犬神
修験者のかみつくやうに祈るなり
病の憑きし犬神の術
紫の染芳
『狂歌百物語』より
一、退屈と憂うつ
昭和六十二年の夏のことである。僕は茹だるような熱気にあてられながらも、自動車の運転席に座って、叔母の帰りを待ち続けていた。フロンド・ガラスに吊られた御守りは、そよとも動かない。
北九州の盛夏は想像以上に苛烈で、早くも東京が恋しく思われた。あの小便臭い裏通りにある下宿すら、奇妙なほど慕わしい。
あそこには虚無しかないということは理解している。虚無から逃げ出すために、遥々、北九州に住む親類を頼って来たのだ。それにも関わらず、僕は虚ろな生活を懐かしく思いはじめている。首筋を一滴の汗が露となって伝った。
道路を挟んで向こう側に、筑紫国の建家らしからぬ瀟洒な屋敷が堂々と立っている。モダンな様式の家であるが、住民は旧態依然とした風儀に囚われた古人たちであることは調査済みである。
叔母の仕事は彼らの無知に乗ずることで成り立っている。齋木佳代子は犬神を使って障りを除くという。真偽のほどは定かではないが、叔母の霊媒は効くらしい。今日は顧客への御機嫌伺いのために費やす予定だ、と彼女は言っていた。うんざりしながら、汗で湿ったタバコに火を点した。
霊媒師・齋木佳代子の助手として働き始めてから一か月が経とうとしている。東京での暮らしに飽きていたし、何よりも金が欲しかった。背中を焼かれるような生活にも、胸の内に空いた虚ろにも辟易していた。現実を生きている感じがしない。世界の全てが色褪せて見える。
大学の夏季休校を利用して、北九州までやって来ると、直ぐに親類縁者から避けられている叔母の許を訪ねた。何かが変わると思ったが、期待していたものは得られそうにない。齋木佳代子は埒外な悪人ではなかった。人々の無知につけ込んで口を糊しているが、法外な報酬を求めようとはしなかった。九州に来ても、相変わらず、僕の視界は霞がかって晴れそうにない。
「人はおおむね自分で思うほどに幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ」とロマン=ロランは言った。それには僕も賛同する。巨大な空白が胸の内に巣食っている。これは、ちょっと危険である。退屈が人を殺すこともあると知った。憂うつと退屈の味は驚くほど似ている。
二本目のタバコに火を点そうとして手を止めた。信者に見送られながら、斎木佳代子が屋敷の門から出てきたからだ。楚々とした和服姿の女性で、艶やかな黒髪を結い上げている。彼女は五十路を越えているはずだが、それを察することは難しいだろう。実際、彼女は美しい女性であった。
佳代子が着物の袖を抑えて、軽く手を上げたのを見て、そろりそろりと車を屋敷の門口に寄せた。住民たちが一斉に頭を垂れたので、思わず僕も頭を下げた。佳代子だけが姿勢を正して佇んでいる。彼女を中心にして世界が廻っているようだった。
「柳原さん、ご苦労様です。お祈りは滞りなく終わりました。北九州の夏は暑いでしょう。さっそく、洗礼を受けたようですね。こんなに汗をかかれて――どこかでお茶でもしていきましょうね」
斎木佳代子は貴婦人らしく微笑みを浮かべてみせた。僕は運転席から降りると、彼女のために後部座席のドアを恭しく開いて待つ。頭を垂れ続けている信者に会釈して、美しい叔母はひらりと車の中に乗り込んだ。
「この度はお疲れ様でした。それでは失礼させていただきます。皆様のもとに安らかな日がおとなうことを切にお祈りしております」
適当な口上を述べてお辞儀をすると、僕も車に乗り込んだ。信者たちは誰も口を利こうとしない。ただ、粛々と頭を下げ続けるのみである。きっと、そうするように叔母から指示されているのだろう。
大通りの角を曲がり、屋敷が見えなくなるまで、僕たちも沈黙を守り続けた。斎木佳代子は周到に役柄を演じていた。彼女の演出を引き立てることが僕の仕事でもある。
「さあ、お茶にしましょうか。ようやく、一息つくことができそうだ。どこのお店にしますか。疲れちまいましたよ」
車を走らせてから、きっかり十分後に訊ねた。今日の訪問スケジュールは終わったはずである。佳代子が本気で労わってくれるとは思っていなかったが、このハリボテめいた厳粛に堪えられそうになかった。叱責されるのを知っていながらも、軽口の一つでも利いてみないと、馬鹿らしくてやっていられない。そういう気分だった。
「あら、タバコを嗜むほどの暇があったというのに、休憩が必要なものですか。以前にも言ったと思いますが、この車は禁煙のはずです。私はタバコを嗜みませんし、節度を守れない方に助手は務まりません」
過ぎ行く街並みを眺めながら、佳代子は淑やかに言ってのけてみせた。上品に繕ってはいるが、彼女の舌鋒は鋭いものだった。機嫌を損なうと厄介なので、「すみません」と口先だけでも謝っておくことにした。
「もう、けっこうです。それでは、この住所のお宅まで車を回してください。どうやら、私に紹介したい方がいらっしゃるようなのです。さあ、もう一仕事ですよ」
路肩に自動車を停めて、差し出されたメモを受け取った。地図を広げてみたが、目的地とはさほど離れていないようである。また、炎天下で無為な時間を過ごすことになるのか、と考えるとさすがに憂うつだった。
「とはいえ、私の留守中に車の中を煙でいっぱいにされては敵いません。今度は私と同伴してもらいます。あなたは何も話してはなりません。私の指示に従うように」
意外な申し出に少なからず喜んだ。僕は外界からの刺激に飢えていた。もしかしたら、僕の胸の内に巣食う空虚を埋めてくれるかもしれない。どのように叔母が人を騙すのか興味は尽きない。憂うつを払い除けるように、アクセルを強く踏み込んだ。目的地の多田家を目指して、車は一直線に駆けて行った。
二、依頼人
とあるマンションの一角に多田家は居を構えていた。先ほど訪ねた瀟洒な屋敷と比べれば、幾分か見劣りはするが、立派な部類の建物である。築十数年といったところだろう。ある種の風格を感じさせる建物である。
「多田さんは熱心な信者ですが、慣例に囚われない進歩的なご意見を持っていらっしゃる方です。相手の土俵に上がるような下手を打たないようにしてください。極力、沈黙を守った方が良いですね。話し合いは私に任せてください」
斎木佳代子は多田家が暮らす部屋の前で、そんなことを述べた。僕はいつも通りの神妙な顔つきで、適当に相槌を打っていればいいだけで、それ以上の仕事は求められていない、ということだ。
「今日は私に紹介したい方がいらっしゃるみたいだけど、込み入った話は後日にしましょう。多田さんには申し訳ないけれど、私も少し疲れていますしね」
そう呟くと、佳代子は多田家が住む部屋のインターフォンを鳴らした。その横顔は弓を引き絞ったように鋭いものであり、彼女の精神が役に取り憑いた合図でもあった。僕もネクタイを引き締めて居住まいを正した。
「はい、多田朔太郎です。斎木様でしょうか。お待ちしておりましたよ。今日はぜひともご紹介させていただきたい方がいらっしゃっているのです。さあ、中へどうぞ――」
主人の朔太郎に導かれるまま部屋に上がった。間取りは一般的な3LDKであるらしい。見える範囲の中には祭壇のような仰々しい仕掛けは見当たらない。リビング・ルームのソファには先客が腰掛けていた。神経質そうな顔をした、長身痩躯の男である。僕たちの姿を見るなり、彼はいそいそと立ち上がった。
「お会いできる日を心待ちにしておりました。相島直和と申します。今日は先生にご相談したいことがございまして、伺わせていただきました。朔太郎くんには随分と迷惑も掛けてしまったようで、申し訳なく思っていたところなのですよ」
相島直和の物腰は柔らかいものだったが、落ち窪んだ眼だけは一切笑っていなかった。下手に出ているが、こちらを疑っていることは明らかだった。佳代子もそれに気が付いたのだろう。穏やかに微笑んでいるが動こうとしない。どうしようか、と迷っていると多田朔太郎に袖を引かれた。佳代子が小さく「いってらっしゃい」と言ったので、そのまま主人と共に別室に向かうことにした。
「あんた、斎木先生の助手さんだよね。相島直和のことはすまないと思っている。迷惑だということは理解しているつもりだ。でも、相島を無碍にはできない事情があるんだ。あいつは山口では名の知れた暴力団の構成員なんだよ。あいつにはちょっとした額の借金をしている。今、人払いをしているから家族はいない。それまでにあいつを納得させて、追い払ってくれないか。報酬は用意できているから」
そう言うと、多田は厚みのある茶封筒を押し付けてきた。中身を確かめてしまうと承諾したと思われかねない。いずれにせよ、佳代子に黙って懐に納めるわけにはいかない。自分の務めは最後まで全うするべきだ。僕はそう判断した。
「斎木の意見を仰がないまま受け取るわけにはいきません。しかし、僕たちも最善を尽くすつもりでいます。ご安心してください。きっと相島さんもご満足していただけるはずですよ。祈りましょう」
多田は納得していない様子だったが、茶封筒を押し返すと、渋々(しぶしぶ)ではあるが懐に閉まった。僕は悄然とする多田の肩を軽く叩くと、麗しい祈祷師が待つ部屋に戻るために歩きはじめた。
扉を開けると斎木佳代子と相島直和が向かい合ってソファに腰を下ろしていた。依頼人は何やら熱心に訴えている。祈祷師は静かに耳を傾けている。相島直和は正体不明の頭痛に悩まされているらしい。話は大学病院の体制的な診察方法への不満から始まり、先祖の霊への供養の作法にまで飛躍していた。
「とにかく、頭が痛くてしようがないのです。あまりに痛くて立っていられなくなることもあるくらいです。病院に行っても曖昧な答えしか返ってきません。あれですかね、何か悪いものにでも憑かれているのでしょうか。最近は、そんなことばかり考えてしまって――。ご先祖様への供養が足りていないのでしょうか」
相島はしばらく立て板に水を流すように話し続けた。やがて、満足したのかスーツの胸ポケットからタバコを取り出すと火を点した。紫煙が渦を巻いて立ち上る。佳代子は黙ってそれを眺めていたが、相島が平静を取り戻した頃合いを見計らって口を開いた。
「ご先祖様は満足なされていると思います。それよりも、相島さんの心の在り方の問題だと思います。気の持ちようということではなく、魂の純度とでも申し上げましょうか。負の念が澱みとなって溜まり、悪しきものを招いているのでしょう。清き水には聖なるものが、汚れた水には悪しきものが集まり流れ込みます。まずは、祈りを捧げて惑いを払いましょう。犬神を遣わして負の念を追い払ってしまうのです」
そういうと佳代子は相島の手を優しく握ってみせた。彼の顔色は依然として青いままである。佳代子が立ち上がると共に、多田がいそいそと働きはじめた。和室へと通ずる襖を開け放ち、種々雑多な道具を押し入れから取り出して丁寧に並べる。助手として彼を手伝うべきなのだろうが、僕には儀式の知識がない。ただ、相島の顔色の悪さだけが気になってしかたがない。そこで、佳代子にそっと近寄って耳打ちした。
「あの、これから祈祷をはじめるのでしょうか。随分とご気色が優れないご様子ですが、大丈夫なのでしょうか。日を改めるということもできると思いますが――」
しかし、佳代子の返答はすげないものであった。彼女はきつと前を見据えたまま、ごく小さな声で答えた。
「あなたが気にする必要は、これっぽちもありません。立場を弁えなさい。儀式を行うかどうかは私が決めます」
斎木佳代子は儀式の準備が整いつつある和室へと向かって歩きはじめた。僕は暗然とした心持ちで、それを見送ることしかできない。胸の内に空いた穴に、悪しきものが流れ込んでくる。そんな感覚に襲われた。
胸騒ぎがする。不吉なことが起きる気がする。これなら暑さを忍んで車中で待機していた方が良かったかもしれない。相島のゼエゼエという荒い息遣いが、徒に大きく聞こえる。柱時計がポーンと三度続けて鳴り響いた。
三、儀式
四つの影がヌラリヌラリと座敷の壁を濡らしている。蝋燭の灯火が揺れる度に壁に映じた四人の影が不気味に蠢くのである。真夏の太陽に焼かれた室内は人いきれのために噎せ返るようだ。腋窩から止めどなく汗が流れ落ちる感覚が不快だった。
「十種神宝を振ひ給へ。其の神宝、瀛都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、足玉、死返玉、道返玉、蛇比禮、蜂比禮、品物比禮――」
祝詞を奏上する女を囲うようにして、僕たちは座して掌を合わせている。面を伏せるように叔母から命じられていたが、湧き上がる好奇心を抑えることは難しかった。
斎木佳代子は神聖な儀式に臨んでいるつもりらしいが、俯瞰して見れば稚拙な擬い物であることは瞭然である。直に好奇心は退屈に侵食されていった。しかし、頭の隅に引っ掛かる不吉な予感から、目を背けることもできないでいる。相島直和の顔色は依然として青い。
「一二三四五六七八九十。布瑠部、由良由良止、布瑠部。極て汚きも滞りなければ穢きはあらじ。内外の玉垣清浄と申す」
壁に映じた一つの影がぐらりと揺れて消えた。一心不乱に祝詞を唱える祈祷師は、それに気が付かない。直ぐに相島直和が倒れたのだと覚ったが、それを指摘して良いのか、判断するまでに少しだけ時間を要した。面を伏せて祈りを捧げているため、多田朔太郎も動こうとしない。
さんざん、逡巡したすえに横たわる男に向かって膝行り寄った。そっと声を掛けたが返事はない。ようやく、異常な事態に陥っていることを皆が覚った。多田の叫喚が耳を劈かんばかりに響いた。
「息してない。息してないよお」
相島の顔色は青紫に染まり、早くも鬱血のために浮腫みはじめている。蝋燭の乏しい明かりの傍でもはっきりと見て取れた。多田はさめざめと泣きしきるばかりで役に立ちそうにない。僕も足を縺れさせながら、叔母の許へ駆け寄って訴えた。
「叔母さん、相島の野郎が死んじまった。死んじまったんだよ。息してないんだよお」
僕は叔母の華奢な肩を掴み、震える声で叫んだ。しかし、佳代子は虚ろな眼で中空を見詰めるばかりで、一向に手応えが感じられない。しばらくの間、僕は叔母の肩を掴んで揺さぶっていたが、やがて彼女が何かを口の中で呟いていることに気が付いた。
「祓へ給へ、清め給へ、神ながら守り給へ、幸へ給へ。犬神よ、祈りを叶へ給へ」
佳代子は遠くを見詰めたまま、小さく祝詞を唱え続けている。多田は男の遺体の前で恐慌状態に陥っている。僕が彼らを導かなければならないのだろう。
僕は座敷を後にして、救急車を呼ぶために電話を探しはじめた。電話は玄関のサイド・デスクの上にあった。受話器に手を伸ばそうとした途端に、多田朔太郎が怒鳴りながら阻んできた。受話器は叩き落とされて床に転がっていった。
「どこに電話を掛けるつもりですか。もう、手遅れです。相島直和は死んでいます。あの男がここに来て死んだことが露見したら、きっと、もっと面倒な事態になります。助けを呼ぶことなどできません」
多田朔太郎は半狂乱になりながらも、大体ではあるが、そのようなことを捲くし立てた。どうやら、二人の間には相当に後ろ暗い事情が横たわっているらしい。そういえば、相島は暴力団の構成員であると言っていた。その友人である多田も、叩けば埃の出る身の上なのだろう。大事になることを恐れる気持ちも理解できないわけではない。
「多田さん、あんたにとって災難な結末かもしれないが、大局を見れば、するべきことは決まっているようなものじゃないか。これは僕たちの手に余る状況だ。誰かが相島を殺したわけじゃないんだ。調べれば分かることじゃないか。今すぐ、誰かを呼ぶべきだ」
僕の説得を聞いても、多田は肯おうとはしない。捜査当局に調べられたら不利になるような要因があるのかもしれない。でも、それは彼にとっての重大事であって、僕には関与しないことでもある。しばらく、二人の男は押し問答を続けたが、議論は平衡したままで、埒が明きそうになかった。
「先生のご意見を伺いましょう。先生なら良い知恵を授けてくれるに違いありません」
突如、多田が叫んだ。その面には朱が差し、感情が昂揚していることは一目瞭然だった。だが、僕は彼の間歇的ともいえる感情の起伏に、ある種の病質な影の端を見ていた。一人の男の死をきっかけに、皆が少しずつ狂いはじめていた。無論、そこには僕も含まれている。
――斎木佳代子の判断力は鈍っているが、理がこちらにあるのなら、説き伏せることも可能なはずだ。多田朔太郎の保身のために、自ら泥を被るほど愚かではないはずだ――
僕たちは互いに牽制し合いながらも、いまだに熱気の漂う座敷に踏み込んだ。佳代子が相島直和の死体の前に屈んで、掌を合わせて祈りを捧げている。死者を弔っているのだろうと思ったが違った。
佳代子は神棚を飾っていた榊を手に取ると、相島の強張った肉体を激しく打つすえはじめた。僕はついに彼女が正気を逸したのだと思い、慌てて近づくと手から榊を奪い取った。彼女は恨みがましい眼差しで、僕を睨みつけると吠えるように言い放った。
「何をするのです。あなたは大変な思い違いをしているのです。相島さんの霊魂は、まだ近くをさ迷っています。犬神を下ろして、彼の肉体を蘇生させるのです。さあ、あなた方も祈りを捧げなさい。邪魔立ては許しませんよ」
多田朔太郎は僕の手から榊の束をもぎ取ると、憤然と直立している斎木佳代子に恭しく差し出した。僕は一連の光景を呆然と見詰めることしかできなかった。
多田は冷たくなった相島の手を取り、涙を流して祈っている。死者の肉体を打つ音が虚ろな空間に鳴り響く。あまりの恐ろしさに部屋から逃げ出した。信じているのだ。あの二人は死者が蘇生することを疑っていない。
「祓へ給へ、清め給へ、神ながら守り給へ、幸へ給へ。犬神よ、祈りを叶へ給へ」
佳代子と多田の唸るような祈祷の声が襖の奥から聞こえてくる。死体を鞭打つ音と共に聞こえてくる。視界がグルグルと回り、得体の知れない恐怖と疲労のために、立っているのもままならなくなってきた。
――狂っている。世界が狂っている。どうにかしないと、僕までおかしくなってしまいそうだ。僕は恐怖を感じている。退屈など微塵もしていない。これほどまでに恐ろしさが力強いものだとは知らなかった――
いまや、僕の身体は恐怖によって屈服させられていた。背中を壁に預けて座り込んでしまう。この機会を逃してはならないと脳裏で警告音が鳴っている。だが、意に反して肉体は動こうとしない。神経は極度に緊張し、今にも音を立てて切れてしまいそうだ。
数分後、襖の内側で鳴り響いていた音の一切が止んだ。座敷の引き戸が静かに開けられ、誰かが跫音を忍ばせて、近寄ってくる気配がする。しかし、面を上げる気力も残されてはいない。
突如、後頭部を強かに打たれて視界が暗転した。二度、三度と殴打が続き、遂には意識を手放した。暗闇へと急降下していく感覚。多少の痛みは伴うものの、それはとても心地良い感覚だった。
四、禊
冷水を浴びせ掛けられて目を覚ました。意識を取り戻すとともに、ひどい頭痛に苛まれることになった。もう一度、冷水を浴びせてほしいと願ってしまうほどに頭が鈍く痛む。
視界が白い皮膜に覆われているような感じがする。乳白色の霞が視界を狭めているみたいである。薄ぼんやりとして杳として知れない。ひどく明るい場所にいることだけは分かった。おそらく、浴室だろう。
「柳原さん、目を覚ましましたか。このような手荒い方法を採ったことを許してちょうだい。これは身を浄めることも兼ねているのですよ」
乱暴とはそぐわない潤いのある優しい声の主は叔母の佳代子である。あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
身体が椅子に縛り付けられているために自由が利かない。それほどの膂力が彼女にあるとは思えない。一連の暴行は多田の仕業なのだろう。霞がかった脳髄で、そんなことを考えた。
「叔母さん、まだ遅くはないはずだ。今からでも警察に行こう。死人が蘇るわけがないことくらい分かるだろう。僕たちはよくやってきたと思う。でも、もう、終わりにしよう」
罵声とともに冷水を浴びせ掛けられた。視界を覆っていた乳白色の霧が晴れる。額に血管が浮くほどに激昂した多田朔太郎が口端に唾の泡を飛ばしている。一方、斎木佳代子は一応の冷静を保っているように見える。いずれにせよ、説得は難しいように思えた。
「この不心得者が。先生の御力を疑うどころか、貶すようなことを言いやがる。お前みたいな不信心の輩がいるから、俺たちが報われないのだ。相島さんは蘇る。先生が蘇らせてくださるのだ」
多田は完全に正気を失っている。血走った眼球をぐるぐると渦巻かせている様子は狂人そのものである。しかし、僕の恐怖は叔母の佳代子に向けられていた。この狂人を容易く手懐けてみせるまでに、彼女は徹底して役を演じているということになる。その計り知れない業の深さが恐ろしい。
「多田さん、かまいませんわ。この方の内側には邪念が満ちて溢れ返りそうになっているのです。直ぐにでも禊を執り行なう必要があります。邪気が彼を惑わせているのです。言葉を聞いてはなりません。心を強くお持ちなさい」
佳代子の目弾を合図にして、多田がいそいそと働きはじめる。縄で縛られた身体が椅子ごと反転させられた。視界から佳代子の姿が消える代わりに、なみなみと水が張られた浴槽が現れる。
突然、後ろ髪を掴まれたと思いきや、浴槽に注がれた水の中に頭を突き入れさせられた。佳代子の祝詞が遠くで聞こえる。
「極て汚きも滞りなければ穢きはあらじ。内外の玉垣清浄と申す」
鼻と口から水が流れ込み、次第に意識が薄れていく。後頭部を抑えていた手から力が抜けたのを幸いに、急いで水中から面を上げて息をする。しかし、すぐさま水中に押し戻されてしまう。
執拗な禊が何度も繰り返された。溺れる一歩手前で救われ、救われた途端に溺れさせられる。地獄の呵責が何時間も続いた。或いは十数分間ばかりのことだったのかもしれない。多田がゲタゲタと笑いながら言う。
「参ったか、この野郎。穢れに満ちた不信心者め。もっと水を飲ませてやろうか。臓物の隅々(すみずみ)まで泥を溜め込んでいやがるのだろう。そら、泥を吐かせてやる。吐け、吐くんだ」
多田は明確な悪意をもって暴力を愉しんでいる。僕に残された勝算は微かなものであったが、彼が嗜虐心を肥え太らせれば好機が訪れる可能性も高くなるはずである。そして、遂に機会が巡ってきた。
「もう、そろそろいいでしょう。縄を解いてやりなさい。禊の効果も表れる頃合いでしょう。邪気が払えていないようなら、また、祓いの儀式を行います」
佳代子が禊を止めることは分かっていた。彼女は賢い女性である。たとえ、惑っているとしても、自身が務めるべき役割を彼女は決して見失わない。佳代子の目的は死体を作ることではないし、優秀な助手をみすみす手放したくはないはずだ。ましてや、相島の死体を処理するつもりなら、明らかに多田では役不足である。彼女は必ず打算する。いつになるかは分からないが、その時は確実に訪れるのである。
「あ、何かブツブツと呟いてやがる。聞こえねえよ。はっきりと喋りやがれ」
縄が解かれるとともに、わざと声をひそめて略拝の祝詞を唱えはじめた。半死半生の手負い人らしく振舞ってみせる。
多田の横面が徐々に眼前に迫ってくる。惨めな弱者の哀願を期待して彼は耳を澄ませる。肉がついて、白くだぶついた首筋が見えた。その時、佳代子が叫んだ。
「多田さん、危ないッ」
犬歯を剥き出して、多田朔太郎の喉笛に噛み付いた。鞴を鳴らすような頼りない息が音を立てて傷口から漏れる。流れ出る血潮が僕の口許をしとどに濡らした。夥しい量の血を飲みながらも歯を肉に突き立てる。頭を左右に振って肉を食いちぎった。
やがて、多田の身体が大きく痙攣し始めたが、五分も経たないうちに止まった。僕は獲物をしとめる執拗さで白首に食らい続けた。一匹の浅ましい獣がそこにいた。
「祓へ給へ、清め給へ、神ながら守り給へ、幸へ給へ。犬神よ、祈りを叶へ給へ」
佳代子は静かに言うと、さめざめと泣きはじめた。彼女の惨めな姿を横目に見ながら、僕は血だまりの浴室を後にした。
脱衣所の扉を開けると強烈な腐敗臭が鼻を打った。部屋中が蒸し風呂のような熱気に籠められている。臭気の発生源は容易に想像できたが、それを確かめるほどの勇気はない。
白いシャツは血に染まり、髪は水に濡れていたが、さほど気にすることもないまま、惨劇のマンションを出た。街は夜の帳が下りて久しいらしい。銀盆のような満月が天空にぽっかりと浮いている。一体全体、どれほどの時間が経っているのだろう。二日か、三日かもしれないし、一日にも満たない僅かな時間なのかもしれない。
僕は疲労のためにおぼつかない足取りで街をさ迷い歩きはじめた。どこを歩いているのかは知らないが、どこへ行くべきなのかは明らかだった。運が良ければ、僕の身なりを見て、向こうの方から迎えに来てくれるかもしれない。まさに、喪家の狗という体たらくである。
多くのものを失った気がしてならない。一滴の涙が頬を伝って落ちたが、その理由は自分にも分からない。ただ、惨劇の外では退屈な日常が平然と広がっているという現実が憎たらしい。生きているということがバカバカしくなってくる。全ての現象が薄っぺらい贋物のように思えてならない。現実と虚構の遠近が失われていくような感覚に襲われた。
それにしても、ここはどこだろう――。どうやら、喪家の狗は本当に道に惑ってしまったらしい。
五、ある雑誌記事の抜粋
北九州市で猟奇事件発覚か?
昭和六十二年八月九日、福岡県北九州市内の歓楽街で血塗れ姿の男性・柳原良助(二〇)が徘徊していたところを警察官に保護された。言動は支離滅裂であり、聴取に時間を要したが、身体検査の結果、怪我を負っている様子はなく、危険物を所持しているわけでもないことが確認された。
柳原の身体に附着した夥しい量の血液から、事件性があると判断した警察官は、柳原を警察署に連行して、詳しい事情聴取を行った。
事情聴取の結果、柳原は北九州市内の住宅地である某マンションで殺人を犯したことを認めた。彼は夏季休校を利用して北九州市にアルバイトをしに来た大学生であり、土地に明るくなかったために、惨劇が繰り広げられたというマンションを特定するまでに時間がかかったようだ。
同年八月十二日、警察は市内の某マンションに踏み込んだが、あまりに凄惨な現場の様子に驚愕したという。部屋中の窓が閉め切られていたため、現場は異様な熱気に包まれていた。三人分の死体が発見されたが、熱気にあてられたせいで腐敗の進行が著しく、噎せ返るほどの臭気が満ちていたという。
すぐに遺体の身元調査が行われた。調査の結果、三人の遺体は、相島直和さん(三〇)、多田朔太郎さん(三〇)、斎木佳代子さん(五二)のものと判明した。
マンションの持ち主である多田さんの遺体の損壊は激しく、三人の中で唯一、他殺された形跡が残されている。また、相島さんは病死、斎木さんは自殺していることが確認された。各々の死因が異なる点が、この事件の全貌を複雑怪奇なものにしているといえよう。三人の関係性についても依然として疑問が残る。
柳原良助の身体と衣服に附着していた血痕と、自宅マンションで惨殺されていた多田朔太郎さんの血液型が一致している。柳原が多田さんの殺害に関与しているか、現在調査中であるとの事である。柳原の証言は要領を得ないところが多々あるようであるが、自殺した斎木さんと親戚関係であることが確認されており、先月七月から共に活動していた様子も目撃されている。柳原が働いていたというアルバイトが斎木さんと関連している可能性もあると捜査関係者は言う。
死体を蘇生しようと奮闘する祈祷師
八月十二日に北九州市の某マンションで発見された死体遺棄事件に進展があった。事件は八月九日に同市内の歓楽街を血だらけの恰好で柳原良助(二〇)が徘徊していたところを保護されたことから発覚した。
柳原は事情聴取に対して、不明瞭な返答を繰り返していたが、十二日に北九州市内の某マンションに死体が遺棄されていることを証言した。警察の調査によって三体の死体が発見されたが、三人の死因が各々異なる点、三人の人間関係が不明瞭な点から、捜査は難航していた。
惨劇の舞台となったマンションの持ち主である多田朔太郎さん(三〇)を殺害した疑いで柳原は身柄を確保されていたが、昨日十五日、正式に刑事告訴されることとなった。また、同マンションで自殺していた斎木佳代子(五二)との関係性についても新たな事実が発覚した。
柳原と斎木は親戚関係にあることは確認されていたが、二人が霊感商法によって利益を得ていたことも明らかになった。遺体として発見された、多田朔太郎さんと相島直和さん(三〇)は二人の信者であり、一同は儀式のために多田さん宅に集まっていたようである。また、多田さんの家族は、この会合の直前に、朔太郎さんの勧めで実家に帰省している。家族は朔太郎さんが信者であることを知らなかったようだ。
事件は会合中に相島さんが急死したことから始まった。儀式の最中のことだったらしく、斎木佳代子は相島さんを「祈祷の力のよって、蘇生させてみせる」と主張したと柳原良助は供述している。また、柳原自身は反対したが、聞き容れられることはなく、蘇生の儀式が進められたとも供述しているようだ。この三人の意見の対立が惨劇の原因となったという。
斎木と多田さんは蘇生の儀式の失敗は、柳原が協力しなかった点にあると結論付けた。彼らは禊と称して、柳原に執拗な暴行を加えたようである。命の危険を感じ取った柳原は抵抗したが、その際に多田さんを殺害してしまったと自白している。また、柳原は多田朔太郎さんの殺害を認めているが、斎木佳代子の死亡については関与を強く否定してる。
警察官らが現場に踏み込んだ時、部屋の中は異常なほど熱気が漂っていた。そのため、三人の遺体はひどく腐乱しており、少なからず、科学分析の妨げとなっているといえるだろう。
柳原良助は事件の加害者であると同時に、最後に残された生き証人でもある。事件の全貌を解明するためには、今後の彼の証言が重要となってくることだろう。しかし、捜査関係者の中には柳原の供述の整合性について疑問を抱いている者も少なくない。真実は藪の中ということになりそうだ。
(了)