飛縁魔
顔かたちうつくしけれども
いとおそろしきものにて、
夜な〱出て男の清血を吸、
つゐにはとり殺すとなむ。
『絵本百物語・桃山人夜話』/巻第壱・第二より抜萃
一、哄笑
彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。苦悩や葛藤を知らない無邪気な哄笑が脳天を穿つたびに、僕は人知れず頭蓋の内側を腐らせていく。そういう風に折れて曲がった応酬を繰り返すことが堪らなく嫌で仕方がなかった。
「君、あの榛原尚子と交際をしているらしいじゃないか。全く、羨ましいかぎりだよ」
榛原尚子を知っている学生時代の友人達は口を揃えてそう言った。実際、彼女の美貌は確かなものであり、端正な中にも胸に迫るような艶やかな魅力を秘めていた。学生連中の好色に塗れた贔屓目を抜きにしても彼女は充分に美しかったし、その魔力はいまだに色褪せることを知らない。
全くのところ、僕のようなうだつの上がらない男には分不相応なことこの上ないまでに、彼女は瑞々しい美しさを恣に誇っていた。彼女は自身の容姿が他人よりも秀でているということを充分に理解しているようだった。天衣無縫な溌溂さの裏に一握りのしたたかさを隠していることを僕は知っている。
男達が彼女の魔法に屈して首を垂れるたびに、彼女はちょっとだけ舌を出して、悪戯が露見してしまったバツの悪さを誤魔化すかのように、こっそりと僕に微笑みかけるのだった。
榛原尚子の美貌にスポット・ライトが注がれるたびに、僕は自身まで高級な人間になったような気分になり、身の程を弁えずに酔い痴れていたことを白状する。しかし、今となっては微睡むような酔いの心地良さは微塵も感じられなくなっていた。得体の知れない将来への不安が僕の背中をジリジリと焼いているからだ。
ふた月ほど前に、僕は親と職を一遍に失っていた。それまで高等学校の非常勤講師として口を糊するだけの給金を稼いで暮らしていたが、新年度を迎えても一向に教育委員会から仕事の依頼がくる気配がない。
悶々としながら梅雨を過ごしている間に、かねてから体調の不良を訴え続けていた母親が、脳溢血で倒れたという報せが届いた。帰省するために金をかき集めて、やっとのことで故郷の地を踏むべく旅支度をし始めた矢先に、母親が逝ったことを聞かされた。
床に伏せる母親のもとへ駆けつけてやれなかったことは無念だったが、不思議と涙は流れなかった。ただ、焼け野原の真ん中に取り残されたような、漠とした不安だけが心の大部分を占めていた。僕は完全に人生における指針を見失っていたのである。いずれかの方角に歩んで行けばよいのか皆目見当もつかなければ、歩を進める気力さえ湧いてこない。見渡す限り、延々と続いている焦土を前にして、僕は呆然自失しながら立っていることしかできなかった。
僕が貧窮に喘いでいることを榛原尚子はまだ知らない。滞った家賃を支払うために僅かに残された財産を切り崩しては、安アパートの一室でもんどり打ちながら頭を抱える苦痛を彼女は知らない。
僕があばら屋で眠れぬ夜を過ごしている間、彼女は親にあてがわれた高級マンションの一室で安らかな寝息を立てている。やがて、日が昇れば、絶望の底で辛酸を舐めるような長い一日が始まる。今ごろ、彼女は希望に満ちた明るく短い一日が始まることに胸を膨らませているのだろう。
彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。人生は素晴らしい、と彼女が語る度に、僕は暗鬱とした感情の海に深く沈んでいく。水底に横たわる泥流地帯に足を取られて容易には浮上することができない。太陽はもがき苦しむ僕の手を逃れて遠いところで輝いている。
彼女が嬉々として哄笑するようなとき、僕は曖昧な微笑と沈黙で応えながら密かに怯えている。榛原尚子を失えば、僕はいよいよ、天涯孤独の身となってしまう。容赦なく降り注ぐ陽の暑さに喘ぎ苦しんではいたが、それでも彼女は歩むべき道を示してくれる天上の光であることに違いはない。僕は榛原尚子という女性の持つ魔力にしっかりと囚われていたと言っていい。僕を此岸と彼岸の狭間で踏みとどまらせている力の源泉は、彼女の魔力に他ならなかった。
――彼女を失えば僕は生きる意味を見失ってしまうに違いない。その時が訪れないことを天に祈るばかりだ――
いつ明けるとも知れない夜を輾転反側しながら過ごす。神経は摩耗して擦り切れそうなほどか細く弱っているのに、一向に眠りに落ちる様子がない。耳の奥では、カンラカンラ、という彼女の笑い声がいつまでも鳴り響いていた。
二、不潔
窓から漏れる銀色の月明りがセミダブルのベッドを照らしている。白を基調としたシーツは汗と血に濡れて緋色のだんだら模様を描いていた。榛原尚子は血染めの敷妙に横たわり、光を失った大きな瞳を見開いて、惚けたように虚空を見詰めている。
僕は血で濡れそぼった指先で、彼女の見開かれた双眸に触れて、瞼を下ろしてやった。それは儀礼的な死者への手向けというより、単純な違和から生じる薄気味の悪さを誤魔化すための防衛的な処置だった。彼女の瞳が隠れると、僕はようやく、一息をつく余裕を取り戻した。
「わたしは幸福について真剣になって考えてみたの。あなたには分からないでしょうけど、それってとても大切なことなのよ。そして、自分にとって最善の方法を選んだだけ」
榛原尚子は十五分前まで、意気軒昂に自分の選択した手段について、滔々と述べていたが、その全てが詭弁であることは明らかだった。あるいは彼女が信じていた幸福とやらは真実だったのかもしれない。だが、それを追求するために講じた方策に、一握の欺瞞が隠されていることに、彼女自身が気づいていなかったらしい。だが、どのような経緯があろうとも、誰しもが自分の発言に責任を持つべきだ。
彼女が自身の幸福について考えて、それを追い求めるために手段を選ばないというのならば、僕だけが暗い洞穴のような場所で、堪えがたい苦悩に悶え喘ぎながら、彼岸と此岸の間で逡巡する必要はないはずだ。彼女のために、絶望のどん底で辛酸を舐めるような憂き目に会うことに、どれほどの意味と価値があるというのだろうか。
「君が僕に黙って一人で幸福を掴もうとするのならば、僕は全力でそれを阻もう。君を愛したという過去を嘘にしたくないからだ。僕は君のためならば何者にでもなるつもりだった。だけど、僕が為すべきことが何なのか、ようやく理解できたような気がする。僕も自身の幸福を追求するために最善の方法を採ることにするよ」
僕は榛原尚子の亡骸に囁きかけると、ベッドサイドから立ち上がり、彼女の肉体から流れ出た血潮によって濡れた手を洗いに、そろりそろりと台所に向かった。シンクの中には一本の包丁が無造作に投げ打たれている。鈍く光る刃は榛原尚子の血と脂で汚れていた。
水道の蛇口をひねろうとしたときに、二本の歯ブラシが立てられたコップがあるのが目に入った。一本は彼女の物で、もう一本は知らない人間の物だった。僕は彼女に歯ブラシの持ち主について詰問し、そのまま激しい口論となった。彼女は初めこそ素知らぬふりをしていたが、執拗に問い続けていくうちに、ポツリポツリと自分が不貞を働いていたことを独白し始めたのだった。
彼女は自分の放った言葉に酔い痴れて、話せば話すほどふてぶてしく、不貞を働いた理由を歪曲させ、ついには自身にとって都合の良い結論を結んだ。
僕は榛原尚子の自分勝手な持論を聞き遂げた後、僕は彼女を殺す覚悟を決めた。無論、僕もすぐさま後を追って死ぬつもりだった。
僕は彼女のために費やした、全てものを取り戻せないまでにしても、嘘にしてなかったことにするのだけは嫌だった。それは死ぬよりも辛いことであるような気がしてならなかった。
あらゆる事柄が、取り戻しのつかないところまで追いやられてしまっているのだ、と告げていた。薄氷の上を歩むような生活はついに瓦解して、凍てつく水に身を沈める時がやってきていた。不思議と恐怖と不安はなかった。全てが当然の帰結であるように思えた。
僕はシンクの中から血糊に濡れた包丁を手に取ると、その刃が自分の肉体にズブズブと沈んでいく様を想像した。「不潔だ」と僕は呻きと共に呟いた。
それは何かしら非常に穢らわしい行為であるように思えてならなかったのである。彼女の体液に塗れた異物が身体に入ってくるということに、嫌悪の念が湧いてきたことに驚いた。
キッチンの引き出しを漁ってみたが、包丁の代わりになるような刃物の類は見つからなかった。彼女はほとんど自炊とは無縁の暮らしをしていたので当然である。だが、どうしても、この汚らしい包丁を自らの肉に突き立てて死ぬ気にはなれなかった。
僕は榛原尚子の亡骸を一瞥すると、自分に相応しい死に場所を求めて、外界に出ることを決心した。ダラダラと生き長らえるつもりはないが、不快な思いをしながら死ぬのも嫌だった。それに彼女との間で繰り広げられた、いつ終わるとも知れない不毛な問答に疲れてもいた。清潔な布団に包まれ、泥のような眠りにつきたい。死について考えるのはそのあとでもよいだろう。
僕は返り血に濡れたシャツの上に、カーキ色のモッズコートを纏うと、ふらふらとした覚束ない足取りで彼女の亡骸を納めた豪奢なマンションを後にした。忘れていたはずの猛烈な眠気が僕を襲っていた。これほどまでの疲労に打ちのめされるのは久しぶりだった。泥沼を歩むように足は重く、脳髄は痺れて朦朧としている。
「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない」
僕はあまりにも有名な小説――芥川龍之介の『羅生門』に記された最後の一節を呟くと、下人のように夜の街へと飲み込まれに行くのだった。
三、清廉
足を縺れさせながらも自宅に辿り着くと、僕は着替えもせずにせんべい布団に横たわり、沈むような深い眠りへと落ちていった。
榛原尚子との悶着にはひどく疲弊させられたが、全てを終えた時に、大きな安堵を感じたことも事実であった。夢を見る暇もないほどに、深く沈みこむような睡眠を、あますことなく享受したのは久しぶりだった。
水底から浮上するような感覚を覚えながら、ゆっくりと目を開くと、陰気臭い蛍光灯の明りが、ぼんやりと部屋の内を照らしていた。窓の外から見える空は暗闇に覆われ、偽物じみた満月が夜の帳に穴を開けていた。
時計を確認するまでもなく、ほとんど一昼夜の間、気を失っていたらしい。シャツに染みついた返り血が膠のように凝固していることからも明らかだった。
「穢らわしい」
榛原尚子の体液に塗れて一日を過ごしたという事実が、信じられないほど厭らしく感じられた。道徳を踏みにじって大罪を犯した身であるからこそ、「誠実」や「清廉」の価値と意義の重さが理解できるような気がした。罪の味を知ってしまったからこそ、少しでも潔白でありたいと願っている自分がいた。
「人間はこれほどまでに傲慢になれる生き物なのだろうか」
髪に血糊が触れるのが嫌だったので、台所の引き出しから錆びの浮いた鋏を取り出して、肌が傷つかないように注意しながらシャツを裂いて捨てた。使い古された茶箪笥の中からなるべく清潔なシャツを選び抜き、着替えを済ますといくぶんか落ち着いた気分なった。
「充分な休眠が取れたおかげで清々しい気分だ。これで清廉潔白な身の上だったら申し分ないのだけどな。罪を犯してしまった以上は裁かれるべきだ。だが、大衆の晒し者になるつもりはない。法の秤に掛けられるくらいなら潔く死を選ぼう」
世間に醜聞を晒すような真似をしてまで、生き長らえるつもりは毛頭なかった。久しぶりに安眠できたこともあって、脳髄は冴え渡っている。時計を見ると、まだ宵の口といった時間であることが分かった。腹が空いていたし、少しばかり酒も飲みたい気分だった。自殺についてあれやこれやと考えるためには冴えた脳髄を鈍麻させる必要があった。
「これが最後の晩餐になるのなら後悔はしたくないな」
死について考えを巡らせるのは、空腹を満たしてからでも遅くはないだろう。早ければ、警察が僕のことを探し回っている最中であるかもしれないが、不思議と不安は感じられなかった。自暴自棄の余裕とでもいったような、理由のない自信が胸の内側を占めていた。自分は決して捕まらないだろう、という根拠のない予感があった。
僕は机の上に投げ出されていた金と通帳を乱暴にモッズコートのポケットに突っ込むと、肩で風を切りながら、大胆不敵にも夜の街へと繰り出しに行った。
未来は暗かったが悲観はしていなかった。あとは為すべきことを為すだけだ。定められた道程を辿るだけなのだ。僕は死に向かって猛進する獣であろうとした。そのためには、些か強い酒が欲しかったのである。
四、妖婦
腫物を切り除いたことによる充足感が腹の底を満たしていた。全てが瓦解した後に残されたものは、清々しいまでの荒涼だった。果てのない大地が水平線となって続き、乾いた頬を撫でる風は凪いでいる。破れかぶれの余裕とでもいったような平静が胸の内に広がっていた。
僕は心地の良いジャズ・ミュージックが流れるバーに、ふらふらと辿り着くと、飴色をしたカウンターの前に座り、普段なら口にしないような、強い酒をバーテンダーに注文し続けた。グラスを傾けるたびに、少しずつ脳細胞が死んでいくのを感じる。死をことさらに恐れているつもりはないが、「今生の別れとなるのだ」と考えると、この世の全てが愛おしく、離れがたく思えてしまう。酒に溺れる理由もその一つだった。
何杯目かも分からない酒を飲み干すと、隣人の女性から突如として呼びかけられた。それは、柔らかく、瑞々しい声だった。酒の成分が作用して霞がかった目を向けると、そこには、僕よりもやや歳上だろう女性が妖艶な微笑を浮かべて座っていた。ゆったりとした黒のワンピースに身を包んでいるが、彼女の肉付きの良さは服の上からでも十分に察せられた。
「さあ、一緒に飲みましょうよ。あたし、あなたに興味が湧いてきちゃったみたい。ねえ、何か話してちょうだい」
女性がカウンター・テーブルに身を乗り出すと、上品な香りが辺りを包み込んだ。鼻腔を蕩かせる香水の匂いは、酒の成分と絡み合い、脳髄を芯から痺れさせるようだった。
「何も話すことなんてないさ」
話したいことは山ほどあったが嘘をついた。得体の知れない妖婦の、甘い囁きを跳ね除けるために新しい酒を注文した。
「そんなこと言わないで、あなたのお話を聴かせてちょうだい」
妖婦は濡れたような声で囁き続ける。誘惑と拒絶の応酬が、幾度か繰り返された後に、勝利を収めたのは女の方だった。ついに男の蕩けた脳髄は誘惑を前にして考えることを放棄した。
「実は昨日の晩に恋人を殺したばかりなんだ」
自分でも思いがけない言葉が口から溢れ出ていた。だが、誤魔化すのが億劫に感じられるほど脳みそは酔っていた。「自分に残された時間は、決して長くはないのだ」という捨て鉢な気分が口を軽くさせていた。或いは、僕はいまだに「誠実」に惹かれていたのかもしれない。罪人が教会に懺悔するように、赦しを乞うことで、少しでも現世の罪を贖おう、という打算的な目論見がないわけではなかった。
「あら、素敵だわ。危ない大人というわけね。あなたの恋人ってどんな方だったの。教えてちょうだい」
妖艶な女は僕の告白を真に受けなかったようである。酒の満たされたグラスの縁を、華奢な指でなぞりながら、質問を重ねてきた。
「そうだな。彼女は――」
僕は酒に酔った脳髄を働かせて必死に思い出そうと試みたが、結局のところ、答えに窮してしまった。僕にとって榛原尚子とは何者だったのか。その解答は、手で触れられるほどに近くにあるらしく見えるが、実際に腕を伸ばすと掌から逃れてしまうような蜃気楼のような――望遠鏡で覗いて見た、日中の火事のような、捉えどころのないものでもあった。
「ねえ、あたしが思い出させてあげるわ。さあ、一緒に行きましょう」
女は妖しげに告げると、僕の腕をしなやかに引いた。不思議な引力に導かれるように、僕と女は席を立った。僕はバーテンダーに、いくらか多めに金を支払うと、妖婦に誘われるままに店を後にした。
扉を開けると、火照った頬を、夜風が優しく撫でては去っていく。身体を寄せる美女の芳しい香りを楽しみながらも、僕はぼんやりと榛原尚子のこと――真昼の火事のように曖昧模糊とした記憶――を思わずにはいられなかった。
五、火炎
僕達は暗闇の中で、互いの肉体を抱きながら――身じろぎをすれば、唇が触れるほどに、顏を近づけて睦言を交わす。
激しい肉体の交合の後に、穏やかな時間が訪れていた。酒に酔った体のわりには、よく働いた方だと思う。彼女も満足しているらしかった。
「相性がいいのかな。初めて抱いたという気がしなかったよ」
僕は暗がりに浮かぶ顔の輪郭を指でなぞりながら、彼女の肉体の素晴らしさを褒め讃えた。実際、彼女の肌は、僕の掌にしっとりと馴染むようで、いつまでも触れていたい、と感じるほどだった。
「ありがとう。あなたって見かけによらず情熱的なのね。びっくりしちゃったわ」
酒場を出た後、僕は彼女に導かれるようにして、街角のラブ・ホテルへと誘われた。彼女は歳上の姉さんらしく、堂々と振る舞い、僕は経験の浅い少年のように恥じらった。だが、そういった恥じらいや慎みは長くは続かなかった。僕は彼女を獣のように激しく求めた。すべてが終わった時、僕と彼女は汗を流し、肩で息をしていたほどだ。
「これで心置きなくこの世と別れることができそうだ」
僕が呟くと、彼女は薄闇の中で、艶然と微笑しながら訊ねた。
「どうかしら、あなたが殺したという恋人のことを、少しでも思い出すことはできたかしら」
それが奇妙な質問だったことは僕にでも分かった。彼女は僕の告解を真に受けていないと思っていた。それに、同衾しているにも関わらず、他の女の話をすることを、全く厭わない彼女の態度にも驚いた。
「その話は止めにしよう。今は君との時間を大切にしたい気分なんだ」
当たり障りのない言葉を返すことで逃げようとした。僕は早くも榛原尚子という女性の存在について考えることを放棄し始めていた。それは、自身が犯した大罪から目を背けることと、ほとんど同義だった。
「ダメよ。それを思い出させるために一緒にいるんだから。さあ、彼女はどんな人だったの」
暗がりの中で、彼女の大きな瞳が、炎玉のように、爛々と輝き始めていた。彼女の柔らかな頬を撫でていた掌を反射的に退けてしまった。僕は乾いた唇を唾で湿らせると、彼女の言い放った言葉を脳内で反芻した。
――榛原尚子はどのような女性だったか――
しばらくの間、無言の時間が流れた。僕は彼女に促されるままに、殺めたはずの恋人について考えたが、話すべきことは何もないように思われた。彼女に関する記憶は、飛ぶ火のように、遠方でチラチラと燃えるばかりで、手で掴めるほどの実体がない蜃気楼のような物であった。
「僕は彼女のことを何も知らないのかもしれない。何も知らない人間の命を奪ってしまったのかもしれない」
妖艶な女は、僕の頼りない返答を聴いて黙っていたが、しばらくすると、ゆっくりと裸の上体を起こして、ベッドサイドの照明を点した。背中に光を負った彼女は、まるで菩薩のように美しかった。
「ねえ、あなたが殺した恋人の顔って、こんな感じだったのではないかしら」
彼女は穏やかな口ぶりで語ると、ふいに清らかな顔を、僕に近づけてきた。互いの息がかかるほど、間近に彼女の容貌を見ているうちに、僕は失っていたはずの記憶を取り戻した。
榛原尚子がそこにいた。
正確には、榛原尚子と瓜二つの容貌をした、得体の知れない女が、瞳を火炎のように煌めかせながら、呆然とする僕のことを、じっと見据えていた。耳の奥で心臓が鳴る音が聞こえる。背筋を冷たい汗が伝った。
「思い出したかしら」
女はそう言うと、カンラカンラ、と声を上げて笑い始めた。恐怖心から僕は女を突き放した。そして、急いで服を着ると、部屋から一目散に飛び出した。
ありえないことが起こっていた。僕は恋人の亡霊と寝たのだ。酒場で出会った時は、確かに、違う顔をしていたはずだ。見たこともない女だったはずだ。僕は半狂乱になりながらも、街角のラブ・ホテルから逃げ出した。
六、蘇生
息が切れるまで夜の街を駆け抜けた。空が白々と明け始めた頃になって、ようやく多少の落ち着きを取り戻した。
――あれは一時的な気の惑いだったのかもしれない――
今後のことについて、ゆっくりと腰を下ろして考えなければならない、と思った。それに先ほどから腹の底が頼りない感覚もする。空腹ではないが、何か胃に入れなければならない。僕はファミリー・レストランの案内看板を見つけると、フラフラとした疲労した足取りで、安全な場所に向かって行った。
扉を開けると生ぬるいような風が頬を撫でた。寒空の下を彷徨った身にはありがたい温もりだった。
客は僕一人であることをウェイトレスに告げると、直ぐにテーブル席へと案内された。ウェイトレスは水が満たされたコップを置くと、深々とお辞儀をして去って行く。感じの良い店員だな、と思いつつ、コップに手を伸ばした。恐怖心から喉が渇いて仕方がなかった。
――そうだ、あれは気の迷いに違いない。僕は確かに榛原尚子を刺し殺したのだ。キッチンにあった包丁で、何度も肉を刺した感触を覚えている。それに、アパートに帰れば彼女の血に濡れたシャツも残っているはずだ。でも、あの妖婦の変貌は不気味だった。それに、あの笑い声は、確かに聞き覚えがある。いったい、何が起きているのだろうか――。
僕が腕を組んで考え込んでいると、先ほどのウェイトレスが靴を鳴らして歩み寄ってきた。手には注文した覚えのないコーヒーを載せた銀盆を携えている。
辺りを見渡すと客の数はまばらであり、周囲には僕の他に席に着いている者はいない。それにも関わらず、ウェイトレスは真っ直ぐにこちらにやって来ている。彼女の挙動を不審に思っていると、ウェイトレスは当然のように、僕の向かい側の席に腰を下ろした。
「アッ」
背筋を冷たい刃物で撫でられたような気分だった。ウェイトレスの容貌は榛原尚子と同じものに変わっていた。
「驚いたかしら」
榛原尚子は湯気の立つコーヒーを僕の前に置くと、大胆不敵な笑みを浮かべた。僕は呆然としながら、信じがたい光景を目の当たりにして、堪えきれずに呻いていた。
「ありえない。僕は君を殺したはずだ」
榛原尚子は突如として、カンラカンラ、と哄笑し始めた。脳天を貫かれたような衝撃が走った。その黄色い笑い声は、確かに榛原尚子のものだったからだ。僕の脳髄を腐らせる天真爛漫な嫌な響き。途端に、胃がせり上がり、酸っぱい液体が口腔を満たしたが、喉を鳴らして嚥下した。
「あたしは死なないわ。あなたがあたしを忘れようとするたびに、何度だって蘇ってあげることにしたの。あなたが求めるのなら、何度だって身体を許すし、殺されてもあげる。あたしは自分の幸福について考えてみたの。そして、これが、あたしにとっての最善の方法だと気が付いたの」
僕は呆然自失とした脳みそを必死で働かせながら考える。つまり、これは彼女にとっての復讐なのだろうか。僕に対する恨みが原因なのだろうか。
「ああ、聞こえるかしら。あのサイレンの音が。あなたが歩いてきた方角に向かっているみたいね」
嫌な予感がして席から立ち上がると、窓の外を一台の消防車が駆け抜けて行くのが見えた。榛原尚子が言う通り、僕が宿泊したホテルの方角に向かっているようだった。
「あなたが殺して火を点けたのよ」
もはや、彼女が言っていることが意味するところが皆目見当もつかない状態だった。僕が殺して火を点けた。誰を殺して、何に火を点けたのだろうか。
「あたしの可愛いお間抜けさん。あなたはあたしを殺して、ホテルに火を点けたのよ」
全身の力が抜けて倒れるように席に腰を下ろした。僕は確かに榛原尚子を殺したが、あの妖婦の命までは奪っていないはずだった。ましてや、ホテルに火を放つなどしていないはずだった。でも、榛原尚子は、確かに生きて、目の前に座っている。僕は震える手でコーヒーの湛えられたカップを取った。
「あなたはあたしを殺した後に、自殺しようとしたみたいだけれど、そんなに簡単に終わっちゃ、つまらないと思わないかしら。あなたが包丁を突き立てた時、あたしは確かな幸福を感じたわ。あなたから燃え盛るような情熱を感じたの。あたしは、あの火炎のような情熱を味わい尽くしたい。だから、あなたのことを骨になるまでしゃぶり尽くしてあげるつもり」
紛れもない毒婦がそこにはいた。燃え上がる焔のような情熱に取り憑かれた亡霊が、カンラカンラ、と腹を抱えて笑い転げていた。飛ぶ火のように捉えどころがないが、確かな熱を持つ曖昧模糊とした存在が彼女だった。
この女は僕が死ぬことを決して許さないだろう、という気がした。僕に殺され、僕を悩ませ、僕が喘ぐ姿を嬉々(きき)として眺めるつもりなのであろう。僕はこの正体不明の生き物と奈落の底に堕ちる運命にあるのだ、と考えると身体の芯が震えるような恐怖を感じずにはいられなかった。
消防車のけたたましいサイレンの音と、毒婦の黄色い哄笑が渾然一体となって、頭蓋の内側で鳴り響いていた。
僕はそれらから逃れるために、テーブルに備えられたフォークを手に取ると、無駄な足掻きかもしれないが、自身の咽頭に向けて切っ先を突き立てた。
薄れゆく意識の中にあってもサイレンと哄笑が鳴り止むことはなかった。
(了)