虚空太鼓
一、捨丸
ドンヨリとした油のように重く波打つ瀬戸の海に、一隻の白木造りの弁才船が、ポツリと浮かんでいる。
厚い雲に覆われた夜空には月もなく、海面を照らしているのは、弁才船が焚く頼りない篝火のみである。
妖しく蠢く波に乗りながら、右へ左へとユラリユラリと船体が揺れる様は、見るものを不安にさせる。
このような不吉な晩に船を出すことについて、波止場の連中は当然だが反対した。商船の船頭である捨丸の胸中にも懸念の翳が過らないわけではなかったが、彼は目前に吊り下げられた餌に飛びつかずにはいられなかった。要するに、捨丸は欲望に負けたのである。
そもそも、捨丸は足るを知る男である。海で生きる人間は引き際を熟知しているものであり、捨丸もその例に漏れない、強かな男であった。瀬戸の海が彼に知恵と経験を授け、彼もそれに応えるように、逞しく生きてきたはずだった。
――それにしても、美しい女だ。この女を抱けるならば、多少の危険を冒すだけの価値はある――
頼りない篝火の灯を受けて、整った面立ちに妖艶なまでの陰を落とし、ひっそりと船端に腰掛ける女を横目に見ながら、捨丸は思った。女の黒髪は烏の濡れ羽のように宵闇の中にしっとりと馴染んでいる。捨丸は自身の節くれだった板のような掌が疼くのを感じた。
――あの黒髪に触れてみたい。撫で梳くことで指の隙間から零れる髪の感覚を味わいたい――
鼻腔には早くも女の甘美な香りが漂い、柔らかな肉の感触を捨丸に予感させていた。捨丸は自分に売られた女の顔を間近に見ていたいという欲求を抑えながら、暗闇の中で舵を操り、小松の沖合から周防大島の磯へと至る船路をますます急いだ。
全てが順風満帆に進みつつある中で、気に入らない事を挙げるとしたら、女が既に夫を持っており、その男もこの小さな商船に乗ってる事実だけだった。それだけが魚の小骨が喉に引っ掛かったかのような違和を捨丸に感じさせていた。
捨丸は先刻から帆柱に寄り掛かるようにして座っている男の横顔をジロリと睨みつけると、黒く粘つく海に不満らしく唾を吐き捨てた。
――気に入らねえな。自分の嫁を差し出してまで、生まれ故郷から遠のきたい、という根性が気に入らねえな。もっとも、それを承知で客として迎えた俺も俺だが――
捨丸がこの一風変わった夫妻と出会ったのは、安芸の大畠にある場末の波止場でのことだった。
鴉と鴎が腹を空かせて磯浜をうろつく夕刻の時分である。そろそろ仕事を終えようと、もやい綱を手繰っていた捨丸のもとに、男が女の手を引きながら駆け寄ってきた。
「無理を承知で申し上げます。どうか、これから船を出してはもらえませんでしょうか。一刻も早く周防国に行きたいのです。私たち夫妻にこの小松の海を渡らせてはいただけませんでしょうか」
青白い額をした男は言葉に詰まりながらも、焼けた逞しい身体を誇る海の男に訴えた。捨丸は初めこそ艫綱を弄びながら聞き流していたが、やがて、男の訴えが焦眉の急を呈していることを察した。男が身を捩りながら懇願してきたからである。捨丸は男の様子を軽蔑の眼差しで見詰めると、嘆息交じりに口を開いた。
「今日はもう船を出さんと決めている。だいたい、船を出したところで、儲けにならん。商売相手の方が店じまいをしている時分だからな。稼ぎにならないことはしないのは当たり前だ。お前さんに金がないことくらいは分かっているつもりだ。それとも、最後の財産である嫁子でも売りに出す気なのか」
捨丸は男を嘲笑しながら言い捨てた。詳しい事情は知らないが、こういった手合を相手にしていたらキリがない。捨丸は無理難題を吹っ掛けてあしらうつもりだったが、男の返事はギョッとするほどに意外なものだった。
「じゃあ、差し上げます」
捨丸は男の傍らで小さくなっている女の表情を窺わずにはいられなかった。今しがた、目前で夫に売られた妻の気色は驚くほどに冷淡であった。捨丸はこの二人が本当に夫妻であるかを訝しんでしまうまでに、女の顔には無関心の仮面がベッタリと張り付いていた。
「あんた、それでいいのかね」
捨丸は女の面に動揺の色が差すのを予想していた。青白い額をした男が横から何かを必死に喋っていたが、捨丸の関心はひとえに女に注がれていた。
女は捨丸の強い声風にピクリと肩を震わせたが、日と潮を浴びた者が帯びる薄茶色の瞳を一瞥すると、やがて、恥ずかし気に俯きながら小さく頷いた。
その仕草から海の男に対する嫌悪や軽蔑の色は認められなかった。むしろ、捨丸の気迫を前にして、低迷していた感情の一切が蘇ったかのようだった。
女の頬は上気して赤く染まっていた。その様子を仔細に観察していた捨丸は、無性にこの女が欲しくて堪らなくなった。
「おい、徳次郎。船出の支度をしろ。これから周防大島に向かう。絶対に嫌とは言わせんからな」
捨丸が威勢よく声を張り上げると、浅黒い肌をした小柄な男が船棚からノロノロと這い出てきた。いまだ少年の面差しを幾分か残した男は、この弁才船に雇われた唯一の水夫である。安政の飢饉に襲われて以来、両親を亡くした孤児となった徳次郎にとって、捨丸は親の代わりのような存在だった。
荷物を下ろして商船の整備をしていた徳次郎は、主人である捨丸の並々(なみなみ)ならない気迫に従うほかにしようがなかった。彼は大きく返事をすると、またもや、ノロノロとした足取りで船の中へと消えていった。
捨丸は徳次郎の後ろ姿を見送ると、この奇妙な夫婦に振り返って、鷹揚に頷いて見せた。それは、秘密の商談が三人の男女の間で結ばれたことを示していた。
――この女を両腕に抱けるなら、俺はなんだってやってみせる。誰にも文句は言わせないつもりだ――
煩悩を載せた弁才船の帆は風を孕んで大きく膨らみ、厚い雲に覆われた夜天の下を順調に進んで行く。これから行われるだろう甘美な肉の交合を思うと、商船の舵取りも捨丸にとって軽やかに感じられるのだった。
四人の男女を乗せた弁才船は、小松の海を駆けるように渡っていく。篝火が風を受けて、パチパチと小さく爆ぜる毎に、船板の上の陰影は不気味に歪む。辺りに波のさざめきのほかに音はなく、あまりの静寂に耳が疼くようである。
重い油のように黒く粘る海に、一隻の弁才船が、ポツリと浮かんでいる。飲み込まれそうな暗闇の中で、篝火を囲んだ四人の男女の思惑が、錯綜して文目模様を描いていた。西から吹く風に煽られて、燃え盛る薪がゴロリと音を立てて篝火の中で崩れた。
二、清
燃え盛る篝火の薪がゴトリと音を立てて崩れた。清の昂った神経は些細な音にも敏感に反応し、色褪せた着物の下に隠された華奢な肩をピクリと震わせた。
粘りつく暗闇の海上にあっても、彼女の小さな頭蓋の内では万華鏡のような極彩色の光が火花を散らし、これから行われるだろう肉の交合に甘美な期待を抱かないではいられなかった。
「あんた、それでいいのかね」
名前も知らない男に掛けられた一言によって、清の沈殿していた感情の全てが息を吹き返した。本来、清の意志を問うはずの捨丸の言葉は、不思議な力を持って彼女の脳髄を天から貫いたようだった。
「あんたは俺に抱かれるのだ」
捨丸の力強い声風は、言外にそう宣言しているかのように感じられた。それまで、夫である侘助の女よりも青白い肌しか知らなかった清にとって、海の男の荒々(あらあら)しいまでの褐色の肌は奇妙なほど艶めかしい質感を伴ったものに見えて仕方がなかった。
――この男はどのように私の乳房を愛撫するのだろう――
艫綱を握りしめた捨丸の節くれだった手を見て、そのような疑問が、ふと脳裏を過った。やがて、自分が恥も慎みもなく大胆な想像を巡らせていることに気が付いた清は、我に返ると共に妄念を振り払うために思わず顔を上げた。
太陽に許された者が帯びる薄茶色の瞳がそこにあった。それは、夫の侘助にはない蠱惑の眼だった。清の肉体を血が駆け巡り、脳髄を薄紅の霧が輝き覆った。
――なんて、綺麗な瞳だろう――
清は火照った肉体を船端で幾分か冷ましながら思う。そこには自分が夫に売られた身であるという感傷は一切なかった。ただ、未知の美術を前にして傅く者が抱く、熱い憧れとでもいったような情念だけが残されていた。
「ちょっと失礼します」
先刻から帆柱に寄り掛かるようにして座っていた夫が、舵取りをしていた捨丸に頭を下げながら、船端までいざり寄ってきた。清は侘助に心中を見透かされたのかと、内心で密かにゾッとしたが、なんというわけでもなく、彼は船端から身を乗り出すようにして、海面に反吐をぶちまけただけであった。
「お客さんが魚に撒き餌をしていやがる」
水押の辺りで黙々(もくもく)と仕事をしていた小男の徳次郎が、侘助の情けない姿を指さして、ゲタゲタと品のない笑い声を上げた。その時、清は咄嗟に捨丸の顔色を窺わずにはいられなかった。このだらしのない男の妻である事実を清は恥じたのである。幸いなことに、捨丸は一心に暗闇に閉ざされた海原を見詰めたままであった。
――私はなんて浅はかな男に嫁いでしまったのだろう。この男の連れ合いであることが恥ずかしい。だいたい、侘助の奴が借金なんてしなければ、夜逃げなんてせずに済んだのに。なんて役に立たない男なのだろう――
この晩になって、清は初めて自分の夫を侮蔑した。侘助は妻の厳しく細められた眼差しに気が付く様子もない。ただ、指さし笑う小男に愛想笑いをしながら、油気のないゴワゴワとした頭を掻いているだけである。
ゲタゲタというけたたましい嘲笑を聞いているうちに、清の脳髄は徐々(じょじょ)に痺れて感覚を失い、平衡を保つことすら難しくなってきてしまった。
「アッ」
清の小さな身体が真っ黒な海洋に引っ張られるようにして傾いた。清の異変をいち早く察したのは、舵を取っている捨丸だった。捨丸は猫のような軽やかな身のこなしで艫矢倉から飛び退くと、黒々(くろぐろ)と波打つ海面に堕ちようとする清の腕をしっかりと掴んだ。
「魚に撒き餌をしている暇があったら、しっかりと嫁の面倒を見ていろ」
捨丸が侘助を厳しい声音で叱咤した。清は持て余していた肉体に熱い血が通うのを感じた。清は捨丸の逞しい両腕に抱かれながら、もはや、この肉体の保有権が侘助の手を離れ、捨丸のもとに移っていることに気が付いた。
清はうっとりと上気した目尻で捨丸を見詰めることに遠慮を感じなかった。ただ、腹の底が熱くてしようがなかったのである。清はいつまでも捨丸の身体から離れようとはしなかった。捨丸も清の肉体を手放そうとはしなかった。歯を剝き出して侘助を威嚇する様は、些か滑稽ではあったものの、その場にいた誰しもが口を挟むことはできなかった。
「目眩がするもので、どこか横になれる場所はございませんでしょうか」
それはあまりに露骨な誘い文句であった。清は明らかに捨丸を閨に誘っていた。それを察しない者はこの場に誰一人としていなかった。だが、侘助も徳次郎もそれを制止するほどの力を持っていなかった。
「徳次郎。俺は奥方の介抱をするから、その間の舵取りは任せたぞ。海も凪いでいるようだし、それくらいの仕事はできるだろう。何かあったら俺を呼べ。直に行くから」
捨丸は最後に二人をキッと睨みつけると、いまだに足元が危うい清を抱えるようにして、荷が積まれている船棚へと消えていった。徳次郎の「ヘイ」という威勢のいい返事が暗闇に閉ざされた大海原に空しく響いた。
小さな弁才船に取り残された二人の男は、これから船棚で起こるだろう男女の交合について、想像を巡らせずにはいられなかった。侘助の青白い額に一滴の汗が伝うのを、万事において目敏い水夫が見逃すことはなかった。徳次郎は半ば挑発するように侘助に言った。
「情けねえ男だな。旦那は、お前さんの嫁を手籠めにするつもりだぜ。それなのにだんまりを貫き通すつもりかい」
小男の挑発を受けても、侘助は悄然と肩を落としながら、その場に立っていることしかできなかった。徳次郎のチッという小さな舌打ちが空虚な闇を切り裂くように鳴った。篝火に新たな薪を足しながら徳次郎は思う。
――堕落していやがる。何もかもが食い違った、気持ちの悪い夜だ。付き合いきれねえよ。どいつもこいつもも頭がどうにかしちまったかのようだ――
パチパチと燃え盛る篝火に照らされた二人の男の顔には陰鬱な翳が落ちている。やるせない雰囲気が二人の間に覆い被さっていた。二人の男はぼんやりと篝火の灯を見詰め、篝火の方も二人を忘我に誘う火炎を揺らめかせているばかりだった。
――こんなことは間違っている――
小さな弁才船に乗り合わせた誰しもが、一度はそう考えていたが、もはや、過ちを是正するほどの気力を持つ者がいないことも、また、認めざるを得ない事実でもあった。煩悩を載せた船は坂道を下る車のような勢いで進んで行く。やがて、壁にぶつかるまで、その勢いは落ちる気配もない。黒く粘つく波に揺られながら弁才船は夜の海を進んで行った。
三、徳次郎
「あんた、恥ずかしくはないのかい。旦那は間男をして嫁を寝取るつもりだぜ。それに、あの女の方もまんざらでもないみたいじゃないか。全く、どいつもこいつも浅ましくて見てられやしないね」
徳次郎は侮蔑の念を込めた眼差しで侘助を見ながら、唾を吐き捨てるように言い放った。圧倒的なまでの嫌悪の情念が腹の底から無限に湧いてくるようだった。徳次郎のような無学な男でも、『自尊心』の所在を問わずにいられないまでに、侘助の姿は熱意に欠けるものだった。
「何があったかは知らねえが、あんたたちは本当に夫婦なのかい。馬鹿には分からない事情というヤツがあるのかもしれねえが、みんなしておいらを腹の底で嘲っているようにしか思えないねえ。あんた、俺を馬鹿だとタカを括っているのかい。だとしたら、本当に嫌味な連中だよ」
安芸の大畠で夫妻と船頭の間に交わされた密約の事を徳次郎は知らない。侘助の青白い額や立ち振る舞いを見る限りでは、彼を馬鹿と決めつけるには早計のように思えてならなかった。それどころか、長年に掛けて虐げられてきた者が身につける鋭敏な直感は、この客人から確かな知恵の香りのようなものを認めてすらいた。
初めこそ、徳次郎は侘助の意図的に弛緩させているとしか思えない表情を前にして困惑したが、その態度があからさまであればあるほど、徐々(じょじょ)に不思議な嫌気が差してくるのも事実だった。侘助の情けない姿に鼻持ちならない傲慢の影が過るのを、徳次郎は決して見逃しはしなかったのである。
徳次郎は自虐の裏に隠された『尊大な意志』に嫌悪を覚えたと言ってもいい。しかし、彼はそれを理路整然と論ずるだけの力を持ち合わせていなかった。ただ、曖昧模糊とした不快感だけが胸中に取り残されていた。『自尊心』の影を目で追いながらも、それを掴み捉えるまでには至らなかったのである。せいぜい、「恥ずかしくはないのか」と疑るまでが彼にとっての関の山だった。
「はい、仰る通りでございます」
侘助の返答は暖簾に腕押しという具合に気力がない。その様子はまるで死人のようですらあった。腐りゆく肉体に宿る、『傲岸不遜の静寂』とでもいったような余裕が、薄い皮膜となって彼の青白い肌を、ピッタリと隙間なく覆っている風だった。
「チェッ、気に入らねえな。どいつもこいつも気に入らねえよ。旦那は指図するばかりで色に耽っていやがる。女も盛りのついた猫のように尻を振る勢いだ。あんたは指を咥えて白を切るつもりでいやがる。まともなのはおいらだけってことかい。チェッ、どいつもこいつも気に入らねえな。」
徳次郎は舌打ちをすると舳先の席から立ち上がり、舵を取るために艫矢倉にヒョイと上った。黒い海がユラリユラリと小船をゆする度に、肉と肉が重なり合って汗を流す男女の姿が思い浮かび、彼の脳髄を桃色にかすませる。徳次郎は悶々(もんもん)とした暗い欲望が、段々(だんだん)と頭をもたげてくるのを感じていた。
――この男の鼻っ柱を折ってやりたい。自分の嫁が旦那に抱かれている姿を見せつけてやれば、嫌でも余裕はなくなるに違いない。泣いて縋って、「止してくれ」とおいらに懇願するに決まっている。いつまで、平静を保ち続けられるか見物だな――
徳次郎の頭蓋の中で嗜虐的な妄念が花開きつつあった。彼は舵棒を操りながらしばらく考えていたが、やがて好奇心に負けてしまったのだろう。艫矢倉から静かに降りると捨丸と清が消えていった船棚の方に足音を忍ばせて下っていった。
――旦那ばかりがいい思いをしているのは不公平というものだ。おいらだってちょっとばかり良い思いをしても罰は当たらないだろう。旦那の腕に抱かれながら女は恍惚としているに違いない。その様をありありと教えてやれば、あの男も後悔というものを知るだろう――
徳次郎は自身の欲望を錦の羽織で飾り立てながら、船棚へと向かう階を静かに降りていった。その様子は船体を蝕む小さな鼠を彷彿とさせるものだったが、彼がそれに気が付くことはないだろう。嗜虐的ともいえる旺盛な性欲が彼を動かす源泉であった。徳次郎は今まさに行おうとしている下品極まりない覗き見が、高潔な正義であるとすら思っている節すらあった。
――あの情けない男が泣いて謝る姿を思うと、身体の芯がブルブルと震えるようだ。みんなしておいらを馬鹿にしているに違いないのだ。おいらを見くびったことを、あの夫婦に後悔させてやる。紛れもない事実を横っ面に叩きつけて正気に戻してやる――
徳次郎は自身の際限のない欲望と好奇心が、小さな弁才船を破滅させる大きな渦に導きつつあることを知らない。いつの間にか、舵は進路を東へと変えて、大畠瀬戸の渦潮と呼ばれる一帯に踏み入ろうとしていた。欲望を積んだ商船は刻一刻と危険な海域へと進んでいく。
『ドォーン、ドォーン、ドォーン』
突如として静かに波打つ瀬戸の海に全ての崩壊を告げるかのような大きな鼓の音が響いた。弁才船を襲おうとしている異変に気が付いたのは、皮肉なことに皆から蔑まれている侘助の一人だけだった。
侘助は空虚な海に鳴り響く得体の知れない太鼓の音に怯えたが、いまだに船上へと上がってこない様子の三人の男女のことを思うと、異変を報せるべきかどうか悩まざるを得なかった。侘助の心を蝕む卑屈な感情が生命の危機に関する直感をも損なわせていた。少なからず、侘助は自暴自棄になっていた。
『ドォーン、ドォーン、ドォーン』
侘助は全ての苦悩から逃れるために、背中を丸めて小さくなるほかにしようがなかった。もう、誰かに指を差されて罵られたくはなかった。侘助はいつまでも続く鼓の音から自身を守ろうとして両の掌で強く耳を塞いだ。
『ドォーン、ドォーン、ドォーン』
侘助の華奢な身体を巡る血液が鼓の音に呼応するように震えていた。内から響いてくる重い音は、彼を罵り嘲る者たちの声によく似ていた。侘助は青白い額をさらに青くして、ひたすらに正体の分からない太鼓の音に堪えた。運命の音は刻一刻とその力強さを増していき、弁才船を破滅へと誘いつつある。そのことを、まだ誰も知らない。
四、侘助
闇夜に包まれた瀬戸の海に鳴り響く太鼓の音は刻一刻と力強さを増していった。三人の男女が弁才船を襲いつつある異変に気が付いたのは、それから半刻ほど過ぎた夜半のことであった。その間、侘助は船端で嬰児のように身体を小さくして、得体の知れない鼓の音に恐怖するばかりだった。
「こんな夜更けに船を出すような連中はろくでもない輩に決まっている。奴らが海賊だったら面倒なことになる。徳次郎、お前は今まで何をしていたんだ、この役立たず」
捨丸は徳次郎を罵倒すると、彼の油の浮いた頬を音がなるほど強く叩いた。背中を丸めていた侘助の華奢な身体がビクリと跳ねた。侘助は徳次郎が妻の不貞を暴こうとしていることを察していた。それを知っておきながら、彼の独断専行を許して止めなかった。二人の間には奇妙な紐帯が結ばれていた。
「私がいち早く報せるべきでした。徳次郎さんを責めないでやってください」
侘助は声を震わせながらも、居丈高に肩を怒らせている捨丸に詫びた。徳次郎のみではなく自身の頬をも打たれたような気がしたからである。彼の繊細微妙な精神が怒号に堪えられるはずもない。侘助は自分が怒鳴られる以上に他人が罵倒されることが苦痛で仕方がない類の男だった。自身の行いの中に罪を見出さずにはいられない性分の人だった。
「海を知らない客人が余計な口出しをするんじゃない」
捨丸は唸るように言うと、しなやかな身のこなしで艫矢倉に飛び乗った。侘助は無骨な海の男に完膚なきまでに叩きのめされてしまっていた。
しかし、彼はそれを悔しいとは思わなかった。妻を船賃の代わりに差し出したという事実を彼は彼なりに真摯に受け止めていた。それは紛れもない罪であり、咎人に罰が下されるのは当然の報いだった。
ただ、侘助は身に振り下ろされる槌の痛みに泣き叫ぶほどの感情を失っていた。それほどまでに彼は生きることに疲れていたのである。自分の領域を踏み荒らされない限り、彼はどのような事に関しても平然としていられた。侘助は生命を維持するために、あらゆる感情を自ら縊り殺していた。
「薄気味悪いねえ。早く陸に上がってしまいましょうよ」
悄然と肩を落とす徳次郎に隣で、清が甘えたような声を上げた。その声風からは船頭である捨丸への遠慮を微塵も感じられなかった。早くも清は捨丸の妻になったかのような話し方をしていたのである。
「あんた、恥ずかしくはないのかい」
艫矢倉に上がった船頭の目を盗み、徳次郎は声を顰めて訊ねたが、侘助の表情は意外にも穏やかなものだった。徳次郎は侘助の満足気とも見られる謎めいた微笑を前にして、思わず戸惑わないわけにはいられなかった。徳次郎には理解できない世界の中で侘助は確かに生きているようだった。
「清が幸せならば恥ずかしくはありません」
侘助は先程から納得できずに渋面している小さな男に静かに告げた。徳次郎は耳打ちされた声に冷たいものを感じ取り、風雨に曝されて鍛えられた肉体をブルリと震わせると、理解の範疇を逸脱している侘助から逃れるように、船頭に命じられた仕事に戻っていった。
「おい、徳次郎。こんなことになったのは全てお前のせいだぞ。バカヤロー」
先程から黙々(もくもく)と舵棒を手に取っていた捨丸が突如として雄叫びを上げた。小さな弁才船はいつの間にか航路を外れ、大畠瀬戸の渦潮と呼ばれる一帯に巻き込まれつつあるあることを、船頭は声を荒げながら報せた。
虚ろな夜空に鳴り響く太鼓の音はなおも強さを増していく。まるで、慾に塗れた
弁才船を地獄に誘うかのように大きく轟く鼓の音に一同は背筋を凍らせた。
「もしかしたら、俺たちのほかにも渦潮に巻き込まれそうになっている船があるのかもしれない」
捨丸は額に玉の汗を浮かべながら苦し気に呟いた。あまりの恐怖から艫矢倉に縋りついていた清がそれを聞き逃さなかった。清はカっと眼を見開くと、捨丸を睨みつけて、狂ったように泣き叫び始めた。
「さっきの約束を違えるつもりじゃないだろうね。陸に上がったら一緒になろうと言ったことを忘れてやしないだろうね。馬鹿なことを考えちゃいけないよ。早く陸へ連れて行ってくれ。それだけを考えていればいいんだよ」
侘助は醜く泣き崩れる妻の姿を見ていられなかった。自分の手を逃れた小鳥は羽ばたき、空に還るその瞬間まで美しくあるべきである。わずかに残された人間らしい直感が、侘助に羞恥という情念を思い出させていた。徳次郎の問い掛けが彼の混乱した脳内に鳴り響いていた。侘助は必死に波に抗おうとしている船頭の下に駆け寄ると言葉に詰まりながらも訴えた。
「妻を陸に連れて行ってやってください。妻と一緒になってやってください。ほかのことなど考えてはいけません。太鼓の音など聞いてはいけません。私たちのほかに船は出ていないのです。今夜、私たちは太鼓の音など聞いてはいないのです。助けを求める者たちなどいなかったのです」
侘助の宣言が黒く波打つ大海原に鳴り響いた。それに負けまいと、太鼓の音は虚ろな夜空に大きく轟いている。危機が目前に迫りつつあるという事実は誰の目から見ても明らかだった。太鼓の音は先程から決断を求めるかのように調子を早め始めていた。
――もし、あの太鼓の音が助けを求める船のものだったとしたら――
皆の脳裏を過る懸念は同じだったが、意思の方向は必ずしも一致していたわけではない。
侘助の宣言はそういった各々(おのおの)の深慮を殺めてでも束ねようとする気概があった。
借金を負って生まれ故郷を捨て去り、妻を差し出してまでして海原を越えようとした者の決断が最後には可決された。
――太鼓の音は聞こえなかった。今夜、船を出した者は自分たちのほかにいなかったのだ――
捨丸と徳次郎は浅黒い肌に滝のような汗を流して、黒く粘つく波頭に逆らい、大畠の瀬戸から離れることに専念した。虚ろな太鼓の音は、怨嗟の声となって彼らの耳を強く打った。二人の男は念仏を唱えながら、ひたすらに身体を働かせたことは言うまでもない。
夜が白々(しらじら)と明けるころになって、罪深い弁才船は大畠瀬戸の潮流から抜けることに成功した。夜通し、身悶えして泣き叫び続けていた、かつての妻である清の寝顔を見詰めながら侘助は思う。
――人とはなんとワガママな生き物なのだろう。自分は妻が醜く泣き叫ぶ姿を目の当たりにして恥を感じた。妻が無様に醜態を晒す姿を見ていられなかった。この傲慢を前にして慈愛と解くことができようか。自分は最後まで利己を貫き通したのだ。だが、恐るべき利己の力が人間を生かしている――
虚ろに鳴り響く太鼓の音はいつまでも侘助の心を悩ませるだろう。一隻の小さな弁才船は利己の力で辛うじて大海原に浮かんでいるに過ぎなかった。澱んだ夜天の下に轟いた太鼓の音の主は黒く粘つく波間に揉まれて消えた。瀬戸の曙は静かに凪いで、彼らの行く末を何も語ろうとしない。
(了)