこな)われるだろう肉の交合(こうごう)甘美(かんび)期待(きたい)(いだ)かないではいられなかった。

「あんた、それでいいのかね」

 名前も知らない男に()けられた一言(ひとこと)によって、(きよ)沈殿(ちんでん)していた感情の全てが息を吹き返した。本来(ほんらい)(きよ)意志(いし)を問うはずの捨丸(すてまる)の言葉は、不思議な力を持って(かれ)女の脳髄(のうずい)(てん)から(つらぬ)いたようだった。

「あんたは俺に()かれるのだ」

 捨丸(すてまる)の力強い声風(こわぶり)は、言外(げんがい)にそう宣言(せんげん)しているかのように感じられた。それまで、夫である侘助(わびすけ)の女よりも青白(あおじろ)(はだ)しか知らなかった(きよ)にとって、海の男の荒々(あらあら)しいまでの褐色(かっしょく)(はだ)奇妙(きみょう)なほど(なま)めかしい質感(しつかん)(ともな)ったものに見えて仕方(しかた)がなかった。

 ――この男はどのように私の乳房(ちぶさ)愛撫(あいぶ)するのだろう――

 (とも)(つな)(にぎ)りしめた捨丸(すてまる)(ふし)くれだった手を見て、そのような疑問が、ふと脳裏(のうり)(よぎ)った。やがて、自分が(はじ)(つつし)みもなく大胆(だいたん)な想像を(めぐ)らせていることに気が付いた(きよ)は、(われ)(かえ)ると(とも)妄念(もうねん)()(はら)うために思わず顔を()げた。

 太陽(たいよう)(ゆる)された者が()びる薄茶色(うすちゃいろ)(ひとみ)がそこにあった。それは、夫の侘助(わびすけ)にはない蠱惑(こわく)(まなこ)だった。(きよ)の肉体を血が()(めぐ)り、脳髄(のうずい)薄紅(うすくれない)(きり)(かがや)(おお)った。

 ――なんて、綺麗(きれい)(ひとみ)だろう――

 (きよ)火照(ほて)った肉体を船端(ふなばた)幾分(いくぶん)()ましながら思う。そこには自分が夫に売られた身であるという感傷(かんしょう)一切(いっさい)なかった。ただ、未知(みち)美術(びじゅつ)を前にして(かしず)く者が(いだ)く、(あつ)(あこが)れとでもいったような情念(じょうねん)だけが残されていた。

「ちょっと失礼します」

 先刻(せんこく)から帆柱(ほばしら)()()かるようにして座っていた夫が、(かじ)()りをしていた捨丸(すてまる)に頭を下げながら、船端(ふなばた)までいざり()ってきた。(きよ)侘助(わびすけ)心中(しんちゅう)見透(みす)かされたのかと、内心(ないしん)(ひそ)かにゾッとしたが、なんというわけでもなく、(かれ)船端(ふなばた)から身を乗り出すようにして、海面(うなも)反吐(へど)をぶちまけただけであった。

「お客さんが魚に()()をしていやがる」

 水押(みよし)(あた)りで黙々(もくもく)と仕事をしていた小男(こおとこ)徳次郎(とくじろう)が、侘助(わびすけ)(なさ)けない姿(すがた)(ゆび)さして、ゲタゲタと(ひん)のない笑い声を()げた。その時、(きよ)咄嗟(とっさ)捨丸(すてまる)顔色(かおいろ)(うかが)わずにはいられなかった。このだらしのない男の妻である事実を(きよ)()じたのである。(さいわ)いなことに、捨丸(すてまる)一心(いっしん)暗闇(くらやみ)()ざされた海原(うなばら)見詰(みつ)めたままであった。

 ――私はなんて(あさ)はかな男に(よめ)いでしまったのだろう。この男の()()いであることが()ずかしい。だいたい、侘助(わびすけ)(やつ)借金(しゃっきん)なんてしなければ、夜逃(よに)げなんてせずに()んだのに。なんて(やく)()たない男なのだろう――

 この(ばん)になって、(きよ)は初めて自分の夫を侮蔑(ぶべつ)した。侘助(わびすけ)は妻の(きび)しく(ほそ)められた眼差(まなざ)しに気が付く様子(ようす)もない。ただ、(ゆび)さし笑う小男(こおとこ)愛想(あいそう)(わら)いをしながら、油気(あぶらけ)のないゴワゴワとした頭を()いているだけである。

 ゲタゲタというけたたましい嘲笑(ちょうしょう)を聞いているうちに、(きよ)脳髄(のうずい)は徐々(じょじょ)に(しび)れて感覚を失い、平衡(へいこう)(たも)つことすら難しくなってきてしまった。

「アッ」

 (きよ)の小さな身体(からだ)が真っ黒な海洋(かいよう)に引っ張られるようにして(かたむ)いた。(きよ)異変(いへん)をいち早く(さっ)したのは、(かじ)()っている捨丸(すてまる)だった。捨丸(すてまる)は猫のような(かろ)やかな身のこなしで艫矢倉(ともやぐら)から()退()くと、黒々(くろぐろ)と波打(なみう)海面(うなも)()ちようとする(きよ)(うで)をしっかりと(つか)んだ。

「魚に()()をしている(ひま)があったら、しっかりと(よめ)面倒(めんどう)を見ていろ」

 捨丸(すてまる)侘助(わびすけ)(きび)しい声音(こわね)叱咤(しった)した。(きよ)()(あま)していた肉体に熱い血が通うのを感じた。(きよ)捨丸(すてまる)(たくま)しい両腕(りょううで)()かれながら、もはや、この肉体の保有権(ほゆうけん)侘助(わびすけ)の手を離れ、捨丸(すてまる)のもとに移っていることに気が付いた。

 (きよ)はうっとりと上気(じょうき)した目尻(まなじり)捨丸(すてまる)見詰(みつ)めることに遠慮(えんりょ)を感じなかった。ただ、腹の底が熱くてしようがなかったのである。(きよ)はいつまでも捨丸(すてまる)身体(からだ)から離れようとはしなかった。捨丸(すてまる)(きよ)の肉体を手放(てばな)そうとはしなかった。歯を剝き出して侘助(わびすけ)威嚇(いかく)する(さま)は、(いささ)滑稽(こっけい)ではあったものの、その場にいた誰しもが口を(はさ)むことはできなかった。

目眩(めまい)がするもので、どこか横になれる場所はございませんでしょうか」

 それはあまりに露骨(ろこつ)(さそ)文句(もんく)であった。(きよ)は明らかに捨丸(すてまる)(ねや)(さそ)っていた。それを(さっ)しない者はこの場に(だれ)一人(ひとり)としていなかった。だが、侘助(わびすけ)徳次郎(とくじろう)もそれを制止(せいし)するほどの力を持っていなかった。

徳次郎(とくじろう)。俺は奥方(おくがた)介抱(かいほう)をするから、その(あいだ)(かじ)()りは(まか)せたぞ。海も()いでいるようだし、それくらいの仕事はできるだろう。何かあったら俺を呼べ。(じき)に行くから」

 捨丸(すてまる)は最後に二人をキッと(にら)みつけると、いまだに足元が(あや)うい(きよ)(かか)えるようにして、()()まれている船棚(ふねだな)へと消えていった。徳次郎(とくじろう)の「ヘイ」という威勢(いせい)のいい返事が暗闇(くらやみ)()ざされた大海原(わたのはら)(むな)しく(ひび)いた。

 小さな弁才船(べんさいせん)に取り残された二人の男は、これから船棚(ふねだな)で起こるだろう男女の交合(こうごう)について、想像を(めぐ)らせずにはいられなかった。侘助(わびすけ)青白(あおじろ)(ひたい)(いっ)(てき)の汗が伝うのを、万事(ばんじ)において目敏(めざと)水夫(すいふ)見逃(みのが)すことはなかった。徳次郎(とくじろう)(なか)挑発(ちょうはつ)するように侘助(わびすけ)に言った。

(なさ)けねえ男だな。旦那(だんな)は、お前さんの(よめ)手籠(てご)めにするつもりだぜ。それなのにだんまりを(つらぬ)(とお)すつもりかい」

 小男(こおとこ)挑発(ちょうはつ)を受けても、侘助(わびすけ)悄然(しょうぜん)と肩を落としながら、その場に立っていることしかできなかった。徳次郎(とくじろう)のチッという小さな舌打(したう)ちが空虚(くうきょ)(やみ)を切り裂くように鳴った。篝火(かがりび)(あら)たな(たきぎ)()しながら徳次郎(とくじろう)は思う。

 ――堕落(だらく)していやがる。何もかもが()(ちが)った、気持ちの悪い夜だ。付き合いきれねえよ。どいつもこいつもも頭がどうにかしちまったかのようだ――

 パチパチと()(さか)篝火(かがりび)()らされた二人の男の顔には陰鬱(いんうつ)(かげ)が落ちている。やるせない雰囲気が二人の(あいだ)(おお)(かぶ)さっていた。二人の男はぼんやりと篝火(かがりび)(ともしび)見詰(みつ)め、篝火(かがりび)の方も二人を忘我(ぼうが)(いざな)う火炎を()らめかせているばかりだった。

 ――こんなことは間違(まちが)っている――

 小さな弁才船(べんさいせん)に乗り合わせた誰しもが、一度(ひとたび)はそう考えていたが、もはや、(あやま)ちを是正(ぜせい)するほどの気力を持つ者がいないことも、また、(みと)めざるを()ない事実でもあった。煩悩(ぼんのう)()せた船は坂道を(くだ)る車のような勢いで進んで行く。やがて、壁にぶつかるまで、その勢いは落ちる気配(けはい)もない。(くろ)(ねば)つく波に()られながら弁才船(べんさいせん)は夜の海を進んで行った。


 三、徳次郎(とくじろう)


「あんた、()ずかしくはないのかい。旦那(だんな)間男(まおとこ)をして(よめ)寝取(ねと)るつもりだぜ。それに、あの女の方もまんざらでもないみたいじゃないか。(まった)く、どいつもこいつも(あさ)ましくて見てられやしないね」

 徳次郎(とくじろう)侮蔑(ぶべつ)の念を込めた眼差(まなざ)しで侘助(わびすけ)を見ながら、(つばき)を吐き捨てるように言い放った。圧倒的なまでの嫌悪(けんお)情念(じょうねん)が腹の底から無限(むげん)()いてくるようだった。徳次郎(とくじろう)のような無学(むがく)な男でも、『自尊心(じそんしん)』の所在(しょざい)()わずにいられないまでに、侘助(わびすけ)の姿は熱意(ねつい)()けるものだった。

(なに)があったかは知らねえが、あんたたちは本当に夫婦(めおと)なのかい。馬鹿(ばか)には分からない事情(じじょう)というヤツがあるのかもしれねえが、みんなしておいらを腹の底で(あざけ)っているようにしか思えないねえ。あんた、俺を馬鹿だとタカを(くく)っているのかい。だとしたら、本当に嫌味(いやみ)な連中だよ」

 安芸(あき)大畠(おおばたけ)夫妻(めおと)船頭(せんどう)(あいだ)()わされた密約(みつやく)の事を徳次郎(とくじろう)は知らない。侘助(わびすけ)青白(あおじろ)(ひたい)()()()いを見る(かぎ)りでは、(かれ)馬鹿(ばか)と決めつけるには早計(そうけい)のように思えてならなかった。それどころか、長年(ながねん)()けて(しいた)げられてきた者が身につける鋭敏(えいびん)直感(ちょっかん)は、この客人(きゃくじん)から確かな知恵(ちえ)(かお)りのようなものを(みと)めてすらいた。

 初めこそ、徳次郎(とくじろう)侘助(わびすけ)意図的(いとてき)弛緩(しかん)させているとしか思えない表情(ひょうじょう)を前にして困惑(こんわく)したが、その態度(たいど)があからさまであればあるほど、徐々(じょじょ)に不思議な嫌気(いやけ)()してくるのも事実だった。侘助(わびすけ)(なさ)けない姿に鼻持(はなも)ちならない傲慢(ごうまん)(かげ)(よぎ)るのを、徳次郎(とくじろう)は決して見逃(みのが)しはしなかったのである。

 徳次郎(とくじろう)自虐(じぎゃく)の裏に隠された『尊大(そんだい)意志(いし)』に嫌悪(けんお)を覚えたと言ってもいい。しかし、(かれ)はそれを理路整然(りろせいぜん)(ろん)ずるだけの力を持ち合わせていなかった。ただ、曖昧模糊(あいまいもこ)とした不快感(ふかいかん)だけが胸中(きょうちゅう)に取り残されていた。『自尊心(じそんしん)』の(かげ)を目で追いながらも、それを(つか)(とら)えるまでには(いた)らなかったのである。せいぜい、「()ずかしくはないのか」と(うたぐ)るまでが(かれ)にとっての(せき)(やま)だった。

「はい、(おっしゃ)(とお)りでございます」

 侘助(わびすけ)返答(へんとう)暖簾(のれん)腕押(うでお)しという具合(ぐあい)気力(きりょく)がない。その様子(ようす)はまるで死人のようですらあった。(くさ)りゆく肉体に宿(やど)る、『(ごう)(がん)不遜(ふそん)静寂(せいじゃく)』とでもいったような余裕(よゆう)が、(うす)皮膜(ひまく)となって(かれ)青白(あおじろ)(はだ)を、ピッタリと隙間(すきま)なく(おお)っている(ふう)だった。

「チェッ、()()らねえな。どいつもこいつも()()らねえよ。旦那(だんな)指図(さしず)するばかりで(いろ)(ふけ)っていやがる。女も(さか)りのついた猫のように尻を振る勢いだ。あんたは指を(くわ)えて(しら)()るつもりでいやがる。まともなのはおいらだけってことかい。チェッ、どいつもこいつも()()らねえな。」

 徳次郎(とくじろう)舌打(いたう)ちをすると舳先(へさき)(せき)から立ち上がり、(かじ)を取るために艫矢倉(ともやぐら)にヒョイと(のぼ)った。黒い海がユラリユラリと小船(こふね)をゆする(たび)に、肉と肉が重なり合って汗を流す男女の姿が思い浮かび、(かれ)脳髄(のうずい)桃色(ももいろ)にかすませる。徳次郎(とくじろう)は悶々(もんもん)とした暗い欲望(よくぼう)が、段々(だんだん)と頭をもたげてくるのを感じていた。

 ――この男の(はな)(ぱしら)()ってやりたい。自分の(よめ)旦那(だんな)()かれている姿を見せつけてやれば、嫌でも余裕(よゆう)はなくなるに違いない。()いて(すが)って、「()してくれ」とおいらに懇願(こんがん)するに決まっている。いつまで、平静(へいせい)(たも)(つづ)けられるか見物(みもの)だな――

 徳次郎(とくじろう)頭蓋(ずがい)の中で嗜虐的(しぎゃくてき)妄念(もうねん)花開(はなひら)きつつあった。(かれ)(かじ)(ぼう)(あやつ)りながらしばらく考えていたが、やがて好奇心(こうきしん)に負けてしまったのだろう。艫矢倉(ともやぐら)から(しず)かに()りると捨丸(すてまる)(きよ)が消えていった船棚(ふねだな)の方に足音(あしおと)(しの)ばせて(くだ)っていった。

 ――旦那(だんな)ばかりがいい思いをしているのは不公平(ふこうへい)というものだ。おいらだってちょっとばかり良い思いをしても(ばち)()たらないだろう。旦那(だんな)の腕に()かれながら女は恍惚(こうこつ)としているに違いない。その(さま)をありありと教えてやれば、あの男も後悔(こうかい)というものを知るだろう――

 徳次郎(とくじろう)は自身の欲望(よくぼう)(にしき)羽織(はおり)(かざ)()てながら、船棚(ふねだな)へと向かう(きざはし)(しず)かに()りていった。その様子(ようす)船体(せんたい)(むしば)む小さな(ねずみ)彷彿(ほうふつ)とさせるものだったが、(かれ)がそれに気が付くことはないだろう。嗜虐的(しぎゃくてき)ともいえる旺盛(おうせい)性欲(せいよく)(かれ)を動かす源泉(げんせん)であった。徳次郎(とくじろう)は今まさに(おこな)おうとしている下品(げひん)(きわ)まりない(のぞ)()が、高潔(こうけつ)正義(せいぎ)であるとすら思っている(ふし)すらあった。

 ――あの(なさ)けない男が泣いて(あやま)る姿を思うと、身体(からだ)の芯がブルブルと(ふる)えるようだ。みんなしておいらを馬鹿にしているに違いないのだ。おいらを見くびったことを、あの夫婦(めおと)後悔(こうかい)させてやる。(まぎ)れもない事実を(よこ)(つら)(たた)きつけて正気(しょうき)(もど)してやる――

 徳次郎(とくじろう)は自身の際限(さいげん)のない欲望(よくぼう)好奇心(こうきしん)が、小さな弁才船(べんさいせん)破滅(はめつ)させる大きな(うず)(みちび)きつつあることを知らない。いつの間にか、(かじ)進路(しんろ)を東へと変えて、大畠(おおばたけ)瀬戸(せと)渦潮(うずしお)と呼ばれる一帯(いったい)()()ろうとしていた。欲望(よくぼう)()んだ商船(しょうせん)刻一刻(こくいっこく)と危険な海域(かいいき)へと進んでいく。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 突如(とつじょ)として(しず)かに波打(なみう)瀬戸(せと)の海に(すべ)ての崩壊(ほうかい)()げるかのような大きな(つづみ)()(ひび)いた。弁才船(べんさいせん)(おそ)おうとしている異変(いへん)に気が付いたのは、皮肉(ひにく)なことに(みな)から(さげす)まれている侘助(わびすけ)一人(ひとり)だけだった。

 侘助(わびすけ)空虚(くうきょ)な海に鳴り響く得体(えたい)()れない太鼓(たいこ)()(おび)えたが、いまだに船上(せんじょう)へと()がってこない様子(ようす)三人(さんにん)の男女のことを思うと、異変(いへん)(しら)せるべきかどうか(なや)まざるを()なかった。侘助(わびすけ)の心を(むしば)卑屈(ひくつ)な感情が生命(いのち)危機(きき)(かん)する直感(ちょっかん)をも(そこ)なわせていた。少なからず、侘助(わびすけ)自暴自棄(じぼうじき)になっていた。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 侘助(わびすけ)(すべ)ての苦悩(くのう)から(のが)れるために、背中(せなか)を丸めて小さくなるほかにしようがなかった。もう、誰かに指を差されて(ののし)られたくはなかった。侘助(わびすけ)はいつまでも続く(つづみ)()から自身を守ろうとして(りょう)(てのひら)で強く耳を(ふさ)いだ。


『ドォーン、ドォーン、ドォーン』


 侘助(わびすけ)華奢(きゃしゃ)身体(からだ)(めぐ)る血液が(つづみ)()呼応(こおう)するように(ふる)えていた。内から(ひび)いてくる(おも)(おと)は、(かれ)(ののし)(あざけ)る者たちの声によく似ていた。侘助(わびすけ)青白(あおじろ)(ひたい)をさらに(あお)くして、ひたすらに正体(しょうたい)の分からない太鼓(たいこ)()()えた。運命の音は刻一刻(こくいっこく)とその力強さを増していき、弁才船(べんさいせん)破滅(はめつ)へと(いざな)いつつある。そのことを、まだ誰も知らない。


 四、侘助(わびすけ)


 闇夜(やみよ)に包まれた瀬戸(せと)の海に鳴り響く太鼓(たいこ)()刻一刻(こくいっこく)と力強さを増していった。三人(さんにん)の男女が弁才船(べんさいせん)(おそ)いつつある異変(いへん)に気が付いたのは、それから半刻(はんこく)ほど()ぎた夜半(よはん)のことであった。その(かん)侘助(わびすけ)船端(ふなばた)嬰児(みどりこ)のように身体(からだ)を小さくして、得体(えたい)の知れない(つづみ)()恐怖(きょうふ)するばかりだった。

「こんな夜更(よふ)けに船を出すような連中はろくでもない(やから)に決まっている。(やつ)らが海賊(かいぞく)だったら面倒(めんどう)なことになる。徳次郎(とくじろう)、お前は今まで(なに)をしていたんだ、この役立(やくた)たず」

 捨丸(すてまる)徳次郎(とくじろう)罵倒(ばとう)すると、(かれ)の油の浮いた(ほお)を音がなるほど強く(たた)いた。背中(せなか)を丸めていた侘助(わびすけ)華奢(きゃしゃ)身体(からだ)がビクリと()ねた。侘助(わびすけ)徳次郎(とくじろう)が妻の不貞(ふてい)(あば)こうとしていることを(さっ)していた。それを知っておきながら、(かれ)独断専行(どくだんせんこう)(ゆる)して()めなかった。二人の間には奇妙(きみょう)紐帯(ちゅうたい)(むす)ばれていた。

「私がいち早く(しら)せるべきでした。徳次郎(とくじろう)さんを()めないでやってください」

 侘助(わびすけ)は声を(ふる)わせながらも、居丈高(いたけだか)(かた)(いか)らせている捨丸(すてまる)()びた。徳次郎(とくじろう)のみではなく自身の(ほお)をも()たれたような気がしたからである。(かれ)繊細(せんさい)微妙(びみょう)精神(せいしん)怒号(どごう)()えられるはずもない。侘助(わびすけ)自分(じぶん)怒鳴(どな)られる以上に他人(たにん)罵倒(ばとう)されることが苦痛(くつう)仕方(しかた)がない(たぐい)の男だった。自身の(おこな)いの中に罪を見出(みいだ)さずにはいられない性分(しょうぶん)の人だった。

「海を知らない客人(きゃくじん)余計(よけい)口出(くちだ)しをするんじゃない」

 捨丸(すてまる)(うな)るように言うと、しなやかな身のこなしで艫矢倉(ともやぐら)に飛び乗った。侘助(わびすけ)無骨(ぶこつ)な海の男に完膚(かんぷ)なきまでに(たた)きのめされてしまっていた。

 しかし、(かれ)はそれを(くや)しいとは思わなかった。妻を船賃(ふなちん)()わりに差し出したという事実を(かれ)(かれ)なりに真摯(しんし)()()めていた。それは(まぎ)れもない罪であり、咎人(とがびと)(ばつ)(くだ)されるのは当然(とうぜん)(むく)いだった。

 ただ、侘助(わびすけ)は身に()()ろされる(つい)の痛みに泣き叫ぶほどの感情を(うしな)っていた。それほどまでに(かれ)は生きることに(つか)れていたのである。自分の領域(りょういき)()(あら)らされない(かぎ)り、(かれ)はどのような事に関しても平然(へいぜん)としていられた。侘助(わびすけ)生命(せいめい)維持(いじ)するために、あらゆる感情を(みずか)(くび)(ころ)していた。

薄気味悪(うすきみわる)いねえ。早く(おか)()がってしまいましょうよ」

 悄然(しょうぜん)(かた)を落とす徳次郎(とくじろう)(となり)で、(きよ)(あま)えたような声を()げた。その声風(こわぶり)からは船頭(せんどう)である捨丸(すてまる)への遠慮(えんりょ)微塵(みじん)も感じられなかった。早くも(きよ)捨丸(すてまる)の妻になったかのような話し方をしていたのである。

「あんた、()ずかしくはないのかい」

 艫矢倉(ともやぐら)()がった船頭(せんどう)()(ぬす)み、徳次郎(とくじろう)は声を(ひそ)めて(たず)ねたが、侘助(わびすけ)の表情は意外にも(おだ)やかなものだった。徳次郎(とくじろう)侘助(わびすけ)満足気(まんぞくげ)とも見られる(なぞ)めいた微笑(みしょう)を前にして、思わず戸惑(とまど)わないわけにはいられなかった。徳次郎(とくじろう)には理解(りかい)できない世界(せかい)の中で侘助(わびすけ)(たし)かに生きているようだった。

(きよ)が幸せならば()ずかしくはありません」

 侘助(わびすけ)先程(さきほど)から納得(なっとく)できずに渋面(じゅうめん)している小さな男に(しず)かに()げた。徳次郎(とくじろう)耳打(みみう)ちされた声に(つめ)たいものを感じ取り、風雨(ふうう)(さら)されて(きた)えられた肉体(にくたい)をブルリと(ふる)わせると、理解(りかい)範疇(はんちゅう)逸脱(いつだつ)している侘助(わびすけ)から(のが)れるように、船頭(せんどう)に命じられた仕事に(もど)っていった。

「おい、徳次郎(とくじろう)。こんなことになったのは(すべ)てお前のせいだぞ。バカヤロー」

 先程(さきほど)から黙々(もくもく)と舵棒(かじぼう)を手に取っていた捨丸(すてまる)突如(とつじょ)として雄叫(おたけ)びを()げた。小さな弁才船(べんさいせん)はいつの()にか航路(こうろ)(はず)れ、大畠(おおばたけ)瀬戸(せと)渦潮(うずしお)と呼ばれる一帯(いったい)()()まれつつあるあることを、船頭(せんどう)は声を(あら)げながら(しら)せた。

 (うつ)ろな夜空(よぞら)()(ひび)太鼓(たいこ)()はなおも強さを増していく。まるで、(よく)(まみ)れた

弁才船(べんさいせん)を地獄に(いざな)うかのように大きく(とどろ)(つづみ)()一同(いちどう)背筋(せすじ)(こお)らせた。

「もしかしたら、俺たちのほかにも渦潮(うずしお)()()まれそうになっている船があるのかもしれない」

 捨丸(すてまる)(ひたい)(たま)(あせ)を浮かべながら苦し気に(つぶや)いた。あまりの恐怖(きょうふ)から艫矢倉(ともやぐら)(すが)りついていた(きよ)がそれを()(のが)さなかった。(きよ)はカっと()見開(みひら)くと、捨丸(すてまる)(にら)みつけて、(くる)ったように泣き叫び始めた。

「さっきの約束(やくそく)(たが)えるつもりじゃないだろうね。(おか)()がったら一緒(いっしょ)になろうと言ったことを忘れてやしないだろうね。馬鹿(ばか)なことを考えちゃいけないよ。早く(おか)()れて()ってくれ。それだけを考えていればいいんだよ」

 侘助(わびすけ)(みにく)く泣き(くず)れる妻の姿を見ていられなかった。自分の手を(のが)れた小鳥は羽ばたき、空に(かえ)るその瞬間(しゅんかん)まで美しくあるべきである。わずかに残された人間(にんげん)らしい直感(ちょっかん)が、侘助(わびすけ)羞恥(しゅうち)という情念(じょうねん)を思い出させていた。徳次郎(とくじろう)()()けが(かれ)混乱(こんらん)した脳内(のうない)()(ひび)いていた。侘助(わびすけ)必死(ひっし)に波に(あらが)おうとしている船頭(せんどう)(もと)()()ると言葉(ことば)()まりながらも(うった)えた。

「妻を(おか)()れて()ってやってください。妻と一緒(いっしょ)になってやってください。ほかのことなど考えてはいけません。太鼓(たいこ)()など聞いてはいけません。私たちのほかに船は出ていないのです。今夜(こんや)、私たちは太鼓(たいこ)()など聞いてはいないのです。助けを(もと)める者たちなどいなかったのです」

 侘助(わびすけ)宣言(せんげん)が黒く波打(なみう)大海原(わたのはら)()(ひび)いた。それに()けまいと、太鼓(たいこ)()(うつ)ろな夜空(よぞら)に大きく(とどろ)いている。危機(きき)目前(もくぜん)(せま)りつつあるという事実は誰の目から見ても(あき)らかだった。太鼓(たいこ)()先程(さきほど)から決断(けつだん)(もと)めるかのように調子(ちょうし)を早め始めていた。

 ――もし、あの太鼓(たいこ)()(たす)けを(もと)める船のものだったとしたら――

 (みな)脳裏(のうり)(よぎ)懸念(けねん)は同じだったが、意思(いし)の方向は(かなら)ずしも一致(いっち)していたわけではない。

 侘助(わびすけ)宣言(せんげん)はそういった各々(おのおの)の深慮(しんりょ)(あや)めてでも(たば)ねようとする気概(きがい)があった。

 借金(しゃっきん)()って生まれ故郷(こきょう)()()り、妻を差し出してまでして海原(うなばら)()えようとした者の決断(けつだん)最後(さいご)には可決(かけつ)された。

 ――太鼓(たいこ)()は聞こえなかった。今夜(こんや)、船を出した者は自分たちのほかにいなかったのだ――

 捨丸(すてまる)徳次郎(とくじろう)浅黒(あさぐろ)(はだ)(たき)のような汗を流して、黒く(ねば)つく波頭(なみがしら)(さか)らい、大畠(おおばたけ)瀬戸(せと)から(はな)れることに専念(せんねん)した。(うつ)ろな太鼓(たいこ)()は、怨嗟(えんさ)の声となって(かれ)らの耳を強く打った。二人(ふたり)の男は念仏(ねんぶつ)(とな)えながら、ひたすらに身体(からだ)(はたら)かせたことは言うまでもない。

 夜が白々(しらじら)と()けるころになって、罪深(つみぶか)弁才船(べんさいせん)大畠(おばばたけ)瀬戸(せと)潮流(ちょうりゅう)から()けることに成功(せいこう)した。夜通(よどお)し、身悶(みもだ)えして泣き叫び続けていた、かつての妻である(きよ)寝顔(ねがお)見詰(みつ)めながら侘助(わびすけ)は思う。

 ――人とはなんとワガママな生き物なのだろう。自分は妻が(みにく)く泣き叫ぶ姿を()()たりにして(はじ)を感じた。妻が無様(ぶざま)醜態(しゅうたい)(さら)姿(すがた)を見ていられなかった。この傲慢(ごうまん)を前にして慈愛(じあい)()くことができようか。自分は最後(さいご)まで利己(りこ)(つらぬ)(とお)したのだ。だが、(おそ)るべき利己(りこ)の力が人間(にんげん)を生かしている――

 (うつ)ろに()(ひび)太鼓(たいこ)()はいつまでも侘助(わびすけ)の心を(なや)ませるだろう。一隻(いっせき)の小さな弁才船(べんさいせん)利己(りこ)の力で(かろ)うじて大海原(わたのはら)に浮かんでいるに()ぎなかった。(よど)んだ夜天(やてん)(もと)(とどろ)いた太鼓(たいこ)()(あるじ)は黒く(ねば)つく波間(なみま)()まれて消えた。瀬戸(せと)(あけぼの)(しず)かに()いで、(かれ)らの()(すえ)(なに)(かた)ろうとしない。

                                          (了)


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