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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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くだん

 防州上ノ関民家之牛、人面牛身(じんめんぎゅうしん)の子を産、其物よく言ふ、其主人に(つげ)て曰、吾生れて既に三日也、けふ吾名を(くだん)(なづ)け給るべし、かならず異形を(にくん)で殺す事なかれ、吾此世ニ出ル故有、今より七年之間豊作ニ而、八年よりは兵乱起るべし、と云ふ、此事未実(じっ)(しょう)なる事を聞ず。


 『密局日乗』文政二年五月十三日条



 一、隠蔽


 閉め切られた窓の向こうで、子ども達の嬌声(きょうせい)が遠く響いている。午後の授業までのわずかな時間を目一杯楽しむことが、彼らの間では不文律の規則として受容されている。

 子ども達の世界は決して無秩序ではない。渦潮(うずしお)が天球の作用によって、一定の方向に流れを保つように、混乱の中にも法則が秘められているものなのだ。

 子ども達は自然を(せん)(だつ)にして学ぶ。その領域に大人達は踏み込むべきではない。学校とは大人が管理できる世界ではないし、到底(とうてい)、力の及ぶ場所でもない。

 教師の仕事は彼らを矯正(きょうせい)することではなく、むしろ、子ども達を自然に(かえ)すことにあるようにも思えてくる。十数年間の中学校教員としての生活が、私の考え方を徐々(じょじょ)に変容させていったのかもしれない。そういう職員はごく少数であるのだろう。

 重厚な文机(ふづくえ)を前にして、我が校の学校長が柔らかな革椅子に深く腰掛けている。骨張った指先で天板をコツコツと叩いている様子からも、彼女の焦燥(しょうそう)具合(ぐあい)()(はか)ることができた。短く切り揃えられた前髪の下で、眉がキリと引き絞られている。校長室は重苦しい空気で押しつぶされそうになっていた。

 先生に呼び出される、というシチュエーションには何歳(いくつ)になろうとも慣れることはなさそうである。(つい)に、学校長が静かな声音で口火(くちび)を切った。

「それでは、越智(おち)先生、被害の程度を報告してください。火の手はどこまで及びましたか。子ども達に怪我はありましたか。保護者各位への対応はしましたか。情報が錯綜(さくそう)しているので、詳しく話してください」

 学校長は引き出しから手帳を取り出すと、小さくなった鉛筆で何事かをさらさらと記録しはじめた。彼女が慎重になる気持ちも分からないでもない。事と次第によっては、彼女のキャリアが大きく損なわれる状況でもあるからだ。

 私は言葉を選びながらも、丁寧に事件の経緯(いきさつ)を報告しはじめた。客観的な事実と主観的な推察を精査(せいさ)して、問題を整理していく技能には自信がある。とはいえ、責任を負うつもりもないので、自然と語勢(ごせい)は弱気なものになっていった。

「五日前の八月三十日、旧校舎のゴミ置き場で小規模ながら火災が起こりました。夏季休校中であり、旧校舎の敷地には生徒も近寄らないこともあって、人的被害はありませんでした。

 午後四時ごろに、用務員の池田さんが校舎を巡視(じゅんし)していたところ、煙が上がっていることに気が付いたようです。廃棄されるはずの古紙類が燃えた程度で、間もなく鎮火(ちんか)されました。消防に連絡するような大事には至らなかったということです。

 保護者各位への報告は済んでおりません。まずは学校長の判断を(あお)ごうと考慮しました。正直に申し上げますと、手に余る状況です。小規模とはいえ、火災であることに違いはありません。不審火であるとしたら、問題も大きくなります。旧校舎のゴミ置き場は道路に面してますから、そこから火を投じることは容易です。全く、どうしたらよいものでしょうか」

 横板(よこいた)雨垂(あまだれ)といった具合(ぐあい)ではあるものの、訴えるべき事情は全て伝えたつもりである。しかし、学校長がこちらの意向(いこう)()んでくれるか(いな)かは別の話でもある。彼女の為人(ひととなり)多少(たしょう)なりとも知っている者ならば、「期待するだけ無駄だ」と口を揃えるところだろう。

「事情の大旨(おおむね)は理解しました」と学校長は嘆息(たんそく)交じりに(つぶや)くと、パタンと音を立てて手帳を閉じた。どちらかと言えば、簡素な校長室にしばらくの静寂が訪れる。

「それで――」痩せ細った指を組みなおしながら、学校長は冷たく言い放った。「それで、事故の発生を立証する記録は全て破棄しましたか。文書や写真は残されていないのでしょうね」

 学校長の口調は屹然(きつぜん)としたものであり、そこには一切の葛藤(かっとう)を感じさせる要素がない。自己を正当化しようと(こころ)みる人間が発する阿諛(あゆ)の臭気――所謂(いわゆる)良心(りょうしん)呵責(かしゃく)から起こる罪の意識――が全くないのである。私は内心で怖気(おぞけ)()たずにはいられなかった。

「我が校の生徒で喫煙する者は何名ほどいますか。少なくとも、十名はいるでしょう。正直に言ってみてください。指導の対象となっている生徒の人数は何名ですか」

 心臓に刃を立てられたみたいだった。学校長が子どもに罪を押し付けようとしていることは明らかだ。不品行であるということを理由に、ありもしない罪を(あがな)うように(せま)る指導者がいる。それは決して許してはならない所業(しょぎょう)である。

「お言葉ですが、校長先生のお考えは的外れもいいところです。品行の良し悪しはありますが、彼らが火災を起こしたとは思えません。全く、ありえないことだ」

 学校長は語勢(ごせい)を荒げて反対意見を述べる私をジッと見詰(みつ)めていたが、しばらくすると、片手を上げて制止を掛けた。私は(ひたい)に浮いた汗を(ぬぐ)いながら、学校長を(にら)みつけるほかに仕様(しよう)がなかった。

「先生のおっしゃりたいことは充分に理解できます。私も生徒のことを疑いたくはないのです。しかし、可能性がある以上は慎重になるべきだとも思います。

 事故の原因を追及する過程で、火災の発生源がタバコの不始末であったと判明したとします。その場合、学校側は生徒達のことを(かば)うことが難しくなります。市中(しちゅう)引き回しの末に獄門(ごくもん)という事態は避けねばなりません。

 全ては子ども達を守るためのことなのです。火災が起きたことを外部に知られるわけにはいきません。以上の理由から公的記録は全て棄却(ききゃく)してください。理解してください。子ども達のためなのです」

 ()ずは(つみ)ありき、という学校長の論旨(ろんし)には全く辟易(へきえき)してしまう。彼女がどれほど(つくろ)おうとも、詭弁(きべん)であることには違いない。腹の底から軽蔑(けいべつ)の念が湧き上がり、代わりに熱は冷めていった。壁に話しかけているような無力感を噛み締める。これ以上、話し合うつもりはない。

 私は傲慢(ごうまん)な老女に一礼すると、暗鬱(あんうつ)な感情を両手いっぱいに抱えながら、簡素な校長室を後にした。

 午後の授業を(しら)せるチャイムが鳴り響いている。やがて、破滅が警笛(けいてき)を鳴らして訪れるに違いない。沈みゆく船舶(せんぱく)から逃れるために、(ねずみ)たちは必死になって駆け回るという。(たかぶ)る気持ちを抑えつつ、私は足早に廊下を歩きはじめた。



 二、予言


越智(おち)先生、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」午後の授業が終わり、職員室に大人達が戻ってきた時分(じぶん)に、特別支援学級を担当する職員が、おずおずと声を掛けてきた。「いいよ。次回の授業についての質問かな」

 私はデスクに広げられた書類を片付けると、新任の職員に椅子を勧めた。彼の名前は石山(いしやま)千尋(ちひろ)といって、五月から我が校で勤めている非常勤講師である。歳の頃は二十代前半といったところで、現場経験はないに等しいようだ。

「いいえ、実は支援級の夏休みの宿題について、ご相談したいことがありまして――。あの、ご迷惑だったでしょうか」

 各教科の担当職員は、週に二三度の周期で特別支援学級に(おもむ)き、習熟度に見合った内容の授業を行うことになっている。しかし、長期の学習指導は支援学級担当の職員が()(おこな)うことになっているはずである。夏休みの宿題の管理等は彼らの仕事の範疇(はんちゅう)であり、採点や評価規準には触れないことが通例となっていた。

「ああ、夏休みの宿題をどう扱うかは支援級の職員で話し合った方がいいんじゃないかな。定期試験というわけではないし、ある程度の採点をした後は、催事(さいじ)の一部として利用できると思うよ。それぐらいの扱いでいいんじゃないかなあ」

 そう言うと、私は机上(きじょう)に山と積まれた漢字問題集と読書感想文を、ポンと軽く叩いてみせた。「これから数時間を掛けて、この仕事と向き合わなくてはならない」ということを示唆(しさ)したつもりだったが、石山(いしやま)先生が意図を察してくれる様子はない。

「これなんですが――」一冊のノートを開きながら、石山(いしやま)先生は声をひそめて言う。「ちょっとおかしいと思いませんか」

 ノートの正体は絵日記だった。漢字の使用頻度が(いちじる)しく少なかったり、現代口語文法に(そく)していなかったりと、至らない点はあるが、たどたどしい文字から懸命(けんめい)さが伝わってくるようだ。生徒の習熟度を(はか)る資料として機能(きのう)している、変哲(へんてつ)もない夏休みの宿題である。

「よく書けていると思うけどなあ。苦手な漢字や文法も知れるし、二学期からの学習指導に活用できる。どこがおかしいのか、自分には分からないなあ」

「はあ」と石山(いしやま)先生は気のない返事をしながら、パラパラとページを(めく)り続けていたが、「ここです」と言うとともに手を止めた。


   ゆめをみました。とてもこわいゆめです。こわいかいじゅうが出ました。う

  しの体に人のかおがついてます。こわいことを言ってました。よく、おぼえて

  ません。

   お母さんにはなしました。すごくおこられました。かなしくて泣きました。


 (つたな)い文章の上に摩訶不思議(まかふしぎ)な絵が描かれている。偶蹄類(ぐうているい)らしい身体をした動物なのだが、その(おもて)は人のものに酷似(こくじ)している。怪奇趣味(グロテスク)な絵であるが、子ども達の野放図(のほうず)な想像の産物としては珍しい部類ではない。確かに奇妙な絵ではあるが、往々(おうおう)にして見かける品でもある。

石山(いしやま)先生、気にしすぎですよ。子どもは時に大人を吃驚(びっくり)させるようなことを想像して遊ぶものなんです。まあ、不思議といえば不思議ですが、つまるところは夢の話でしょう。これだけじゃ、何とも言えませんよ」

 新米講師は納得できないといった具合(ぐあい)(うな)りながら、さらにページを(めく)ってみせる。腕に巻かれた時計を見遣(みや)ると、短針は五時を指していた。彼には悪いが、気に病むべきことは他に山ほどある。

「これはどうですか」と言うと、石山(いしやま)先生は手を震わせながら、絵日記を私に押し付けてきた。「これは変ですよ。おかしいですよ」

 不安を確信したといった風な上ずった調子の語勢(ごせい)気圧(けお)された。彼は明らかに興奮している。不謹慎を(とが)めようかとも考えたが止めた。ほんの少しだけ、私は疲れていたのである。


   ゆめをみました。とてもこわいゆめです。だれかが学校に火をつけます。で

  も、すぐにきえます。お母さんにいったら、おこられました。ぼくは泣きまし

  た。とてもかなしかったからです。牛のおばけがゆめに出ます。おばけがはな

  しかけてきます。こわいです。

   くろいふくの人たちがいえにきました。おばけのはなしばかりです。くろい

  ふくの人たちはきらいです。はやく、学校にいきたいです。


「牛のお化けって、これですよね」そう言うと、石山(いしやま)先生は日記の半分に描かれた異形(いぎょう)の生き物の絵を指さした。「それに、誰かが学校に火をつけたって、この前の騒動のことじゃないですか」

 じっくりとノートを検分(けんぶん)してみたが、ページを()()ぎした痕跡(こんせき)はない。日付は八月二十日となっており、後にもたっぷりと記録は続いている。職員室で立ち聞きした内証話(ないしょうばなし)を途中で書き足したというわけでもなさそうである。

 絵日記を閉じて、持ち主の名前を確認してみると、「西村(にしむら)(いつき)」と遠慮(えんりょ)がちに書かれていた。情けないことに、ぼんやりとしか思い出せない。印象に薄い生徒だった。

「確かに不思議な符合(ふごう)だとは思うけれど、この内容が事実ならば、夢の話をしただけで母親に怒られたり、黒服の人が家に押し掛けたりしている状況の方が異様だとは感じないか。西村(にしむら)くんの様子に変わったところはないのかしら」

 途端(とたん)に、新米講師の表情が(くも)り、会話の調子も歯切れの悪いものになっていった。新学期になって五日が経つが、始業式以来、彼は登校していないらしい。非常勤講師の立場は微妙な力関係の上に成り立っている。保護者に連絡を取るという権限すら、彼には与えられていない。

「やはり、管理職に報告すべきですよね。まずは生活指導部の越智(おち)先生にお伝えした方がいいと思い、ご相談させていただいたのですが、ご迷惑だったでしょうか」

 私は思わず天井を(あお)ぎ、ため息をついてしまった。迷惑だとは思わないが、面倒な状況に(おちい)ったことは確かである。

 無論、生徒の一人が登校していないという事実は放って置けない。しかし、絵日記の内容を鵜呑(うの)みにして、保護者を疑うことはできない。あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)な話であるゆえに、管理職に報告することも(はばか)られるほどである。それに、今は学校長を刺激すべきではない。

 ――五日、いや、三日間は様子を見よう。三日間の内に西村(にしむら)(いつき)くんが登校しないようなら、何らかの措置(そち)(こう)じるしかない――

 新任の講師を前にして、大きく嘆息(たんそく)せずにはいられなかった。私は正しい判断を下せているのだろうか。(まぶた)を閉じると、いまだ幼い娘を抱く妻の姿が、(ほの)(しろ)(かすみ)を身に(まと)うようにして、浮かび上がってくる。何故(なぜ)だか、無性(むしょう)に妻子が恋しくなった。



 三、瓦解


 期日が過ぎても、西村(にしむら)(いつき)くんが登校することはなかった。絵日記の内容は伏せた上で、管理職に報告したが気の抜けた返事しか得られなかった。

 (だれ)(かれ)もが、何かしらの案件を抱えており、解決のために奔走している。新学期を迎えて登校不振に(おちい)る生徒は少なくない。些事(さじ)と言われれば、返す言葉もない。

「やはり、少し変ですよ。保護者の様子を見るためにも、家庭訪問した方がいいんじゃないですか」と石山(いしやま)千尋(ちひろ)気炎(きえん)を上げて息巻(いきま)いていたが、絵日記の夢物語を根拠に調査はできないし、そもそも、私も彼もそれを実行するだけの権限を持ち合わせていなかった。

西村(にしむら)くんの家には登校を(うなが)す電話をしています。彼が自主的に登校するようになるまで待ちましょう。(いたずら)に騒ぎ立てるようなことはしないでください」

 新米講師の暴走を止めるために、多少(たしょう)の嘘もついた。西村(にしむら)くんの母親に連絡を取ったことは本当である。しかし、必ずしも彼女らが教育に理解を示してくれるとは限らない。実際、西村(にしむら)(いつき)の母親は学校教育に非協力的だった。「息子が嫌がっているから」と言葉を(にご)すばかりで、一向(いっこう)に会話が進まない。石山(いしやま)先生の言う通り、家庭訪問もあり得ない選択肢ではなかった。

 結局のところ、あの鼻持ちならない学校長と私の間に大した違いはないのかもしれない。理屈(りくつ)()ることで差し(せま)る問題から目を(そむ)けようとしている。

 庇護(ひご)すべき妻子の影が脳裏(のうり)(よぎ)(たび)に、私は少しずつ臆病になっていくらしい。自分は確実に大義(たいぎ)を見失いつつある。指導者としては致命的な欠陥(けっかん)だった。

 長月の斜陽(しゃよう)が校舎を赤々と照らし、吹奏楽部のトランペットがもの寂しい音を鳴らしている。彼らの(かな)でる音楽が止めば、学校は醜悪(しゅうあく)な大人達の寄合(よりあい)へと変貌するだろう。刻一刻(こくいっこく)と最終下校時間は近づいている。ほとんどの生徒は(すで)に家路を辿(たど)っている頃合いだ。

 茜色(あかねいろ)に染まる教室に残された生徒達と挨拶を交わしながら、私はノロノロとした足取りで校内の巡視(じゅんし)を続けた。西村(にしむら)(いつき)の日記が妄言虚語(もうげんきょご)(たぐい)だと確信できない以上、得体の知れない不安は執念(しゅうね)()(まと)ってくる。だからと言って、石山(いしやま)先生が言うように、謎を明らかにするために積極的に働こうという気も起こらない。(やぶ)を突いて蛇を出すようなマネはしたくなかった。

 最終下校時間を告げる校内放送――シューマンの『子供の情景』の第七曲、トロイメライ――が流れるころになって、ようやく、職員室に辿(たど)り着いた。

 これから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)らの(うたげ)が始まる。悪意に満ちた大人達が互いに腹の内を探り合う時間である。安普請(やすぶしん)の引き戸の向こう側には、ひどく恐ろしい世界が広がっている。一歩前に踏み出すだけなのに、非常な勇気が必要だった。

「ああ、越智(おち)先生。ちょうどよかった。探しに行こうと思っていたところです。外線からお電話が届いております。ご対応をお願いします」

 用務員の池田(いけだ)和彦(かずひこ)人懐(ひとなつ)っこい笑顔を浮かべながら、陽気に話しかけてきた。先日の小火(ぼや)騒動以来、この偏屈(へんくつ)な老人は有頂天(うちょうてん)になっている。得意満面な笑みの裏には、(ぞく)っぽい自己顕示欲が常に見え隠れしており、接していて愉快(ゆかい)なものではなかった。

「ご苦労様です」老人の機嫌を損なわないように大袈裟(おおげさ)な口調で礼を述べる。彼は満足したのか、ドカドカと騒がしい足音を立てながら、職員室を出ていった。私は辟易(へきえき)しながらも、受話器を耳に押し当てた。「もしもし、大変お待たせいたしました。生活指導部の越智(おち)と申します」

 しかし、奇妙なことに電話の主は(かたく)なに沈黙を守っている。(かす)かな息遣(いきづか)いが聞こえるばかりで返事はない。職員室の騒音が遠くに感じられるほどに耳を()ませる。脈打つ血潮(ちしお)が鼓膜を震わせているのを感じはじめたころ、不明瞭(ふめいりょう)ながらも声らしい音をわずかに聞き取った。


「く、だ……、く、る。ち、が……、れ、る。ひ、と……、ろ、し」


 それは地中を蠕動(ぜんどう)する粘性(ねんせい)の生物を思わせる声だった。長く聞けば、狂気が脳髄(のうずい)(おか)しはじめるに違いない。私は恐怖を(はら)()けようと、荒っぽく受話器を置いた。あまりの剣幕(けんまく)に、数人の職員が振り返り、或いは顔を上げたが、(じき)に業務に戻っていった。

 デスクの上に残されていたマグカップを手に取って、冷め切ったコーヒーを胃に流し込んだ。ただの悪戯(いたずら)電話だと思いたいが、不吉な予感は(ぬぐ)いきれない。意味を見出すことすら難しい支離滅裂(しりめつれつ)な音の(つら)なりに過ぎないが、そこには確固(かっこ)たる悪意が含まれているように思える。得体の知れない不安が背中を焼いていた。


 〈全職員に連絡します。至急(しきゅう)、第一会議室に集合してください。繰り返します。全職員は第一会議室に集合してください〉


 暗闇が(せま)りつつある校舎に、突如(とつじょ)として教頭の緊張した声が響いた。それが、緊急を要する校内放送であることに気が付いた者は多くなかった。

 しばらくの空白の時間を経て、数名の職員が大儀(たいぎ)そうに席を立ったが、ほとんどの者は無関心を貫き通した。全職員が会議室に集まるまでに二十分以上の時間を(つい)やした。無論、学校長の機嫌は悪い。それに、彼女は明らかに動揺していた。学校長は全ての職員達が席に着いたことを確認すると、乾いた唇をワナワナと震わせながら話しを始めた。

「本日、午後五時十八分に、下校中だった我が校の生徒五名と、引率(いんそつ)を担当していた非常勤講師の石山(いしやま)千尋(ちひろ)先生が、暴走した自動車に()かれて亡くなりました。現在、警察が調査をしているようですが、車の運転手は故意(こい)に子ども達を()ねたことを認めています。どうやら、学校に恨みを抱いていたと供述(きょうじゅつ)しているようです」

 訥々(とつとつ)と状況を説明する学校長の顔色は青い。消え入りそうなほどに細い声で最後まで言うと、途端(とたん)に彼女はさめざめと泣きはじめた。

 それが呼び水となって、会議室に激しい怒号(どごう)が飛び交い出す。中でも、用務員の池田(いけだ)和彦(かずひこ)老人の怒りようは凄まじいものだった。

「あの小火(ぼや)騒動の犯人だ。あんたは俺に口止めをしたが、あの時、警察に通報していたら、こんなことにはならなかったはずだ。あんたが子ども達を殺したんだよ。この人殺し、人殺し」

 老人は口端(こうたん)(つばき)(あわ)を飛ばしながら、狂ったように怒鳴(どな)り続けた。学校長を擁護(ようご)しようとする者はいない。会議室は混乱の坩堝(るつぼ)と化していた。欺瞞(ぎまん)()(かた)められた城壁は(つい)瓦解(がかい)した。

 石山(いしやま)千尋(ちひろ)西村(にしむら)(いつき)は、この破滅へと至るまでの顛末(てんまつ)を知っていたのだろうか。そんなことを呆然とした頭で考えてみたが、真相は(よう)として知れない。

 解答は例の絵日記に秘められているような気がした。もしかしたら、あの悪意に満ちた電話の正体も分かるかもしれない。全ては可能性の範疇(はんちゅう)を出ないが、それでも不安の源泉を(あば)かずにはいられない。

「人殺し、人殺し」罵詈雑言(ばりぞうごん)が飛び交う会議室から逃げ出すと、私は暗がりの中に白々(しらじら)と伸びる廊下を、職員室目掛けて一直線に駆け抜けて行った。



 四、深淵


 茫漠(ぼうばく)とした不安の影を追っていたつもりが、(あば)いてはならない秘密の一端に触れてしまっていたということもある。一度(ひとたび)でも直視しようものなら、暗闇から逃れることは容易ではない。おそらく、石山(いしやま)千尋(ちひろ)迂闊(うかつ)にも穴を(のぞ)き込んでしまったのだろう。彼にほとんど落ち度はないと思う。ただ、不運だっただけである。

 責任の所在(しょざい)を巡って錯乱(さくらん)する職員会議室から逃げ出すと、死んだ新米講師のデスクを(あさ)りはじめた。山と積まれた書類の間に隠されるようにして、西村(にしむら)(いつき)の絵日記は静かに微睡(まどろ)んでいた。私は不吉に(いろど)られた日記を()(つか)むと、酷使(こくし)したあまりに()()れた鞄に押し込めた。

「人殺し、人殺し」という学校長を指弾(しだん)する怒声が遠雷(えんらい)のごとく鳴り響いている。破滅する宿命(しゅくめい)にある人々の群れに分け入る元気はない。沈みゆく船から(まぬが)れる(ねずみ)のように暗がりに閉ざされた学校を後にした。

 血液が沸騰(ふっとう)して、心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動している。肺腑(はいふ)萎縮(いしゅく)して痛みを覚えはじめるまで、街灯(がいとう)(まば)らな夜の道を駆け抜けた。

 駅に近づくに(ともな)って、街の様子は少しずつ活気あるものへと移り変わっていく。喧騒(けんそう)の中心を目指して必死に走ったが、背中を焼かれるような威圧感に負けて、何度も来た道を振り返ることになった。明滅するネオンに(かざ)られた駅前広場に辿(たど)り着いたころには、(ひたい)に玉の汗を浮かべながら、肩で息をするまでに疲弊(ひへい)していた。

 私は肉に食い込むネクタイの結び目を片手で()くと、腰を落ち着けて休憩できる場所を探しはじめた。盛り場に踏み入るほどの気力はないし、汗に濡れた身体を暖房にあてたくなかった。秋の夜風を好む粋人(すいじん)滅多(めった)にないようで、広場に設置されたベンチに人気はほとんどない。疲労した肉体を投げ出すようにして、風雨に(さら)されて腐りかけた長椅子に腰を下ろした。

 夜空には擬物(まがいもの)めいた満月が穴を開けたように浮かんでいる。街の光に(さえぎ)られているせいで星々を(のぞ)むことは難しい。数えるほどの星だけが(かす)かに(またた)いて存在を(しら)せているが、それらの名前を(そら)(おぼ)えている人間は多くないのだろう。

 大人になるということは、《無関心を学ぶこと》に他ならない。大人は関心を失うのではなく、無関心を選ぶのである。今日、それを知ることもないまま、五名の子ども達が命を落とした。空白の時間が、そういった冷酷な現実を否応(いやおう)なしに思い起こさせる。腹の底から感情が(あふ)(かえ)り、涙となって流れ出しはじめた。

 ――私は罪人だ。事件の兆候(ちょうこう)は以前から認めていたはずだ。放火の可能性に言及しておきながら、学校長の隠蔽工作(いんぺいこうさく)(あらが)おうとしなかった。

 それに、この日記のこともある。もっと慎重に取り扱っていれば、小火(ぼや)騒動が単なる事故ではなく、悪意ある放火だったことを証明できたかもしれない。西村(にしむら)(いつき)くんを()(ただ)すべきだった。全て、保身を優先して仕事を(おこた)ったゆえに起きた惨劇(さんげき)なのだ――

 誰かに裁かれたいと思った。(ののし)られ、(なじ)られ、(さいな)まれたいという被虐的欲求が(ほむら)となって燃え上がり、(うつ)ろな胸中を焼きはじめた。罪の十字架を背負って生き長らえるくらいなら、石を投げられて死ぬ方を選ぶつもりである。いずれ、我々は司法によって罪を天秤(てんびん)に掛けられることになる。その時は、誠実(せいじつ)に罰を受け入れようと決心した。

 ――それにしても、気味の悪い符合(ふごう)齟齬(そご)の繰り返しだ。この絵日記の持ち主は、こうなることを予期(よき)していたのだろうか。あの謎めいた電話の主は、何を伝えようとしていたのだろうか。そもそも、絵日記と電話は連関(れんかん)した事柄(ことがら)なのだろうか――

 疑問の背後には不穏(ふおん)な影が常に()(まと)っている。こうしている間にも、不吉な想像は際限(さいげん)なく膨張(ぼうちょう)していくようだった。妄念(もうねん)(はら)()けるためにも、日記を紐解(ひもと)く必要がある。私は使い古された鞄の中から絵日記を取り出すと、慎重に内容を検分(けんぶん)しはじめた。

 ()()めのない日常の記録が大半を()めているが、時折、人面牛身(じんめんぎゅうしん)のお化けの絵と意味深長(いみしんちょう)な文章が組み入れられているようだ。

 ノートに(つづ)られた少年の夢物語を追っているうちに、ひとりでに開くしつこい癖がつかられたページがあることに気が付いた。下校中の生徒を(かば)って、車に()(ころ)された新米講師の青白い顔を思い出した。


   たくさんの人がしにます。車がはしってきて人とぶつかります。でも、石山(いしやま)

  先生がまもってくれます。とても、かなしいゆめです。牛のおばけはきらいで

  す。こわいことばかり言ってくるからです。

   くろいふくの人たちがくると、お母さんが泣きます。冬がきたら、ぼくをつ

  れていくと言っているからです。秋になったら、つぎに子どもをさがすと言い

  ました。友だちになれるかな。


 惨劇(さんげき)を予感させる内容が(いびつ)な文字で(しる)されている。やはり、少年は今日の出来事をあらかじめ知っていたのだ。しかし、私を真に恐怖させたものは、少年の予言ではなかった。それは見落としてしまいそうなほど、小さな走り書きだった。欄外(らんがい)に書き加えられた金釘文字(かなくぎもじ)には見覚えがある。石山(いしやま)千尋(ちひろ)筆跡(ひっせき)である。


「脅迫電話、荒い息遣い、西村(にしむら)家の黒服の人か。牛のお化け、未来予知、天保七年丹波国倉橋山のくだん。大勢の人間が死ぬかもしれない」


 曖昧模糊(あいまいもこ)とした不安が、徐々(じょじょ)明瞭(めいりょう)な恐怖へと変わっていった。石山(いしやま)先生のもとにも、あの不気味な電話は掛かってきたらしい。彼の言葉を信じるのならば、それは「脅迫電話」である。そして、一連の事柄(ことがら)には西村(にしむら)家に出入りしているという黒服の人々が関係しているようだ。

 ――天保七年丹波国倉橋山のくだん……。あの人面牛身(じんめんぎゅうしん)のお化けのことだろうか。黒服の人々は、くだんの夢を見る子ども達を連れて行くのか。黒服の人々の正体は何者なのだろうか――

 茫漠(ぼうばく)とした不安は、明確な恐怖へと変質し、禁忌(きんき)の一端を(のぞ)かせはしたものの、核心に触れられることを(かたく)なに(こば)み続けているようだった。

 深淵(しんえん)に通じる穴をジッと見詰(みつ)めてみても、そこには果てしない無明(むみょう)の暗闇が広がっているばかりで、決して(ぞう)(むす)ぶことがないように、私の探求も(うつ)ろな終局を迎えることとなった。

「ここまでは見逃すが、ここより先は許さない」という拒絶の意志を感じる。黒服の人々が三瀬川(みつせがわ)の彼方から、じっと此方を見据(みす)えているような気がしてならない。冬が来れば、彼らは少年を連れて行くというが、行く先を知りたいとは思わなかった。

 ポケットの中で携帯電話が鳴った。嫌な想像が脳裏(のうり)(よぎ)ったが。どうやら杞憂(きゆう)だったらしい。妻の早苗(さなえ)からのメールだった。短い文章に一枚の写真が添付(てんぷ)されている。


 〈お仕事、お疲れ様です。はるちゃんのお絵描きが幼稚園で展示されたよ。気を付けて帰って来てね〉


 写真の中で娘の春香(はるか)(ほこ)らしげに作品を(かか)げて笑っている。家族団欒(かぞくだんらん)の様子を描いた絵であるようだ。一見、微笑(ほほえ)ましい光景なのだが、()ぐに胸中(きょうちゅう)をガリガリと爪で()()かれるような不快感に襲われた。

 私の眼は日常に紛れ込んだ異物を見逃しはしなかった。満面の笑みを浮かべる家族の(かたわ)らに、(うし)(からだ)(ひと)(おもて)を張り付けたお化けの絵が、ひっそりと()()えられていた――。


 (了)










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