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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
7/29

飛縁魔

 (かほ)かたちうつくしけれども

 いとおそろしきものにて、

 ()な〱(いで)(おとこ)清血(せいけつ)(すひ)

 つゐにはとり(ころ)すとなむ。


『絵本百物語・桃山人夜話』/巻第壱・第二より抜萃


 一、哄笑


 彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。苦悩や葛藤(かっとう)を知らない無邪気な哄笑(こうしょう)脳天(のうてん)穿(うが)つたびに、僕は人知れず頭蓋(ずがい)の内側を腐らせていく。そういう風に折れて曲がった応酬(おうしゅう)を繰り返すことが(たま)らなく嫌で仕方(しかた)がなかった。    

「君、あの榛原(はるはら)尚子(しょうこ)と交際をしているらしいじゃないか。全く、(うらや)ましいかぎりだよ」

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)を知っている学生時代の友人達は口を(そろ)えてそう言った。実際、彼女の美貌は確かなものであり、端正な中にも胸に迫るような(つや)やかな魅力を秘めていた。学生連中の好色(こうしょく)(まみ)れた贔屓目(ひいきめ)を抜きにしても彼女は充分に美しかったし、その魔力はいまだに色褪(いろあ)せることを知らない。

 (まった)くのところ、僕のようなうだつの上がらない男には分不相応(ぶんふそうおう)なことこの上ないまでに、彼女は瑞々(みずみず)しい美しさを(ほしいまま)に誇っていた。彼女は自身の容姿が他人よりも(ひい)でているということを充分に理解しているようだった。天衣無縫(てんいむほう)溌溂(はつらつ)さの裏に(ひと)(にぎ)りのしたたかさを隠していることを僕は知っている。

 男達が彼女の魔法に屈して(こうべ)()れるたびに、彼女はちょっとだけ舌を出して、悪戯(いたずら)露見(ろけん)してしまったバツの悪さを誤魔化(ごまか)すかのように、こっそりと僕に微笑みかけるのだった。

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)の美貌にスポット・ライトが注がれるたびに、僕は自身まで高級な人間になったような気分になり、身の程を(わきま)えずに()()れていたことを白状(はくじょう)する。しかし、今となっては微睡(まどろ)むような酔いの心地良さは微塵(みじん)も感じられなくなっていた。得体(えたい)の知れない将来への不安が僕の背中をジリジリと焼いているからだ。

 ふた月ほど前に、僕は親と職を一遍(いっぺん)に失っていた。それまで高等学校の非常勤講師として口を(のり)するだけの給金を稼いで暮らしていたが、新年度を迎えても一向(いっこう)に教育委員会から仕事の依頼がくる気配がない。

 悶々(もんもん)としながら梅雨(つゆ)を過ごしている間に、かねてから体調の不良を訴え続けていた母親が、脳溢血(のういっけつ)で倒れたという(しら)せが届いた。帰省(きせい)するために金をかき集めて、やっとのことで故郷(こきょう)の地を踏むべく旅支度(たびじたく)をし始めた矢先(やさき)に、母親が()ったことを聞かされた。

 (とこ)()せる母親のもとへ駆けつけてやれなかったことは無念(むねん)だったが、不思議と涙は流れなかった。ただ、焼け野原の真ん中に取り残されたような、(ばく)とした不安だけが心の大部分を()めていた。僕は完全に人生における指針を見失っていたのである。いずれかの方角に歩んで行けばよいのか皆目見当(かいもくけんとう)もつかなければ、歩を進める気力さえ湧いてこない。見渡す限り、延々と続いている焦土(しょうど)を前にして、僕は呆然自失(ぼうぜんじしつ)しながら立っていることしかできなかった。

 僕が貧窮(ひんきゅう)(あえ)いでいることを榛原(はるはら)尚子(しょうこ)はまだ知らない。(とどこお)った家賃を支払うために(わず)かに残された財産を切り崩しては、安アパートの一室でもんどり打ちながら頭を抱える苦痛を彼女は知らない。

 僕があばら屋で眠れぬ夜を過ごしている間、彼女は親にあてがわれた高級マンションの一室で安らかな寝息を立てている。やがて、日が昇れば、絶望の底で辛酸(しんさん)()めるような長い一日が始まる。今ごろ、彼女は希望に満ちた明るく短い一日が始まることに胸を膨らませているのだろう。

 彼女の黄色い笑い声が気に入らなかった。人生は素晴らしい、と彼女が語る度に、僕は暗鬱(あんうつ)とした感情の海に深く沈んでいく。水底(みなそこ)に横たわる泥流地帯(でいりゅうちたい)に足を取られて容易(ようい)には浮上(ふじょう)することができない。太陽はもがき苦しむ僕の手を逃れて遠いところで輝いている。

 彼女が嬉々(きき)として哄笑(こうしょう)するようなとき、僕は曖昧な微笑と沈黙で応えながら(ひそ)かに(おび)えている。榛原(はるはら)尚子(しょうこ)を失えば、僕はいよいよ、天涯孤独(てんがいこどく)の身となってしまう。容赦(ようしゃ)なく降り注ぐ陽の暑さに(あえ)ぎ苦しんではいたが、それでも彼女は歩むべき道を示してくれる天上の光であることに違いはない。僕は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)という女性の持つ魔力にしっかりと(とら)われていたと言っていい。僕を此岸(しがん)彼岸(ひがん)狭間(はざま)で踏みとどまらせている力の源泉(げんせん)は、彼女の魔力に他ならなかった。

 ――彼女を失えば僕は生きる意味を見失ってしまうに違いない。その時が訪れないことを天に祈るばかりだ――

 いつ明けるとも知れない夜を輾転反側(てんてんはんそく)しながら過ごす。神経は摩耗(まもう)して()()れそうなほどか細く弱っているのに、一向(いっこう)に眠りに落ちる様子がない。耳の奥では、カンラカンラ、という彼女の笑い声がいつまでも鳴り響いていた。




 二、不潔


 窓から漏れる銀色の月明りがセミダブルのベッドを照らしている。白を基調としたシーツは汗と血に濡れて緋色(ひいろ)のだんだら模様(もよう)を描いていた。榛原(はるはら)尚子(しょうこ)は血染めの敷妙(しけたえ)に横たわり、光を失った大きな瞳を見開いて、(ほう)けたように虚空(こくう)見詰(みつ)めている。

 僕は血で濡れそぼった指先で、彼女の見開かれた双眸(そうぼう)に触れて、(まぶた)を下ろしてやった。それは儀礼的な死者への手向(たむ)けというより、単純な違和(いわ)から生じる薄気味の悪さを誤魔化(ごまか)すための防衛的な処置だった。彼女の瞳が隠れると、僕はようやく、一息をつく余裕を取り戻した。

「わたしは幸福について真剣になって考えてみたの。あなたには分からないでしょうけど、それってとても大切なことなのよ。そして、自分にとって最善の方法を選んだだけ」

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)は十五分前まで、意気軒昂(いきけんこう)に自分の選択した手段について、滔々(とうとう)と述べていたが、その全てが詭弁(きべん)であることは明らかだった。あるいは彼女が信じていた幸福とやらは真実だったのかもしれない。だが、それを追求するために(こう)じた方策に、一握(いちあく)欺瞞(ぎまん)が隠されていることに、彼女自身が気づいていなかったらしい。だが、どのような経緯(けいい)があろうとも、誰しもが自分の発言に責任を持つべきだ。

 彼女が自身の幸福について考えて、それを追い求めるために手段を選ばないというのならば、僕だけが暗い洞穴(ほらあな)のような場所で、()えがたい苦悩に(もだ)(あえ)ぎながら、彼岸(ひがん)此岸(しがん)の間で逡巡(しゅんじゅん)する必要はないはずだ。彼女のために、絶望のどん底で辛酸(しんさん)()めるような()()に会うことに、どれほどの意味と価値があるというのだろうか。

「君が僕に黙って一人で幸福を(つか)もうとするのならば、僕は全力でそれを(はば)もう。君を愛したという過去を嘘にしたくないからだ。僕は君のためならば何者にでもなるつもりだった。だけど、僕が()すべきことが何なのか、ようやく理解できたような気がする。僕も自身の幸福を追求するために最善の方法を()ることにするよ」

 僕は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)亡骸(なきがら)(ささや)きかけると、ベッドサイドから立ち上がり、彼女の肉体から流れ出た血潮(ちしお)によって濡れた手を洗いに、そろりそろりと台所に向かった。シンクの中には一本の包丁が無造作(むぞうさ)に投げ打たれている。鈍く光る刃は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)の血と(あぶら)で汚れていた。

 水道の蛇口をひねろうとしたときに、二本の歯ブラシが立てられたコップがあるのが目に入った。一本は彼女の物で、もう一本は知らない人間の物だった。僕は彼女に歯ブラシの持ち主について詰問(きつもん)し、そのまま激しい口論(こうろん)となった。彼女は初めこそ素知(そし)らぬふりをしていたが、執拗(しつよう)に問い続けていくうちに、ポツリポツリと自分が不貞(ふてい)を働いていたことを独白(どくはく)し始めたのだった。

 彼女は自分の放った言葉に()()れて、話せば話すほどふてぶてしく、不貞(ふてい)を働いた理由を歪曲(わいきょく)させ、ついには自身にとって都合(つごう)の良い結論を結んだ。

 僕は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)の自分勝手な持論(じろん)()()げた後、僕は彼女を殺す覚悟を決めた。無論、僕もすぐさま後を追って死ぬつもりだった。

 僕は彼女のために(つい)やした、全てものを取り戻せないまでにしても、嘘にしてなかったことにするのだけは嫌だった。それは死ぬよりも辛いことであるような気がしてならなかった。

 あらゆる事柄が、取り戻しのつかないところまで追いやられてしまっているのだ、と告げていた。薄氷(はくひょう)の上を歩むような生活はついに瓦解(がかい)して、()てつく水に身を沈める時がやってきていた。不思議と恐怖と不安はなかった。全てが当然の帰結(きけつ)であるように思えた。

 僕はシンクの中から血糊(ちのり)に濡れた包丁を手に取ると、その刃が自分の肉体にズブズブと沈んでいく様を想像した。「不潔(ふけつ)だ」と僕は(うめ)きと共に(つぶや)いた。

 それは何かしら非常に(けが)らわしい行為であるように思えてならなかったのである。彼女の体液に(まみ)れた異物が身体に入ってくるということに、嫌悪の念が湧いてきたことに驚いた。

 キッチンの引き出しを(あさ)ってみたが、包丁の代わりになるような刃物の(たぐい)は見つからなかった。彼女はほとんど自炊(じすい)とは無縁の暮らしをしていたので当然である。だが、どうしても、この汚らしい包丁を(みずか)らの肉に突き立てて死ぬ気にはなれなかった。

 僕は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)亡骸(なきがら)一瞥(いちべつ)すると、自分に相応(ふさわ)しい死に場所を求めて、外界(がいかい)に出ることを決心した。ダラダラと生き長らえるつもりはないが、不快な思いをしながら死ぬのも嫌だった。それに彼女との間で繰り広げられた、いつ終わるとも知れない不毛(ふもう)問答(もんどう)に疲れてもいた。清潔な布団に包まれ、泥のような眠りにつきたい。死について考えるのはそのあとでもよいだろう。

 僕は返り血に濡れたシャツの上に、カーキ色のモッズコートを(まと)うと、ふらふらとした覚束(おぼつか)ない足取りで彼女の亡骸(なきがら)を納めた豪奢(ごうしゃ)なマンションを後にした。忘れていたはずの猛烈(もうれつ)な眠気が僕を襲っていた。これほどまでの疲労に打ちのめされるのは久しぶりだった。泥沼(どろぬま)を歩むように足は重く、脳髄は(しび)れて朦朧(もうろう)としている。


「外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない」


 僕はあまりにも有名な小説――芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の『羅生門(らしょうもん)』に記された最後の一節を(つぶや)くと、下人のように夜の街へと飲み込まれに行くのだった。


 三、清廉


 足を(もつ)れさせながらも自宅に辿(たど)()くと、僕は着替えもせずにせんべい布団に横たわり、沈むような深い眠りへと落ちていった。

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)との悶着(もんちゃく)にはひどく疲弊(ひへい)させられたが、全てを終えた時に、大きな安堵(あんど)を感じたことも事実であった。夢を見る(ひま)もないほどに、深く沈みこむような睡眠を、あますことなく享受(きょうじゅ)したのは久しぶりだった。

 水底(みなそこ)から浮上(ふじょう)するような感覚を覚えながら、ゆっくりと目を開くと、陰気臭(いんきくさ)蛍光灯(けいこうとう)の明りが、ぼんやりと部屋の内を照らしていた。窓の外から見える空は暗闇に覆われ、偽物(にせもの)じみた満月が(よる)(とばり)に穴を開けていた。

 時計を確認するまでもなく、ほとんど一昼夜(いちちゅうや)の間、気を失っていたらしい。シャツに染みついた返り血が(にかわ)のように凝固(ぎょうこ)していることからも明らかだった。

(けが)らわしい」

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)の体液に(まみ)れて一日を過ごしたという事実が、信じられないほど(いや)らしく感じられた。道徳を踏みにじって大罪(たいざい)を犯した身であるからこそ、「誠実(せいじつ)」や「清廉(せいれん)」の価値と意義の重さが理解できるような気がした。罪の味を知ってしまったからこそ、少しでも潔白(けっぱく)でありたいと願っている自分がいた。

「人間はこれほどまでに傲慢(ごうまん)になれる生き物なのだろうか」

 髪に血糊(ちのり)が触れるのが嫌だったので、台所の引き出しから()びの浮いた(はさみ)を取り出して、肌が傷つかないように注意しながらシャツを裂いて捨てた。使い古された茶箪笥(ちゃだんす)の中からなるべく清潔なシャツを選び抜き、着替えを済ますといくぶんか落ち着いた気分なった。

「充分な休眠が取れたおかげで清々(すがすが)しい気分だ。これで清廉潔白(せいれんけっぱく)な身の上だったら申し分ないのだけどな。罪を犯してしまった以上は(さば)かれるべきだ。だが、大衆(たいしゅう)(さら)(もの)になるつもりはない。法の(はかり)に掛けられるくらいなら(いさぎよ)く死を選ぼう」

 世間に醜聞(しゅうぶん)(さら)すような真似(まね)をしてまで、生き長らえるつもりは毛頭(もうとう)なかった。久しぶりに安眠できたこともあって、脳髄は()(わた)っている。時計を見ると、まだ(よい)(くち)といった時間であることが分かった。腹が空いていたし、少しばかり酒も飲みたい気分だった。自殺についてあれやこれやと考えるためには()えた脳髄を鈍麻(どんま)させる必要があった。

「これが最後の晩餐(ばんさん)になるのなら後悔はしたくないな」

 死について考えを巡らせるのは、空腹を満たしてからでも遅くはないだろう。早ければ、警察が僕のことを探し回っている最中(さいちゅう)であるかもしれないが、不思議と不安は感じられなかった。自暴自棄(じぼうじき)の余裕とでもいったような、理由のない自信が胸の内側を()めていた。自分は決して捕まらないだろう、という根拠のない予感があった。

 僕は机の上に投げ出されていた金と通帳を乱暴にモッズコートのポケットに突っ込むと、肩で風を切りながら、大胆不敵(だいたんふてき)にも夜の街へと繰り出しに行った。

 未来は暗かったが悲観(ひかん)はしていなかった。あとは()すべきことを()すだけだ。定められた道程(みちのり)辿(たど)るだけなのだ。僕は死に向かって猛進(もうしん)する(けだもの)であろうとした。そのためには、(いささ)か強い酒が欲しかったのである。


 四、妖婦


 腫物(はれもの)を切り除いたことによる充足感が腹の底を満たしていた。全てが瓦解(がかい)した後に残されたものは、清々(すがすが)しいまでの荒涼(こうりょう)だった。果てのない大地が水平線となって続き、乾いた(ほお)()でる風は()いでいる。(やぶ)れかぶれの余裕とでもいったような平静が胸の内に広がっていた。

 僕は心地の良いジャズ・ミュージックが流れるバーに、ふらふらと辿(たど)()くと、飴色(あめいろ)をしたカウンターの前に座り、普段なら口にしないような、強い酒をバーテンダーに注文し続けた。グラスを(かたむ)けるたびに、少しずつ脳細胞が死んでいくのを感じる。死をことさらに恐れているつもりはないが、「今生(こんじょう)(わか)れとなるのだ」と考えると、この世の全てが(いと)おしく、離れがたく思えてしまう。酒に(おぼ)れる理由もその一つだった。

 何杯目かも分からない酒を()()すと、隣人の女性から突如(とつじょ)として呼びかけられた。それは、柔らかく、瑞々(みずみず)しい声だった。酒の成分が作用して(かすみ)がかった目を向けると、そこには、僕よりもやや歳上だろう女性が妖艶(ようえん)な微笑を浮かべて座っていた。ゆったりとした黒のワンピースに身を包んでいるが、彼女の肉付きの良さは服の上からでも十分に察せられた。

「さあ、一緒に飲みましょうよ。あたし、あなたに興味が湧いてきちゃったみたい。ねえ、何か話してちょうだい」

 女性がカウンター・テーブルに身を乗り出すと、上品な香りが辺りを包み込んだ。鼻腔(びくう)(とろ)かせる香水の匂いは、酒の成分と(から)()い、脳髄を(しん)から(しび)れさせるようだった。

「何も話すことなんてないさ」

 話したいことは山ほどあったが嘘をついた。得体(えたい)の知れない妖婦(ようふ)の、甘い(ささや)きを()()けるために新しい酒を注文した。

「そんなこと言わないで、あなたのお話を聴かせてちょうだい」

 妖婦(ようふ)は濡れたような声で(ささや)き続ける。誘惑と拒絶の応酬(おうしゅう)が、幾度(いくど)か繰り返された後に、勝利を収めたのは女の方だった。ついに男の(とろ)けた脳髄は誘惑を前にして考えることを放棄した。

「実は昨日の晩に恋人を殺したばかりなんだ」

 自分でも思いがけない言葉が口から(あふ)()ていた。だが、誤魔化(ごまか)すのが億劫(おっくう)に感じられるほど脳みそは酔っていた。「自分に残された時間は、決して長くはないのだ」という()(ばち)な気分が口を軽くさせていた。(ある)いは、僕はいまだに「誠実(せいじつ)」に()かれていたのかもしれない。罪人が教会に懺悔(ざんげ)するように、(ゆる)しを()うことで、少しでも現世(げんせい)の罪を(あがな)おう、という打算的な目論見(もくろみ)がないわけではなかった。

「あら、素敵だわ。危ない大人というわけね。あなたの恋人ってどんな方だったの。教えてちょうだい」

 妖艶(ようえん)な女は僕の告白を()()けなかったようである。酒の満たされたグラスの縁を、華奢(きゃしゃ)な指でなぞりながら、質問を重ねてきた。

「そうだな。彼女は――」

 僕は酒に酔った脳髄を働かせて必死に思い出そうと(こころ)みたが、結局のところ、答えに(きゅう)してしまった。僕にとって榛原(はるはら)尚子(しょうこ)とは何者だったのか。その解答は、手で触れられるほどに近くにあるらしく見えるが、実際に腕を伸ばすと(てのひら)から逃れてしまうような蜃気楼(しんきろう)のような――望遠鏡(ぼうえんきょう)(のぞ)いて見た、日中の火事のような、(とら)えどころのないものでもあった。

「ねえ、あたしが思い出させてあげるわ。さあ、一緒に行きましょう」

 女は(あや)しげに告げると、僕の腕をしなやかに引いた。不思議な引力に導かれるように、僕と女は席を立った。僕はバーテンダーに、いくらか多めに金を支払うと、妖婦(ようふ)(いざな)われるままに店を後にした。

 扉を開けると、火照(ほて)った(ほお)を、夜風が優しく()でては去っていく。身体を寄せる美女の(かぐわ)しい香りを楽しみながらも、僕はぼんやりと榛原(はるはら)尚子(しょうこ)のこと――真昼の火事のように曖昧模糊(あいまいもこ)とした記憶――を思わずにはいられなかった。





 五、火炎


 僕達は暗闇の中で、互いの肉体を()きながら――身じろぎをすれば、唇が触れるほどに、顏を近づけて睦言(むつごと)を交わす。

 激しい肉体の交合(こうごう)の後に、(おだ)やかな時間が訪れていた。酒に酔った体のわりには、よく働いた方だと思う。彼女も満足しているらしかった。

「相性がいいのかな。初めて()いたという気がしなかったよ」

 僕は暗がりに浮かぶ顔の輪郭(りんかく)を指でなぞりながら、彼女の肉体の素晴らしさを()(たた)えた。実際、彼女の肌は、僕の(てのひら)にしっとりと馴染(なじ)むようで、いつまでも触れていたい、と感じるほどだった。

「ありがとう。あなたって見かけによらず情熱的なのね。びっくりしちゃったわ」

 酒場を出た後、僕は彼女に導かれるようにして、街角のラブ・ホテルへと誘われた。彼女は歳上の姉さんらしく、堂々(どうどう)と振る舞い、僕は経験の浅い少年のように()じらった。だが、そういった()じらいや(つつし)みは長くは続かなかった。僕は彼女を(けだもの)のように激しく求めた。すべてが終わった時、僕と彼女は汗を流し、肩で息をしていたほどだ。

「これで心置きなくこの世と別れることができそうだ」

 僕が(つぶや)くと、彼女は薄闇(うすやみ)の中で、艶然(えんぜん)と微笑しながら(たず)ねた。

「どうかしら、あなたが殺したという恋人のことを、少しでも思い出すことはできたかしら」

 それが奇妙な質問だったことは僕にでも分かった。彼女は僕の(こっ)(かい)()()けていないと思っていた。それに、同衾(どうきん)しているにも関わらず、他の女の話をすることを、(まった)(いと)わない彼女の態度にも驚いた。

「その話は止めにしよう。今は君との時間を大切にしたい気分なんだ」

 当たり(さわ)りのない言葉を返すことで逃げようとした。僕は早くも榛原(はるはら)尚子(しょうこ)という女性の存在について考えることを放棄し始めていた。それは、自身が犯した大罪(たいざい)から目を(そむ)けることと、ほとんど同義だった。

「ダメよ。それを思い出させるために一緒にいるんだから。さあ、彼女はどんな人だったの」

 暗がりの中で、彼女の大きな瞳が、(えん)(ぎょく)のように、爛々(らんらん)と輝き始めていた。彼女の柔らかな(ほお)()でていた(てのひら)を反射的に退(しりぞ)けてしまった。僕は乾いた唇を(つばき)で湿らせると、彼女の言い放った言葉を脳内で反芻(はんすう)した。

 ――榛原(はるはら)尚子(しょうこ)はどのような女性だったか――

 しばらくの間、無言の時間が流れた。僕は彼女に(うなが)されるままに、(あや)めたはずの恋人について考えたが、話すべきことは何もないように思われた。彼女に関する記憶は、飛ぶ火のように、遠方でチラチラと燃えるばかりで、手で(つか)めるほどの実体がない蜃気楼(しんきろう)のような物であった。

「僕は彼女のことを何も知らないのかもしれない。何も知らない人間の命を奪ってしまったのかもしれない」

 妖艶(ようえん)な女は、僕の頼りない返答を聴いて黙っていたが、しばらくすると、ゆっくりと裸の上体を起こして、ベッドサイドの照明を(とも)した。背中に光を負った彼女は、まるで菩薩(ぼさつ)のように美しかった。

「ねえ、あなたが殺した恋人の顔って、こんな感じだったのではないかしら」

 彼女は(おだ)やかな口ぶりで語ると、ふいに(きよ)らかな顔を、僕に近づけてきた。互いの息がかかるほど、間近に彼女の容貌を見ているうちに、僕は失っていたはずの記憶を取り戻した。


 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)がそこにいた。


 正確には、榛原(はるはら)尚子(しょうこ)(うり)(ふた)つの容貌をした、得体(えたい)の知れない女が、瞳を火炎のように(きら)めかせながら、呆然(ぼうぜん)とする僕のことを、じっと見据(みす)えていた。耳の奥で心臓が鳴る音が聞こえる。背筋を冷たい汗が伝った。

「思い出したかしら」

 女はそう言うと、カンラカンラ、と声を上げて笑い始めた。恐怖心から僕は女を突き放した。そして、急いで服を着ると、部屋から一目散(いちもくさん)に飛び出した。

 ありえないことが起こっていた。僕は恋人の亡霊と寝たのだ。酒場で出会った時は、確かに、違う顔をしていたはずだ。見たこともない女だったはずだ。僕は半狂乱(はんきょうらん)になりながらも、街角のラブ・ホテルから逃げ出した。





 六、蘇生


 息が切れるまで夜の街を駆け抜けた。空が白々(しらじら)と明け始めた頃になって、ようやく多少の落ち着きを取り戻した。

 ――あれは一時的な気の(まど)いだったのかもしれない――

 今後のことについて、ゆっくりと腰を下ろして考えなければならない、と思った。それに先ほどから腹の底が頼りない感覚もする。空腹ではないが、何か胃に入れなければならない。僕はファミリー・レストランの案内看板を見つけると、フラフラとした疲労した足取りで、安全な場所に向かって行った。

 扉を開けると生ぬるいような風が(ほお)()でた。寒空(さむぞら)の下を彷徨(さまよ)った身にはありがたい(ぬく)もりだった。

 客は僕一人であることをウェイトレスに告げると、()ぐにテーブル席へと案内された。ウェイトレスは水が満たされたコップを置くと、深々とお辞儀(じぎ)をして去って行く。感じの良い店員だな、と思いつつ、コップに手を伸ばした。恐怖心から(のど)(かわ)いて仕方(しかた)がなかった。

 ――そうだ、あれは気の迷いに違いない。僕は確かに榛原(はるはら)尚子(しょうこ)を刺し殺したのだ。キッチンにあった包丁で、何度も肉を刺した感触を覚えている。それに、アパートに帰れば彼女の血に濡れたシャツも残っているはずだ。でも、あの妖婦(ようふ)の変貌は不気味だった。それに、あの笑い声は、確かに聞き覚えがある。いったい、何が起きているのだろうか――。

 僕が腕を組んで考え込んでいると、先ほどのウェイトレスが(くつ)を鳴らして歩み寄ってきた。手には注文した覚えのないコーヒーを()せた銀盆(ぎんぼん)(たずさ)えている。

 辺りを見渡すと客の数はまばらであり、周囲には僕の他に席に着いている者はいない。それにも関わらず、ウェイトレスは真っ直ぐにこちらにやって来ている。彼女の挙動(きょどう)不審(ふしん)に思っていると、ウェイトレスは当然のように、僕の向かい側の席に腰を下ろした。

「アッ」

 背筋を冷たい刃物で()でられたような気分だった。ウェイトレスの容貌は榛原(はるはら)尚子(しょうこ)と同じものに変わっていた。

「驚いたかしら」

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)は湯気の立つコーヒーを僕の前に置くと、大胆不敵(だいたんふてき)な笑みを浮かべた。僕は呆然(ぼうぜん)としながら、信じがたい光景を目の当たりにして、()えきれずに(うめ)いていた。

「ありえない。僕は君を殺したはずだ」

 榛原(はるはら)尚子(しょうこ)突如(とつじょ)として、カンラカンラ、と哄笑(こうしょう)し始めた。脳天(のうてん)を貫かれたような衝撃が走った。その黄色い笑い声は、確かに榛原(はるはら)尚子(しょうこ)のものだったからだ。僕の脳髄を腐らせる天真爛漫(てんしんらんまん)な嫌な響き。途端(とたん)に、胃がせり上がり、酸っぱい液体が口腔(こうくう)を満たしたが、(のど)()らして嚥下(えんか)した。

「あたしは死なないわ。あなたがあたしを忘れようとするたびに、何度だって(よみがえ)ってあげることにしたの。あなたが求めるのなら、何度だって身体を許すし、殺されてもあげる。あたしは自分の幸福について考えてみたの。そして、これが、あたしにとっての最善の方法だと気が付いたの」

 僕は呆然自失(ぼうぜんじしつ)とした脳みそを必死で働かせながら考える。つまり、これは彼女にとっての復讐(ふくしゅう)なのだろうか。僕に対する(うら)みが原因なのだろうか。

「ああ、聞こえるかしら。あのサイレンの音が。あなたが歩いてきた方角に向かっているみたいね」

 嫌な予感がして席から立ち上がると、窓の外を一台の消防車が駆け抜けて行くのが見えた。榛原(はるはら)尚子(しょうこ)が言う通り、僕が宿泊したホテルの方角に向かっているようだった。

「あなたが殺して()()けたのよ」 

 もはや、彼女が言っていることが意味するところが皆目(かいもく)見当(けんとう)もつかない状態だった。僕が殺して()()けた。誰を殺して、何に()()けたのだろうか。

「あたしの可愛いお間抜(まぬ)けさん。あなたはあたしを殺して、ホテルに()()けたのよ」

 全身の力が抜けて倒れるように席に腰を下ろした。僕は確かに榛原(はるはら)尚子(しょうこ)を殺したが、あの妖婦(ようふ)の命までは奪っていないはずだった。ましてや、ホテルに()(はな)つなどしていないはずだった。でも、榛原(はるはら)尚子(しょうこ)は、確かに生きて、目の前に座っている。僕は震える手でコーヒーの(たた)えられたカップを取った。

「あなたはあたしを殺した後に、自殺しようとしたみたいだけれど、そんなに簡単に終わっちゃ、つまらないと思わないかしら。あなたが包丁を突き立てた時、あたしは確かな幸福を感じたわ。あなたから()(さか)るような情熱を感じたの。あたしは、あの火炎のような情熱を味わい尽くしたい。だから、あなたのことを骨になるまでしゃぶり尽くしてあげるつもり」

 (まぎ)れもない毒婦(どくふ)がそこにはいた。燃え上がる(ほむら)のような情熱に取り憑かれた亡霊が、カンラカンラ、と腹を抱えて笑い転げていた。飛ぶ火のように(とら)えどころがないが、確かな熱を持つ曖昧模糊(あいまいもこ)とした存在が彼女だった。

 この女は僕が死ぬことを決して許さないだろう、という気がした。僕に殺され、僕を悩ませ、僕が(あえ)ぐ姿を嬉々(きき)として(なが)めるつもりなのであろう。僕はこの正体不明の生き物と奈落(ならく)の底に()ちる運命にあるのだ、と考えると身体の(しん)が震えるような恐怖を感じずにはいられなかった。

 消防車のけたたましいサイレンの音と、毒婦(どくふ)の黄色い哄笑(こうしょう)渾然一体(こんぜんいったい)となって、頭蓋(ずがい)の内側で鳴り響いていた。

 僕はそれらから(のが)れるために、テーブルに備えられたフォークを手に取ると、無駄(むだ)足掻(あが)きかもしれないが、自身の咽頭(いんとう)に向けて切っ先を突き立てた。

 薄れゆく意識の中にあってもサイレンと哄笑(こうしょう)が鳴り止むことはなかった。



 (了)









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