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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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垢なめ

 一、冷血漢 


 母が急逝(きゅうせい)したという(しら)せが届いたのは、昭和三十六年の皐月(さつき)の末のことで、折から降り始めた驟雨(しゅうう)により、訃報(ふほう)の紙はそぼ濡れて、黒インキは涙を落としたように溶けて(にじ)んでいた。

 その頃の僕は皆に(なら)って上京してみたのは良いものの、仕事が上手くいかずに日々を腐らせながら過ごしていた。田舎(いなか)に帰ったところで無為徒食(むいとしょく)(やから)に身を落とすことは分かり切っている。ただ、このまま賃貸(ちんたい)した四畳半の部屋に寝転がって、タバコをくゆらすだけの人生に終わるのも嫌だった。

 無論、母が亡くなったという事実は悲しかったが、都会での暮らし向きに嫌気がさしていた僕にとっては悪い話ではなかった。このまま宙ぶらりんな生活を続けるよりは甲州(こうしゅう)山間(やまあい)にある生家(せいか)に帰って、一月か三月ばかりゆっくりと今後の事について考える(ひま)を手にするのも悪くはないと思った。

 親類一同も母が亡くなったことに少なからず動揺していた。特に祖母は一人息子の父を先の戦争で失って以来、嫁である母と山間(やまあい)の屋敷で細々と寝食(しんしょく)を共にしていたので、その落ち込みようは相当なものであったらしい。

 僕の故郷(こきょう)である村落でも、このごろは町村合併(ちょうそんがっぺい)の話が持ち上がっているらしく、祖母一人の力では生家(せいか)を切り盛りして守っていくのは難しくなるだろう。叔父と叔母も、ことさらに言葉にしないまでも、僕に甲州(こうしゅう)生家(せいか)に戻ってきて欲しい、と(ひそ)かに願っていることは、ひしひしと伝わってきた。

 甲州(こうしゅう)の親族は東京での僕の堕落(だらく)ぶりを知らない。母が亡くなったことをきっかけに田舎(いなか)に帰る口実を手に入れて、内心でほくそ笑んでいる冷血漢(れいけつかん)である僕を知らない。僕は悲痛な顔をしながらも、思いがけない余暇(よか)満喫(まんきつ)するつもりでいたのだ。どこまでも続く、切りのない退屈な日常から脱却できるのなら、お芝居(しばい)の一つや二つ、簡単に演じてみせるほどの卑しさを、僕は身につけていた。

 ()(さき)(みじか)いだろう祖母と共に暮らすことにさえ耐え抜けば、あの屋敷はいずれ自分の物になるはずだ。町村合併(ちょうそんがっぺい)の話にこぎつけて土地を売ってしまえれば、いくらかのまとまった金を手に入れることもできるかもしれない。そんな将来に関する甘い考えに(ひた)りながら、僕は四畳半の部屋を退(しりぞ)くために、さっそく荷造(にづく)りを始めた。


 二、甲州(こうしゅう)屋敷にて


 ()いさらばえた祖母を(あざむ)くのは容易だった。僕は沈痛(ちんつう)面持(おももち)ちで生家(せいか)である甲州(こうしゅう)の屋敷の門扉(もんぴ)を叩くと、その足で(こう)の立ち込める仏間に向かい、位牌(いはい)の前に深々と(こうべ)()れて(てのひら)を合わせた。大仰(おおぎょう)な儀式の真似事(まねごと)は祖母の胸を打ったようで、背後で小さく鼻を(すす)る音が聞こえた。

 東京の空っ風を知らない祖母は冷血漢(れいけつかん)が屋敷を踏み荒らすつもりで来たことを知ることもなく、可愛い孫が母親を失った悲しみに打ちひしがれて、悄然(しょうぜん)としていると信じて()まなかったようだった。

 彼女は僕の冷たい(てのひら)を握って(はげ)ましの言葉すら口にする始末(しまつ)であった。枯れ枝のように細く弱々しい祖母の(てのひら)を握り返しながら冷血漢(れいけつかん)は思う。

「この調子なら祖母が亡くなる日も遠くはないだろう。そうすれば屋敷はすっかり自分のものになるわけだ。すっかり処分してしまおう。後には何も残らないはずだ」

 僕は道楽(どうらく)の味を知らないし、(はな)から関心も(そそ)がれなかったが、金は欲しかった。(ある)いは金の持つ力に(あこが)れていたといった方が正しいのかもしれない。

 曖昧模糊(あいまいもこ)とした世の中にあっても、金だけは期待を裏切らない確かなもののように思えてならなかった。新しい葡萄酒(ぶどうしゅ)は新しい革袋(かわぶくろ)に入れる必要がある。祖母や屋敷は古い葡萄酒(ぶどうしゅ)であり、村落に至っては古い革袋(かわぶくろ)であった。

 母の遺影(いえい)だけが僕の魂胆(こんたん)を見抜いているようだった。夫を戦争で亡くしてから母は滅多(めった)に笑わなくなった。遺影(いえい)の中でさえ、母の微笑みはぎこちなく、隠しきれない(うれ)いと(かな)しみが(かげ)となって彼女の表情を(おお)っていた。

「あんまりいい表情じゃないけれど、これくらいしか写真が残ってなくってね。みんなで色々と話し合ったのだけれどね」

 祖母は言葉を(にご)しながらそんなことを言っていた。遺影(いえい)の中の母は謎めいた微笑みを浮かべながら僕を見詰(みつ)めている。これから行われるだろう生活の解体と処分を見透(みす)かされているようで居心地(いごこち)が悪くなった。

 僕はうなだれる祖母の肩を抱きながら空虚(くうきょ)(はげ)ましの言葉を口にすることで、物言わぬ母の抗議(こうぎ)から意識を()らした。母の遺影(いえい)()(こう)から見るほどの勇気を、僕は持ち合わせていなかった。 

 長い時間を掛けて故人(こじん)について祖母と会話した後に、僕は二階にある自分の部屋を目指して、重たい脚を引きずるようにしながら階段を上っていった。慣れない旅で疲弊(ひへい)した身体を(とこ)に横たえて、いち早く眠りにつきたかった。

 部屋はきれいに片づけられていた。以前はこの部屋に世界の全てが詰まっているように感じたものだが、東京の人だかりに()まれてるうちに、いかに自分の料簡(りょうけん)(せま)かったかを知るようになり、また相応の(はじ)(さら)すことにもなった。

 母が脳梗塞(のうこうそく)卒倒(そっとう)するまで、この部屋は頻繁(ひんぱん)に掃除されていたらしい。帰省(きせい)することを前もって伝えていたこともあり、新しい布団にありつけることができた。

 僕は栄養失調(えいようしっちょう)気味(ぎみ)()せ細った肉体を、(のり)の臭いが残る布団に投げ出すと、四肢(しし)を投げうって大の字に寝そべった。

 豆電球(まめでんきゅう)がか弱い光を発しながら、開け放たれた窓からの風を受けて右へ左へと揺れている。僕はそれを目で追っているうちに、いつの間にか、(ゆめ)(うつつ)狭間(はざま)で舟を()いでいたらしい。どこからともなく、ピチャリ、ピチャリ、という水の(したた)るような音が聞こえた気がした。落ちる水滴を数えながら、僕は次第(しだい)に深い眠りへと落ちていった。


 三、水の音


 ピチャリ、ピチャリ、という水面(みなも)を打つような(かす)かな音は、甲州(こうしゅう)の屋敷に戻ってから毎晩のように鳴り続けた。戦禍(せんか)(まぬが)れた古い屋敷であるから雨漏(あまも)りでもしているのかと思ってもみたが、天候の()()しを問わず、定まった刻限(こくげん)になると必ず聞こえてくる。十日目を越えたあたりになると、さすがに気味が悪くなってきて、とうとう祖母に事の次第(しだい)を打ち明けた。

「この家も私と同様に随分(ずいぶん)と歳を取りましたからね。何が()()いていても驚きはしませんよ。大方(おおかた)、ネズミが天井裏で悪戯(いたずら)でもしているのでしょう。古い家だと思って堪忍(かんにん)してくださいね」

 朝餉(あさげ)の席で祖母に(たず)ねてみたこともあったが、彼女は少なくなった歯で沢庵(たくあん)をしゃぶりながら歯切れ悪く答えるばかりであった。

 難儀(なんぎ)しながらも大根の漬物(つけもの)咀嚼(そしゃく)する祖母の様子を、僕は寝不足(ねぶそく)気味(ぎみ)(かすみ)がかった目で見つめていたが、突如(とつじょ)として思い至った突拍子(とっぴょうし)もない想像に驚き、背筋を冷たい刃で()でられたような奇妙な心持ちになった。

 沢庵(たくあん)をしゃぶる祖母の虚ろな咥内(こうない)でピチャリ、ピチャリ、というあの嫌らしい音が鳴っていたのである。

 ――すると、あの粘着質な水面(みなも)を打つような嫌な音の正体は――

 (ひど)奇怪(きかい)な者が、何かに必死になってしゃぶりついている様が、閃光(せんこう)となって脳裏(のうり)(よぎ)った。それはあまりに冒涜的(ぼうとくてき)な想像だった。目の前で食事する老婆が何やら底知れない恐ろしい者に見えてくる。僕は茶碗(ちゃわん)に盛られた米を急いで口に()()れると(あわ)ただしく席を立った。

 生まれ育った家であるはずなのに、勝手の知らない別世界に迷い込んだような、(ひど)く奇妙な心持ちだった。容易(ようい)には妄念(もうねん)を振り払えそうにない。どこにいても誰かにじっと見詰(みつ)められているような感覚に襲われて、思わず肌が粟立(あわだ)った。

 僕は階段を(せわ)しなく上ると自分の部屋に()()り、夏の陽射(ひざ)しに当てられて熱を持った布団の中に滑り込んだ。じっとりとした汗が(ひたい)を濡らし始めても、布団から出る気は起らなかった。僕は天井裏に()()いている何者かの存在を想像して大いに(おび)えた。

 今夜もあの水を打つような音は確かな質感を(ともな)って、この部屋に鳴り響くだろう。ピチャリ、ピチャリ、という音の正体に思い至ってしまったことを()やんだが、今となってはどうしようもなかった。

「おぞましい。こんな家は早く処分してしまった方が良いに決まっている。東京では大勢の人間が()みつ()まれつして、(せわ)しなく一日を過ごしているというのに、この土地では実にゆっくりと時間が流れている。僕にはそれがなんともじれったく、また、恐ろしくて我慢ならない」

 茫漠(ぼうばく)とした恐怖がここにはあった。理性では(はか)()れない野性(やせい)の恐ろしさとでもいったようなものがこの土地には存在している。地を()(むし)をおぞましいと感じるように、僕はこの屋敷に漂う――(ねば)ってまとわり付くような空気に(おび)えていた。 

 目を閉じれば祖母の濡れそぼった咥内(こうない)がまざまざと思い出される。そして、その肉の穴から()()でる、ピチャリ、ピチャリ、という(ねば)()のある水音(みずおと)鼓膜(こまく)(したた)かに打つのである。

 開け放たれた窓から油蝉(あぶらせみ)の声が聞こえる。その騒がしい(はね)()の中にも、あのいやらしい水音(みずおと)(まぎ)()んでいる気がする。僕は布団の中で、じっと耳をそばだてた。世界は回転しているはずなのに、ここだけが取り残されて――孤立していた。


 四、行李の中


 恐怖は時に人を蛮勇(ばんゆう)()()てる。それは、真綿(まわた)で首を絞められるような苦悩に()えかねて、()()げた末のやけっぱちな行動だった。

幽霊(ゆうれい)正体(しょうたい)()たり()尾花(おばな)」ということも()きにしも(あら)ず。甲州(こうしゅう)の屋敷に辿(たど)()いてから、ひと月ほど()った頃の夕暮れ時に、僕はとうとう天井板を外して、(なぞ)めいた水音(みずおと)の正体を突き止めようと(こころ)みた。

 頑丈(がんじょう)なだけが()()の勉強机の上に立ち、薄い天井板の一部を()がしてみると、蜘蛛(くも)の巣が()(めぐ)らされた伽藍堂(がらんどう)な空間が広がっていた。

 僕は江戸川(えどがわ)乱歩(らんぽ)の「屋根裏(やねうら)散歩者(さんぽしゃ)」を思い出さずにはいられなかった。天井板は格子状(こうしじょう)仕切(しき)られていて、まるで碁盤(ごばん)の目のようになっている。秘密の空間は(まった)くの暗闇というわけではなく、升目(ますめ)(ごと)(しょう)じる微妙なずれや虫食(むしく)いの穴から下界の光が()()でてるため、存外に明るいものであった。

 僕は苦労して天井裏に乗り上げると、あらかじめ用意しておいた懐中電灯で辺りを照らしてみた。誰かが隠れているような痕跡(こんせき)はなく、(いく)つかの柱が空間を縦に(さえぎ)っているほかに物陰(ものかげ)すら見当たらない。

 ()()いになって、あれこれと探し回るつもりだったが、あまりの()()なさにバカバカしくなった。いい加減に切り上げて下界に戻ろうとしたとき、屋根裏を縦断(じゅうだん)する柱の(かげ)に、一抱(ひとかか)えほどの大きさの行李(こうり)が置かれていることに気が付いた。

 何もあるはずがないと(たか)(くく)っていたところに思いがけない物を見つけ出し、僕は少なからず動揺していた。見なかったことにして階下(かいか)に戻ることも考えたが、最後には恐怖心よりも好奇心が(まさ)った。僕は()()いになって行李(こうり)の近くまでやって来ると、ひったくるようにして(つか)み、急いで階下(かいか)の自室に降り立った。

 勉強机に乗せられた行李(こうり)は薄汚れており、ネズミが(かじ)った(あと)すら散見(さんけん)できた。思いのほか行李(こうり)は軽く、中には何が()められているのかは見当もつかなかった。浦島太郎(うらしまたろう)舌切(したき)(すずめ)などといった童話を思い出し、(ふた)を開けてよいものか随分(ずいぶん)と悩んだが、正体不明の行李(こうり)をいつまでも(かか)えて()ごすこともためらわれた。

 際限(さいげん)のない恐怖から(なか)自棄(じき)になっていたこともあり、ついには思い切って(ふた)を持ち上げた。そこに()められていた物を見て、僕は思わず首を(かし)げてしまった。

 行李(こうり)の中には小さな風呂桶(ふろおけ)(きり)の小箱が()められていた。(きり)の箱は縦横(たてよこ)三寸(さんすん)ほどの大きさで、表には墨痕(ぼっこん)(あざ)やかな文字で知らない名前が記されていた。

 何気(なにげ)なく(ふた)を開けてみたが、ギョッとして、思わず箱の中身を取り落としてしまった。小箱の中には黒く()からびた(へそ)()美濃紙(みのうし)に包まれて(おさ)められていたのである。

 鳴り響く油蝉(あぶらせみ)の声が遠く感じられた。夜毎(よごと)に聞こえる水の音。天井裏に隠された行李(こうり)。小さな風呂桶(ふろおけ)と誰のものかも知れない(へそ)()。閉じた(まぶた)の裏で眼球がグルグルと目まぐるしく回転していた。世界が(ゆが)んだような気がして、畳の上に(ひざ)を着いてしまった。

 僕は何も知らずにこの奇妙な物の下で生まれ育ち、十数年間の生活を送ってきたことになるのだろうか。いや、以前まではあのいやらしい水の音は聞こえていなかった。すると、この家の誰かが、僕が帰省(きせい)することを知って、(ひそ)かに屋根裏に隠したのかもしれない。

 いずれにせよ、この家に隠された秘密の正体はまだわからない。しかし、かつてこの家で何やらおぞましいことが起こったことだけは確かなように思われた。

 遺影(いえい)の中の母が見せる(なぞ)めいた微笑みの裏に何かが隠されているような気がした。母はあの行李(こうり)の正体を知っていたのではないだろうか。もし、知っていたとしたらどうして何も()げずに()ってしまったのだろうか。

 取りとめのない疑問が次々と思い浮かんでは消えていく。神経の糸は緊張するあまりに、()()れてしまいそうだった。


 夜毎(よごと)に聞こえる水の音。

 天井裏に隠された行李(こうり)

 小さな風呂桶(ふろおけ)

 誰かの(へそ)()


 僕は机の中から手帳を取り出すと、次々と疑問を書き(つら)ねていった。母が亡くなった今、これらの疑問に答えることができるのは、老婆ひとりだけである。

 妄念(もうねん)は振り払わなければならない。それがこの家にとっての()まわしい記憶であってもだ。祖母との対決を心に決めると、僕の意識は手元を離れて、いつしか深い眠りへと落ちていった。緊張は限界に(たっ)していた。


 五、鬼の血


「そうかい。屋根裏にそんなものが残されていたのかい。きっとお前のお母さんは随分(ずいぶん)と苦しんだに違いない。(まった)く、あの人には可哀想(かわいそう)なことをしてしまった。全部、戦争が悪いんだ。

 ああ、行李(こうり)の話だったね。中には風呂桶(ふろおけ)(へそ)()が入っていたと言っていたね。それは、きっとお前の亡くなった弟のものだよ。

 戦争でお前のお父さんが亡くなったという(しら)せが届いた時に、親族一同でお前のお母さんと生まれてくる子のことで争議(そうぎ)が起きてね。まだ、お前が幼かったころの話だから覚えてはいないだろうけれど――、お国の配給(はいきゅう)は頼りにならないし、乳飲(ちの)()(かか)えていることをよく思わない人でなしもいてね。

 父親が出兵(しゅっぺい)していたにも関わらず(はら)んだと言って難癖(なんくせ)をつける(おろ)(もの)や、お前のお母さんが不貞(ふてい)をはたらいたのではないかと疑う馬鹿者(ばかもの)もいた。()ずかしいことだけれど、戦争は人を鬼に変えてしまうものなのだよ。

 お前のお母さんは夫が出兵していることをいい事に、間男(まおとこ)(ねや)(さそ)ったんじゃないかと噂されて随分(ずいぶん)(いじ)められてね。可哀想(かわいそう)なことに気が(まど)ってしまった。鬼に(いじ)められて自らも鬼になってしまった。

 あの人はお前の弟が生まれるとすぐに、産湯(うぶゆ)()けるから、と言って風呂桶(ふろおけ)に湯を張りだしてね。難産(なんざん)だったこともあって、産婆(さんば)も私もうつらうつらしていたのが悪かったんだね。

 お前のお母さんは生まれたばかりの子を産湯(うぶゆ)()けて(おぼ)()にさせてしまった。泣きながらお前の弟を水子(みずこ)にしてしまった。ああ、全部、私たちが悪かった。お前のお母さんを()って(たか)って(いじ)めて、離縁(りえん)(せま)ったことが悪かった。

 こんなことは思い出したくもないし、なかったことにした方がいいのかもしれないだろうけれど、お前が苦しんでいるのを見ているのはもっと辛い。ああ、戦争が起こらなければこんなことにはならなかったのに。

 私たちはお前のお母さんを罪人(ざいにん)にだけはしたくなかった。それで皆で相談した上で、生まれてくる子は死産(しざん)だったということにして、仏様のところへ(ひそ)かに送ろうと考えた。それでも、あの子は許してくれなかったみたいだね。あるいは、あの子の母親が許すことを認めようとしなかったのかもしれない。きっと、弟の存在をお前に伝えたかったのだろうね。それが、無念(むねん)で仕方がなかったのだろう。いつか、気が付いてくれることを願って、お前の母親は天井裏に行李(こうり)を隠したのだろう。

 母親のお(ちち)が恋しくても口にできない。あの子は風呂桶(ふろおけ)に残された母親の(あか)を舐め、汗を(すす)りながら涙しているのだろうね。可哀想な子だ。哀れな話だ。

 お前にも辛い思いをさせてしまったね。まさか、そのようなことが起きているとは夢にも思わなかった。どうか、許しておくれ。お母さんを責めてはいけない。恨むなら私たちを(うら)んでおくれ。誰かが悪かったのではない。誰しもが鬼にならざるを得なかったのだよ。全く、哀れな話じゃ」


 祖母は涙ながらにそんなことを告白した。母の遺影(いえい)は何も語ろうとはしない。ただ、その瞳は暗く(かげ)り、(うれ)いと(かな)しみを(たた)えていた。

 母親と切り離された嬰児(えいじ)(ちち)(こい)しかっただけなのだろう。水子(みずこ)になっても嬰児(えいじ)は母親との(つな)がりが(した)わしくて(たま)らない。そこで産湯(うぶゆ)を張った風呂桶(ふろおけ)に残された(あか)()めることを覚えたのだろう。

 真実を(つまび)らかにして供養(くよう)してやりたいが、それは、母親を罪人として糾弾(きゅうだん)することになるのだろう。あるいは母はそれを(ひそ)かに望んでいたのかもしれない。天井裏の行李(こうり)に全てを詰めてから世を去ったのも、水子(みずこ)の兄である僕に、真実を明らかにして、正しく供養(くよう)して欲しいという願いの現れのような気もする。

 戦争から十数年が()とうとしているが爪痕(つめあと)はいまだに()えることなく、人々はかつて鬼となった記憶に(さいな)まれ続けながら生きている。ピチャリ、ピチャリ、という水の音は今夜も寝静(ねしず)まった屋敷の内に響き渡るのだろう。

 戦争によって冷血(れいけつ)(おに)とならざるを得なかった人々を(うら)みながらも、母親の残滓(ざんし)(すす)嬰児(えいじ)の霊が寂しく屋敷を彷徨(さまよ)っている。早くも庭には油蝉(あぶらせみ)亡骸(なきがら)無惨(むざん)にも転がり始めている。



 (了)









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