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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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人魂

 

 骨肉(こつにく)(つち)に帰し、魂気(こんき)の如きはゆかざることなし。みる人速(すみやか)に下がへのつまをむすびて招魂(せうごん)の法を(おこな)ふべし。


 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より



 一、悪夢


 襖から漏れ出でる月明りに横顔を照らされた女が悪夢に(うな)されている。女の名は飯塚(いいづか)(とみ)というが、青白い月光に(ほの)かに照らされた寝顔には生気がない。先刻から彼女は(あえ)ぐような細い息を繰り返している。

 (つい)(こら)えかねたのか、女は布団をガバリと()()けて起き上がった。息苦しさのあまりに庭に面した襖を細く開ける。夏の生温い風が彼女の頬を()ぜて去ってゆく。

 お(とみ)は渇きを覚えて、フラリフラリとした足取りで土間までやって来ると、水瓶(みずがめ)に満たされた水を柄杓(ひしゃく)ですくい、咽喉(のど)を鳴らして飲み干した。だが、動悸(どうき)は容易に治まりそうにない。彼女は目眩(めまい)を感じて、思わず地面に膝を着いてしまった。このような夜が、もう幾度も続いている。彼女の神経は磨り減り、音を立てて切れる寸前だった。

()にも(かく)にも、横にならなければならない」お(とみ)疲弊(ひへい)していた。眠ることは難しくとも一刻も長く休みたかった。彼女は覚束(おぼつか)ない足取りで寝床に戻ろうとした。だが、悪夢は現実を侵しつつあった。お(とみ)は襖の隙間(すきま)を奇妙なものが(さえぎ)るのを見た。「ああ、また()()が屋敷を彷徨(さまよ)っている」

 昼と夜となく、それは家屋を飛び交うようになりつつある。一見すると白い肉の塊のような歪なものである。醜い(しわ)が刻まれた肉塊を目の端で捉える度に、お(とみ)慄然(りつぜん)として過去に犯した罪の記憶を思い出さずにはいられない。森林、驟雨(しゅうう)匕首(あいくち)、血潮、そして二つの肉塊――。

 寝る気はとうに失せてしまった。お(とみ)三和土(たたき)に立ち(すく)んだまま、思わず居間に(しつら)えられた箪笥(たんす)の奥に隠された秘密を心配せずにはいられない。それはカラカラに乾涸(ひから)び、(しお)れた肉の棒と玉であった。剃刀(かみそり)で切り取った愛人の一部が幻影となって家の中を彷徨(さまよ)っている。

 飯塚(いいづか)(とみ)は恋人を殺して、その死体を奥多摩(おくたま)の山中に遺棄(いき)した。今ごろ、彼の肉体は森に()みついた獣たちの餌食(えじき)となっていることだろう。羅切(らせつ)された肉塊以外は野犬の(くそ)となって大地に消えたに違いない。

 美濃紙(みのがみ)に包まれた肉塊は一種の戦利品のようなものだった。獣の餌にしてしまうのは勿体(もったい)ないと彼女は考えた。だから、お(とみ)は死体から()()睾丸(こうがん)を切り取って、誰にも奪われないように箪笥(たんす)の奥底に隠した。だが、その秘密が彼女の悩みの種となりつつあった。

 お(とみ)は自身が犯した業の深さを理解していたが、罪そのものを恥じるつもりはなかった。一度でも愛した男の局部を衆目(しゅうもく)(さら)す方が彼女にとっては恥であった。この肉が自身の内側を掻き乱し、しかも、自分がそれを嬉々(きき)として受け入れていたことを知られる方が許し難い羞恥であった。

 飯塚(いいづか)(とみ)は大正の末に八王子(はちおうじ)に構えられた呉服屋(ごふくや)の令嬢として生を受けた。長者の一人娘だった彼女は(ちょう)(はな)よと()でられて(はぐく)まれたが、両親が期待を寄せるような淑女にはならなかったようだ。

 無論、お(とみ)は世間が自身に求める理想を充分に承知(しょうち)していた。ただ、彼女が憧れる理想とは本質的に相容(あいい)れないものだっただけだ。

 お(とみ)は生涯を深窓(しんそう)の令嬢として甘んじるつもりは毛頭(もうとう)なかった。彼女は花の命があまりに短いことを理解していた。「それならば、味わえるだけの蜜を(すす)りたい」と彼女は次第(しだい)に願うようになっていった。

 番頭(ばんとう)小山内(おさない)弥吉(やきち)処女(おとめ)内奥(ないおう)に芽生えつつあった破滅的恋愛願望を看破(かんぱ)し、また、利用しようとした。甘い言葉を(ささや)き、(なか)ば無理矢理に肉体関係を(せま)った。お(とみ)籠絡(ろうらく)されるまで長い時間は掛からなかった。お(とみ)の腹が膨らみ始めると、弥吉(やきち)は店の金と共に娘を(さら)い、奥多摩(おくたま)寒村(かんそん)に身を隠した。

 だが、お(とみ)(はら)んだ子は死産に終わってしまった。弥吉(やきち)目論見(もくろみ)は失敗したということになる。お(とみ)の腹が(しぼ)んでいくのに伴って、弥吉(やきち)の態度は冷徹なものへと変わった。如何(いか)に世間を知らない令嬢でも自分が男の慰み者にされていたか(さと)らないわけがない。お(とみ)は自分と腹の子が人質(ひとじち)にされていたことを(ようや)く知った。

「こうなったら心中するしかあるまい」と初めに言い出したのはお(とみ)の方からだった。彼女は我が子を失った母親の悲歎(ひたん)を見事に演じてみせた。無論、彼女は弥吉(やきち)が腹の底で自身を切り捨てる算段を立てていることを知っていた。だから、彼女は帯締(おびじ)めに匕首(あいくち)を忍ばせることを忘れはしなかった。

 昭和十年十一月某日に飯塚(いいづか)(とみ)奥多摩(おくたま)(そび)え立つ雲取山中(くもとりさんちゅう)で、心中を(いつわ)って小山内(おさない)弥吉(やきち)を刺し殺した。惨劇から数か月が経とうとしているが、弥吉(やきち)の死体が見つかったという(しら)せはない。きっと、箪笥(たんす)の奥底に秘められた美濃紙(みのがみ)の中身さえ明かされなければ、弥吉(やきち)行方(ゆくえ)は永遠の謎になるに違いない。

 だが、飯塚(いいづか)(とみ)にとってはそうではない。家屋の内を漂う肉塊は日毎(ひごと)に輪郭を(こく)している。ブヨブヨとした生青い肉玉(にくぎょく)が、ふとした途端(とたん)に現れるようになってから久しい。それを目にする度に、弥吉(やきち)のことを思い出さずにはいられない。お(とみ)は懐かしさと憎らしさを胸中に(いだ)きながら眠れない夜を(いたずら)に重ねるばかりであった。



 二、花盛り


 小山内(おさない)弥吉(やきち)八王子(はちおうじ)呉服屋(ごふくや)から盗み出した金は相当な額だったが、身を隠す期間が長引くほどに目減りしていった。飯塚(いいづか)(とみ)が彼を殺害するに至った理由は少なからず金に起因(きいん)している。お(とみ)奥多摩(おくたま)の自然が好きだったし、この土地で一人生きることに魅力を感じていた。

 お(とみ)弥吉(やきち)が残した(あま)(がね)村長(むらおさ)便宜(べんぎ)(はか)り、一人の下男(げなん)を雇い入れた。名を佐助(さすけ)といい、無口だが実直な男で()つよく働いた。知恵が秀でているとは言い難かったが、弥吉(やきち)との腹の探り合いに()いていたお(とみ)にとっては(かえ)って好ましくも感じられた。

 下男(げなん)の力を借りながらも令嬢は女性らしい(たくま)しさを(もっ)て穏やかに暮らしていたが、その幸福も長くは続かなかった。影は日毎(ひごと)に濃さを増してゆく。

 空中を舞う肉塊は下男(げなん)には一切(いっさい)見えないらしい。佐助(さすけ)は頭上を飛び回る人魂に構うことなく、敷地の許す限り大地を耕し続けたし、お(とみ)()えて彼に教えようとしなかった。それが(えき)もなければ(がい)もない事のように思えたからだ。「私の胸の内に留めておくだけで良い」と当初こそお(とみ)は考えていた。しかし、彼女の精神はさまで頑強ではなかった。人魂の執念は飯塚(いいづか)(とみ)の想定の範疇(はんちゅう)を越えていた。

 肉塊の飛来(ひらい)は昼と夜となく続いた。やがて、弥吉(やきち)の霊魂が彼女の根幹を揺さぶり始めた。肉体の内奥(ないおう)を掻き乱した物の記憶が不意に(よみがえ)る。忘れようとしても(こら)えようのない(うず)きとなって(ねや)(うるお)しもした。未練などないと思っていたが、それは自己に課した欺瞞(ぎまん)に他ならなかったらしい。お(とみ)はそれに気が付きつつあった。

「自分の身体はどこかおかしいのだろうか」飯塚(いいづか)(とみ)は眠れぬ夜を輾転(てんてん)しながら思う。弥吉(やきち)の肉を後生大事(ごしょうだいじ)に隠し、処分できずにいることを(かえり)みても疑問は尽きない。「あれほど、憎んだ男の肉だというのに(ゆか)しく感じてしまうなんて――」

 医師の力を頼ろうと考えた事もある。だが、最後にはいつだって羞恥心が(まさ)り、彼女の決意をあっさりと(にぶ)らせた。殺人の罪が露見するよりも、淫乱の業を認める方が恐ろしかった。彼女が悩みを(つの)らせていることを嘲笑(あざわら)うかのように、弥吉(やきち)の霊魂は家屋の内を飛び回るのを止めようとしなかった。

 下男(げなん)は一通りの仕事を終えると早々(そうそう)に屋敷を去ってしまう。お(とみ)(くわ)(たずさ)えて大股で歩いて帰ってゆく下男(げなん)の後ろ姿を寂しく見詰めるばかりである。特別、おもしろい男ではない。弥吉(やきち)と比較する余地もない程に野暮(やぼ)な男だし、人並みの会話すらままならないことも屡々(しばしば)ある。それでも、お(とみ)佐助(さすけ)を一人の雄として品定めせずにはいられない。(つつし)まねばならないと理解していても止めることができない。飯塚(いいづか)(とみ)は着々と落伍(らくご)しつつあった。それが情けなくてしようがない。だが、それも詮方(せんかた)なきことだった。

 冬ごもりを前にした獣のように、飯塚(いいづか)(とみ)は人知れず性欲を肥えさせていた。下男(げなん)佐助(さすけ)が去った後こそが彼女としては地獄であった。青白い肉塊の如き霊魂が彼女の煩悩(ぼんのう)否応(いやおう)なく刺激するのだ。お(とみ)日毎(ひごと)に自身が浅ましい畜生(ちくしょう)に近づいてゆくのを感じ取っていた。弥吉(やきち)の人魂は家屋を漂うだけで、何かを働き掛けようとは一切(いっさい)しない。だが、それだけでお(とみ)とっては充分の「(しゅ)」となった。

「一刻も早く、この飢えを満たしたい。そのためならば――」と考えながら舌舐(したな)めずりして男を見ていることに気が付き、お(とみ)物凄(ものすご)いまでの羞恥を覚えて震え(おのの)いた。恥ずかしい、浅ましい、情けない、恐ろしい――そういった感情が彼女の胸中で激しく渦を巻いていた。だが、彼女の懊悩(おうのう)を知る者はいない。

 やがて、月日が巡って師走(しわす)となった。「雲取山(くもとりやま)の麓に咲いた寒椿(かんつばき)」とお(とみ)(あこが)れる男も少なくない。実際、彼女は弥吉(やきち)を殺めてから美しさに磨きが掛かったようだった。花盛りの迎えた女を惜しむ男たちは下男(げなん)として屋敷に通う佐助(さすけ)を一様に(うらや)んだが、その花の正体が鬼であると察する者は一人としていなかったのである。



 三、剃刀


 ある冬の晩のことである。雲取山(くもとりやま)からの山颪(やまおろし)()てられて、お(とみ)は酷い熱を出した。下男(げなん)佐助(さすけ)は看病を申し出たが、彼女はこれを断った。朦朧(もうろう)とした意識のまま自分の中で膨らみつつある欲望を律する自信がなかったからである。熱で(うな)されて彼女はまたしても悪夢を見ることになる。

 お(とみ)は布団の内で悪寒(おかん)に耐えながら震えていたが、(つい)には跳び起きて(かたわ)らに備えていた桶に嘔吐(おうと)した。風呂桶に溜まった反吐(へど)呆然(ぼうぜん)と見詰めている間に、悪夢の内容が舞灯籠(まいどうろう)のように胸中を去来(きょらい)してゆく。封印していた記憶が紐切(ひもき)られて、代わりにとある幻影を結び始めた。

 紅色(べにいろ)友禅(ゆうぜん)を身に(まと)った女の子、()れた顔をして手を伸ばす父親、頬に垂れる粘ついた(よだれ)の感触、股の間で(いや)らしく(うごめ)く節くれだった指、襖越しにいるはずの母親は助けに来ない――そういった不快な感覚が生々しくも一挙(いっきょ)(よみがえ)ってくる。

 お(とみ)は自身の内側に脈々と流れる(けだもの)の血に気が付き、(すべ)合点(がてん)()くと同時に全身を掻き(むし)りたいような強い嫌悪感に(さいな)まれた。浅ましい、汚らわしい、情けなくてしようがない。途端(とたん)に胃液が()り上がり、お(とみ)は盛大に嘔吐(おうと)した。

 ()()していた(おもて)を上げると、目の端で弥吉(やきち)の人魂が漂っている様を(わず)かに捉えることができた。お(とみ)はその軌跡(きせき)を追おうと(こころ)みたが容易ではない。弥吉(やきち)の霊魂は鬼を自覚した女の瞳から逃れるように現れては消えてを繰り返す。

 (おぞ)ましい記憶を取り戻した鬼女は肉塊の如き霊魂を()(こう)から見詰めようと努めた。その双眸(そうぼう)炯々爛々(けいけいらんらん)と鋭く光り、一切(いっさい)の惑いを感じさせないものに変わっていた。お(とみ)は自身の中で膨れ上がっていた肉欲の源泉(げんせん)を認知した。正体不明の熱気は急速に失われ、代わりに冷徹な復讐心が彼女の内側で萌芽(ほうが)しつつあった。

 熱病に侵された身体で這いながら鏡台(きょうだい)の前までやって来ると、お(とみ)は引き出しの内から一挺(いっちょう)剃刀(かみそり)を探り取った。安普請(やすぶしん)の雨戸から漏れる月光を浴びて、(さび)の浮いた刃が(にぶ)く輝いている。弥吉(やきち)(あや)めた夜のことを思い出す。あの晩、彼を羅切(らせつ)した時に覚えた快感は(ほうむ)り去ったはずの記憶に起因(きいん)していたのかもしれない。

 鏡に映じた自分の姿をジッと見詰める。憔悴(しょうすい)した顏の中に(なま)めかしい陰翳(いんえい)(かす)かに見て取れた。それは菩薩(ぼさつ)(そう)とも般若(はんにゃ)(そう)ともいえる不可思議(ふかしぎ)面容(めんよう)であった。お(とみ)は暗がりの中で静かに微笑した。これから、自分が()すべきことを理解したような気がしたからである。

 箪笥(たんす)の奥底に隠された弥吉(やきち)の肉が腐臭(ふしゅう)を放ち始めたような気がした。美濃紙(みのがみ)に包まれた肉片は乾涸(ひから)び、血の一滴すら残されていないはずである。無論、今更ながら腐臭(ふしゅう)など漂うべくもない。お(とみ)の心中で嫌悪の情は否応(いやおう)なしに膨らみ続ける。

 ――太陽が昇ったら燃やしてしまおう。そうすれば、弥吉(やきち)の霊魂も消え失せるかもしれない。でも、きっと私は満足しないだろう。この(けが)れをすっかり(はら)うためにすべき事とは――

 そう考えて、飯塚(いいづか)(とみ)は手に握られた剃刀(かみそり)仔細(しさい)に見詰めた。「()ずは、この(さび)を落とさなければならない」と熱に浮かされながらも彼女は思う。雲取山(くもとりやま)稜線(りょうせん)に日が掛かるまでに刃を()いでおかねばならない。

 思案に(ふけ)る彼女の頭上で人魂が頼りなく舞っている。男たちの憧憬(しょうけい)を吸い上げて、お(とみ)はいよいよ美しくなってゆく。まだまだ、夜は明けそうにない。



 四、惨劇


 明朝、暁烏(あけがらす)の鳴き声に背中を押されながら、下男(げなん)佐助(さすけ)雲取山(くもとりやま)の麓を目指して、(にぶ)い歩調で坂道をノロノロと上っていた。

 村の男衆(おとこしゅう)は皆一様に佐助(さすけ)のことを(うらや)んだが、彼にはその理由がちょっとも分かっていない。「雲取山(くもとりやま)寒椿(かんつばき)」の噂が立つ度に男連中は野猿(やえん)のように色めきだったが、佐助(さすけ)飯塚(いいづか)(とみ)の美貌がむしろ恐ろしく感ぜられた。

 村の男たちは佐助(さすけ)莫迦(ばか)のように扱っていたし、彼自身もそうなのだろうと思い込んでいた。だが、佐助(さすけ)の判断は間違っていなかったことになる。それを知る頃には全てが(あと)(まつ)りとなってしまったわけだが――。

 閑話休題(かんわきゅうだい)。ただ、読者はこの男がそれくらい愚直(ぐちょく)為人(ひととなり)をしていたという事実だけ知ってくれていれば良い。彼は働くこと以外に喜びを見出せない(つつ)ましい人間であった。

 ――昨晩、奥さまは風邪を()していらっしゃったようだが、あのままにして帰るのは不手際(ふてぎわ)だったな――

 母と子の二人暮らしとはいえども、佐助(さすけ)貧窮(ひんきゅう)(あえ)いでいた。村長(むらおさ)から仕事を斡旋(あっせん)されなければ、乞食(こじき)にまで落伍(らくご)してしまうところだったのだ。また、村長(むらおさ)は彼らの貧しさを重々承知(じゅうじゅうしょうち)していた。

 良人(おっと)が姿を(くら)ましてしまったとはいえ、お(とみ)は人妻の身であることに違いはない。易々と欲に屈する身代(しんだい)の者に世話を任せるわけにはいかない。そういった事情を(かんが)みた末に、村長(むらおさ)佐助(さすけ)愚鈍(ぐどん)さを信用することにしたのである。奴なら色に(おぼ)れることはないだろう――それが村長(むらおさ)(くだ)した判断だった。

「もし、奥さまの身に大事が起こったら、(ぜに)っこが(もら)えなくなる。昨晩は意地(いじ)でも居残るべきだったのだ。それなのに――」

 それなのに――佐助(さすけ)飯塚(いいづか)(てい)を後にして立ち去った。言いようのない不安が彼の背中をジリジリと焼いていたからだ。

 村の男連中が口を(そろ)えて(たた)える女主人の美貌が発熱に伴って、徐々に鋭利なものに変化してゆく。(こと)双眸(そうぼう)炯々(けいけい)と輝き物凄(ものすご)(まで)であった。それでも、佐助(さすけ)は看病のために一度は飯塚(いいづか)(てい)に留まろうと申し出た。だが、その必要はないという答えを聞くや(いな)や、これを幸いに逃げるようにして坂道を駆け下りて行った次第(しだい)である。

「あの家には不吉な空気が漂っている」佐助(さすけ)は主人のお(とみ)が時々あらぬ方向を――それは天井の角だったり、縁側の隅だったり、何とはなしに陰気(いんき)(とどこお)ったような場所を凝視(ぎょうし)して動かない様子を屡々(しばしば)目にしている。だが、それを指摘する勇気はなかったし、荒屋(あばらや)(とこ)()している老母の姿を思うと、()いて根を掘り下げることは愚行(ぐこう)のようにも感ぜられた。「今は(ぜに)っこが必要だ。そのためには働かなけりゃあならん」

 雲取山(くもとりやま)を背にして飯塚(いいづか)(てい)は建てられている。贅沢(ぜいたく)な館とは言い難いが、佐助(さすけ)の目には充分立派な家屋に映った。それ程までに、この男は貧窮(ひんきゅう)(あえ)いでいた。昨晩に感じた不安を払拭(ふっしょく)しようと力を込めて戸を叩くと、やや間を置いた(のち)に主人が戸口から顔を覗かせるような恰好(かっこう)で現れた。

「ああ、佐助(さすけ)さん。ちょっと具合が良くないのよ。昨晩は断ってしまったけれど、世話して下さらないかしら。心細くってしようがないのよ――」

 飯塚(いいづか)(とみ)は消え入るような声で言うと、屋内にスッと姿を隠してしまった。佐助(さすけ)も主人の後を追うようにして敷居(しきい)(また)いだ。雨戸が閉め切られているため室内は暗い。ムッとするような病人特有の瘴気(しょうき)が立ち込めているのだが、(かす)かに別の香りが交ざっているように思えた。これは――肉が焼ける臭いだろうか。

 佐助(さすけ)が屋内の様子を(しき)りに(いぶか)しんでいると、座敷(ざしき)の暗がりに(まぎ)れて立っていた主人が不意に蹌踉(よろ)めいた。下男(げなん)は慌てふためきながらも身体を支えるために駆け寄った。お(とみ)の小さな肉体が佐助(さすけ)(たくま)しい腕の中に倒れ込む。

 その途端(とたん)の事である。佐助(さすけ)(した)(ぱら)に燃えるような痛みを感じた。懐中に女を(かか)えながら床に膝を着く。馥郁(ふくいく)たる黒髪の香りが鼻腔(びくう)を満たす。柔らかな乳房(ちぶさ)が胸板に押し付けられる。そのどれもが、佐助(さすけ)にとって未知の感覚だったが(よろこ)びよりも痛みが(まさ)っていた。

 お(とみ)の肉体が両腕の内から離れると共に、佐助(さすけ)の腹から(おびただ)しい程の血潮が流れ出した。腸腑(はらわた)を傷つけられたのだろう。四肢から力が抜けてゆく。佐助(さすけ)(つい)仰向(あおむ)けに(たお)()してしまった。

 徐々に意識が薄れてゆく。女の華奢(きゃしゃ)な指が猿股(さるまた)に絡み付き、スルスルと引き下ろし始めた。裸に()かれた両腿の隙間(すきま)に鋭く冷たい刃が優しく(あて)がわれる。そして――プツリと音を鳴らして人魂が切り離された。


 (了)




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