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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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火車

 罔両 クハシヤ クハジヤ薩州

 魑魅ノ類ナリ。葬送ノ時、塗中ニテ疾風迅雷、暴ニ至リテ、棺ハ損ゼズシテ中ノ屍ヲ取去、山中ノ樹枝、巌石等ニ掛置コトアリ。コレヲ、クハシヤト云。


本草綱目啓蒙(ほんそうこうもくけいもう)』より火車(かしゃ)の事 




 一 九相図と九相観


 あの絵巻物(えまきもの)が忘れられない。町内でも指折りの好事家(こうずか)だった左衛門(さえもん)(おう)後生(ごしょう)大事(だいじ)に守っていた一軸(いちじく)絵巻物(えまきもの)。それが篠木(しのき)(やすし)の心を(つか)んでいた。

 篠木(しのき)(やすし)の祖父である左衛門(さえもん)は、昭和の傑物(けつぶつ)らしく万事において抜け目のない男だったが、歳を()(ごと)に穴を埋めるかのごとき熱心さで、仏の教えを信奉(しんぽう)するようになっていった。

 一世(いっせい)にして築き上げた財産の多くが御仏(みほとけ)にまつわる美術品の蒐集(しゅうしゅう)(つい)やされ、晩年には屋敷に(しつら)えた立派な土蔵(どぞう)の中を、経典(けいてん)仏具(ぶつぐ)(たぐい)(あふ)(かえ)させるまでになっていた。左衛門(さえもん)(おう)は九十七歳で(たくみ)の芸術に囲まれながら安らかな眠りについたのだが、孫の(やすし)(のこ)された財産自体はわずかなものだった。

 幼いころに、(やすし)は一度だけ土蔵(どぞう)(しの)()ったことがある。屋敷の一画(いっかく)にそびえ立つ(はこ)のような建物に祖父の秘密が隠されている。そういった無邪気な想像が少年の冒険心を刺激したのだ。

 左衛門(さえもん)(おう)(ひま)を見つけては土蔵(どぞう)に足しげく通っていたから、内装(ないそう)は職人に言いつけて、小ざっぱりしたものになるように(あつら)えていた。敷居(しきい)(また)げば、カンと()えた部屋の内を仏具(ぶつぐ)経典(けいてん)(いろど)(あざ)やかに(かざ)っている。それらは少年にとって、謎めいた儀式に用いられる道具、(ある)いは、魔法が記された()(ぶん)であり、厳粛(げんしゅく)な祖父の深淵(しんえん)(のぞ)いているような不思議な感覚を(いだ)かせたものだ。

 小さな探検家はやがて美術品の森を抜けて(きざはし)(のぼ)り、明り取り用の観音(かんのん)(とびら)から(ほの)かに光が差す空間に辿(たど)()いた。

 土蔵(どぞう)の二階は座敷造(ざしきつく)りになっていて、手狭(てぜま)であるが(とこ)()も用意されており、書道を(たしな)む老人の普請(ふしん)らしく、墨の香りが辺りに漂っている。

 少年の輝く双眸(そうぼう)はほどなくして、漆塗(うるしぬ)りの文机(ふづくえ)の上に()せられた一軸(いちじく)絵巻物(えまきもの)に止まった。蒔絵(まきえ)(ほどこ)された硯箱(すずりばこ)の横に、(にしき)(まと)ったような豪奢(ごうしゃ)軸物(じくもの)が、しどけない様子で打ち広げられていた。

 それは、墨痕(ぼっこん)(あざ)やかな筆致(ひっち)で描かれた女が、無惨(むざん)()()てていく様子を(ここの)つの情景に分けた後に、一つの絵巻(えまき)仕立(した)てたものだった。(あか)(きん)(みどり)といった壮麗(そうれい)な世界の中で生きる女が、凄惨(せいさん)形相(ぎょうそう)を浮かべて絶命し、(みにく)(くさ)()てて白骨になるまでの過程を仔細(しさい)に描いた絵巻物(えまきもの)だった。

 観音(かんのん)(とびら)から差す冬の日の明かりが荘厳(そうごん)な死に(いろど)られた絵を照らしていた。少年はこの美しい(にしき)絵巻(えまき)をもっと近くで見たいという誘惑に(さか)らえなかった。

 少年が巻物を手に取った拍子(ひょうし)硯箱(すずりばこ)が床に落ちた。箱の中に墨が残されていたことを知った時には(すで)に遅かった。(にしき)絵巻物(えまきもの)は永遠に(そこ)なわれてしまった。左衛門(さえもん)(おう)(いか)(くる)ったことは言うまでもない。(やすし)少年は泣いたが、祖父に叱責(しっせき)されたことよりも、(にしき)絵巻物(えまきもの)が手から離れてしまった事実の方が悲しかった。

 自分が魅入られた絵巻物(えまきもの)の正体が九相図(くそうず)と呼ばれる仏教(ぶっきょう)絵画(かいが)であると、それから間もなくして左衛門(さえもん)(おう)に教えられた。

 九相図(くそうず)とは、打ち捨てられた(むくろ)()ちていく様子を(ここの)つの段階に分けて描いたもので、修行僧の煩悩(ぼんのう)を払うために、美しい女が(みにく)屍体(したい)()()てることによって、現世(うつしよ)の肉体の不浄(ふじょう)さと無常(むじょう)さを伝えようとしているのだ、と左衛門(さえもん)(おう)嘆息(たんそく)(まじ)えながら語った。

 元来(がんらい)諸行無常(しょぎょうむじょう)を教えるための方便(ほうべん)に過ぎないのだから、これを台無(だいな)しにされた事に執着(しゅうちゃく)して(いか)るようでは、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に至るには程遠(ほどとお)い、と左衛門(さえもん)(おう)(ゆる)してくれたが(やすし)少年は祖父ほど寛容(かんよう)にはなれなかった。悔しくて、情けなくて仕様(しよう)がなかったのである。

 九相図(くそうず)に記された(むくろ)変遷(へんせん)を見て、現世(うつしよ)(むな)しさを観想(かんそう)することを九相観(くそうかん)というらしいが、(やすし)少年はちょうどその真向いに(ひか)える魔性(ましょう)の美しさに魅了(みりょう)されてしまったようだった。九相図(くそうず)を通じて、()(がん)にいながら彼岸(ひがん)の美しさ――黄金(おうごん)(かざ)(くれない)(みどり)(あざ)やかさを垣間見(かいまみ)てしまったのである。それは腐乱(ふらん)の美であった。知ってはならない甘美(かんび)(みつ)の味であった。

 左衛門(さえもん)翁は(やすし)少年の心を(よぎ)った魔物(まもの)の影を知ることなく往生(おうじょう)()げてしまった。ただ、(やすし)少年も幼心(おさなごころ)に自身が崇拝(すうはい)する観念(かんねん)が世の中では()(きら)われる事柄であると気が付いてもいた。次第(しだい)(やすし)少年は(みずか)らを深く()じるようになっていった。

 篠木(しのき)(やすし)は自身が魔性(ましょう)の美の崇拝者(すうはいしゃ)であることが(あば)かれる事態を非常に恐れた。誰にも打ち明けられない秘密を(いだ)きながらも、彼は何事においても清廉(せいれん)であるように努めた。それは物理学における反作用の仕組(しく)みのようなものだったのかもしれない。踏絵(ふみえ)を前にした切支丹(きりしたん)のように彼は(まど)っていた。内から(あふ)れる礼賛(らいさん)の叫びを(おさ)(とど)める(たび)に、息苦しさは増していった。

 あの絵巻(えまき)が忘れられない。篠木(しのき)(やすし)は屋敷の一画(いっかく)(もう)けられた土蔵(どぞう)(こも)り、祖父が(のこ)していった膨大(ぼうだい)御仏(みほとけ)の教えに囲まれながら、腐乱(ふらん)について思いを()せる。漆塗(うるしぬ)りの文机(ふづくえ)両肘(りょうひじ)をついて沈思(ちんし)黙考(もっこう)する餓鬼(がき)がそこにはいた。(とこ)()(かざ)られた観音菩薩(かんのんぼさつ)(うつ)()も押し黙ったまま何も語ろうとはしなかった。




 二 縊死体


 平成三年の五月の頃の事だった。篠木(しのき)(やすし)は大学の数少ない朋輩(ほうばい)である村瀬(むらせ)浩史(ひろし)の家で、夜が(しら)むまで酒を()()わしたことがある。

 万事において穏やかに()()篠木(しのき)(やすし)とは反対に、村瀬(むらせ)浩史(ひろし)は何事にも熱しやすく冷めやすい人柄をした男だった。口さがない批判をするかと思いきや、恐ろしく気が回るまめな男で、饗応(きょうおう)余念(よねん)がない。途中で(やすし)幾度(いくど)退座(たいざ)しようとしたが、あれやこれやともてなそうとする。気が付けば夜は白々(しらじら)と明け始めていた。

 どうせならば(とま)っていけ、と()()めようとする友人に別れを告げて、始発の電車に乗り込んだ。電車の中は閑散(かんさん)としており、老人の(かす)かな(しわぶき)が大きく響くほどに、しんとしていた。隣に座る女性のわざとらしい香水の匂いが、酒に酔って鈍麻(どんま)した神経に甘ったるく()()るようだった。

 田園(でんえん)都市(とし)(せん)二子玉川駅(ふたこたまがわえき)で電車を降りた。篠木(しのき)(てい)はそこから多摩川(たまがわ)沿いにいくらか行ったところにある。早朝のことで人気もまばらな河川敷(かせんじき)を、ふらりふらりと(やすし)が歩いていると、桜の木の下に小さな人集(ひとだか)りができていることに気が付いた。

 花は散ってしまった時節であるから花見客であるはずはない。酒の酔いが篠木(しのき)(やすし)の心持ちを幾分(いくぶん)か大きくしていた。(やすし)が何気ない顔をして野次馬(やじうま)()じって事の()()きを見物しようと背伸びした時である。(やすし)は驚きのあまりに思わず息を飲んだ。篠木(しのき)(やすし)魔物(まもの)に行き会ったのである。

 桜の木の下に横たえられた女の死体がそこにあった。野次馬(やじうま)の誰かが木の枝ごとへし折って下ろしたのだろう。首に掛けられた荒縄(あらなわ)は肉に食い込んで容易(ようい)には(ほど)けそうに見えなかった。首を吊る際に骨が抜けたのか、女の首は異様(いよう)に伸びており、()かれた眼球は飛び出して赤く血走(ちばし)っている。舌は苦しみのあまりに膨張(ぼうちょう)して、口からだらしがなくはみ出していた。

 女は夜更(よふ)けに首を吊って自殺を()げたのだろう。遺体(いたい)の身なりはさっぱりとしたものだった。縊死(いし)であるため肉が裂けた(あと)も見られない。篠木(しのき)(やすし)の心に去来(きょらい)したものは九相図(くそうず)であったことは言うまでもない。勿体(もったい)ない、と篠木(しのき)(やすし)は思った。

 篠木(しのき)(やすし)希求(ききゅう)していたものは腐乱(ふらん)であった。それは青くなった肉が腐り落ちて、内に隠されていた臓物(ぞうもつ)(あら)わにするような、斑模様(まだらもよう)の美しさだった。人間性が落剥(らくはく)して本性を()()していく過程にこそ、意義(いぎ)があるように思えた。その点からいえば、この死体は魂魄(こんぱく)の抜けたばかりの人形であり、可能性を()めておきながら(ほうむ)られる、ただの肉の(かたまり)に過ぎなかった。それは、九相図(くそうず)に描かれた腐りゆく肉の美しさとは程遠(ほどとお)いものである。篠木(しのき)(やすし)はそこに一握(いちあく)物足(ものた)りなさを覚えたのだった。

 餓鬼(がき)馳走(ちそう)を前にしながらも、指をくわえて洞穴(どうけつ)に帰るほかに仕様(しよう)がなかった。篠木(しのき)(やすし)()えと(かわ)きはさらに(こう)じていった。もう少しだけ早く縊死体(いしたい)と行き会えたのなら、彼の執着心(しゅうちゃくしん)は、さまで(ふく)らむことはなかったに違いない。(うめ)(のぞ)んで(つば)()くがごとく、妄執(もうしゅう)ともいえる想念(そうねん)際限(さいげん)なく広がっていった。

 ――機会が訪れれば、次こそ(むくろ)を手に入れてみせる。この衝動に(おびや)かされ続けて生きていくくらいなら死んだ方がましだ――

 篠木(しのき)(やすし)輾転反側(てんてんはんそく)を繰り返しながらも決意を固めた。この懊悩(おうのう)を払うためにも(むくろ)が必要だった。妄執(もうしゅう)()()かれながら、この先の生涯を歩むことを考えると恐ろしくて(たま)らなくなった。もはや九相図(くそうず)では篠木(しのき)(やすし)煩悩(ぼんのう)(ぬぐ)えないところにまで押し流されていたのである。如何(いかん)ともしがたい飢餓(きが)が、篠木(しのき)(やすし)を苦しめていた。

 大学に通うよりも土蔵(どぞう)(こも)る日の方が多くなり、村瀬(むらせ)浩史(ひろし)と顔を合わせることもすっかりなくなった頃になって、好機(こうき)不意(ふい)に訪れた。母方の祖母である柿本(かきもと)君江(きみえ)が亡くなったという(しら)せが届いたのである。

 篠木(しのき)(やすし)は、五年前に夫に先立たれてから滅多(めった)に口を開かなくなった母親とともに、故郷(ふるさと)である宮城(みやぎ)へと旅立った。喪服の内ポケットの中には一挺(いちちょう)(はさみ)(しの)ばせてある。彼は何としても祖母の(むくろ)を奪い取るつもりでいた。




 三 腐乱の美


 観音(かんのん)(とびら)から差す明かりが文机(ふづくえ)の上に置かれたペトリ(ざら)を照らしている。皿の中には柿本(かきもと)君江(きみえ)の小指が入れられていた。小指は夏の陽光(ようこう)に当てられて順調に腐敗(ふはい)のほどを進めている。それは篠木(しのき)(やすし)宮城(みやぎ)から持ち帰った戦利品(せんりひん)だった。

 篠木(しのき)(やすし)手際(てぎわ)冷静沈着(れいせいちんちゃく)だった。荼毘(だび)()される直前に(かわや)に行くふりをして、親族の集まりから抜け出すと、納棺(のうかん)された君江(きみえ)遺体(いたい)に近寄り、止血帯(しけつたい)()めながら(はさみ)で小指を切り取ったのである。出血はほとんどなかった上に、老婆の(もろ)くなった骨を断つのにも、それほど手間(てま)はかからなかった。

 篠木(しのき)(やすし)は切断した小指をハンカチに包んで胸ポケットに(しの)ばせながらも堂々(どうどう)とした()()()()いで葬儀に(のぞ)んだ。

 火葬さえ済んでしまえば、遺体(いたい)の一部が欠損(けっそん)していることなど分かりはしない。また、棺に納められた遺体(いたい)(あば)こうとする者がいるはずもない。手向(たむ)けられた(わか)(ばな)のベールが遺体(いたい)の肉の欠落(けつらく)をうまい具合(ぐあい)に隠してくれた。

 一連(いちれん)の葬儀の裏で、怖気(おぞけ)を振るうような罪悪が(ひそ)かに行われていることなど、誰も考えはしなかった。やがて、篠木(しのき)(やすし)(とが)は火炎に包まれて消えていった。

 篠木(しのき)(やすし)はペトリ(ざら)の中で、()んで(くさ)っていく祖母の小指をつぶさに見詰(みつ)めながら思う。この腐乱(ふらん)する小指に(つな)がっていた柿本(かきもと)君江(きみえ)の肉体は灰となって(つぼ)(おさ)められている。君江(きみえ)の肉体は清浄(せいじょう)(こっ)(ぷん)となってしまった。それに(くら)べて、この小指はどうだろうか。彼岸(ひがん)程近(ほどちか)い存在でありながらも、()(がん)瀬戸際(せとぎわ)一心不乱(いっしんふらん)()まっている。この小指には魂が宿(やど)っているように思えてならなかった。

 柿本(かきもと)君江(きみえ)彼岸(ひがん)で自身の一部がいまだに()(がん)(とど)まっていることを知るに違いない。その場合、君江(きみえ)魂魄(こんぱく)此岸(しがん)彼岸(ひがん)のいずれに(ぞく)することになるのだろうか。肉に霊が宿(やど)るのならば、分かたれた肉片にも魂魄(こんぱく)滞留(たいりゅう)するのだろうか。腐乱(ふらん)する肉片は多くは語ろうとはしなかった。

 ――やはり、完全な(しかばね)が必要なのかもしれない。首尾(しゅび)よく肉片を手に入れることができたが疑問は深くなっていくばかりだ――

 ペトリ(ざら)の小指の腐敗(ふはい)は早かった。鮮血(せんけつ)(したた)りはやがて()み、乳白色だった肌は次第(しだい)に青ざめ、水気を含んだように(ゆる)んでいった。切り口から覗いていた骨が徐々(じょじょ)露出(ろしゅつ)のほどを増していき、どこからか闖入(ちんにゅう)した(うじ)が肉を()んでいる。だが、九相図(くそうず)に示されていた斑模様(まだらもよう)の美しさを再現するには、いささか対象が小さすぎていた。

 もっとも、この肉片が篠木(しのき)(やすし)に与えた啓示(けいじ)は大きかった。彼の興味は美の享受(きょうじゅ)から探求(たんきゅう)へと(てん)じつつある。仏が()かんとする肉体の(むな)しさを、彼は鋭敏(えいびん)に感じ取っていた。しかし、それはかつて左衛門(さえもん)(おう)が教えた九相観(くそうかん)とは全く違った趣旨(しゅし)観念(かんねん)でもあった。篠木(しのき)(やすし)は生ある者が死を(むか)え、()ちていく様を(いと)おしいと感じるようになっていった。生命が衰退(すいたい)して移ろいゆく有様(ありさま)にこそ、生の輝きが実存すると考えていたのである。腐乱(ふらん)(いと)うべき肉体の敗北ではなく、むしろ生命のありがたさと美しさを逆説的(ぎゃくせつてき)証左(しょうさ)していた。

 篠木(しのき)(やすし)は祖父のように(とく)()むことによって極楽浄土(ごくらくじょうど)に至ろうとは思わなかった。死後の安寧(あんねい)よりも現世(げんせ)波乱(はらん)心惹(こころひ)かれた。椿事(ちんじ)に及んで生命が輝く刹那(せつな)を愛したのである。それは、刻一刻(こくいっこく)様相(ようそう)を変えていく万華鏡(まんげきょう)のような腐乱(ふらん)の美だった。

 御仏(みほとけ)の芸術に囲まれながら一匹の餓鬼(がき)腐肉(ふにく)(むさぼ)っていた。しかし、彼が満腹を感じることは決してない。柿本(かきもと)君江(きみえ)の小指は、(じき)に白骨と化してしまうだろう。篠木(しのき)(やすし)腐乱(ふらん)する肉をもっと見たいという欲求を(おさ)えることに困難を感じ始めていた。

 餓鬼(がき)はやがて次の獲物(えもの)を取るだろう。その心当たりもすでに(さだ)まっていた。彼は大学の同級生である近江(おうみ)加奈子(かなこ)について思いを()せた。ペトリ(ざら)の横には彼女から手渡された手紙が置いてある。そこには加奈子(かなこ)の純粋な気持ちが丁寧に(つづ)られていた。

加奈子(かなこ)君もずいぶんと古風なマネをしたものだね。だが、君は彼女のことについて真剣に考えるべきだぜ。加奈子(かなこ)君は良い子なんだからなあ」

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)はいつも通り、加奈子(かなこ)をひとしきり揶揄(からか)った末に、真剣に交際を考えるべきだと言った。それは、彼なりの親切心だったのだろう。近江(おうみ)加奈子(かなこ)は確かに気立ての良い女性に違いなかった。

 しかし、妄執(もうしゅう)に取り憑かれた餓鬼(がき)は、空腹を満たすためならば、手段を選ばないほどに切迫(せっぱく)していた。篠木(しのき)(やすし)は祖父から(ゆず)られた硯箱(すずりばこ)から筆を取ると、そろりそろりと手紙の返事を書き始めた。




 四 一通の手紙


 茫漠(ぼうばく)とした不安が近江(おうみ)加奈子(かなこ)を悩ませていた。思い人の身に何か良からぬことが起きたのかもしれない。彼女は篠木(しのき)(やすし)の穏やかな微笑の裏に隠された(かげ)りの存在に気が付いていた。端正(たんせい)面立(おもだ)ちに(よぎ)る苦悩の表情を彼女は見逃(みのが)さなかったのである。

 篠木(しのき)(やすし)に送った一通の手紙を、友人は恋文(こいぶみ)だと勘違(かんちが)いしたようだったが、(つつし)(ぶか)い彼女は自分の思いの(たけ)をそのまま(ふみ)にしたわけではない。「悩みがあるのなら力になれるかもしれない」という内容に手紙は終始していた。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)は確かに篠木(しのき)(やすし)に好意を(いだ)いていたが、それはどこか姉が弟に寄せる愛情に似ており、身を燃やさんとばかりの激しい恋慕(れんぼ)とはかけ離れたものだった。静かに波打つ海原(うなばら)の愛情、とでもいったようなものが彼女の胸の内を()めていた。

篠木(しのき)(やすし)は確かに良い男かもしれないが、君まで心を悩ませる必要はないよ。アイツのことは僕に任せておいてくれたまえ。君はアイツを屋敷から引きずり出して、振り回してくれたらよろしい」

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)は呵々大笑(かかたいしょう)すると赤面する加奈子(かなこ)に一通の手紙を渡した。()がかりの(きみ)からの便りには優しい筆遣(ふでづか)いで、心配してくれたことへの礼が(したた)められていた。加奈子(かなこ)便箋(びんせん)()()くす返礼を読み終えた(のち)に、一抹(いちまつ)の不安を覚えた。篠木(しのき)(やすし)らしくない、と考えたのである。作為(さくい)を感じたのである。

 お礼がしたいので是非(ぜひ)とも屋敷を訪ねてくれ、という(むね)文句(もんく)――そういった露骨(ろこつ)な誘い文句(もんく)からも近江(おうみ)加奈子(かなこ)違和(いわ)を感じた――とともに手紙は結ばれており、手紙の末には篠木(しのき)(てい)の住所が小さく()えられている。白檀(びゃくだん)(こう)()()められた気品(きひん)のある手紙の風体(ふうてい)には似つかわしくない、色めきだった内容に加奈子(かなこ)は少なからず困惑した。

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)(つか)まえて相談することもできたが、結局はしなかった。加奈子(かなこ)狼狽(ろうばい)しながらも、もしかしたら――という(あわ)い期待を捨てきれずにいたのだ。篠木(しのき)(やすし)が自分に好意を(いだ)いているとしたら、その感情を第三者に(あば)かれることを良しとはしないだろう。要するに、加奈子(かなこ)篠木(しのき)(やすし)から嫌われることを恐れていたのである。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)は次に自分はどのように立ち振る舞えば良いのかを考えた。手紙の文句(もんく)を信じて篠木(しのき)(てい)を訪ねる、という結論はあまりにも大胆不敵(だいたんふてき)な考えのように思えた。加奈子(かなこ)は当然のことながら()じた。だが、やがてそうするよりほかに仕様(しよう)がないことに気が付いた。

「彼が大学に来なくなってからずいぶんと()つ。もしかしたら退学を考えているのかもしれない。村瀬(むらせ)君は屋敷から引きずり出してくれと言っていた。悩みを抱えているのなら打ち明けてほしいと願ったのは私の方だ。彼から嫌われることは身を切られるように辛いに違いない」

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)は遠慮と勇気を天秤(てんびん)に掛けた。後悔をしたくないという感情が最後には()った。たとえ、軽蔑(けいべつ)されたとしても彼の力になりたい、と彼女は考えた。それは処女(おとめ)らしい(けが)れのない献身(けんしん)の気持ちだった。青く()らめく炎の愛情が加奈子(かなこ)の胸を静かに焼いていた。

 篠木(しのき)(やすし)見舞(みま)うことを決心してからは、加奈子(かなこ)の足取りは(かろ)やかだった。手紙には五日後の夕刻に()いたいと記されていた。加奈子(かなこ)はいまやその時が訪れるのが待ち遠しいとすら思っていた。以前に村瀬(むらせ)浩史(ひろし)から聞いた話によると、彼は母親と二人で暮らしているらしい。(はは)(ぎみ)もきっと綺麗(きれい)(かた)に違いない。近江(おうみ)加奈子(かなこ)は人知れず想像を(たくま)しくしながら五日間を過ごした。それもまた、少女らしい彼女の一面だった。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)篠木(しのき)(やすし)(ごう)も疑っていなかった。恋慕(れんぼ)の情が彼女の分別(ふんべつ)(まど)わしたのではない。加奈子(かなこ)は姉が弟に寄せる底知(そこし)れない愛情の目で篠木(しのき)(やすし)を見ていた。弟の不品行(ふひんこう)(たしな)めるのは姉の役目であるかのように、加奈子(かなこ)は思っていたのである。

 自分が信頼している者の正体に対して、加奈子(かなこ)はあまりにも無知だったと言わざるを得ない。妄執(もうしゅう)(とら)われた篠木(しのき)(やすし)は、加奈子(かなこ)の手に負える範疇(はんちゅう)を、とうの昔に逸脱(いつだつ)していた。篠木(しのき)(やすし)多摩川(たまがわ)河川敷(かせんじき)縊死体(いしたい)と出会ったころから、順調に人の道を()(はず)していた。(しかばね)()らう鬼は、ついに()えを(しの)ぐために人間を(あや)める覚悟をしていた。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)篠木(しのき)(やすし)の穏やかな微笑の裏に隠された(かげ)りに気が付いていた。しかし、その陰翳(いんえい)源泉(げんせん)を知る(すべ)を持たなかったのである。

 十二月十四日に惨劇(さんげき)は起こる。斑模様(まだらもよう)の美を完成させるための犠牲(いけにえ)として選ばれた近江(おうみ)加奈子(かなこ)篠木(しのき)(てい)を訪れた。やがて加奈子(かなこ)はそこが魔窟(まくつ)であることを知ることになる。




 五 大罪を犯す


 篠木(しのき)涼子(りょうこ)は息子の(やすし)が日を追うごとに憔悴(しょうすい)していく様を不安げに見守っていた。五年前に夫を(やまい)で亡くしたことをきっかけに、彼女は(みずか)らと世間との間に結ばれていた紐帯(ちゅうたい)を切ってしまった。

 左衛門(さえもん)(おう)母子(おやこ)にほとんど財産を(のこ)さなかったが、孫を大学に通わせるだけの資金だけは用意していた。夫は(かせ)(がしら)とは程遠(ほどとお)素朴(そぼく)な人柄だったので、篠木(しのき)邸は左衛門(さえもん)(おう)の一人の力で維持(いじ)されていたようなものだった。

 一昨年の暮れに左衛門(さえもん)(おう)脳溢血(のういっけつ)で亡くなった。涼子(りょうこ)は絵にかいたようなお人好(ひとよ)しだった夫よりも、厳粛(げんしゅく)だが(ふところ)の深さを持ち合わせた義父(ぎふ)のことを(した)っていた。純朴(じゅんぼく)な性格をした涼子(りょうこ)には理解しがたい偏屈(へんくつ)なところもあったが、最後はいつも笑顔で彼女を気遣(きづか)って(ねぎら)ってくれた。涼子(りょうこ)義父(ぎふ)をほとんど愛していたといってもいい。

 唯一の心の(ささ)えだった義父(ぎふ)を亡くした(のち)、ほどなくして血の通った母を失うことになった。(つな)と呼ぶにはあまりにか細い運命の糸が、次々と断たれていく音を聞くたびに涼子(りょうこ)は人知れず孤独を()()めることとなった。そして、ついに自分の周りには何人(なんぴと)も残っていないことに気が付いた。寂莫(せきばく)とした大地に独りぼっちで(たたず)んでいるような心持ちだった。

「わたしにはもう(やすし)しか残されていないのだわ。(やすし)が去ってしまったら寂しさのあまり気が狂ってしまうかもしれない。せめてあの子だけは失ってはならない」

 息子の(やすし)だけが涼子(りょうこ)を生き長らえさせる頼みの(つな)だった。ゆったりと落ち着いた性情(せいじょう)の中にも、ハッとさせるような聡明(そうめい)さを()(そな)えた息子の存在は母親としては心強かった。左衛門(さえもん)(おう)が存命だったころは、互いに(やすし)の話ばかりをしていたものだ。

「あれは良い子だ。(すこ)やかな子を産んでくれた涼子(りょうこ)さんには感謝しなくちゃならない。だがね、あまり(やすし)を頼ってはいけないよ。涼子(りょうこ)さんは母親なのだからね。無理をしてはならないが(やすし)(ささ)えてあげてください。あれは(かしこ)い子だから心配だ」

 左衛門(さえもん)(おう)の言いつけを涼子(りょうこ)は守らなかったことになる。義父(ぎふ)が亡くなった後、涼子(りょうこ)は息子にすっかり依存(いそん)するようになっていたからだ。日に日に()くなっていく(かげ)りを知っておきながら、涼子(りょうこ)は息子に()()かることを()そうとはしなかった。

 母である柿本(かきもと)君江(きみえ)が亡くなった時も、涼子(りょうこ)はむっつりと押し黙ったままで、何事もしようとはしなかった。(やすし)涼子(りょうこ)に代わって、葬儀のために喪服を用意し、宮城(みやぎ)への旅券(りょけん)を手配し、祖母の冥福(めいふく)を祈って哀悼(あいとう)(ささ)げた。

 屋敷に帰った翌日に、涼子(りょうこ)()ずかしさのあまり熱を出した。(やすし)は母を(いた)わったが(まった)く疲れてなどいなかった。むしろ、苦労をしたのは(やすし)の方だった。

 息子の身に何か良くないことが()()かりつつあるのではないか、と篠木(しのき)涼子(りょうこ)は予感していた。しかし、まだ見えない災難(さいなん)から息子を守るために行動を起こそうとは考えなかった。涼子(りょうこ)は親としての()()い方を忘れてしまっていたのである。やがて、息子は土蔵(どぞう)(こも)ったまま外に出ようとしなくなった。涼子(りょうこ)にとっても不安な日々が続いた。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)が屋敷を訪ねてきたことを涼子(りょうこ)は非常に喜んだ。加奈子(かなこ)は可愛らしくも清楚(せいそ)な娘だった。彼女が自分たちを救ってくれるかもしれない、と涼子(りょうこ)は思った。だが、それも期待外(きたいはず)れに終わってしまった。

近江(おうみ)さんならそのまま帰ったよ。土蔵(どぞう)から真っ直ぐに家に向かったんだろうね」

 加奈子(かなこ)(やすし)土蔵(どぞう)(まね)かれた(のち)に、いつの間にか帰宅してしまったようだった。(やすし)はつまらなそうに告げると、またしても土蔵(どぞう)(こも)るようになった。

 涼子(りょうこ)(やすし)の言葉を信じて疑わなかった。それは息子の(やすし)を信頼していたからではない。涼子(りょうこ)の心に巣食(すく)った(あま)えた性分(しょうぶん)が、「疑う」という思考を失わせていたのである。

 近江(おうみ)加奈子(かなこ)は今でも土蔵(どぞう)にいることに涼子(りょうこ)は知らない。屋敷の中で大罪(たいざい)が犯されている最中(さなか)でも、涼子(りょうこ)は自分の身の上の頼りなさを(なげ)くことに余念(よねん)がなかった。(ある)いは、涼子(りょうこ)もまた怠惰(たいだ)という名の大罪(たいざい)を犯していたのかもしれない。

 巨大な黒雲(こくうん)が屋敷を(おお)わんばかりに立ち込めていた。しかし、それに誰も気が付かない。ただ、(からす)ばかりがしきりに鳴いていた。




 六 疑惑


 十二月二十五日の夜に村瀬(むらせ)浩史(ひろし)篠木(しのき)(てい)を訪れた。「独り身の寂しさを(なぐさ)めに来た」と笑いながら篠木(しのき)(やすし)に渡した土産(みやげ)はシャンパンとローストチキンだった。村瀬(むらせ)篠木(しのき)涼子(りょうこ)歳末(さいまつ)に押し寄せてしまったことを()びた。

(やすし)君のことだからきっと聖夜(せいや)にも(かか)わらず、引きこもっているのだろうと思いましてね。独り身の悲しさを分かち合うために来たというわけです。君、それにしても加奈子(かなこ)君はどうしたのかね」

 友人に呼び出されて珍しく母屋(おもや)に出てきた篠木(しのき)(やすし)村瀬(むらせ)(たず)ねた。涼子(りょうこ)はどきりと心臓が(はず)む音を聞いたような気がした。近江(おうみ)加奈子(かなこ)の話題は(やすし)を不機嫌にさせるかもしれない、と考えたからである。

近江(おうみ)さんなら一度だけ我が家を訪ねたきり一度も会ってないよ。もともと、縁がなかったのだろう。僕はどうやら見限(みかぎ)られてしまったらしいね」

 (やすし)はつまらなさそうにつぶやくと口を開かなくなってしまった。

 涼子(りょうこ)村瀬(むらせ)のことをあまり()いていなかった。聡明(そうめい)なくせに配慮(はいりょ)()けるような言行(げんこう)で他人を扇動(せんどう)する皮肉屋(ひにくや)を、純朴(じゅんぼく)な性格をした彼女が理解できようはずがなかった。

 息子を頼りにして生きている涼子(りょうこ)にとって、(やすし)不興(ふきょう)を買うような事態は避けたかった。

加奈子(かなこ)さんも家に帰るのなら一言くらい挨拶をしていってくれても良いものなのに。真っ直ぐに家に帰ってしまうなんて、ちょっと失礼だわ」

 不穏(ふおん)な雰囲気を()()そうとして、涼子(りょうこ)近江(おうみ)加奈子(かなこ)不躾(ぶしつけ)()()いをなじった。涼子(りょうこ)は息子の気持ちを代弁したつもりでいたが、意外なことに(やすし)は母の意見を突き放した。涼子(りょうこ)はますます、息子が何を考えているのかわからなくなってしまった。

近江(おうみ)さんにも用事があったのかもしれない。わざわざ見舞いに来てくれただけでもありがたいと思わなくてはならないよ。さあ、もうこの話は終わりしよう。ここにいない人の話で盛り上がるのは、趣味が良いとは言えないからね」

 篠木(しのき)(やすし)は一方的に話題を()(くく)ると席を立った。「これ以上はこの場に用はない」といった様子で、座敷(ざしき)を後にしようとする息子の毅然(きぜん)とした横顔を見て、涼子(りょうこ)は人知れず内心で冷や汗をかいていた。(やすし)は明らかに機嫌を(そこ)ねているようだった。

来客(らいきゃく)があるのに退座(たいざ)しようとするなんて君らしくもない。今日くらいは僕に付き合ってくれても良いではないか。せっかく手土産(てみやげ)もあることだし、今晩は久しぶりに遊ぼうよ」

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)母屋(おもや)を去ろうとする(やすし)を笑いながら()()めた。ふざけた素振(そぶ)りとは裏腹に有無(うむ)を言わせない(かわ)いた声音(こわね)だった。しばらくの沈黙の時間が流れた(のち)に、(やすし)嘆息(たんそく)しながらもついに拒絶の言葉を口にした。

「悪いがどうしても遊ぶ気にはなれない。やり残した仕事があるんだ。君が僕を心配してくれていることは知っている。だが、今はどうか独りにしておいて欲しんだ。今日のところは引き上げてくれないか」

 涼子(りょうこ)は息子の心に(きざ)まれた(みぞ)の深さに驚いた。それは、ほとんど断絶(だんぜつ)に近いものだったからだ。(おだ)やかで優しい(やすし)泡沫(うたかた)となって消滅してしまったことを意味していた。

 涼子(りょうこ)戸惑(とまど)うばかりだったが、村瀬(むらせ)はある程度(ていど)の覚悟を決めていたらしく、平生(へいぜい)のおどけた調子に戻って席を立った。

「どうやら僕の手には負えないみたいだ。そろそろ退散しようと思う。迷惑をかけてしまったようで悪かったね。これが最後になるのだから、せめて見送りくらいはしてくれたまえ。我儘(わがまま)はこれで終わりにするから」

 篠木(しのき)(やすし)はゆっくりと(うなず)いた。村瀬(むらせ)浩史(ひろし)涼子(りょうこ)に謝ると、コートを(ひるがえ)しながら颯爽(さっそう)座敷(ざしき)を立ち去った。(やすし)も足を引きずるようにして母屋(おもや)(あと)にした。

 (あわ)てふためく涼子(りょうこ)だけが広い部屋に取り残されていた。そのため、屋敷から門に至るまでの短い道中の間に()わされた二人の会話を篠木(しのき)涼子(りょうこ)だけが知らない。

 座敷(ざしき)に残した涼子(りょうこ)の姿が見えなくなったことを確かめると村瀬(むらせ)浩史(ひろし)篠木(しのき)(やすし)(たず)ねた。それは屋敷を訪れる前から用意していた質問だった。胸に浮かんだ疑惑の真意を見定(みさだ)めるための()()けだった。

「君、ひょっとすると近江(おうみ)加奈子(かなこ)君は、まだこの屋敷にいるんじゃないか」

 そろりそろりと前を歩く篠木(しのき)(やすし)は答えない。その沈黙が村瀬(むらせ)浩史(ひろし)の質問への回答だった。村瀬(むらせ)()(ほそ)った友人の肩を見詰(みつ)めながら(かわ)いた(くちびる)(つばき)湿(しめ)らせると、胸に(いだ)いている疑念を吐露(とろ)し始めた。

加奈子(かなこ)君が家に帰らなくなってから十日が()つと大学では(うわさ)されている。親御(おやご)さんも警察に捜索願(そうさくねがい)を提出したようだ。今朝、我が家の前にパトカーが停まっていてね。いろいろと事情を()かれたよ。僕はある情報を警察に打ち明けた」

 心臓の鼓動(こどう)村瀬(むらせ)浩史(ひろし)の身体の内を震わせていた。玄関に辿(たど)()いたら、二人は()(こう)から顔を突き合わせることになるだろう。長い廊下(ろうか)は終わりに近づきつつある。村瀬(むらせ)浩史(ひろし)はそれが恐ろしくて(たま)らなかった。

近江(おうみ)加奈子(かなこ)君は篠木(しのき)(やすし)から一通の手紙を受け取っていた。それはちょうど十日前のことだったと僕は思い出した。そして、君は加奈子(かなこ)君がこの屋敷を訪れたと言っていたね」

 二人は玄関に辿(たど)()いたが、篠木(しのき)(やすし)は振り返ろうとしない。村瀬(むらせ)浩史(ひろし)も沈黙を守りながら動こうとはしなかった。()()ない静寂(せいじゃく)が辺りを包んでいた。

「いろいろと世話(せわ)になったね」

 篠木(しのき)(やすし)はそうつぶやくと(ゆる)やかに振り向いた。村瀬(むらせ)浩史(ひろし)(やすし)の顔を見て慄然(りつぜん)せずにはいられなかった。篠木(しのき)(やすし)は笑っていた。

「僕がなすべきことは決まったようだ」

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)は震える声で告げると屋敷を(あと)にした。彼は篠木(しのき)(やすし)を有罪であると判断したのだ。魔窟(まくつ)から(のが)れた村瀬(むらせ)は足を(もつ)れさせながら近隣の警察署へと()()んだ。




 七 火車は亡骸を抱いて


 篠木(しのき)(やすし)の心は安らかだった。(じき)に警察の者が屋敷の門扉(もんぴ)を叩きに来るに違いない。

 村瀬(むらせ)浩史(ひろし)が立ち去った(あと)に、(やすし)は真っ直ぐに土蔵(どぞう)に向かった。土蔵(どぞう)の二階で加奈子(かなこ)亡骸(なきがら)が彼の帰りを待っているはずだった。

 篠木(しのき)(やすし)は残されたわずかな時間をせめて有意義(ゆういぎ)(すご)ごそうと考えた。持ち込まれた石油ストーブの熱に当てられて、死体は腐敗(ふはい)のほどを早めていたが、九相図(くそうず)を再現するまでには至っていなかった。

 口惜(くちお)しいが現状を受け入れる他に仕様(しよう)がなかった。加奈子(かなこ)のか細い首に手を掛けたときから、(やすし)は自身が許されざる罪人であることを深く自覚するようになっていた。


 ――罪人は(さば)かれるべきである――


 篠木(しのき)(やすし)は人の道を()(はず)していたが、倫理や道徳を(まった)く理解しなかったわけではない。九相図(くそうず)を再現したいという妄執(もうしゅう)代償(だいしょう)として、遠からず(ばつ)(くだ)されることを彼は充分に承知(しょうち)していた。ただ、それが友人である村瀬(むらせ)浩史(ひろし)によってもたらされるとは思っていなかっただけである。

 ムッと(むせ)(かえ)るような臭気を放ち始めた近江(おうみ)加奈子(かなこ)亡骸(なきがら)()()めながら、篠木(しのき)(やすし)は確かな羞恥(しゅうち)を感じていた。自分が築き上げてきた腐乱(ふらん)宮殿(きゅうでん)は、狂人の産物として、世間(せけん)()(にじ)られることになるだろう。それを考えると身悶(みもだ)えするほどに()ずかしかった。

 ――市中(しちゅう)()れ回された(すえ)に指を差されて(さげす)まれるのなら、(いさぎよ)く自分で決着をつけてしまった方がましだ――

 篠木(しのき)(やすし)腐乱(ふらん)する亡骸(なきがら)を片腕にかき(いだ)きつつ、ストーブの中から灯油の入れられた缶を取り出して、辺りに中身を()()らし始めた。そして文机(ふづくえ)の引き出しからマッチを見つけると、おもむろに火を(とも)して投げ捨てた。

 濛々(もうもう)とした黒煙(こくえん)土蔵(どぞう)観音扉(かんのんとびら)から()()がった。御仏(みほとけ)の教えが記された経典(けいてん)が焼け落ちていく。亡骸(なきがら)を取る鬼は火炎に包まれて静かに涙を流した。ひしと(しかばね)()きついて劫火(ごうか)に焼かれる(やすし)の姿は火車(かしゃ)そのものだった。

 篠木(しのき)(やすし)の心は安らかだった。(やすし)の心身を(しば)っていた糸が(ほど)けて落ちていくようだった。土蔵(どぞう)に込められた(きよ)らかなる品々(しなじな)(けぶり)となって消えていく。全ての罪を洗い流す(せい)(えん)が天を焦がしていた。やがて、妄執(もうしゅう)に取り憑かれた火車(かしゃ)は灰となり、風に吹かれて去って行くだろう。吸い込まれそうな夜の空を、火炎が(しゅ)金色(こんじき)に染めている。ついに、ゴウゴウというと音を響かせながら土蔵(どぞう)(くず)れた。



(了)





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