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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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人面瘡

 平成三年の十二月の頃だったと思う。冬の雨が安普請(やすぶしん)の窓ガラスを濡らす日曜日の朝に、一通の手紙を受け取った。

 無骨(ぶこつ)な茶封筒に記された墨痕(ぼっこん)(あざ)やかな文字には見覚えがあった。裏を返してみると、懐かしい友人の名前が遠慮するように、小さく書かれていた。

 手紙の送り主であるAは、高等学校を卒業した後も故郷(こきょう)に残った、数少ない友人の一人であり、土地の人々から「御殿(ごてん)」と呼ばれる贅沢(ぜいたく)な邸宅に、父親とともに暮らす御曹司(おんぞうし)であった。

 Aとは中学生のころに幾度(いくど)か本の貸し借りをしているうちに知己(ちき)となったのだが、私の貸した本が彼の書棚(しょだな)()やしになったためしは一度としてない。裕福な家柄に生まれたことに()るのか、彼は私に見返りを求めようとはしなかった。曖昧(あいまい)な微笑みのうちに、全てを有耶無耶(うやむや)にしてしまう不思議な余裕が彼にはあった。その豊かさが私とAの心の距離となってそのまま現れたのだろう。次第(しだい)に私の足は遠のき、(おろそ)かになっていった。

 当時、大学四年生だった私は、Aからの手紙を快く思うほどの度量(どりょう)を持ち合わせていなかった。茶封筒の(ふく)らみ方から、相当の枚数の便箋(びんせん)が込められていると察しておきながら、同窓生から彼の訃報(ふほう)を聞かされるまで、決して封を切ろうとはしなかったほどだ。

 大学で教育を学んでいた私は、折しも実習先で悶着(もんちゃく)に巻き込まれ、その始末(しまつ)のために慣れない革靴を履いて方々(ほうぼう)を駆けずり回っていたところだった。故郷(こきょう)で豊かに暮らしているだろうAとは雲泥(うんでい)の差である。手紙という迂遠(うえん)な方法で自身の人生の順境(じゅんきょう)(しら)せようとしているのだろう、としか思えなかった。少なくとも、彼の訃報(ふほう)を受けるまでは、(かたく)なにそう思い込んでいた。

 私はその時の自身の薄情さを思い返すたびに、背筋を冷たい指先でなぞられたような、筆舌(ひつぜつ)()くしがたい嫌な気分に襲われる。私はAの心からの叫びに気が付いてやれなかったのだ。見栄(みえ)虚飾(きょしょく)のために、友人の死を止める機会を、みすみす見逃したのだ。

 手紙には目を疑うような奇妙な体験と悲痛な告白が連綿(れんめん)(つづ)られていた。今となってはその真意を知る(すべ)は失われてしまったが、彼が(みずか)ら死を選ぶまでに懊悩(おうのう)し、追い詰められていたことだけは確かだった。

 茶封筒に込められた便箋(びんせん)には涙で濡れた跡すら認められた。黒のインクが(にじ)んだ様は、ちょうど血が(したた)ったようであり、またそれがAの体験した出来事の陰惨(いんさん)さを、暗に示しているようにも思われるのだった。その手紙はこんな風に始まっていた。



 この告白を読めば、君もきっと僕のことを軽蔑(けいべつ)するようになるだろう。僕の脳髄(のうずい)が平静を保っている間に、君にだけは秘密を打ち明けたかった。迷惑に感じるかもしれないが、どうか我儘(わがまま)を許して欲しい。

 君は清々(すがすが)しいほど素直な人だから、僕の浅ましい所業(しょぎょう)を知って、ある種の(いきどお)りを覚えるかもしれない。白状(はくじょう)すると、僕は君にほとんど()れていたといってもいい。全力を(かたむ)けて熱中する君のひたむきさに、僕はいつだって(あこが)れを(いだ)いていたのだ。何度、君の(たくま)しい腕に()かれる夢をみたことだろう。君の熱っぽさが僕には心地良(ここちよ)かったのだ。

 ここで筆を置けば、僕たちの友情は(そこ)なわれることもない。だが、だからこそ君には僕が犯した罪を知ってもらいたいとも思う。それが僕なりの誠意(せいい)の示し方なのだ。都合(つごう)の良い話かもしれないが、僕の懺悔(ざんげ)に神父役として付き合ってくれたまえ。

 君も『ジキル博士とハイド氏』は読んだことがあるだろう。僕の肉体にはふたつの精神が宿(やど)っている。どうかこのことを覚えておいてくれたまえ。告白が進むにつれて、僕の言わんとするところが分かってくるはずだから。

 僕が記憶している最も美しい情景は、月明りの下で湯浴(ゆあ)みをする母の姿である。たしか、蔵王(ざおう)あたりの露天温泉(ろてんおんせん)だったと思う。(あざ)やかに染まった紅葉(もみじ)が風に吹かれて散っていた。黒々とした安山岩(あんざんがん)湯縁(ゆふち)に腰掛けて、銀盆(ぎんぼん)のような月を(あお)ぎ、火照(ほて)って上気した肢体(したい)秋風(あきかぜ)(さら)して(すず)む姿は、ぞっとするほど(あで)やかだった。母は二十七歳で夭逝(ようせい)したから、随分(ずいぶん)と幼い時分(じぶん)の記憶であるはずだ。物心の区別を知らないほどに(いとけな)いくせに肉の臭いを感じたのを覚えている。

 母が生きていれば四十五歳になるはずだ。僕は母が二十三歳の時に生まれた子であるから、四年間ばかりで膝元(ひざもと)から離されたことになる。僕が抱いている「母親之図(ははおやのず)」は、この(わず)かな時間の内に(つちか)われ、また同時に止まっているといえるだろう。僕が思い描く母親はいつまでもみずみずしく、まるで老いることを知らないのである。

 若く美しい伴侶(はんりょ)を失った父は、人が違ったように残忍(ざんにん)な暴君へと変わっていった。日のあるうちから大酒を飲み、日が落ちると女を屋敷に連れ込むようになった。僕は随分(ずいぶん)(みじ)めな思いをしたものだ。押し入れに隠れて、必死になって耳を(ふさ)いだ。それでも屋敷のどこかから女の嬌声(きょうせい)が聞こえてくる。肉を打ちつけるような音が響いてくる。君、これほど苦しい事といったらないよ。

 父の暴力が直接、僕に及ぶこともあった。竹刀で背中や尻を(あざ)が残るほど執拗(しつよう)に叩くのが、父の好みだったらしい。ただ、ある理由から拳骨(げんこつ)が顔に飛んでくることだけは決してなかった。それはまた後に詳しく記すとして、父が全くの鬼畜と()()てたことだけは確かだ。それが生来(せいらい)の性格であるのか、妻を失った衝撃がさせたのか、判然とはしないが、僕にはどうも前者であるように思えてならない。

 君も知っていることだと思うが我が家には金があった。幸いなことに暴君は金銭のことに関してはおおらかだった。僕は決して浪費家(ろうひか)ではなかったが、それでも随分(ずいぶん)贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていたと思う。高塀(たかべい)の内側で毎夜のごとく行われる乱痴気騒(らんちきさわ)ぎに()えるためにいくらかの金銭を使って、平静を保つようになっていた。君との交遊が救いとなったことは言うまでもない。

 白状(はくじょう)するが、僕はあまり文学を好まない。僕の家にはかなりの蔵書(ぞうしょ)があったが、君に触発(しょくはつ)されるまでほとんど無知だったといっていい。君の足は次第に我が家から遠のいていったが、それは当たり前の結末だったのかもしれない。君が熱を込めて語る文学論に(こた)えるほどの力を、、僕は初めから持ち合わせてはいなかった。

 あまりある金銭に(たよ)って、君を(つな)()めようとも考えたが、結局はしなかった。君はきっとそれを受取ろうとはしなかっただろうし、軽蔑(けいべつ)されるだろうことは分かりきっていたからだ。だが、今となっては君から軽蔑(けいべつ)されることになろうとも、僕の正直な心を知っておいてもらいたいと考えるようになっている。我儘(わがまま)を言っていることは承知(しょうち)しているが、書かずにはいられないのだ。

 父の乱行(らんぎょう)(おび)えながらも日々を過ごすことができたのは、一重(ひとえ)に懐かしい母の思い出のおかげだった。黒々とした切岩(きりいわ)湯縁(ゆふち)に腰掛けて、(ほの)(しろ)い月光を一身に浴びる母の様は、観音(かんのん)(さま)彷彿(ほうふつ)とさせるほどに美しかった。僕はほとんど母を崇拝(すうはい)していたといってもいいくらいだ。だが、僕が彼女の敬虔(けいけん)な信徒としていられたのは、ごく短い間だけにとどまり、その後、ほどなくして信仰を捨てることとなった。僕は自身の肉体に通う血筋(ちすじ)のことを全く失念(しつねん)していたのだ。それはまごうことなき鬼畜の血だった。

 君と知り合って間もなくの出来事だったと思う。君に後れを取るまいと夜が()けるまで読書に(いそ)しんでいると、むっとするような酒の臭いを漂わせながら、父が僕の部屋に入ってきた。また、竹刀で打擲(ちょうちゃく)されるのかもしれないと身体を強張(こわば)らせていると、突然、だらしなく(ゆる)んだ顔を近づけて接吻(せっぷん)してきた。いやらしく舌を(うごめ)かしながら(つばき)を流し込む父の目つきを、生涯(しょうがい)()けて忘れることはできないだろう。僕は父によって(インクが乱暴に塗りつぶされていて判読不能)にされたのだ。

 こういったおぞましい夜が幾度(いくど)か繰り返された。(ねや)の内で父は僕の貧相(ひんそう)な肉体を()(いだ)きながら、しばしば譫言(うわごと)めいた口ぶりで妻の名前を口にした。亡き妻に対して()びているのではないことは明らかだった。僕が細い腕で抵抗すればするほど、父の鬼畜の血潮(ちしお)()えたぎったようだから、彼の禿頭(とくとう)慚愧(ざんき)の念が悩ませていたとは考えがたい。執拗(しつよう)愛撫(あいぶ)を加えながら熱に浮かれたように母の名前を呼ぶ父の姿は、まるで巨大な赤子のようだった。

 父は僕の容姿に亡き妻の面影(おもかげ)を見出したようだった。僕は押し入れの奥から行李(こうり)を引っ張り出して、数少ない母の写真と鏡に映った自分の顔を見比べたりもしてみたが、父があれほど執着(しゅうちゃく)するほどの類似(るいじ)を見つけることはできなかった。もしかしたら、母を(した)うあまりに目に見えない霊が僕の肉体に(くだ)ったのかもしれない。父親から(しいた)げられるという経験は辛いものだったが、それは同時に自分の肉体に母親の霊が宿(やど)っていることを示していた。少なくとも当時の僕はそう考えていた。苦痛と歓喜が(こん)(ぜん)一体(いったい)となって僕の中を渦巻(うずま)いていた。痛みが大きければ大きいほど、それに(ともな)(よろこ)びも深いものとなった。

 父親が酒によって健康を崩すようになってからは、幾分(いくぶん)か平穏な日々が続いたが、相変わらず母親への思慕(しぼ)崇拝(すうはい)(つの)る一方だった。僕は母親という女神に、(こうべ)()れる熱心な信徒だった。母を思うたびに(つか)()陶酔(とうすい)を感じる様にすらなっていた。

 君、ギリシャの神であるナルシスは泉に映った自分の姿に陶酔(とうすい)はしたが、情欲(じょうよく)()()てられたと思うかい。もし、そうであったのなら、それは罪だと思うかい。これは僕にとっては重大な問題なのだ。

 それは十三歳の頃に初めて訪れた。寒さの厳しい時節(じせつ)だったため、暖房器具を付けたまま就寝(しゅうしん)してしまったことが(わざわ)いしたのだろう。ぬるま湯に()かるような心地の良い微睡(まどろ)みが、蔵王(ざおう)での温泉の記憶を思い起こさせた。僕は夢の中で母親と邂逅(かいこう)した。水の(したた)柔肌(やわはだ)(あら)わにし、月光を背にして()(ふち)に腰掛ける母は艶然(えんぜん)とした微笑みを浮かべていた。やがて夢の中の母はなだらかな曲線を描く乳房(ちぶさ)を片手ですくい上げるような仕草(しぐさ)をして、(インクが乱暴に塗りつぶされていて判読不能)した。 

 あれは母の姿をした夢魔(むま)であった。そして、僕は夢幻(ゆめまぼろし)であると知りながら身を預けてしまった。夢から目覚めたとき母親への信奉(しんぽう)(くず)()っていた。気だるさだけがそこにはあった。恐ろしいまでの虚無(きょむ)が代わりに胸の内を支配していた。僕は夢の中とはいえ、女神を冒涜(ぼうとく)してしまったのだ。後には何も残っていなかった。

 僕は自身の肉体に脈々(みゃくみゃく)と流れる鬼畜の血を憎まずにはいられなかった。月日が()つにつれて増していく肉体の獣臭(けものくさ)さに耐えきれず、嘔吐(おうと)したこともあった。僕は敬虔(けいけん)な信徒のように振舞(ふるま)っていたが、その実、自身の性の発露(はつろ)を手なずけることもできない貪婪(どんらん)な人間だったのだ。そういった苦悩を嘲笑(あざわら)うかのように、夢魔(むま)が現れる回数は次第(しだい)に増えていった。情けなかった。申し訳なかった。だが、どうすることもできなかった。

 十五歳になると夢の中で母を冒涜(ぼうとく)するたびに、(いまし)めとして自らの身体を()(さいな)むようになった。腕や太腿から(したた)るどす黒い血を見ていると、少しだけ清々(すがすが)しい心持ちになるのだ。しかし、そうした瀉血(しゃけつ)行為(こうい)が本質的な問題解決に(つな)がるはずもなく、身体にはいたずらに切り傷だけが残るだけである。母親への思慕(しぼ)崇拝(すうはい)は、もはや手を付けられない瀬戸際(せとぎわ)まで追いやられ、巨大な悪夢として襲い掛かるようになっていた。

 僕は必死になってそれを(しず)めようと(こころ)みたが、無駄(むだ)に終わったわけだ。ナルシスの陶酔(とうすい)情欲(じょうよく)が罪だとするのなら、僕は紛れもなく咎人(とがびと)だった。

 考えを重ねたすえに、僕は夜毎(よごと)に襲ってくる夢魔(むま)(はら)()けるために、(わず)かに残されていた母親との紐帯(ちゅうたい)を切り落とすことに決めた。僕の自傷(じしょう)は腕や太腿から、(へそ)の周りへと移っていった。痛みよりも辛さの方が(まさ)っていた。僕は親不孝(おやふこう)への(つぐな)いのために、(へそ)を中心にしてできた()()りのような傷に母の名前をつけた。貴子(たかこ)という名を与えた傷痕(きずあと)に、僕は毎晩のように語り掛けた。それは、母を冒涜(ぼうとく)してしまったことを悔悛(かいしゅん)したいという気持ちに駆られての行為だった。

 僕が泣いて悔やんでも、貴子(たかこ)は初めのうちはむっつりと黙っているだけで、何も語ろうとはしなかった。だが、幾夜(いくよ)となく僕の悔悟(かいご)を聞いているうちに、貴子(たかこ)の方でも思うところがあったのだろう。やがて、()()りを(うごめ)かして(かす)かに反応を示すようになってきた。もしかしたら、口に相当する傷がないために話すことができないでいるのではないか、と思い立った僕はすぐさま剃刀(かみそり)を手に取って、(へそ)の下の辺りに切れ目を(ほどこ)した。貴子(たかこ)がほっとため息をすると(あふ)れ出す血潮(ちしお)が泡を立てた。それをこそばゆく感じたのを覚えている。

 傷はいずれ治るものだから、貴子(たかこ)は放っておくと黙ったままになってしまう。僕はその度に剃刀(かみそり)で腹の肉を切り裂いて、彼女が自由に話すことができるようにしてやった。口だけでは可哀想(かわいそう)なので目を(こしら)えてやったりしているうちに、貴子(たかこ)段々(だんだん)と人間の顔に近づいていった。貴子(たかこ)は自身のことをあまり話したがらないが、夜になるとよく子守(こもり)(うた)を歌ってくれる。僕は甘い情緒(じょうちょ)に包まれながら、またしても蔵王(ざおう)の夢を見るようになった。不思議なことに、貴子(たかこ)が歌ってくれる夜には不思議と夢魔(むま)は現れなかった。僕は次第(しだい)貴子(たかこ)なくしては夜を乗り越えることができなくなっていった。

 貴子(たかこ)幾度(いくど)となく窮地(きゅうち)(おちい)った僕を救ってくれた。時には本物の母親のように叱責(しっせき)してくれることもあった。僕が貴子(たかこ)を愛おしく思うようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 こんなことがあった。僕が人目を(しの)んで半身を湯に()けていると、貴子(たかこ)が口をぱっくりと開けて、懐かしい民謡(みんよう)を歌い始めた。千歳山(ちとせやま)から、と始まる歌は貴子(たかこ)の鈴を振るうような声につきづきしくはあったが、紅花(べにばな)雅称(がしょう)である末摘(すえつむ)(はな)は母には似合わないとも思い直して、ついつい、苦笑してしまった。貴子(たかこ)()ねてしまったのか、歌を止めてしまった。僕は腹回りを丁寧に洗ってやることで謝意(しゃい)を示した。それだけでも僕たちは充分に互いの気持ちを分かち合えるようになっていた。

 貴子(たかこ)を隠しながら風呂から上がると、大酒によって身体を()(くず)した父と鉢合(はちあ)わせしてしまった。父は服を脱ぎ終えると、憮然(ぶぜん)とした表情のまま、「母さんみたいなことをするな」とつぶやき、煙の立ち込める風呂場へと消えていった。汗ばむシャツの下で貴子(たかこ)が、クスクスと笑っていた。それが母の好んだ歌だったことを貴子(たかこ)は布団の中で教えてくれた。僕の知らない母の姿を貴子(たかこ)は不思議にも覚えているようだった。そんなことが、しばしばあった。

 きっと君は混乱しているところだろうが、僕の腹の上には確かに意思(いし)を持った傷が存在しているのだ。『ジキル博士とハイド氏』のことを書いたのは覚えているだろう。僕の肉体にはふたつの精神が(むつ)まじく手を取り合って共存(きょうぞん)しているのだ。そこには一切(いっさい)のわだかまりはなく、安らかさだけが無限に広がっている。奇妙だと思うだろうが、僕は貴子(たかこ)が愛おしくて(たま)らないのだ。

 ()しむべくは貴子(たかこ)の容貌が徐々(じょじょ)(いびつ)なものへと変わってきたことだろう。切り傷が()えるたびに剃刀(かみそり)で腹を裂いてやるのだが、そのうちには幾度か化膿(かのう)した箇所(かしょ)もあり、見るも無残(むざん)(かさ)(ぶた)となってしまった。最初のうちは(はは)(ゆず)りの(しら)(はだ)に走る幾筋(いくすじ)の赤い線だったのが、今となっては茶や紫に変色した異様な(あと)が複雑な凹凸(おうとつ)となって(こぶ)になっている。貴子(たかこ)は確実に老いて弱りつつある。それが、(たま)らなく悲しくて仕方(しかた)がない。

 くだくだしくなってしまったが、どうか許してくれ。君にだけは僕と貴子(たかこ)のことを知っておいて欲しかったのだ。いま、貴子(たかこ)は安らかな寝息を立てて眠っている。ああ、僕は貴子(たかこ)(みに)くなっていくのを見ていられそうにない。僕は貴子(たかこ)に母親を重ねているのだろう。()いさらばえていく母の姿を、手をこまねいてみているよりは、いっそのこと切り捨ててしまおうと思う。(こぶ)となった(かさ)(ぶた)()(のぞ)いた先に、新たな貴子(たかこ)が生まれないとも限らないからだ。剃刀(かみそり)で腹を(えぐ)る前に君にだけは知っておいてもらいたかったのだ。一縷(いちる)の望みが叶ったあかつきには、君に貴子(たかこ)を紹介しようと思う。それではさらばだ。



 いまだに手紙を読み終えたときに覚えた嫌な感覚を忘れることができない。Aの腹に刻まれた深い(せっ)(そう)を思うたびに身震(みぶる)いをせずにはいられないのだ。

 私はこの手紙に書かれた事柄(ことがら)が必ずしも真実であるとは考えていない。ただ、Aの狂気のほどを知るには充分過ぎる内容であることだけは確かだった。

 私は随分(ずいぶん)逡巡(しゅんじゅん)したが、ついには興味に負けて同窓生に電話を掛けた。Aの死因が知りたかったのだ。

「ああ、あまり言いふらしたくはないがね。書斎(しょさい)で腹を切って死んでいたらしい。切腹(せっぷく)だよ」

 私はそれだけ聞くと曖昧(あいまい)な返事をした後に、震える指で通話を切った。Aの腹に瘡瘤(そうりゅう)があったかどうかを(たず)ねなかった。

 この手紙が真実の告白なのか、狂人の妄言(もうげん)なのかを見極(みきわ)めることは重要ではないような気がした。ただ、そこには母親を(した)うあまりに(みずか)らを傷つけ(さいな)むことで、(よろこ)びを見出(みいだ)した哀れな若者の悲痛な叫びが(つづ)られていた。それを思うとAからの最後の手紙を破り捨ててしまうこともできなかった。

 ビュウビュウと吹き寄せる(から)(かぜ)が窓を叩いている。私はAからの告白文を丁寧に折りたたみ、茶封筒の中に(おさ)めると、書き物机の引き出しを開けて、祈りを(ささ)げながら埋葬(まいそう)した。Aは彼岸(ひがん)で母親と邂逅(かいこう)できたのだろうか、という疑問がふと脳裏(のうり)(よぎ)ったが、容易(ようい)には解答を導き出せそうになかった。茫漠(ぼうばく)たる世界が眼前に広がっていた。ただ、一人の友人を亡くした(さみ)しさだけが後に残されていた。


(了)









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