方相氏
論語曰、郷人儺朝服而立於阼階
註儺所以逐疫周礼方相氏掌之。
『今昔百鬼拾遺』より抜萃
一、鋭角の幽霊
幼い頃から中途半端な事柄が嫌いだった。単なる神経症とは言い難い。オーディオプレイヤーの音量が素数を含んでいると聴く気が失せる。残されたタバコの本数が奇数だと一本捨てないと気が済まない。
この悪癖のために随分と苦労も重ねてきた。こうして、思考を文章化している最中も不安に駆られている。文末の位置が気に入らないし、仮名と漢字の比率が偏っていると気が滅入ってしまう。が、苦痛を忍んでも書き残さないとならない事情ができた。僕に与えられた時間はさほど多くはないのだ。誰に宛てた手紙ではないが、こうして筆を執ることができるのも最後となるだろう。
きっかけは些細な事だったと思う。この人並み外れた狭い心は先天性のものではない。ちょっとした拍子に発生した腫瘍のようなものだ。無論、取り除こうと努力した。が、遂に報われることはなく終わってしまった。僕は「鋭角の幽霊」に取り憑かれているのだ。そして、そいつは今も背中にぴったりと張り付いて離れようとしない。こうしている間でさえ、僕は亡霊の息遣いを肌で感じて戦々恐々としている。
閑話休題。「鋭角の幽霊」の正体を明らかにするためにも、僕の個人的体験について詳らかにしておく必要がありそうだ。また、経緯を辿ることで茫漠とした幽霊に形を与える機会となるかもしれない。得体の知れない不安の源泉を探ることで、この袋小路から逃れられるならば藁にも縋ろうと思う。
さて、僕が初めて「鋭角の幽霊」と出逢ったのは十歳の頃だったと記憶している。奴は庭に打ち棄てられた土器に宿っていた。素焼きの皿は真っ二つに割れ、鋭利な刃を成した不恰好な半円形を僅かに保っているばかりで、酷くみすぼらしい品物に見えた。
「こんな瓦落多でも刃は潰しておいた方がいいだろう」身内の誰かが横着して庭に投げ棄てでもしたに違いない。僕は掌に収まる程度の大きさに割れた土器を粉々に砕いてしまおうと振り翳した。柔らかい肉に刃先が食い込み、冷たいまでの鋭い痛みがスッと走り、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。「ああ、こんなに血が出ている。服を汚してしまったし、お母さんに叱られてしまうかもしれないな」
僕は母親のヒステリー気質を日頃から恐れていた。だから、意外なほどの出血への怯えよりも母親の不機嫌から免れることを優先して考えた。あの鼓膜を穿つような金切り声の浅ましさといったら――今でも思い出すと怖気を感じずにはいられない。あれは実に厭なものだ。唾棄すべき酷いものだ。
しかし、それがいけなかった。母親への阿諛が幼い肉体を完膚なきまでに損なわせることになった。掌に刻まれた些細な傷が僕の人格を決定付けることになった。
数週間、僕は熱に浮かされ続けた。掌の傷は化膿し、そこから黴菌が体内を侵し始めただろうことは一目瞭然だった。母親のノイローゼは激化し、寝ても覚めても悪夢じみた生活が繰り返された。肥大した脳髄を切り苛むような悲鳴が響く毎に嘔吐せずにはいられなかった。後にも先にも、あれほどの苦汁を舐めさせられたことはない。
熱病に蝕まれ、夢と現の端境を往き来している数週間のうちに、僕は奇妙な幻覚に脅かされ続けた。それは、瞳を六つ持った鬼が鉾を携えて僕を追い回す幻影だった。
格子模様が施された天壇の上に僕らがいて、「ここはどこだろう」と狼狽していると鬼が鉾を振り上げて駆け寄って来る。そのまま刃に突き刺されることもあれば、息が切れるまで逃げ回った挙句に正気を取り戻すこともあった。
高熱に冒された脳髄が見せた悪夢と言ったらそれまでだが、僕は今でも六つ目の鬼――「鋭角の幽霊」に怯えながら日々を暮らしている。
実際、「鋭角の幽霊」は僕の肉体を蝕み、ある種の致命的な欠陥を残していった。熱が神経を損なったのだろう。右側の顔面は感覚がないし、筋肉が麻痺しているために不恰好な表情しか繕えない。何よりも、右瞼にできた瘤が気になってしようがない。疫病が僕の容貌を醜く崩したのだ。まるで、怪談に語られる化け物のように――二目とは見れない顔に変えてしまったのだ。
「幼い頃から中途半端な事柄が嫌いだった」と僕は書いた。人並み外れた醜い容姿が不安を誘い、或いは背中を焼くのだ。やがて、僕は美しい品々への飽くなき憧れを抱くようになっていった。それは欠落を埋めようという空しい求愛行動に他ならない。六つ目の鬼が僕に施した呪いの正体は「傲慢」なのだろう。僕は醜悪であるがゆえに華麗への執着を赦されているとすら考えているのだから。
しかし、その特権が及ばない領域が世の中には存在する。僕は理想よりも実利が尊ばれる世界に抗い続けてきた。が、気持ちの悪い齟齬に満ちた世界に僕は辟易しつつある。
それならば――僕は自身に残された僅かな領分を守るために心中しよう――そう考えている。僕は中途半端な事柄を心底憎んでいる。この曖昧な世界が厭で――厭でしようがない。辛抱ならないほど居心地が悪いのだ。
二、後暗い献身
「小事に囚われて大事を見失ってるんじゃないか?」大学生の下宿らしからぬ殺風景な部屋の床に座りながら真樹涼介は言った。客人に背を向けて将棋盤にしがみついていた相原啓太の肩が微かに撥ねた。真樹はこの機を逃さずに畳みかけるように言った。「君が棋士を志していることは知っているが、大学の籍を追われたら元も子もない」
相原は掌中で弄んでいた駒を盤上に揃えて並べると大きく嘆息してから振り返った。どんよりと澱んだ瞳から彼がある種の熱病に侵されているらしいことが窺える。青白い額には血管が浮き出し、まるで蚯蚓のように脈動している。ただ、唇だけが不気味なほど血色が良く、それが却って彼の容貌を幽鬼らしくしている。恨めしそうに細められた級友の片目に凝視されることを真樹は咄嗟に避けた。
「残念ながら、僕の見解は全く違うね。学生じゃなきゃ指せない将棋などあるものか。さっきから聞いていれば――まるで大学に在籍しているおかげで将棋を続けられているとでも言いたげじゃないか。僕の価値はモラトリアムに依存しているとでも言いたいのか?」
相原啓太は片頬を引き攣らせながら級友の諫言に反駁した。平生ならば、真樹涼介は威圧を前にして膝を屈していただろう。が、この度ばかりは譲歩するつもりは一切なかった。射るような熱視線に怯みつつも致命的な一言を遂に口にした。
「でも、君は高校生に負けたじゃないか」
真樹は明晰な頭脳の持ち主である。無論、この友人が最も触れてほしくないだろう事柄も熟知していた。同時に相原の注目を誘うためには生半可な文句を並べ立てるだけでは足りないことも理解していた。彼としても級友の膨れ上がった自尊心を針で突くような真似はしたくなかった。取り返しがつかないほどに、何かしらが損なわれる可能性すらある。が、真樹は敢えて危険を冒すことにした。それほどまでに、相原啓太を取り囲む事情は切羽詰まっていたからだ。
「インターネット上で行われた対局とはいえ、君は高校生に負けたんだ。落ち込む気持ちも分かるが、学生だからこそ柔軟な発想が刺激されることもある。大学から援助を受けることは恥じゃないし、今の君には後ろ盾が必要だと僕は考えている。さあ、一度きりの失敗に固執しないで、とにかく外に出ようじゃないか」
真樹は自身の中でムラムラと湧き出しつつある嗜虐心を抑えて諭した。この一見すると尊大な心の持ち主である友人がひた隠しにしている臆病を彼は知っていた。とはいえ、藪を突いて蛇が飛び出してくることもある。盤上の駒を操ることにしか能のない男だとは思うが、徒に闘争心を煽って間違いを起こすこともあり得ない話ではない。真樹涼介は二つの心理の微妙な均衡――云わば羞恥心と闘争心のバランス――が人間を衝き動かす源泉になると信じていた。だから、相原啓太の燃えるような意志に冷や水を浴びせ、実利に転ぶように仕向けたのである。
「言っておくが、君は何か勘違いをしているらしい。僕は確かに格下に敗北を喫したが、ある意味では満足しているのだ。僕は君が考えているほどには勝敗に固執していない。ただ、負け方にも納得していないだけなのだ。あれは美しい幕引きとは程遠い試合だった」
相原はそう言うと棋譜を諳んじながら至らなかった指手や駒組を詳しく紐解き始めた。真樹は級友の記憶力に圧倒されるばかりで、何が足りなかったのか皆目見当もつかない。ただ、相原啓太が将棋という競技に対して並々ならない執着を抱いていることだけは改めて認識した。と、同時に彼が理想に憧れるあまりに勝負の本質から目を背けようとしていることを見逃さなかった。相原啓太の闘争心は内側に向かう癖がある。それを何としても外側に向けさせなくては徒労に終わってしまう。
「美しい幕引きというのが、僕にはさっぱり分からないのだが、それはさておくとしても挽回の機会があるのに、こうも殻に籠っていては何にもなりやしない。君が何かを求めているのなら納得ゆくまで協力しようじゃないか。言ってごらん、何が必要なんだい?」
真樹は相手が存外に強情であることを察し、無闇矢鱈に理屈を弄ぶよりも、求めている物を素直に与えた方が良いと判断した。それに、時間を掛けても一向に進展しない問答に彼は半ば飽きてもいた。相原はいくらか逡巡した末に伏し目しながらボソリと呟いた。
「ああ、それなら是非とも頼みたいことがある。実は僕が大敗した相手と話がしてみたいんだ。名前すらはっきりとしないが、どうにか探し出してもらえないだろうか。必要な情報は全て提供する。スマートフォンやタブレットも自由に使ってくれて構わないから、何としても突き止めてほしいんだ」
厄介なことに巻き込まれてしまった――と思いつつも、真樹はしかたがなく頷いた。相原啓太という人財を繋ぎ止めるためならば、多少の苦労は厭わないつもりでいた。彼は学生将棋を賭博として扱い、仲間連中から少なくない金を巻き上げていた。真樹涼介の親切は友情に拠るものではない。だからこそ、彼の献身は徹底していたのである。
三、棋譜を読む
危険を冒している――という自覚はあった。が、あの肉体の芯がジンと疼くような感覚が忘れられなくて、君島芙蓉はSNSの呼び出しに応じてしまった。無論、華やかな都会で暮らす青年棋士に対して、ある種の淡い期待を彼女が抱いていなかったといったら嘘になる。彼女は埃臭い田舎の片隅で老人相手に将棋を指すだけの少女に終わりたくなかった。故郷から逃げ出すための口実が欲しかったのである。
――もう暫くすれば、この喫茶店に彼がやって来るはずだ。確か、相原啓太という名前だったかしら。先方は律儀にも氏名を明かしたが、よくよく考えてみれば偽名かもしれない。こちらも名乗ってしまったのは失敗だったかもしれない――
そう考えると芙蓉は今更ながら身だしなみを整え始めた。机上に置かれたスマートフォンをサイドバックにしまい、手持ち無沙汰を紛らわすために読んでいた小説の表紙を裏返した。なるべく、身元を示すような品物が相手の目に入らないようにしなくてはならない。が、彼女が自身の迂闊を改め終わる前に喫茶店の扉がベルを鳴らして開いた。青白い顔をした幽霊のような男がそこにいた。
――アッ、あの人が相原啓太さんかしら。そろそろ待ち合わせの時間だし、目印のハットを被っているみたい。それにしても――
芙蓉は若干の落胆を感じている自分に気が付き、もとより赤い丸頬っぺをさらに赤く染めた。彼女は自身が想像していたよりも、ずっとこの素性の知れない青年に期待を寄せていたのである。退屈な日常から連れ出してくれる素敵な男性がひょいと現れることを夢見ていたのである。芙蓉は自分の子供じみた空想を密かに恥じずにはいられなかった。
「アノゥ、あなたが君島芙蓉さんですか?」芙蓉が顔を上げると文学生の幽霊みたいな男が悄然と肩を落としながら立ち尽くしていた。肺病でも患っているのかと思うほどに男の声は頼りない。が、芙蓉は男が存外に長身であることに先ず驚いた。虚ろな声風も相まって柳のような印象を与える。思わず、両膝に置いた拳に力が入った。「初めまして、相原啓太と申します。三ケ月程以前にあなたと対局して大敗した男ですよ」
相原啓太は皮肉屋らしく片頬を引き攣らせて微笑して見せた。過度の自虐は他人をも蔑ろにする作用を持つ。剥き出しの敵意を向けられて芙蓉は殆どなき出さんばかりだった。芙蓉は自身の迂闊を悔いたが、同時に彼よりも優位な立場にあることに気が付いた。――相原啓太は私と対話したがっている。イニシアティヴを握っているのは私の方なのだ。会話をコントロールできるのも私の方なのだ。
「初めまして、君島芙蓉です。あの対局は印象深かったのではっきりと覚えています。こちらも気を衒うような指手をしなければ勝利できませんでしたから。でも、相原さんは随分と堂々とした戦略で――」
「そう、堂々とした戦略で大敗を喫した」芙蓉の言葉を遮るように言うと、相原は痩せ細った身体を折るようにして向こう側の席に着いた。芙蓉は男が意外なほど勝負に執着している様子に少なからず戸惑っていた。「友人に無理を言ってあなたを招かせて頂いたのは、あの対局についてご意見を伺いたいと考えたからなのです」
芙蓉は三ケ月以前に行われた《座興》を思い出した。彼女が「印象深い対局だった」と語ったのは嘘ではない。実際、相原啓太と顔を合わせるまで試合の展開は美化されるに相応しい劇的な内容に感じられたものだ。が、こうして対峙してみると急に熱は失われてゆき、インターネットを介した試合ということもあり、《座興》の域を脱しない凡戦だったような気がしてならない。だから、芙蓉の返答は自然と曖昧な方向へと落ち着いてしまう。どうしても、相原の熱意が滑稽に見えてしまうのである。
「まあ、意見というほどの考えは持っていないのですけれど、相原さんの指手にはちょっとした癖のようなものを感じました」
「と言いますと?」相原は着古された上着からメモ帳と鉛筆を取り出しながら訊ねた。公式試合でもないのに感想戦のような事を始めようとしている男の熱心は狂気じみて見えないわけでもない。芙蓉はこの時に至って漸く異常を察した。「僕も自身の悪癖については気が付いていました。が、ここははっきりとあなたの口から指摘して頂きたい」
「ハア、では申し上げますが――相原さんの駒組は奇妙なほど整い過ぎているというか。私がちょっとした揺さぶりをかけるような指手をすると、それを矯正するみたいな対応を何度かしていますよね?」
芙蓉の質問に男は答えない。ただ、黙々とメモ帳に何かを書き綴っているばかりである。暫くの間、沈黙が続いたが芙蓉は遂に耐えきれなくなって先を述べた。男もそれを望んでいたらしく、猛烈な勢いで紙片に何事かを書き込み始めた。
「詳しい棋譜は覚えていませんが、相原さんは先に続かない指手を数回ですが繰り返しています。おそらく、御自身でも気が付いていらっしゃるとは思います。それくらいに不自然な対応でしたから。正直に申し上げますと、相原さんは勝利とは違う目的があって駒を指していたんじゃありませんか?」
相原啓太が勝負に執着していることは明白である。が、試合の内容は不思議にも勝利に対する貪婪さに欠けるものだった。芙蓉は彼が抱えている矛盾を訝しく思い始めていた。とはいえ、相原が熱心に書き込んでいるメモ帳の中身を覗こうと考えるほどの冒険心を彼女は持っていない。
芙蓉はこの男のことが徐々に恐ろしくなってきた。相原啓太は何かに取り憑かれている。ガリガリガリガリという鉛筆と紙片が擦れ合う音が気になってしようがない。
「アノゥ、すみませんがお暇させて頂きます。嗜む程度の若輩者なのに偉そうなことを言ってしまって申し訳ございません。あまり、お気になさらずに今後も頑張ってください。それでは失礼します」
芙蓉はサイドバックを手繰り寄せると暇を告げた。その間も相原啓太は取り憑かれたように夢中になってメモ帳に書き物をしている。遂に彼が顔を上げることはなかったが、君島芙蓉にとっては幸いだったに違いない。彼女は相原啓太の顔を直視することを恐れていた。あの片頬を吊り上げるような不気味な微笑が怖くてしようがなかったのである。
芙蓉は喫茶店を出ると街の雑踏を目掛けてグングンと進んで行った。ガリガリガリガリ――という耳障りな音から逃れるために一刻も早く人群れに紛れたかったのだ。
「相原啓太は狂気に陥っている」という確信が芙蓉にはあった。暇を申し出た際に、偶然にもチラリと見えてしまったメモ帳の中身――覗くまいと努めていた紙片には隙間を見つけることが困難なほどに数字が羅列してあった。あれが彼なりの棋譜なのだろう。が、執拗に書き綴られた数列から読み取れる情報は《狂気》のみであった。
勝負に固執しながらも、勝利を捨てるような試合を展開し、ただ一心不乱に記録を取り続ける。芙蓉には相原啓太が何をしたいのか皆目見当もつかないが、彼の矛盾した行動から異常を察することはできた。
今日は、私は危険を冒した――と君島芙蓉は考える。彼女にとっての日常が他人にとってもそうであるとは限らない。おそらく、相原啓太の意識は彼岸と此岸の境を往きつ戻りつしているのだろう。芙蓉は堪らないほど寂しくなって、目抜き通りを闊歩する人群れの中心に向かって駆けて行った。
四、留守番電話
――一件のメッセージが届いています――
7五歩同歩同銀7六歩8六歩同歩同銀同銀同飛車9五角行7三角行8六角行2八角成5三角成――いや、何かが違う気がしてならない。どこで躓いてしまったのだろう。
君島芙蓉は「整い過ぎている」と言っていたが、全てが気に入らない。もっと洗練された展開があるはずだ。まだまだ余分な肉が付いている。鋭く硬い骨が見えるまで剥ぎ取らないといけない。脳髄が煮え滾り、涙腺から血液が漏れ出てしまいそうだ。心臓は早鐘を打っている。アハ、アハハ、アハハハ!
脳細胞を繋ぎ止める神経に電流が走り、あらゆる感覚が鋭敏になっている。意識さえすれば天井裏を駆け回る鼠の鳴き声すら聞こえそうだ。
8六歩同銀同飛車8七歩同銀同金6五桂馬同歩同銀――うん、こちらの方が幾分か良い。が、まだまだ贅肉が目立つようだ。もっと削ぎ落してみよう。これ以上ないほど尖らせてみよう!
僕の脳細胞は歓喜に打ち震えている。必要だったのはイマジネーション――それにちょっとした数学的思考を加えた直感だ。言語化することは難しいが、僅かに因数分解に似ていなくもない。惑わされない不動の精神――論理的思弁法とでもいったような思考が肝心なのだ。が、それを詳しく説明するつもりはない。ここは僕だけの世界だからだ。誰かと共有する気はないし、僕はそれを拒絶する。
真樹くん、このようなボイスメッセージを一方的に送り付けて去ることになった無礼を許してくれ。君島芙蓉との会合は有意義なものだった。彼女はそう感じていないかもしれないが、僕にとっては大変な意義を持つ経験となった。彼女はこう言っていたよ。「勝利とは違う目的があって駒を指しているのではないか?」と。確かにその通りかもしれない。
暫くすれば、君の許に一通の手紙が届くはずだ。あの土器に宿っていた鬼が残した悪意を祓うために、僕は将棋に執着していた気がする。「鋭角の幽霊」から逃れられることなら何でもよかったのだ。人並み外れた美醜への強迫観念を誤魔化すために熱中できる物事が是非とも必要だったのだ。
いつしか、祓うべき鬼は僕自身と渾然一体となり、格子状の天壇でキリキリ舞いするようになっていた。鬼が夢中で鉾を振る一方で、僕は将棋の駒を弄んでいたわけだ。あれほど、忌々しいと感じていた存在と徐々に同じような振る舞いをしていることに最近になって気が付いた。
長い間、「鋭角の幽霊」は僕の中に宿ったある種の病だと考えていたが、六つ目の鬼の正体は僕自身を投影した虚像に過ぎなかったのだ。いずれにせよ、もはや取り除くことができないまでに二つは共鳴し合っている。が、それを認めたくない自分がいることも確かなのだ。
僕は六つ目の鬼に精神的主導権を明け渡したくない。僕と鬼とが綯い交ぜになり、境目が曖昧になるほど苦悩や葛藤は深くなってゆく。僕はそれを阻止しなければならない。本当の狂人になる前に二つを切り離さなければならない。だから――。
だから、僕は僕自身を破壊することにしたのだ。
全く、悍ましいことだ。が、二つの影法師が重なり合い、判然としなくなってからでは遅いのだ。僕は僕自身の世界を誰にも渡したくはない。もう、「鋭角の幽霊」に阿るような暮らしは御免被る。僕はそのためにもいくつかの感覚器を破壊することにした。情報の共有がなされなければ、「鋭角の幽霊」も少しは大人しくなるだろう。
ボイスメッセージという迂遠な方法でしか、君に全てを打ち明けられないのが悔やまれる。先日、大学には退学届を提出したところだ。暫くの間、伊豆あたりの旅館でじっくりと休むつもりでいる。この不自由な身体にも直に慣れてくることだろう。
3四歩同銀同飛車2五桂馬同金3三角成4三角成3二銀同歩同金――うん、とても良い気分だ。思考を遮る要素が一切ないのだから。遂に僕は六つ目の鬼を調伏することに成功したのだ。ざまあみろ。アハ、アハハ、アハハハ!
――メッセージは以上となります――
(了)