鎌鼬
一 目撃者の証言
はい、はい。その通りでございます。あれは昭和二十五年の大寒の夕暮れ時の事だったと記憶しています。黄昏時というのですかね。日はとっぷりと暮れて、前を行く人の姿すら不鮮明な刻限です。私は所用ができて西郷から高野町へと帰るために、不動坂を南に下って歩いているところでした。
高野町に出てしまえば金剛峯寺もあり、またそれ相応の賑やかしさにもありつけるのですが、不動坂の辺りは日が暮れてしまえばまことに閑散としたもので、大寒という時節も相まって人っ子一人も通りはしません。高野七口の一つではありますが、うら寂しい通い路であることに変わりはないのです。
不動坂口に差し掛かり、小杉明神社の上り旗が見えてきたころになって、一心院谷と呼ばれる坂下の一帯から、子連れの女性が歩いてくるのと鉢合わせしました。こんな時刻に随分と鄙びた場所に来たものだな、と思いましたね。最寄りの村までたっぷりと三時間は歩かねばならないはずです。高野詣にやって来た客のようにも見えませんでしたから、不思議に思ったことを覚えています。
後になって警察の方から聞いた話によりますと、高野町の親子だったらしいですね。ええ、女人堂を参詣するつもりでいたとか。連れていた娘さんが、ちょうど七歳くらいに見えましたから、七五三にお参りにでも行く道すがらであったのかもしれません。
はい。私は小心者ですから、逢魔ヶ刻に奥山で人と行き違ったというだけでも、怖くて仕方がありませんでした。今にして思えば、あの時に挨拶の一言でも交わしていれば、親子は無事でいられたのかもしれません。可哀想なことをしてしまった、という気持ちは拭えませんね。まさか、こんな目に合うことになろうとは思いもしませんでした。
親子とすれ違って半町ほど歩いたところで女の子の叫び声を聞きました。糸が切れるような細く長い叫び声でした。私はもう吃驚してしまって、下り坂をつんのめりながらも、夢中で駆け抜けました。杉の巨木を過ぎて、五の室谷という辺りまで来たときになって、ようやく多少の冷静さを取り戻しました。ひょっとしたら、親子の身に何かが起こったのかもしれないと考えたのです。私は散々、逡巡したすえに兎にも角にも、来た道を戻ってみようと決めました。数町のはずの道程が無闇矢鱈と長いもののように感じました。
たっぷりと時間を掛けて、不動坂口まで戻って参りますと、驚いたことに女性が山道に倒れ伏しているではありませんか。私は駆け寄って女性を介抱しようとしました。それまでのおよび腰のことなどすっかり忘れてしまっていたほどです。
可哀想なことに、女性はすっかり正体を失っておりました。ええ、何を訊ねても不鮮明な言葉が返ってくるばかりで、埒があきませんでした。そこで、私は母親の介抱を諦めて、傍らで呆然と佇んでいる娘さんに何が起きたのかを訊ねました。
「つむじ風が吹いたかと思ったら、知らない動物さんが走ってきて、長くて怖い爪で引っ掻いていったのよ」
女の子はたどたどしい口ぶりでそんなことを言っていました。山深い道のことですから獣に襲われたのでしょう。娘さんは太腿の辺りに大きな切り傷を創っていました。もしかしたら、母親の方も何かしらの怪我を負っているのかもしれないと思い、仔細に身体を見てみますと、やはり腕の辺りに大きな切り傷があります。そこで、私は母親がもう一人の子どもを懐に庇うようにして抱えていることにようやく気が付きました。それは、まだ乳離れもして間もないだろうほどの幼子でした。
私は嫌な予感がして赤ん坊の様子を見ようとしました。半狂乱になって、我が子を奪われまいとする母親を宥めながらも赤ん坊を見てみますと、ぐったりとしていて泣き声の一つも上げようとはしません。ただ、母親の腕の中でぐらりぐらりと首だけをしきりに振っているのです。
母親が金切り声を上げて立ち上がろうとした瞬間に、赤ん坊の首が大きく揺れました。はい。私はその時になって初めて赤ん坊の首が大きく裂けているのを目の当たりにしたのです。それは柘榴の実が裂けたような、深々と赤黒い色をした切り傷でした。全く恐ろしいことです。ゾッとする話です。赤ん坊が事切れているのは火を見るより明らかでした。
私は高野町にある交番まで走りました。高野幹部交番からすぐにパトカーが出ました。事件現場に着いたときも、母親は赤ん坊を抱いて泣きながら不鮮明な独り言を繰り返していました。事件がどのようにして起きたのかは、悲鳴を上げた七歳ぐらいの娘さんだけが知っているようでした。
「つむじ風が吹いたかと思ったら、知らない動物さんが走ってきて、長くて怖い爪で引っ掻かれたのよ」
あの辺りは、昔に比べて整備こそされていますが、奥山であることには違いはありません。熊や猪の姿を見ることだってあります。私が親子とすれ違った後にそういった獣に襲われたことは充分に考えられます。しかし、女の子の言う獣の姿は熊とも猪ともいえないものでした。
「イタチさんくらいの大きさだったの。すごい速さで通り過ぎていったかと思ったら、みんな、怪我をしてしまったの。爪がとっても長くて怖かったのよ」
私も長い間に亘って山奥の町で暮らしてきた身ではありますが、そんな獣を見たことも聞いたこともないので、すっかり困惑してしまいました。親御さんは半狂乱になってしまって、まともな証言も聴けそうにありません。ええ、警察の方も困り切っているようでした。兎にも角にも、獣害によって死者が出たことには違いはありません。狐につままれたような気分でしたよ。
都会の方ではこの正体の知れない獣について、いろいろと取り沙汰しているようですが、私たちのような地元の人間からすれば、恐ろしいことこの上ありません。一刻も早く退治されることを望むばかりですね。全く、悲惨な事件でした。
二 医者の所見
やあ、元気にしているかい。随分と暗い顔をしているじゃないか。そっちの方ではなんとも珍妙な事件が起きたみたいだね。
世間では連日連夜のごとく高野町怪奇獣害事件として取り沙汰しているらしいが、バカバカしいにもほどがあるね。あれは、獣の仕業じゃないよ。
君から送られてきた捜査資料を見てすぐに分かった。医学生だって気が付くほどに、単純な話さ。あれはね、人の仕業なんだよ。傷の切り口を見れば一目瞭然じゃないか。獣の爪の痕などではない。もっと鋭利な刃物で切られた傷痕だよ。そうだね、切創の形状や深さを考えると鎌のような物だと思うね。
それに、この切創は、つい最近になって傷つけられたものではないことも分かる。出血がほとんど見られなかったからね。専門的な話は抜きにしても、三日から五日ほど前に創られた傷なんじゃないかな。兎に角、不動坂口で切られたものではないことだけは明らかなのだよ。
それにしても、被害者の一人である女の子が全く痛みを訴えなかったことも気になるね。あれほどの傷なら泣いて手が付けられない状態になって然るべきじゃないか。それが平然とした様子で、ありもしない動物の話なんて始めるのだから、気味が悪いと思わないかい。
鼬ほどの大きさをした爪の長い獣に襲われた、と言っているらしいね。君、それはおそらく、紙芝居に出てくる妖怪の類に触発されて口にしたのだろう。兎に角、実存しない生物であることには間違いないと思うね。
出血と痛みの伴わない切創なんて聞いたことがないよ。それならば自然と導き出される解答は一つきりだ。あの傷は不動坂口にやって来る以前に創られたものであり、娘は何かしらの理由から嘘をついているということになりそうだな。
正直に言うとね、僕は母親のことを疑っているのだよ。傷を負った娘を引き連れて夕刻に高野町から女人堂を訪れるなんて、どこからどう考えても怪しいじゃないか。え、母親は事件が起きてから発狂してしまったのか。
ハハハ、それは逆なんじゃないか。つまり、初めから狂気に陥っていたのさ。不動坂口で正体不明の獣とやらに出くわす以前から、狂気は発症していたと考えれば、全てが納得いくじゃないか。それが母子の身体に刻まれた傷の理由だよ。
うん。少し真面目に僕の考えを話そうか。いいかね、僕はあの母親は初めから発狂していたのだと考えている。そして自身と子どもを鋭利な刃物で恒常的に傷つけていた。二人が傷の痛みを訴えなかった事と切創に出血が伴わなかった事に説明が付く。どのような経緯があって、女人堂を訪れたかまでは知らないが現状を考慮すると、狂気を発症した母親が日常的に自傷行為と児童虐待を繰り返していたように思えるのだ。無論、赤ん坊である息子を殺害してしまったのも母親だろう。
子どもが嘘をついている理由はいろいろと考えられるが、おそらく母親を庇っているのだろうね。或いは自衛のためなのかもしれない。僕にはいずれかを判断することはできないが、嘘をついているという一点だけは確信をもって断言することができる。
君の話では親子は高野町で暮らしているのだそうだね。僕はなるべく早いうちに親子宅を捜査した方がいいと思う。それから母親と娘を引き離した方がいいだろう。被害者が増える前に全力をもって阻止しなければならない。新聞社に先を越されるなよ。母親は確かに罪を犯したが充分に苦しんでいる。くれぐれも、死人に鞭を打つようなマネだけはしてくれるなよ。医者としてのお願いだ。
さて、僕はそろそろ次の仕事が控えているので失礼するよ。高野町怪奇獣害事件なんて大それた虚妄に取り憑かれるほどまでに世間は病んでいる。終戦から五年が経とうとしているが我々はまだ何も学んでいない。
巷間は根も葉もない噂で満ち溢れている。僕はそういった曖昧模糊とした恐怖を取り除くために額に汗して働かねばならない。君も警察官として正しく物事を見極めるように努めなければならない。風聞に惑わされないように気を付けたまえ。
三 雑誌記者の原稿
《高野町を襲う謎の獣害事件》
一月二十三日午後五時ごろに高野町の不動坂口で正体不明の獣に襲われたことにより、我妻小夜さん(三十歳)、我妻文子ちゃん(八歳)、我妻実くん(一歳)ら親子が死傷するという事件が起きた。
我妻小夜さんと文子ちゃんは軽傷だったが、実くんは首を切られたことにより失血死していた。我妻小夜さんはこのことに強い衝撃を受けたためか、警察の懸命な聴取にも答えることができずにいるという。
長女である文子ちゃんの証言によると、「イタチほどの大きさをした長い爪を持つ生き物」に襲われたらしく、専門家らが調査中とのことであるが、事件の目撃情報が極端に少ないこともあり、捜査は難航している。
警察当局と猟友会は京阪道不動坂一帯に一時的措置として非常線を引くなどして、正体不明の獣のいぶりだし作戦を検討している。高野町の住民はこの獣害事件に対して少なからず困惑しており、一刻も早い解決を望んでいるとのことである。
《高野町怪奇獣害事件に新たな進展》
一月二十三日に高野町を襲った獣害事件が新たな進展を迎えた。一月二十七日に警察当局は児童虐待及び殺害の嫌疑で、被害者の子らの母親である我妻小夜(三十歳)を逮捕したとのことである。事件の思わぬ進展に高野町の住民は大いに混乱している。
警察当局の科学捜査によって被害者である文子ちゃん(八歳)と実くん(一歳)の傷は不動坂口に至る一月二十五日午後五時以前に創られたものであることが判明したのである。切創から出血が見られなかった事と、文子ちゃんが痛みを訴えなかった事から、警察関係者は早い段階で事件に不審を抱いていたと述べている。
文子ちゃんの怪我の具合に疑問を抱いた警察当局は保護施設の協力のもと親子宅の調査を行った。親子が住む高野町のアパートの一室から夥しいまでの血痕と、凶器に用いられたのだろう一挺の園芸用の鎌を発見したという。部屋の中は惨劇の跡が生々しく残されていたようで、関係者もその壮絶さのあまり口を噤んでいる。
警察当局の捜査により、血痕は被害者である実くんの血液型と一致し、凶器の鎌からは容疑者である我妻小夜と娘である文子ちゃんの指紋が検出されていることが発表された。
我妻小夜容疑者は依然として警察の聴取に応じようとはせず、児童虐待及び殺害について黙秘を続けている。警察関係者は容疑者が心身を喪失している可能性を考慮して、医師による精神鑑定を踏まえた上で慎重に捜査を継続する旨を述べた。
我妻小夜容疑者は児童虐待と自傷行為を繰り返していたようである。一月二十三日に実くんを殺害した以前から狂気に陥っていたか否かが問題として裁判で論じられることになりそうだ。容疑者は頑なに口を閉ざしていることからも、事件は長引くであろうことが予想されている。
《高野町児童殺害事件の容疑者が語る》
一月三十日に高野町児童殺害事件の容疑者として逮捕された我妻小夜さん(三十歳)が嫌疑を認めた。警察関係者の懸命な説得によるものとされている。
我妻小夜さんは女手一つで二人の子を育ててきたことに疲れ果て、自傷行為を繰り返すようになっていたようである。一年前に長男である実くんを出産したことをきっかけに、精神の安定を欠き、児童虐待に手を染めるようになっていった旨を供述している。
一月二十三日に実くん(一歳)を殺害後に、不動坂口にある女人堂に参詣を最後に、一家で心中するつもりでいたという。長女である文子ちゃん(八歳)が異変に気が付いて咄嗟に叫び声を上げたことにより、事件は明るみに出たということになる。その後、文子ちゃんは幼心に母親を庇おうとして健気にも嘘の証言を述べたのだろう。文子ちゃんの機転の利いた対処によって、目撃者が驚いて駆けつけなかったら、親子は心中を図っていたと思われる。
警察当局は医師の立会いのもとに事情聴取に臨んだ。警察関係者の中には我妻小夜さんの歩んできた、過酷な人生の告白に涙した者も少なくなかったという。許されざる罪を犯したものの、小夜さんの境遇に同情する声もある。裁判による判決が下されるまで文子ちゃんは市内の児童施設で保護されるとのことである。
我妻小夜さんは容疑を認めたが精神状態が安定しているというわけではなく、聴取はいまだに困難を極めている。警察関係者は一刻も早く、小夜さんの口から事件の真相が語られることを望んでいる。
(編集長のメモ)
君は我妻小夜を擁護しているようだが、彼女の犯した罪は許されるものではない。
我妻小夜が薄幸の美人であり、また、自身の肉体を切り苛んで苦悩していたからといって、幼い命を奪っていいことにはならないのだと思うのだが、違うかね。
君の書いた記事は受け入れられない。記者として公正な目で事実だけを書きたまえ。〆切が近いので原稿が書き上がったらすぐに私のところに来なさい。
四 子どもの手紙
ママといっしょにおうちにかえりたいです。弟がいなくなったから、ママはきっと元気になったはずです。実ちゃんはいつもママをいじめていたのです。ママはいつもつかれたかおをしていました。
夜になると弟は泣いて、ママがねむっているのをじゃまします。ゆっくりとおやすみすることもできないなんて、かわいそうです。実ちゃんはいじわるです。お日さまがあるうちは、ぜったいに泣かないからです。文子は、実ちゃんがママをこまらせようとしているのをしっています。
文子は弟なんてほしくありませんでした。ママといっしょにいられなくなるからです。ママとふたりでいたときは毎日がたのしかったです。ママもたのしかったと思います。でも、実ちゃんがうまれてから、ママはいつもこわいかおをするようになりました。文子にいたいことをするようになりました。ママも自分にいたいことをするようになりました。
文子はママが大好きです。ママはときどき、こわいかおでいたいことをしてきますが、いつもあやまってくれます。
文子は実ちゃんが大嫌いです。弟はいつもわらっていますが、ママをいじめてばかりいるからです。
実ちゃんはママをいじめるくせに、ひとりじめしようとします。ママは文子ちゃんよりも実ちゃんの方がかわいいみたいです。実ちゃんにはいたいことをしないのです。
実ちゃんは、ママと文子がいつもいたがってることをしらないといけません。
文子は実ちゃんのやわらかい首をカマで切りました。ママのいたみをおしえるために切りました。
お外からかえってきたママはびっくりしていました。文子はぶたれました。ママは泣いていました。文子も泣きました。ママは文子よりも実ちゃんの方が好きなのだ、とわかってしまって、かなしかったのです。
ママは実ちゃんの体をあらってきれいにしました。文子のからだもお湯であらってきれいにしてくれました。そして、みんなでおきがえをして出かけることにしました。ママはにっこりとわらっていました。
みんなでさか道を歩きました。ママは小さな声でだれかとおはなししていました。
ダイニチサマにおまいりしましょう。
そして、みんなでおわりにしましょう。
ママはだれかとおはなししていました。文子はこわくなりました。ダイニチサマが、おわりにしてしまうのがこわくなりました。
ママをダイニチサマにとられると思いました。文子はもっとママといっしょにいたいのです。だから、うそをついてママを止めようとしました。文子はうそつきの悪い子です。でも、もっとママといっしょにいたかったのです。
風にのって小さなどうぶつさんがやってきた、と文子はうそをつきました。それはママがよんでくれた絵本のおはなしです。文子はその絵本が大好きでした。また、ママがあの絵本をよんでくれるなら、なんでもします。もう、うそつきもやめます。
文子はないしょで、お手紙をかいています。あったかいおふとんも、おいしいごはんも、ママといっしょじゃなきゃ、いやです。
けいさつのおじさん。文子はこれから良い子になります。ママをかえしてください。ママと会わせてください。どうかおねがいします。
(了)