くだん
防州上ノ関民家之牛、人面牛身の子を産、其物よく言ふ、其主人に告て曰、吾生れて既に三日也、けふ吾名を件と号け給るべし、かならず異形を悪で殺す事なかれ、吾此世ニ出ル故有、今より七年之間豊作ニ而、八年よりは兵乱起るべし、と云ふ、此事未実正なる事を聞ず。
『密局日乗』文政二年五月十三日条
一、隠蔽
閉め切られた窓の向こうで、子ども達の嬌声が遠く響いている。午後の授業までのわずかな時間を目一杯楽しむことが、彼らの間では不文律の規則として受容されている。
子ども達の世界は決して無秩序ではない。渦潮が天球の作用によって、一定の方向に流れを保つように、混乱の中にも法則が秘められているものなのだ。
子ども達は自然を先達にして学ぶ。その領域に大人達は踏み込むべきではない。学校とは大人が管理できる世界ではないし、到底、力の及ぶ場所でもない。
教師の仕事は彼らを矯正することではなく、むしろ、子ども達を自然に還すことにあるようにも思えてくる。十数年間の中学校教員としての生活が、私の考え方を徐々に変容させていったのかもしれない。そういう職員はごく少数であるのだろう。
重厚な文机を前にして、我が校の学校長が柔らかな革椅子に深く腰掛けている。骨張った指先で天板をコツコツと叩いている様子からも、彼女の焦燥具合を推し測ることができた。短く切り揃えられた前髪の下で、眉がキリと引き絞られている。校長室は重苦しい空気で押しつぶされそうになっていた。
先生に呼び出される、というシチュエーションには何歳になろうとも慣れることはなさそうである。遂に、学校長が静かな声音で口火を切った。
「それでは、越智先生、被害の程度を報告してください。火の手はどこまで及びましたか。子ども達に怪我はありましたか。保護者各位への対応はしましたか。情報が錯綜しているので、詳しく話してください」
学校長は引き出しから手帳を取り出すと、小さくなった鉛筆で何事かをさらさらと記録しはじめた。彼女が慎重になる気持ちも分からないでもない。事と次第によっては、彼女のキャリアが大きく損なわれる状況でもあるからだ。
私は言葉を選びながらも、丁寧に事件の経緯を報告しはじめた。客観的な事実と主観的な推察を精査して、問題を整理していく技能には自信がある。とはいえ、責任を負うつもりもないので、自然と語勢は弱気なものになっていった。
「五日前の八月三十日、旧校舎のゴミ置き場で小規模ながら火災が起こりました。夏季休校中であり、旧校舎の敷地には生徒も近寄らないこともあって、人的被害はありませんでした。
午後四時ごろに、用務員の池田さんが校舎を巡視していたところ、煙が上がっていることに気が付いたようです。廃棄されるはずの古紙類が燃えた程度で、間もなく鎮火されました。消防に連絡するような大事には至らなかったということです。
保護者各位への報告は済んでおりません。まずは学校長の判断を仰ごうと考慮しました。正直に申し上げますと、手に余る状況です。小規模とはいえ、火災であることに違いはありません。不審火であるとしたら、問題も大きくなります。旧校舎のゴミ置き場は道路に面してますから、そこから火を投じることは容易です。全く、どうしたらよいものでしょうか」
横板に雨垂といった具合ではあるものの、訴えるべき事情は全て伝えたつもりである。しかし、学校長がこちらの意向を汲んでくれるか否かは別の話でもある。彼女の為人を多少なりとも知っている者ならば、「期待するだけ無駄だ」と口を揃えるところだろう。
「事情の大旨は理解しました」と学校長は嘆息交じりに呟くと、パタンと音を立てて手帳を閉じた。どちらかと言えば、簡素な校長室にしばらくの静寂が訪れる。
「それで――」痩せ細った指を組みなおしながら、学校長は冷たく言い放った。「それで、事故の発生を立証する記録は全て破棄しましたか。文書や写真は残されていないのでしょうね」
学校長の口調は屹然としたものであり、そこには一切の葛藤を感じさせる要素がない。自己を正当化しようと試みる人間が発する阿諛の臭気――所謂、良心の呵責から起こる罪の意識――が全くないのである。私は内心で怖気立たずにはいられなかった。
「我が校の生徒で喫煙する者は何名ほどいますか。少なくとも、十名はいるでしょう。正直に言ってみてください。指導の対象となっている生徒の人数は何名ですか」
心臓に刃を立てられたみたいだった。学校長が子どもに罪を押し付けようとしていることは明らかだ。不品行であるということを理由に、ありもしない罪を贖うように迫る指導者がいる。それは決して許してはならない所業である。
「お言葉ですが、校長先生のお考えは的外れもいいところです。品行の良し悪しはありますが、彼らが火災を起こしたとは思えません。全く、ありえないことだ」
学校長は語勢を荒げて反対意見を述べる私をジッと見詰めていたが、しばらくすると、片手を上げて制止を掛けた。私は額に浮いた汗を拭いながら、学校長を睨みつけるほかに仕様がなかった。
「先生のおっしゃりたいことは充分に理解できます。私も生徒のことを疑いたくはないのです。しかし、可能性がある以上は慎重になるべきだとも思います。
事故の原因を追及する過程で、火災の発生源がタバコの不始末であったと判明したとします。その場合、学校側は生徒達のことを庇うことが難しくなります。市中引き回しの末に獄門という事態は避けねばなりません。
全ては子ども達を守るためのことなのです。火災が起きたことを外部に知られるわけにはいきません。以上の理由から公的記録は全て棄却してください。理解してください。子ども達のためなのです」
先ずは罪ありき、という学校長の論旨には全く辟易してしまう。彼女がどれほど繕おうとも、詭弁であることには違いない。腹の底から軽蔑の念が湧き上がり、代わりに熱は冷めていった。壁に話しかけているような無力感を噛み締める。これ以上、話し合うつもりはない。
私は傲慢な老女に一礼すると、暗鬱な感情を両手いっぱいに抱えながら、簡素な校長室を後にした。
午後の授業を報せるチャイムが鳴り響いている。やがて、破滅が警笛を鳴らして訪れるに違いない。沈みゆく船舶から逃れるために、鼠たちは必死になって駆け回るという。昂る気持ちを抑えつつ、私は足早に廊下を歩きはじめた。
二、予言
「越智先生、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」午後の授業が終わり、職員室に大人達が戻ってきた時分に、特別支援学級を担当する職員が、おずおずと声を掛けてきた。「いいよ。次回の授業についての質問かな」
私はデスクに広げられた書類を片付けると、新任の職員に椅子を勧めた。彼の名前は石山千尋といって、五月から我が校で勤めている非常勤講師である。歳の頃は二十代前半といったところで、現場経験はないに等しいようだ。
「いいえ、実は支援級の夏休みの宿題について、ご相談したいことがありまして――。あの、ご迷惑だったでしょうか」
各教科の担当職員は、週に二三度の周期で特別支援学級に赴き、習熟度に見合った内容の授業を行うことになっている。しかし、長期の学習指導は支援学級担当の職員が執り行うことになっているはずである。夏休みの宿題の管理等は彼らの仕事の範疇であり、採点や評価規準には触れないことが通例となっていた。
「ああ、夏休みの宿題をどう扱うかは支援級の職員で話し合った方がいいんじゃないかな。定期試験というわけではないし、ある程度の採点をした後は、催事の一部として利用できると思うよ。それぐらいの扱いでいいんじゃないかなあ」
そう言うと、私は机上に山と積まれた漢字問題集と読書感想文を、ポンと軽く叩いてみせた。「これから数時間を掛けて、この仕事と向き合わなくてはならない」ということを示唆したつもりだったが、石山先生が意図を察してくれる様子はない。
「これなんですが――」一冊のノートを開きながら、石山先生は声をひそめて言う。「ちょっとおかしいと思いませんか」
ノートの正体は絵日記だった。漢字の使用頻度が著しく少なかったり、現代口語文法に則していなかったりと、至らない点はあるが、たどたどしい文字から懸命さが伝わってくるようだ。生徒の習熟度を測る資料として機能している、変哲もない夏休みの宿題である。
「よく書けていると思うけどなあ。苦手な漢字や文法も知れるし、二学期からの学習指導に活用できる。どこがおかしいのか、自分には分からないなあ」
「はあ」と石山先生は気のない返事をしながら、パラパラとページを捲り続けていたが、「ここです」と言うとともに手を止めた。
ゆめをみました。とてもこわいゆめです。こわいかいじゅうが出ました。う
しの体に人のかおがついてます。こわいことを言ってました。よく、おぼえて
ません。
お母さんにはなしました。すごくおこられました。かなしくて泣きました。
拙い文章の上に摩訶不思議な絵が描かれている。偶蹄類らしい身体をした動物なのだが、その面は人のものに酷似している。怪奇趣味な絵であるが、子ども達の野放図な想像の産物としては珍しい部類ではない。確かに奇妙な絵ではあるが、往々(おうおう)にして見かける品でもある。
「石山先生、気にしすぎですよ。子どもは時に大人を吃驚させるようなことを想像して遊ぶものなんです。まあ、不思議といえば不思議ですが、つまるところは夢の話でしょう。これだけじゃ、何とも言えませんよ」
新米講師は納得できないといった具合に唸りながら、さらにページを捲ってみせる。腕に巻かれた時計を見遣ると、短針は五時を指していた。彼には悪いが、気に病むべきことは他に山ほどある。
「これはどうですか」と言うと、石山先生は手を震わせながら、絵日記を私に押し付けてきた。「これは変ですよ。おかしいですよ」
不安を確信したといった風な上ずった調子の語勢に気圧された。彼は明らかに興奮している。不謹慎を咎めようかとも考えたが止めた。ほんの少しだけ、私は疲れていたのである。
ゆめをみました。とてもこわいゆめです。だれかが学校に火をつけます。で
も、すぐにきえます。お母さんにいったら、おこられました。ぼくは泣きまし
た。とてもかなしかったからです。牛のおばけがゆめに出ます。おばけがはな
しかけてきます。こわいです。
くろいふくの人たちがいえにきました。おばけのはなしばかりです。くろい
ふくの人たちはきらいです。はやく、学校にいきたいです。
「牛のお化けって、これですよね」そう言うと、石山先生は日記の半分に描かれた異形の生き物の絵を指さした。「それに、誰かが学校に火をつけたって、この前の騒動のことじゃないですか」
じっくりとノートを検分してみたが、ページを継ぎ接ぎした痕跡はない。日付は八月二十日となっており、後にもたっぷりと記録は続いている。職員室で立ち聞きした内証話を途中で書き足したというわけでもなさそうである。
絵日記を閉じて、持ち主の名前を確認してみると、「西村樹」と遠慮がちに書かれていた。情けないことに、ぼんやりとしか思い出せない。印象に薄い生徒だった。
「確かに不思議な符合だとは思うけれど、この内容が事実ならば、夢の話をしただけで母親に怒られたり、黒服の人が家に押し掛けたりしている状況の方が異様だとは感じないか。西村くんの様子に変わったところはないのかしら」
途端に、新米講師の表情が曇り、会話の調子も歯切れの悪いものになっていった。新学期になって五日が経つが、始業式以来、彼は登校していないらしい。非常勤講師の立場は微妙な力関係の上に成り立っている。保護者に連絡を取るという権限すら、彼には与えられていない。
「やはり、管理職に報告すべきですよね。まずは生活指導部の越智先生にお伝えした方がいいと思い、ご相談させていただいたのですが、ご迷惑だったでしょうか」
私は思わず天井を仰ぎ、ため息をついてしまった。迷惑だとは思わないが、面倒な状況に陥ったことは確かである。
無論、生徒の一人が登校していないという事実は放って置けない。しかし、絵日記の内容を鵜呑みにして、保護者を疑うことはできない。あまりにも荒唐無稽な話であるゆえに、管理職に報告することも憚られるほどである。それに、今は学校長を刺激すべきではない。
――五日、いや、三日間は様子を見よう。三日間の内に西村樹くんが登校しないようなら、何らかの措置を講じるしかない――
新任の講師を前にして、大きく嘆息せずにはいられなかった。私は正しい判断を下せているのだろうか。瞼を閉じると、いまだ幼い娘を抱く妻の姿が、仄白い霞を身に纏うようにして、浮かび上がってくる。何故だか、無性に妻子が恋しくなった。
三、瓦解
期日が過ぎても、西村樹くんが登校することはなかった。絵日記の内容は伏せた上で、管理職に報告したが気の抜けた返事しか得られなかった。
誰も彼もが、何かしらの案件を抱えており、解決のために奔走している。新学期を迎えて登校不振に陥る生徒は少なくない。些事と言われれば、返す言葉もない。
「やはり、少し変ですよ。保護者の様子を見るためにも、家庭訪問した方がいいんじゃないですか」と石山千尋は気炎を上げて息巻いていたが、絵日記の夢物語を根拠に調査はできないし、そもそも、私も彼もそれを実行するだけの権限を持ち合わせていなかった。
「西村くんの家には登校を促す電話をしています。彼が自主的に登校するようになるまで待ちましょう。徒に騒ぎ立てるようなことはしないでください」
新米講師の暴走を止めるために、多少の嘘もついた。西村くんの母親に連絡を取ったことは本当である。しかし、必ずしも彼女らが教育に理解を示してくれるとは限らない。実際、西村樹の母親は学校教育に非協力的だった。「息子が嫌がっているから」と言葉を濁すばかりで、一向に会話が進まない。石山先生の言う通り、家庭訪問もあり得ない選択肢ではなかった。
結局のところ、あの鼻持ちならない学校長と私の間に大した違いはないのかもしれない。理屈を練ることで差し迫る問題から目を背けようとしている。
庇護すべき妻子の影が脳裏を過る度に、私は少しずつ臆病になっていくらしい。自分は確実に大義を見失いつつある。指導者としては致命的な欠陥だった。
長月の斜陽が校舎を赤々と照らし、吹奏楽部のトランペットがもの寂しい音を鳴らしている。彼らの奏でる音楽が止めば、学校は醜悪な大人達の寄合へと変貌するだろう。刻一刻と最終下校時間は近づいている。ほとんどの生徒は既に家路を辿っている頃合いだ。
茜色に染まる教室に残された生徒達と挨拶を交わしながら、私はノロノロとした足取りで校内の巡視を続けた。西村樹の日記が妄言虚語の類だと確信できない以上、得体の知れない不安は執念く付き纏ってくる。だからと言って、石山先生が言うように、謎を明らかにするために積極的に働こうという気も起こらない。藪を突いて蛇を出すようなマネはしたくなかった。
最終下校時間を告げる校内放送――シューマンの『子供の情景』の第七曲、トロイメライ――が流れるころになって、ようやく、職員室に辿り着いた。
これから、魑魅魍魎らの宴が始まる。悪意に満ちた大人達が互いに腹の内を探り合う時間である。安普請の引き戸の向こう側には、ひどく恐ろしい世界が広がっている。一歩前に踏み出すだけなのに、非常な勇気が必要だった。
「ああ、越智先生。ちょうどよかった。探しに行こうと思っていたところです。外線からお電話が届いております。ご対応をお願いします」
用務員の池田和彦が人懐っこい笑顔を浮かべながら、陽気に話しかけてきた。先日の小火騒動以来、この偏屈な老人は有頂天になっている。得意満面な笑みの裏には、俗っぽい自己顕示欲が常に見え隠れしており、接していて愉快なものではなかった。
「ご苦労様です」老人の機嫌を損なわないように大袈裟な口調で礼を述べる。彼は満足したのか、ドカドカと騒がしい足音を立てながら、職員室を出ていった。私は辟易しながらも、受話器を耳に押し当てた。「もしもし、大変お待たせいたしました。生活指導部の越智と申します」
しかし、奇妙なことに電話の主は頑なに沈黙を守っている。微かな息遣いが聞こえるばかりで返事はない。職員室の騒音が遠くに感じられるほどに耳を澄ませる。脈打つ血潮が鼓膜を震わせているのを感じはじめたころ、不明瞭ながらも声らしい音をわずかに聞き取った。
「く、だ……、く、る。ち、が……、れ、る。ひ、と……、ろ、し」
それは地中を蠕動する粘性の生物を思わせる声だった。長く聞けば、狂気が脳髄を侵しはじめるに違いない。私は恐怖を払い除けようと、荒っぽく受話器を置いた。あまりの剣幕に、数人の職員が振り返り、或いは顔を上げたが、直に業務に戻っていった。
デスクの上に残されていたマグカップを手に取って、冷め切ったコーヒーを胃に流し込んだ。ただの悪戯電話だと思いたいが、不吉な予感は拭いきれない。意味を見出すことすら難しい支離滅裂な音の連なりに過ぎないが、そこには確固たる悪意が含まれているように思える。得体の知れない不安が背中を焼いていた。
〈全職員に連絡します。至急、第一会議室に集合してください。繰り返します。全職員は第一会議室に集合してください〉
暗闇が迫りつつある校舎に、突如として教頭の緊張した声が響いた。それが、緊急を要する校内放送であることに気が付いた者は多くなかった。
しばらくの空白の時間を経て、数名の職員が大儀そうに席を立ったが、ほとんどの者は無関心を貫き通した。全職員が会議室に集まるまでに二十分以上の時間を費やした。無論、学校長の機嫌は悪い。それに、彼女は明らかに動揺していた。学校長は全ての職員達が席に着いたことを確認すると、乾いた唇をワナワナと震わせながら話しを始めた。
「本日、午後五時十八分に、下校中だった我が校の生徒五名と、引率を担当していた非常勤講師の石山千尋先生が、暴走した自動車に轢かれて亡くなりました。現在、警察が調査をしているようですが、車の運転手は故意に子ども達を撥ねたことを認めています。どうやら、学校に恨みを抱いていたと供述しているようです」
訥々(とつとつ)と状況を説明する学校長の顔色は青い。消え入りそうなほどに細い声で最後まで言うと、途端に彼女はさめざめと泣きはじめた。
それが呼び水となって、会議室に激しい怒号が飛び交い出す。中でも、用務員の池田和彦老人の怒りようは凄まじいものだった。
「あの小火騒動の犯人だ。あんたは俺に口止めをしたが、あの時、警察に通報していたら、こんなことにはならなかったはずだ。あんたが子ども達を殺したんだよ。この人殺し、人殺し」
老人は口端に唾の泡を飛ばしながら、狂ったように怒鳴り続けた。学校長を擁護しようとする者はいない。会議室は混乱の坩堝と化していた。欺瞞で塗り固められた城壁は遂に瓦解した。
石山千尋と西村樹は、この破滅へと至るまでの顛末を知っていたのだろうか。そんなことを呆然とした頭で考えてみたが、真相は杳として知れない。
解答は例の絵日記に秘められているような気がした。もしかしたら、あの悪意に満ちた電話の正体も分かるかもしれない。全ては可能性の範疇を出ないが、それでも不安の源泉を暴かずにはいられない。
「人殺し、人殺し」罵詈雑言が飛び交う会議室から逃げ出すと、私は暗がりの中に白々(しらじら)と伸びる廊下を、職員室目掛けて一直線に駆け抜けて行った。
四、深淵
茫漠とした不安の影を追っていたつもりが、暴いてはならない秘密の一端に触れてしまっていたということもある。一度でも直視しようものなら、暗闇から逃れることは容易ではない。おそらく、石山千尋は迂闊にも穴を覗き込んでしまったのだろう。彼にほとんど落ち度はないと思う。ただ、不運だっただけである。
責任の所在を巡って錯乱する職員会議室から逃げ出すと、死んだ新米講師のデスクを漁りはじめた。山と積まれた書類の間に隠されるようにして、西村樹の絵日記は静かに微睡んでいた。私は不吉に彩られた日記を引っ掴むと、酷使したあまりに擦り切れた鞄に押し込めた。
「人殺し、人殺し」という学校長を指弾する怒声が遠雷のごとく鳴り響いている。破滅する宿命にある人々の群れに分け入る元気はない。沈みゆく船から免れる鼠のように暗がりに閉ざされた学校を後にした。
血液が沸騰して、心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動している。肺腑が萎縮して痛みを覚えはじめるまで、街灯も疎らな夜の道を駆け抜けた。
駅に近づくに伴って、街の様子は少しずつ活気あるものへと移り変わっていく。喧騒の中心を目指して必死に走ったが、背中を焼かれるような威圧感に負けて、何度も来た道を振り返ることになった。明滅するネオンに飾られた駅前広場に辿り着いたころには、額に玉の汗を浮かべながら、肩で息をするまでに疲弊していた。
私は肉に食い込むネクタイの結び目を片手で解くと、腰を落ち着けて休憩できる場所を探しはじめた。盛り場に踏み入るほどの気力はないし、汗に濡れた身体を暖房にあてたくなかった。秋の夜風を好む粋人は滅多にないようで、広場に設置されたベンチに人気はほとんどない。疲労した肉体を投げ出すようにして、風雨に晒されて腐りかけた長椅子に腰を下ろした。
夜空には擬物めいた満月が穴を開けたように浮かんでいる。街の光に遮られているせいで星々を望むことは難しい。数えるほどの星だけが微かに瞬いて存在を報せているが、それらの名前を空で覚えている人間は多くないのだろう。
大人になるということは、《無関心を学ぶこと》に他ならない。大人は関心を失うのではなく、無関心を選ぶのである。今日、それを知ることもないまま、五名の子ども達が命を落とした。空白の時間が、そういった冷酷な現実を否応なしに思い起こさせる。腹の底から感情が溢れ返り、涙となって流れ出しはじめた。
――私は罪人だ。事件の兆候は以前から認めていたはずだ。放火の可能性に言及しておきながら、学校長の隠蔽工作に抗おうとしなかった。
それに、この日記のこともある。もっと慎重に取り扱っていれば、小火騒動が単なる事故ではなく、悪意ある放火だったことを証明できたかもしれない。西村樹くんを問い質すべきだった。全て、保身を優先して仕事を怠ったゆえに起きた惨劇なのだ――
誰かに裁かれたいと思った。罵られ、詰られ、苛まれたいという被虐的欲求が炎となって燃え上がり、虚ろな胸中を焼きはじめた。罪の十字架を背負って生き長らえるくらいなら、石を投げられて死ぬ方を選ぶつもりである。いずれ、我々は司法によって罪を天秤に掛けられることになる。その時は、誠実に罰を受け入れようと決心した。
――それにしても、気味の悪い符合と齟齬の繰り返しだ。この絵日記の持ち主は、こうなることを予期していたのだろうか。あの謎めいた電話の主は、何を伝えようとしていたのだろうか。そもそも、絵日記と電話は連関した事柄なのだろうか――
疑問の背後には不穏な影が常に付き纏っている。こうしている間にも、不吉な想像は際限なく膨張していくようだった。妄念を払い除けるためにも、日記を紐解く必要がある。私は使い古された鞄の中から絵日記を取り出すと、慎重に内容を検分しはじめた。
取り留めのない日常の記録が大半を占めているが、時折、人面牛身のお化けの絵と意味深長な文章が組み入れられているようだ。
ノートに綴られた少年の夢物語を追っているうちに、ひとりでに開くしつこい癖がつかられたページがあることに気が付いた。下校中の生徒を庇って、車に撥ね殺された新米講師の青白い顔を思い出した。
たくさんの人がしにます。車がはしってきて人とぶつかります。でも、石山
先生がまもってくれます。とても、かなしいゆめです。牛のおばけはきらいで
す。こわいことばかり言ってくるからです。
くろいふくの人たちがくると、お母さんが泣きます。冬がきたら、ぼくをつ
れていくと言っているからです。秋になったら、つぎに子どもをさがすと言い
ました。友だちになれるかな。
惨劇を予感させる内容が歪な文字で記されている。やはり、少年は今日の出来事をあらかじめ知っていたのだ。しかし、私を真に恐怖させたものは、少年の予言ではなかった。それは見落としてしまいそうなほど、小さな走り書きだった。欄外に書き加えられた金釘文字には見覚えがある。石山千尋の筆跡である。
「脅迫電話、荒い息遣い、西村家の黒服の人か。牛のお化け、未来予知、天保七年丹波国倉橋山のくだん。大勢の人間が死ぬかもしれない」
曖昧模糊とした不安が、徐々に明瞭な恐怖へと変わっていった。石山先生のもとにも、あの不気味な電話は掛かってきたらしい。彼の言葉を信じるのならば、それは「脅迫電話」である。そして、一連の事柄には西村家に出入りしているという黒服の人々が関係しているようだ。
――天保七年丹波国倉橋山のくだん……。あの人面牛身のお化けのことだろうか。黒服の人々は、くだんの夢を見る子ども達を連れて行くのか。黒服の人々の正体は何者なのだろうか――
茫漠とした不安は、明確な恐怖へと変質し、禁忌の一端を覗かせはしたものの、核心に触れられることを頑なに拒み続けているようだった。
深淵に通じる穴をジッと見詰めてみても、そこには果てしない無明の暗闇が広がっているばかりで、決して像を結ぶことがないように、私の探求も虚ろな終局を迎えることとなった。
「ここまでは見逃すが、ここより先は許さない」という拒絶の意志を感じる。黒服の人々が三瀬川の彼方から、じっと此方を見据えているような気がしてならない。冬が来れば、彼らは少年を連れて行くというが、行く先を知りたいとは思わなかった。
ポケットの中で携帯電話が鳴った。嫌な想像が脳裏を過ったが。どうやら杞憂だったらしい。妻の早苗からのメールだった。短い文章に一枚の写真が添付されている。
〈お仕事、お疲れ様です。はるちゃんのお絵描きが幼稚園で展示されたよ。気を付けて帰って来てね〉
写真の中で娘の春香が誇らしげに作品を掲げて笑っている。家族団欒の様子を描いた絵であるようだ。一見、微笑ましい光景なのだが、直ぐに胸中をガリガリと爪で引っ掻かれるような不快感に襲われた。
私の眼は日常に紛れ込んだ異物を見逃しはしなかった。満面の笑みを浮かべる家族の傍らに、牛の体に人の面を張り付けたお化けの絵が、ひっそりと書き添えられていた――。
(了)