火車
罔両 クハシヤ クハジヤ薩州
魑魅ノ類ナリ。葬送ノ時、塗中ニテ疾風迅雷、暴ニ至リテ、棺ハ損ゼズシテ中ノ屍ヲ取去、山中ノ樹枝、巌石等ニ掛置コトアリ。コレヲ、クハシヤト云。
『本草綱目啓蒙』より火車の事
一 九相図と九相観
あの絵巻物が忘れられない。町内でも指折りの好事家だった左衛門翁が後生大事に守っていた一軸の絵巻物。それが篠木靖の心を掴んでいた。
篠木靖の祖父である左衛門は、昭和の傑物らしく万事において抜け目のない男だったが、歳を経る毎に穴を埋めるかのごとき熱心さで、仏の教えを信奉するようになっていった。
一世にして築き上げた財産の多くが御仏にまつわる美術品の蒐集に費やされ、晩年には屋敷に設えた立派な土蔵の中を、経典や仏具の類で溢れ返させるまでになっていた。左衛門翁は九十七歳で匠の芸術に囲まれながら安らかな眠りについたのだが、孫の靖に遺された財産自体はわずかなものだった。
幼いころに、靖は一度だけ土蔵に忍び入ったことがある。屋敷の一画にそびえ立つ匣のような建物に祖父の秘密が隠されている。そういった無邪気な想像が少年の冒険心を刺激したのだ。
左衛門翁は暇を見つけては土蔵に足しげく通っていたから、内装は職人に言いつけて、小ざっぱりしたものになるように誂えていた。敷居を跨げば、カンと冴えた部屋の内を仏具や経典が彩り鮮やかに飾っている。それらは少年にとって、謎めいた儀式に用いられる道具、或いは、魔法が記された秘文であり、厳粛な祖父の深淵を覗いているような不思議な感覚を抱かせたものだ。
小さな探検家はやがて美術品の森を抜けて階を上り、明り取り用の観音扉から仄かに光が差す空間に辿り着いた。
土蔵の二階は座敷造りになっていて、手狭であるが床の間も用意されており、書道を嗜む老人の普請らしく、墨の香りが辺りに漂っている。
少年の輝く双眸はほどなくして、漆塗りの文机の上に載せられた一軸の絵巻物に止まった。蒔絵の施された硯箱の横に、錦を纏ったような豪奢な軸物が、しどけない様子で打ち広げられていた。
それは、墨痕鮮やかな筆致で描かれた女が、無惨に朽ち果てていく様子を九つの情景に分けた後に、一つの絵巻に仕立てたものだった。紅や金、碧といった壮麗な世界の中で生きる女が、凄惨な形相を浮かべて絶命し、醜く腐り果てて白骨になるまでの過程を仔細に描いた絵巻物だった。
観音扉から差す冬の日の明かりが荘厳な死に彩られた絵を照らしていた。少年はこの美しい錦の絵巻をもっと近くで見たいという誘惑に逆らえなかった。
少年が巻物を手に取った拍子に硯箱が床に落ちた。箱の中に墨が残されていたことを知った時には既に遅かった。錦の絵巻物は永遠に損なわれてしまった。左衛門翁が怒り狂ったことは言うまでもない。靖少年は泣いたが、祖父に叱責されたことよりも、錦の絵巻物が手から離れてしまった事実の方が悲しかった。
自分が魅入られた絵巻物の正体が九相図と呼ばれる仏教絵画であると、それから間もなくして左衛門翁に教えられた。
九相図とは、打ち捨てられた骸が朽ちていく様子を九つの段階に分けて描いたもので、修行僧の煩悩を払うために、美しい女が醜い屍体に成り果てることによって、現世の肉体の不浄さと無常さを伝えようとしているのだ、と左衛門翁は嘆息を交えながら語った。
元来、諸行無常を教えるための方便に過ぎないのだから、これを台無しにされた事に執着して怒るようでは、極楽浄土に至るには程遠い、と左衛門翁は赦してくれたが靖少年は祖父ほど寛容にはなれなかった。悔しくて、情けなくて仕様がなかったのである。
九相図に記された骸の変遷を見て、現世の空しさを観想することを九相観というらしいが、靖少年はちょうどその真向いに控える魔性の美しさに魅了されてしまったようだった。九相図を通じて、此岸にいながら彼岸の美しさ――黄金を飾る紅や碧の鮮やかさを垣間見てしまったのである。それは腐乱の美であった。知ってはならない甘美な蜜の味であった。
左衛門翁は靖少年の心を過った魔物の影を知ることなく往生を遂げてしまった。ただ、靖少年も幼心に自身が崇拝する観念が世の中では忌み嫌われる事柄であると気が付いてもいた。次第に靖少年は自らを深く恥じるようになっていった。
篠木靖は自身が魔性の美の崇拝者であることが暴かれる事態を非常に恐れた。誰にも打ち明けられない秘密を抱きながらも、彼は何事においても清廉であるように努めた。それは物理学における反作用の仕組みのようなものだったのかもしれない。踏絵を前にした切支丹のように彼は惑っていた。内から溢れる礼賛の叫びを抑え留める度に、息苦しさは増していった。
あの絵巻が忘れられない。篠木靖は屋敷の一画に設けられた土蔵に籠り、祖父が遺していった膨大な御仏の教えに囲まれながら、腐乱について思いを馳せる。漆塗りの文机に両肘をついて沈思黙考する餓鬼がそこにはいた。床の間に飾られた観音菩薩の写し絵も押し黙ったまま何も語ろうとはしなかった。
二 縊死体
平成三年の五月の頃の事だった。篠木靖は大学の数少ない朋輩である村瀬浩史の家で、夜が白むまで酒を酌み交わしたことがある。
万事において穏やかに執り成す篠木靖とは反対に、村瀬浩史は何事にも熱しやすく冷めやすい人柄をした男だった。口さがない批判をするかと思いきや、恐ろしく気が回るまめな男で、饗応に余念がない。途中で靖は幾度も退座しようとしたが、あれやこれやともてなそうとする。気が付けば夜は白々と明け始めていた。
どうせならば泊っていけ、と引き留めようとする友人に別れを告げて、始発の電車に乗り込んだ。電車の中は閑散としており、老人の微かな咳が大きく響くほどに、しんとしていた。隣に座る女性のわざとらしい香水の匂いが、酒に酔って鈍麻した神経に甘ったるく染み入るようだった。
田園都市線の二子玉川駅で電車を降りた。篠木邸はそこから多摩川沿いにいくらか行ったところにある。早朝のことで人気もまばらな河川敷を、ふらりふらりと靖が歩いていると、桜の木の下に小さな人集りができていることに気が付いた。
花は散ってしまった時節であるから花見客であるはずはない。酒の酔いが篠木靖の心持ちを幾分か大きくしていた。靖が何気ない顔をして野次馬に交じって事の成り行きを見物しようと背伸びした時である。靖は驚きのあまりに思わず息を飲んだ。篠木靖は魔物に行き会ったのである。
桜の木の下に横たえられた女の死体がそこにあった。野次馬の誰かが木の枝ごとへし折って下ろしたのだろう。首に掛けられた荒縄は肉に食い込んで容易には解けそうに見えなかった。首を吊る際に骨が抜けたのか、女の首は異様に伸びており、剥かれた眼球は飛び出して赤く血走っている。舌は苦しみのあまりに膨張して、口からだらしがなくはみ出していた。
女は夜更けに首を吊って自殺を遂げたのだろう。遺体の身なりはさっぱりとしたものだった。縊死であるため肉が裂けた痕も見られない。篠木靖の心に去来したものは九相図であったことは言うまでもない。勿体ない、と篠木靖は思った。
篠木靖が希求していたものは腐乱であった。それは青くなった肉が腐り落ちて、内に隠されていた臓物を露わにするような、斑模様の美しさだった。人間性が落剥して本性を剥き出していく過程にこそ、意義があるように思えた。その点からいえば、この死体は魂魄の抜けたばかりの人形であり、可能性を秘めておきながら葬られる、ただの肉の塊に過ぎなかった。それは、九相図に描かれた腐りゆく肉の美しさとは程遠いものである。篠木靖はそこに一握の物足りなさを覚えたのだった。
餓鬼は馳走を前にしながらも、指をくわえて洞穴に帰るほかに仕様がなかった。篠木靖の飢えと渇きはさらに高じていった。もう少しだけ早く縊死体と行き会えたのなら、彼の執着心は、さまで膨らむことはなかったに違いない。梅を望んで唾が湧くがごとく、妄執ともいえる想念は際限なく広がっていった。
――機会が訪れれば、次こそ骸を手に入れてみせる。この衝動に脅かされ続けて生きていくくらいなら死んだ方がましだ――
篠木靖は輾転反側を繰り返しながらも決意を固めた。この懊悩を払うためにも骸が必要だった。妄執に取り憑かれながら、この先の生涯を歩むことを考えると恐ろしくて堪らなくなった。もはや九相図では篠木靖の煩悩は拭えないところにまで押し流されていたのである。如何ともしがたい飢餓が、篠木靖を苦しめていた。
大学に通うよりも土蔵に籠る日の方が多くなり、村瀬浩史と顔を合わせることもすっかりなくなった頃になって、好機は不意に訪れた。母方の祖母である柿本君江が亡くなったという報せが届いたのである。
篠木靖は、五年前に夫に先立たれてから滅多に口を開かなくなった母親とともに、故郷である宮城へと旅立った。喪服の内ポケットの中には一挺の鋏が忍ばせてある。彼は何としても祖母の骸を奪い取るつもりでいた。
三 腐乱の美
観音扉から差す明かりが文机の上に置かれたペトリ皿を照らしている。皿の中には柿本君江の小指が入れられていた。小指は夏の陽光に当てられて順調に腐敗のほどを進めている。それは篠木靖が宮城から持ち帰った戦利品だった。
篠木靖の手際は冷静沈着だった。荼毘に付される直前に厠に行くふりをして、親族の集まりから抜け出すと、納棺された君江の遺体に近寄り、止血帯を絞めながら鋏で小指を切り取ったのである。出血はほとんどなかった上に、老婆の脆くなった骨を断つのにも、それほど手間はかからなかった。
篠木靖は切断した小指をハンカチに包んで胸ポケットに忍ばせながらも堂々(どうどう)とした立ち居振る舞いで葬儀に臨んだ。
火葬さえ済んでしまえば、遺体の一部が欠損していることなど分かりはしない。また、棺に納められた遺体を暴こうとする者がいるはずもない。手向けられた別れ花のベールが遺体の肉の欠落をうまい具合に隠してくれた。
一連の葬儀の裏で、怖気を振るうような罪悪が密かに行われていることなど、誰も考えはしなかった。やがて、篠木靖の咎は火炎に包まれて消えていった。
篠木靖はペトリ皿の中で、膿んで腐っていく祖母の小指をつぶさに見詰めながら思う。この腐乱する小指に繋がっていた柿本君江の肉体は灰となって壺に納められている。君江の肉体は清浄な骨粉となってしまった。それに較べて、この小指はどうだろうか。彼岸に程近い存在でありながらも、此岸の瀬戸際で一心不乱に止まっている。この小指には魂が宿っているように思えてならなかった。
柿本君江は彼岸で自身の一部がいまだに此岸に留まっていることを知るに違いない。その場合、君江の魂魄は此岸と彼岸のいずれに属することになるのだろうか。肉に霊が宿るのならば、分かたれた肉片にも魂魄は滞留するのだろうか。腐乱する肉片は多くは語ろうとはしなかった。
――やはり、完全な屍が必要なのかもしれない。首尾よく肉片を手に入れることができたが疑問は深くなっていくばかりだ――
ペトリ皿の小指の腐敗は早かった。鮮血の滴りはやがて止み、乳白色だった肌は次第に青ざめ、水気を含んだように緩んでいった。切り口から覗いていた骨が徐々に露出のほどを増していき、どこからか闖入した蛆が肉を食んでいる。だが、九相図に示されていた斑模様の美しさを再現するには、いささか対象が小さすぎていた。
もっとも、この肉片が篠木靖に与えた啓示は大きかった。彼の興味は美の享受から探求へと転じつつある。仏が説かんとする肉体の空しさを、彼は鋭敏に感じ取っていた。しかし、それはかつて左衛門翁が教えた九相観とは全く違った趣旨の観念でもあった。篠木靖は生ある者が死を迎え、朽ちていく様を愛おしいと感じるようになっていった。生命が衰退して移ろいゆく有様にこそ、生の輝きが実存すると考えていたのである。腐乱は厭うべき肉体の敗北ではなく、むしろ生命のありがたさと美しさを逆説的に証左していた。
篠木靖は祖父のように徳を積むことによって極楽浄土に至ろうとは思わなかった。死後の安寧よりも現世の波乱に心惹かれた。椿事に及んで生命が輝く刹那を愛したのである。それは、刻一刻と様相を変えていく万華鏡のような腐乱の美だった。
御仏の芸術に囲まれながら一匹の餓鬼が腐肉を貪っていた。しかし、彼が満腹を感じることは決してない。柿本君江の小指は、直に白骨と化してしまうだろう。篠木靖は腐乱する肉をもっと見たいという欲求を抑えることに困難を感じ始めていた。
餓鬼はやがて次の獲物を取るだろう。その心当たりもすでに定まっていた。彼は大学の同級生である近江加奈子について思いを馳せた。ペトリ皿の横には彼女から手渡された手紙が置いてある。そこには加奈子の純粋な気持ちが丁寧に綴られていた。
「加奈子君もずいぶんと古風なマネをしたものだね。だが、君は彼女のことについて真剣に考えるべきだぜ。加奈子君は良い子なんだからなあ」
村瀬浩史はいつも通り、加奈子をひとしきり揶揄った末に、真剣に交際を考えるべきだと言った。それは、彼なりの親切心だったのだろう。近江加奈子は確かに気立ての良い女性に違いなかった。
しかし、妄執に取り憑かれた餓鬼は、空腹を満たすためならば、手段を選ばないほどに切迫していた。篠木靖は祖父から譲られた硯箱から筆を取ると、そろりそろりと手紙の返事を書き始めた。
四 一通の手紙
茫漠とした不安が近江加奈子を悩ませていた。思い人の身に何か良からぬことが起きたのかもしれない。彼女は篠木靖の穏やかな微笑の裏に隠された翳りの存在に気が付いていた。端正な面立ちに過る苦悩の表情を彼女は見逃さなかったのである。
篠木靖に送った一通の手紙を、友人は恋文だと勘違いしたようだったが、慎み深い彼女は自分の思いの丈をそのまま文にしたわけではない。「悩みがあるのなら力になれるかもしれない」という内容に手紙は終始していた。
近江加奈子は確かに篠木靖に好意を抱いていたが、それはどこか姉が弟に寄せる愛情に似ており、身を燃やさんとばかりの激しい恋慕とはかけ離れたものだった。静かに波打つ海原の愛情、とでもいったようなものが彼女の胸の内を占めていた。
「篠木靖は確かに良い男かもしれないが、君まで心を悩ませる必要はないよ。アイツのことは僕に任せておいてくれたまえ。君はアイツを屋敷から引きずり出して、振り回してくれたらよろしい」
村瀬浩史は呵々大笑すると赤面する加奈子に一通の手紙を渡した。気がかりの君からの便りには優しい筆遣いで、心配してくれたことへの礼が認められていた。加奈子は便箋を埋め尽くす返礼を読み終えた後に、一抹の不安を覚えた。篠木靖らしくない、と考えたのである。作為を感じたのである。
お礼がしたいので是非とも屋敷を訪ねてくれ、という旨の文句――そういった露骨な誘い文句からも近江加奈子は違和を感じた――とともに手紙は結ばれており、手紙の末には篠木邸の住所が小さく添えられている。白檀の香が焚き染められた気品のある手紙の風体には似つかわしくない、色めきだった内容に加奈子は少なからず困惑した。
村瀬浩史を掴まえて相談することもできたが、結局はしなかった。加奈子は狼狽しながらも、もしかしたら――という淡い期待を捨てきれずにいたのだ。篠木靖が自分に好意を抱いているとしたら、その感情を第三者に暴かれることを良しとはしないだろう。要するに、加奈子は篠木靖から嫌われることを恐れていたのである。
近江加奈子は次に自分はどのように立ち振る舞えば良いのかを考えた。手紙の文句を信じて篠木邸を訪ねる、という結論はあまりにも大胆不敵な考えのように思えた。加奈子は当然のことながら恥じた。だが、やがてそうするよりほかに仕様がないことに気が付いた。
「彼が大学に来なくなってからずいぶんと経つ。もしかしたら退学を考えているのかもしれない。村瀬君は屋敷から引きずり出してくれと言っていた。悩みを抱えているのなら打ち明けてほしいと願ったのは私の方だ。彼から嫌われることは身を切られるように辛いに違いない」
近江加奈子は遠慮と勇気を天秤に掛けた。後悔をしたくないという感情が最後には勝った。たとえ、軽蔑されたとしても彼の力になりたい、と彼女は考えた。それは処女らしい穢れのない献身の気持ちだった。青く揺らめく炎の愛情が加奈子の胸を静かに焼いていた。
篠木靖を見舞うことを決心してからは、加奈子の足取りは軽やかだった。手紙には五日後の夕刻に逢いたいと記されていた。加奈子はいまやその時が訪れるのが待ち遠しいとすら思っていた。以前に村瀬浩史から聞いた話によると、彼は母親と二人で暮らしているらしい。母君もきっと綺麗な方に違いない。近江加奈子は人知れず想像を逞しくしながら五日間を過ごした。それもまた、少女らしい彼女の一面だった。
近江加奈子は篠木靖を毫も疑っていなかった。恋慕の情が彼女の分別を惑わしたのではない。加奈子は姉が弟に寄せる底知れない愛情の目で篠木靖を見ていた。弟の不品行を窘めるのは姉の役目であるかのように、加奈子は思っていたのである。
自分が信頼している者の正体に対して、加奈子はあまりにも無知だったと言わざるを得ない。妄執に囚われた篠木靖は、加奈子の手に負える範疇を、とうの昔に逸脱していた。篠木靖は多摩川の河川敷で縊死体と出会ったころから、順調に人の道を踏み外していた。屍を食らう鬼は、ついに飢えを凌ぐために人間を殺める覚悟をしていた。
近江加奈子は篠木靖の穏やかな微笑の裏に隠された翳りに気が付いていた。しかし、その陰翳の源泉を知る術を持たなかったのである。
十二月十四日に惨劇は起こる。斑模様の美を完成させるための犠牲として選ばれた近江加奈子は篠木邸を訪れた。やがて加奈子はそこが魔窟であることを知ることになる。
五 大罪を犯す
篠木涼子は息子の靖が日を追うごとに憔悴していく様を不安げに見守っていた。五年前に夫を病で亡くしたことをきっかけに、彼女は自らと世間との間に結ばれていた紐帯を切ってしまった。
左衛門翁は母子にほとんど財産を遺さなかったが、孫を大学に通わせるだけの資金だけは用意していた。夫は稼ぎ頭とは程遠い素朴な人柄だったので、篠木邸は左衛門翁の一人の力で維持されていたようなものだった。
一昨年の暮れに左衛門翁は脳溢血で亡くなった。涼子は絵にかいたようなお人好しだった夫よりも、厳粛だが懐の深さを持ち合わせた義父のことを慕っていた。純朴な性格をした涼子には理解しがたい偏屈なところもあったが、最後はいつも笑顔で彼女を気遣って労ってくれた。涼子は義父をほとんど愛していたといってもいい。
唯一の心の支えだった義父を亡くした後、ほどなくして血の通った母を失うことになった。綱と呼ぶにはあまりにか細い運命の糸が、次々と断たれていく音を聞くたびに涼子は人知れず孤独を噛み締めることとなった。そして、ついに自分の周りには何人も残っていないことに気が付いた。寂莫とした大地に独りぼっちで佇んでいるような心持ちだった。
「わたしにはもう靖しか残されていないのだわ。靖が去ってしまったら寂しさのあまり気が狂ってしまうかもしれない。せめてあの子だけは失ってはならない」
息子の靖だけが涼子を生き長らえさせる頼みの綱だった。ゆったりと落ち着いた性情の中にも、ハッとさせるような聡明さを兼ね備えた息子の存在は母親としては心強かった。左衛門翁が存命だったころは、互いに靖の話ばかりをしていたものだ。
「あれは良い子だ。健やかな子を産んでくれた涼子さんには感謝しなくちゃならない。だがね、あまり靖を頼ってはいけないよ。涼子さんは母親なのだからね。無理をしてはならないが靖を支えてあげてください。あれは賢い子だから心配だ」
左衛門翁の言いつけを涼子は守らなかったことになる。義父が亡くなった後、涼子は息子にすっかり依存するようになっていたからだ。日に日に濃くなっていく翳りを知っておきながら、涼子は息子に寄り掛かることを止そうとはしなかった。
母である柿本君江が亡くなった時も、涼子はむっつりと押し黙ったままで、何事もしようとはしなかった。靖は涼子に代わって、葬儀のために喪服を用意し、宮城への旅券を手配し、祖母の冥福を祈って哀悼を捧げた。
屋敷に帰った翌日に、涼子は恥ずかしさのあまり熱を出した。靖は母を労わったが全く疲れてなどいなかった。むしろ、苦労をしたのは靖の方だった。
息子の身に何か良くないことが降り掛かりつつあるのではないか、と篠木涼子は予感していた。しかし、まだ見えない災難から息子を守るために行動を起こそうとは考えなかった。涼子は親としての振る舞い方を忘れてしまっていたのである。やがて、息子は土蔵に籠ったまま外に出ようとしなくなった。涼子にとっても不安な日々が続いた。
近江加奈子が屋敷を訪ねてきたことを涼子は非常に喜んだ。加奈子は可愛らしくも清楚な娘だった。彼女が自分たちを救ってくれるかもしれない、と涼子は思った。だが、それも期待外れに終わってしまった。
「近江さんならそのまま帰ったよ。土蔵から真っ直ぐに家に向かったんだろうね」
加奈子は靖の土蔵に招かれた後に、いつの間にか帰宅してしまったようだった。靖はつまらなそうに告げると、またしても土蔵に籠るようになった。
涼子は靖の言葉を信じて疑わなかった。それは息子の靖を信頼していたからではない。涼子の心に巣食った甘えた性分が、「疑う」という思考を失わせていたのである。
近江加奈子は今でも土蔵にいることに涼子は知らない。屋敷の中で大罪が犯されている最中でも、涼子は自分の身の上の頼りなさを嘆くことに余念がなかった。或いは、涼子もまた怠惰という名の大罪を犯していたのかもしれない。
巨大な黒雲が屋敷を覆わんばかりに立ち込めていた。しかし、それに誰も気が付かない。ただ、鴉ばかりがしきりに鳴いていた。
六 疑惑
十二月二十五日の夜に村瀬浩史は篠木邸を訪れた。「独り身の寂しさを慰めに来た」と笑いながら篠木靖に渡した土産はシャンパンとローストチキンだった。村瀬は篠木涼子に歳末に押し寄せてしまったことを詫びた。
「靖君のことだからきっと聖夜にも関わらず、引きこもっているのだろうと思いましてね。独り身の悲しさを分かち合うために来たというわけです。君、それにしても加奈子君はどうしたのかね」
友人に呼び出されて珍しく母屋に出てきた篠木靖に村瀬が訊ねた。涼子はどきりと心臓が弾む音を聞いたような気がした。近江加奈子の話題は靖を不機嫌にさせるかもしれない、と考えたからである。
「近江さんなら一度だけ我が家を訪ねたきり一度も会ってないよ。もともと、縁がなかったのだろう。僕はどうやら見限られてしまったらしいね」
靖はつまらなさそうにつぶやくと口を開かなくなってしまった。
涼子は村瀬のことをあまり好いていなかった。聡明なくせに配慮に欠けるような言行で他人を扇動する皮肉屋を、純朴な性格をした彼女が理解できようはずがなかった。
息子を頼りにして生きている涼子にとって、靖の不興を買うような事態は避けたかった。
「加奈子さんも家に帰るのなら一言くらい挨拶をしていってくれても良いものなのに。真っ直ぐに家に帰ってしまうなんて、ちょっと失礼だわ」
不穏な雰囲気を執り成そうとして、涼子は近江加奈子の不躾な振る舞いをなじった。涼子は息子の気持ちを代弁したつもりでいたが、意外なことに靖は母の意見を突き放した。涼子はますます、息子が何を考えているのかわからなくなってしまった。
「近江さんにも用事があったのかもしれない。わざわざ見舞いに来てくれただけでもありがたいと思わなくてはならないよ。さあ、もうこの話は終わりしよう。ここにいない人の話で盛り上がるのは、趣味が良いとは言えないからね」
篠木靖は一方的に話題を締め括ると席を立った。「これ以上はこの場に用はない」といった様子で、座敷を後にしようとする息子の毅然とした横顔を見て、涼子は人知れず内心で冷や汗をかいていた。靖は明らかに機嫌を損ねているようだった。
「来客があるのに退座しようとするなんて君らしくもない。今日くらいは僕に付き合ってくれても良いではないか。せっかく手土産もあることだし、今晩は久しぶりに遊ぼうよ」
村瀬浩史は母屋を去ろうとする靖を笑いながら引き留めた。ふざけた素振りとは裏腹に有無を言わせない乾いた声音だった。しばらくの沈黙の時間が流れた後に、靖は嘆息しながらもついに拒絶の言葉を口にした。
「悪いがどうしても遊ぶ気にはなれない。やり残した仕事があるんだ。君が僕を心配してくれていることは知っている。だが、今はどうか独りにしておいて欲しんだ。今日のところは引き上げてくれないか」
涼子は息子の心に刻まれた溝の深さに驚いた。それは、ほとんど断絶に近いものだったからだ。穏やかで優しい靖は泡沫となって消滅してしまったことを意味していた。
涼子は戸惑うばかりだったが、村瀬はある程度の覚悟を決めていたらしく、平生のおどけた調子に戻って席を立った。
「どうやら僕の手には負えないみたいだ。そろそろ退散しようと思う。迷惑をかけてしまったようで悪かったね。これが最後になるのだから、せめて見送りくらいはしてくれたまえ。我儘はこれで終わりにするから」
篠木靖はゆっくりと頷いた。村瀬浩史は涼子に謝ると、コートを翻しながら颯爽と座敷を立ち去った。靖も足を引きずるようにして母屋を後にした。
慌てふためく涼子だけが広い部屋に取り残されていた。そのため、屋敷から門に至るまでの短い道中の間に交わされた二人の会話を篠木涼子だけが知らない。
座敷に残した涼子の姿が見えなくなったことを確かめると村瀬浩史は篠木靖に訊ねた。それは屋敷を訪れる前から用意していた質問だった。胸に浮かんだ疑惑の真意を見定めるための問い掛けだった。
「君、ひょっとすると近江加奈子君は、まだこの屋敷にいるんじゃないか」
そろりそろりと前を歩く篠木靖は答えない。その沈黙が村瀬浩史の質問への回答だった。村瀬は痩せ細った友人の肩を見詰めながら乾いた唇を唾で湿らせると、胸に抱いている疑念を吐露し始めた。
「加奈子君が家に帰らなくなってから十日が経つと大学では噂されている。親御さんも警察に捜索願を提出したようだ。今朝、我が家の前にパトカーが停まっていてね。いろいろと事情を訊かれたよ。僕はある情報を警察に打ち明けた」
心臓の鼓動が村瀬浩史の身体の内を震わせていた。玄関に辿り着いたら、二人は真っ向から顔を突き合わせることになるだろう。長い廊下は終わりに近づきつつある。村瀬浩史はそれが恐ろしくて堪らなかった。
「近江加奈子君は篠木靖から一通の手紙を受け取っていた。それはちょうど十日前のことだったと僕は思い出した。そして、君は加奈子君がこの屋敷を訪れたと言っていたね」
二人は玄関に辿り着いたが、篠木靖は振り返ろうとしない。村瀬浩史も沈黙を守りながら動こうとはしなかった。遣る瀬ない静寂が辺りを包んでいた。
「いろいろと世話になったね」
篠木靖はそうつぶやくと緩やかに振り向いた。村瀬浩史は靖の顔を見て慄然せずにはいられなかった。篠木靖は笑っていた。
「僕がなすべきことは決まったようだ」
村瀬浩史は震える声で告げると屋敷を後にした。彼は篠木靖を有罪であると判断したのだ。魔窟から逃れた村瀬は足を縺れさせながら近隣の警察署へと駆け込んだ。
七 火車は亡骸を抱いて
篠木靖の心は安らかだった。直に警察の者が屋敷の門扉を叩きに来るに違いない。
村瀬浩史が立ち去った後に、靖は真っ直ぐに土蔵に向かった。土蔵の二階で加奈子の亡骸が彼の帰りを待っているはずだった。
篠木靖は残されたわずかな時間をせめて有意義に過ごそうと考えた。持ち込まれた石油ストーブの熱に当てられて、死体は腐敗のほどを早めていたが、九相図を再現するまでには至っていなかった。
口惜しいが現状を受け入れる他に仕様がなかった。加奈子のか細い首に手を掛けたときから、靖は自身が許されざる罪人であることを深く自覚するようになっていた。
――罪人は裁かれるべきである――
篠木靖は人の道を踏み外していたが、倫理や道徳を全く理解しなかったわけではない。九相図を再現したいという妄執の代償として、遠からず罰が下されることを彼は充分に承知していた。ただ、それが友人である村瀬浩史によってもたらされるとは思っていなかっただけである。
ムッと噎せ返るような臭気を放ち始めた近江加奈子の亡骸を抱き締めながら、篠木靖は確かな羞恥を感じていた。自分が築き上げてきた腐乱の宮殿は、狂人の産物として、世間に踏み躙られることになるだろう。それを考えると身悶えするほどに恥ずかしかった。
――市中を連れ回された末に指を差されて蔑まれるのなら、潔く自分で決着をつけてしまった方がましだ――
篠木靖は腐乱する亡骸を片腕にかき抱きつつ、ストーブの中から灯油の入れられた缶を取り出して、辺りに中身を撒き散らし始めた。そして文机の引き出しからマッチを見つけると、おもむろに火を点して投げ捨てた。
濛々とした黒煙が土蔵の観音扉から湧き上がった。御仏の教えが記された経典が焼け落ちていく。亡骸を取る鬼は火炎に包まれて静かに涙を流した。ひしと屍に抱きついて劫火に焼かれる靖の姿は火車そのものだった。
篠木靖の心は安らかだった。靖の心身を縛っていた糸が解けて落ちていくようだった。土蔵に込められた清らかなる品々が煙となって消えていく。全ての罪を洗い流す聖焔が天を焦がしていた。やがて、妄執に取り憑かれた火車は灰となり、風に吹かれて去って行くだろう。吸い込まれそうな夜の空を、火炎が朱と金色に染めている。ついに、ゴウゴウというと音を響かせながら土蔵が崩れた。
(了)