狐者異
狐者異は我慢豪情の一名にして、世話に云無分別者也。生ては法にかゝはらず、人を恐れず人のものを取くらひ、死して妄念執着の思ひを引て無量のかたち顕し、仏法世法の妨をなす。
『絵本百物語・桃山人夜話』
巻第壱/第三より抜萃
一、頬肉の香草焼き
「いつだってきっかけは些細なことなのだ」と貝塚マコトはフライパンに油を塗り込めながら思う。長年にかけて愛用してきた鉄鍋は充分に手入れが施され、持ち主の顔を鏡のように映すまでになっている。貝塚は掌で柄をくるりと弄ぶと、腕に掛かる重みに満足して、黒々と光沢する鉄鍋をキッチンの棚に納めた。
「また、ホトケサンを食べるつもりか。あんたの仕事の腕前は認めるが、捌いた肉だって、もとは人間なんだぜ。敬意を払って扱わなきゃ、いずれ罰が下るんじゃないか」
貝塚が背後を振り返ると、バスローブを身に纏った青年が、髪をしとどに濡らしたまま、彼を屹然と睨みつけている。貝塚はこの青年――村田ミノル――のことを憎からず思っている。生意気ではあるものの、仕事には真摯であるし、国立大学の出身らしく明晰でもある。融通は利かないが、いい加減な仕事をされるよりはマシだった。
貝塚は彼の瞳を特に気に入っていた。そこには、貝塚が失って久しい輝きがあった。鋭く煌めく双眸に見詰められるたびに胸の奥がざわざわする。しかし、不思議と不快ではない。若さへの憧憬とでもいったようなものを貝塚は抱いているらしかった。彼は今年で四十になる。
「ミノル、そこがお前の悪いところだよ。この商売に同情や共感はいらない。それは命取りになる感情だ。これは、肉の塊だよ。機能不全を起こした時点で物質になるんだよ。ホトケサンを捌くとき、初めに頭と腕を切り落とすのは、そういった共感的反応を遮断するためでもある。人間としては立派な反応だが、俺たちのような掃除屋には必要ない。どうか、それを知っておいてくれ」
貝塚は幼子を諭すかのような口調で言うと、キッチンに備え付けられていたガスコンロのつまみを捻った。オーブンに火が点き、金網に載せられたアルミホイルの包みをジリジリと炙りはじめた。ほどなくして、包みの隙間から油が滴り落ち、部屋中にバターのこうばしい香りが漂う。
村田は不機嫌そうに濡れた前髪を指で払うと。設えられたソファに向かって歩き出した。あと、もう十五分もすれば、食事は出来上がるはずだ。貝塚の咥内に唾が満ちる。
貝塚マコトが掃除屋――死体処理稼業に就いたのは八年前のことである。三十二歳、彼は働き盛りのサラリーマンであると同時に欲望の奴隷でもあった。天涯孤独の身の上という事実が彼の野性を解き放ったと言っていい。転落は早かった。尋常でない勢いで借金は膨れ上がり、直に暴力が支配する世界へと身を落としていった。
「細切れにされて魚の餌になる側」か「細切れにして魚に餌を与える側」に立つかを選べと迫られるようになった。そして、貝塚はさして悩むこともなく後者を選択した。
その日から、貝塚マコトはとある組織の〈所有物〉となった。彼の仕事は組織から送られてくる死体を処理すること。以来、彼は山小屋に籠って死体を捌き、或いは燃やし続けている。それでも、貝塚マコトは幸せだった。彼は新しい幸福追求の手段を仕事の中に見出したのである。彼は執念の鬼――快楽を貪る一匹の餓鬼であった。
「あんたは腕のいい掃除屋かもしれない。でも、人間が人間を食ってよいという理屈にはならんだろう。僕は仕事の手解きを求めているんじゃない。論点はそこじゃないんだ。あんたは話をはぐらかしているだけさ。今、僕は罪について話しているんだよ。あんたは罪を意識したことはあるかい」
村田はソファに身を横たえながら挑むような口調で貝塚に問い掛けた。貝塚は戸棚から食器を取り出しては机に並べていたが、村田の声の内に込められた熱をやがて覚った。
貝塚は村田の顔色を窺おうとしたが、華奢な掌で面を覆っているため、杳として知れない。ポケットから抜き出したタバコに火を点すと、努めて穏やかな口調で自身の考えを述べはじめた。
「罪を感じなかったと言ったら嘘になる。だが、そういう感覚の鮮度はすぐに失われていくのも事実だ。正義や真理が不朽ならば、罪もまた絶対であるべきじゃないか。だから、俺は大罪を犯しているとは思わない。人は大なり小なり罪を抱えているものだからな。ならば、みんな誰に赦しを請えばいい。罪に対して誠実であろうとするならば、破滅を覚悟しなくてはならない。俺たちは愚か者ではあるかもしれない。だが、神さまから見捨てられるほど罪深くはないはずさ。俺はそう考えている」
貝塚は紫煙を吹きながら、だいたい、そんなことを語った。村田は顏を掌で覆ったまま動こうとしない。これが詭弁であるということは貝塚にも分かっていた。彼は正義や真理を信じていない。それと同じ程度に罪の実存を疑っていた。
明晰な頭脳を持つ相棒のことである。村田がこの欺瞞に気が付かないはずがない。
沈黙を破ったのは、キッチンタイマーのアラームであった。貝塚はタバコの火を灰皿に押し付けて揉み消すと、台所に廻り込んでオーブンの蓋を開けた。芳しい香りが煙となって部屋に満ちる。バターと香草、それと肉から滴り落ちた脂が溶けあったにおいだ。
アルミホイルの包みを白磁の皿に載せて解していく。ホロホロと崩れ落ちてしまいそうなほど柔らかい肉――一般にツラミと呼ばれる頬肉の部分――が銀箔の隙間から顔を覗かせる。付合せに入れた人参と榎茸が赤白の彩りを添えていた。ローズマリーとタイムの香りが湯気となって立ち込め、鼻腔いっぱいに甘く爽やかな風格が広がる。〈頬肉の香草焼き〉である。貝塚は食卓に着くと、さっそく、銀のナイフとフォークを操りはじめた。
「なあ、僕たちは罪人じゃないよな。頼むから、もう一度だけ、そう言ってくれ。神さまは僕たちを見捨てちゃいないと。なあ、お願いだよ。ひどく心細いんだ」
村田の哀訴は鞴を鳴らすような、か細く頼りないものだった。無我夢中で肉を貪る貝塚の耳には僅かに届かない。ただ、カチャカチャと食器が互いに触れ合う音だけが、徒に響いている。シルクのヴェールが薄い皮膜となって彼らの間に介在しているようだった。その晩、二人の男が言葉を交わすことは遂になかった。
二、内腿肉のユッケ
昨晩、捌いた死体は鮮度が良かったため、いつもより多くの素材を切り取ることができた。人の肉は直ぐに味が落ちる。処置を施さないと十日が限度といったところである。貝塚マコトは必要以上に肉を取らないようにしている。彼にとって食事は神聖な行為である。素材を無駄にしたくはない。
貝塚は冷蔵庫の中からバットに載せられた肉の塊を取り出した。赤身と脂の対照が美しい腿の肉である。貝塚は牛刀を手にすると、サシの入った肉を細く薄く切り分けていった。手際よく肉を麺状に切り揃えると、戸棚から気泡の入った青いガラス皿を取った。涼しげな皿の上に円錐になるように盛り付けていく。親指の腹で山の頂を圧して窪みをつくり、そこに卵黄を静かに落とす。
〈内腿肉のユッケ〉。貝塚はこれを胡麻油と苦椒醤の合わせタレで食べるつもりでいる。彩りとして果物が欲しかったが備蓄はない。今日は伝達係――メッセンジャーが来るはずであるが、昼食までには間に合いそうにない。貝塚は少しだけ残念に思いながらも、箸で卵黄を崩して、麺状に切られた肉と混ぜ合わせはじめた。香り高いタレを肉の上にサッとかける。唾液腺から涎が湧いてきた。
口に含むと、胡麻油の豊かな風味と苦椒醤の甘辛いような味わいに包まれた肉が解けていく。上品な脂は舌の上でトロリと融け、柔らかい赤身は頬の内側にじんわりとした旨みを広げる。卵黄が調味料の角をまろやかにしていた。貝塚は滅多に食べられない肉の刺身に舌鼓を打った。肉の美味さを噛み締める。
「ああ、食料が底を尽きそうだよ。メッセンジャーはまだ来ないのかい。もう、クラッカーは食べ飽きちまった。もっとも、あんたには関係ないようだけどな。飢えとは縁遠い暮らしをしているみたいだから」
勢いよく玄関の扉が開け放たれると同時に、村田ミノルが苛立たしげに言う。山小屋の外に普請された倉庫の備蓄を漁っていたのだろう。服のあちらこちらに埃がついていた。
――たしかに、飢餓とは無縁な人間に見えるのだろう。だが、それは思い違いというものだ。飢餓を経験したからこそ、今の俺がいるというのに。いつだってきっかけは些細なことなのだ――
村田ミノルがこの山小屋に送られるよりずっと以前のことである。貝塚マコトは飢餓を経験した。
組織の伝達係は物資の運輸も担当しているのだが、こちらから連絡する手段は一切ない。貝塚マコトはどこまでも組織の〈所有物〉であった。
いつのことだったか、伝達係がふっつりと山小屋を訪れなくなったことがあった。二か月間ほど、貝塚は飢え苦しんだ。食料が底を尽きたとき、彼は死を覚悟したほどだ。
最後に残されたものは、組織から処理を押し付けられた一つの死体だった。貝塚は散々に悩んだすえに、それを食べることにした。生きるためには必要な行為だったし、飢えが判断を鈍らせてもいた。それは、とても美味そうに見えたのである。
貝塚は泣きながら肉を食べた。彼が罪を感じたのは、その一度きりである。ほどなくして、彼は病みつきになった。
――やめようと思えばやめることもできた。でも、俺は人間の肉を食い続けている。楽しんでいるのだ。だが、それが悪いことなのだろうか。仕事に楽しみを見出しでもしなければ、耐えられそうにない。俺はどこかおかしいのだろうか――
村田はまだ部屋をうろつき歩いている。貝塚はそれを横目に見ながら思う。彼にも限界が近づいているのだ、と。貝塚は狂っているかもしれないが、村田よりもはるかに人間として生きていた。
「あッ、メッセンジャーのクルマが来たぞ。もう、腹が空いて死にそうだ。荷物の運搬は僕がやっておくよ。あんたは食事を楽しんでいてくれ。折り入って、メッセンジャーと話したいこともあるし。それじゃ、行ってきます」
そう言うと、村田は慌ただしく外へ駆けて行った。おそらく、物資の一部を占有するつもりなのだろう。それが彼にとっての唯一の楽しみであるということくらい貝塚も知っている。
村田とすれ違うようにして、組織から送られてきた伝達係が部屋に入ってきた。
油の浮いた顔面に、薄くなった頭髪。垢じみたシャツを着た小柄な男が、黄色い歯を剥き出して笑っている。この男はさすがに食えないな――と貝塚は思う。食欲が失せた。
「悪食ぶりは相変わらずのようだな。それは生肉かい。腹を壊さないようにしろよ。この仕事は身体が資本なんだからな。しかし、まるでコワイだな。同じ人間とは思えんよ」
耳馴れない言葉を聞いて、貝塚は少しく興味を抱いた。いずれにせよ、この男の登場によって、食欲は完全に失せてしまった。彼は箸を置いて伝達係を睨みつけると、「コワイって何のことだ」と不愉快そうに訊ねた。伝達係は頭を掻きながら答える。
「気を悪くしないでくれ。狐者異というのは悪食の妖怪のことだ。お前が死体の肉を食らう姿を見て思い出しただけさ。これでも、大学では民俗学を専攻していたんだ」
この男の気まぐれのせいで、六十日間に亘って飢餓に喘いだ。貝塚は食人という行為を悔いたことはない。彼にとって食事は神聖な儀式である。伝達係の怠慢を赦すつもりはないし、無礼を見逃してやる理由もない。
「あんたは俺のことを侮辱した。気を悪くするな、というが無理な注文だな。はっきりと不快だ。さっそくで申し訳ないが、この山小屋から出て行ってくれないか。あんたを見ていると食欲が失せる」
貝塚マコトの声は冷たく鋭かった。伝達係の顔に血が上り、額に玉の汗が浮かぶ。タバコ臭い気焔を吐きながら小男が詰め寄る。
「随分と舐めた口を利くじゃねぇか――豚野郎。お前が生きていられるのは、会社のおかげだということを忘れるな」
貝塚マコトはどこまでも冷静沈着だった。伝達係は恫喝が通じないと知ると、直ぐに身を翻して部屋を後にした。そろそろ、村田ミノルの運搬作業も終わる頃合いだろう。しばらくして、外から自動車のエンジン音が鳴り響き、次第に遠ざかっていった。
村田が部屋に戻ってきたのは、それから二時間後のことである。「倉庫の整理をしていた」と彼は言っていたが、貝塚は直ぐにそれが嘘であることを覚った。
村田の靴底は水で濡れていた。倉庫にいたのなら、そんなことにはならないはずだ。そういえば、彼は伝達係に話があると言っていた。あれはどうなったのだろう。嫌な予感がする。
しかし、貝塚は問い質そうとしなかった。相変わらず、越えがたい壁が二人の間に聳え立っているようだった。
貝塚は微温くなった料理をゴミ箱に捨てると、晩の献立の内容を考えはじめた。さて、次はどのように料理しようか。
三、胸腺の赤ワイン煮込み
――おそらく、あのメッセンジャーは殺されているのだろう。そして、その犯人は村田ミノルであるに違いない。あいつは嘘がへたくそだから、組織も直に気が付くはずだ――
両手鍋に湛えられた赤ワインのソースを煮込みながら、貝塚マコトは考える。
玉杓子で鍋の底を浚うと、トロリとした肉片が掬い上がった。肉片の正体は胸腺である。上質な脂が融けて、赤身に絡まり照らしている。ブーケガルニは、パセリ、セロリ、タイム、玉葱。立ち上る湯気は葡萄酒と香草の香りだ。
「あんたの料理はさぞかし美味いんだろうな。でも、どうしてもホトケサンを食べる気にはなれないんだ。僕はそこに罪を感じずにはいられない。情けないことに、僕はまだ自分が清廉な身の上であると思い込みたいらしい」
村田は缶詰の果物をフォークで突きながら呟いた。この数日間のうちに、彼は随分と憔悴していた。貝塚は油の抜けた後輩の顔を一瞥すると、小さくため息をついた。銀の皿に葡萄酒の煮込み料理をよそい、仕上げにパセリの葉をひと摘みだけ散らす。
〈胸腺の赤ワイン煮込み〉。貝塚は少しだけ悩んだすえに、それを青年の前にそっと差し出した。
きっと、村田ミノルは食卓に載る料理を拒絶するに違いない。彼は清廉ではないが誠実な人間ではあった。欺瞞を許せない性質の人間なのだ。貝塚は彼の愚かしさが好きだったし、羨ましくも思っていた。彼は拒絶されることを期待していた。
「気持ちはありがたいけれど、僕はあんたのようにはなれないよ。これを食べてしまったら、神さまに見捨てられてしまうような気がするんだ。どれほど、血に濡れようとも、越えてはならない境界がある。それを侵さなければ、僕はまだ人の子でいられる――そんな気がするんだ。馬鹿げているよな」
そう言うと、村田は自嘲めいた微笑を浮かべてみせた。「たしかに、馬鹿げている」と貝塚は思ったが言葉にはしなかった。この青年は本気で神さまに救いを求めている。貝塚は神さまを信じていなかったが、神さまにすがる人々の苦しみは理解しているつもりである。
「試すようなことをしてすまなかった。ミノル――お前は人の子だよ。この料理は相応しくないのだろうな。拒絶してくれてよかったよ」
貝塚は銀の皿を取リ下げると、匙を手にして食事をはじめた。肉は融けるほど柔らかい。葡萄酒の煮汁は胃袋をじんわりと温めるようだ。鼻腔に香草の爽やかな風味が広がる。ひと摘みのパセリが味わいに奥行きを与えているみたいだった。
――ああ、この味だ。脳髄が蕩けてしまいそうだ。なるほど、俺は人の道を外れた魔物なのかもしれない。だが、それがどうしたというのだ。恍惚や陶然とはこういう境地を示すに違いない。こればかりはやめられそうにない――
伝達係の男は貝塚のことを悪食と呼んで蔑んだ。それは彼にとって屈辱の極みである。だが、貝塚は自分が人倫に反した行為を繰り返していることも知っていた。癪ではあるが、人の道を外れた者は妖怪や魔物と呼ばれて然るべきだし、神さまから見限られてもしようがないのである。
「僕は神さまに嫌われてもしかたがないことをしてしまったんだ。取り返しのつかないことをしてしまったんだ。僕はあんたの料理を拒絶したんじゃない。臆病なだけなんだ」
村田ミノルが何を言おうとしているのか、貝塚には理解できるような気がした。
食人と殺人のどちらの方が罪深いのか、彼らには分からない。しかし、この仕事を始めてから、どこか言い訳めいたものを探し続けている自分がいることは確かである。解答はいまだに導き出せていない。
村田の潔癖を思えば地獄のような状況だろう。村田は既に境界を越えてしまっている。だからこそ、食人にまで手を伸ばしたくないのだろう。村田は顔色を青くして震えている。貝塚はそれを見守ることしかできない。いくらかの沈黙の後に、とうとう、村田は細い声で話し出した。
「あのな、どうやら、僕は大罪を犯してしまったみたいなんだ。僕はあのメッセンジャーのことを――」
だが、村田の告解は半ばで遮られてしまった。玄関の扉が勢いよく開け放たれ、黒いスーツを身に纏った男たちが部屋に侵入してきたからだ。聖餐は踏み躙られて終わりを迎えた。物々しい雰囲気が辺りを包む。彼らが組織の人間であることは明らかだった。長身痩躯の男が一歩進み出て訪問の由を語りはじめる。
「夜分に押し掛けてしまって、申し訳ございません。よんどころない事情がありまして、失礼させていただいた次第です。貝塚マコトさん、あなたに殺人の容疑が掛けられています。単刀直入にお尋ねします。あなたはうちの伝達係を殺しましたか」
村田は椅子から立ち上がると、ひどく狼狽しながら男に詰め寄った。その様子を見て、貝塚マコトは全てを覚った。
この愚かな青年は罪から逃れるために隣人を売ったのである。きっと、彼は銀貨の代わりに誠実を買い戻そうとしたのだろう。それが欺瞞だとしても憧れないわけにはいかなかったのだ。そう考えると、不思議と怒りは湧いてこなかった。
「約束と違うじゃないか。こんな大勢でやって来て調べるなんて聞いていないぞ。あんたらは全てをぶち壊したんだ」
口角に沫を飛ばして激する村田を押し止めて、長身痩躯の男は静かに言う。村田ミノルは明らかに進退これ谷まっていた。彼の嘘を信じている者は誰一人としていないようだ。
「あなたの指示に従う理由は一切ありません。我々は必要に応じて速やかに行動します。あなたの供述は信頼できないと判断しました。村田ミノルさん、率直に申し上げますと、我々はあなたのことを疑っています」
村田は反論しようとしたが、黒服の男たちが阻んだ。一本の拳が彼の鳩尾を穿つ。痛みと苦しさのあまりに屈んだところを、幾本もの腕に絡め捕らえられた。一方的な暴力の嵐が村田を揉みくちゃにする。長身痩躯の男は我関せずといった表情で貝塚に問い掛けた。
「貝塚さん、この男はあなたが当社の伝達係を殺害したと言っています。それは本当のことでしょうか。もう一度、お尋ねします。あなたは伝達係を殺しましたか」
貝塚マコトはしばらく逡巡した後に、銀の皿からスープを掬うと口に含んだ。既に熱は失われて微温くなっている。それが残念でならない。彼は静かに匙を置いた。
――俺たちは愚か者であるかもしれない。だが、神さまに見捨てられるほど罪深くはないはずだ。俺は食人を犯し、奴は殺人を犯した。俺は自身の行為を悔いてはいないが、二つの罪を犯したくはない――
貝塚マコトは青年のことをよく知らない。青年がどうして殺人を犯し、虚偽を装ったのか知らない。彼は青年を救おうとは思っていない。ただ、ほんの少しだけ、誠実でありたいと願っただけである。
「人の子よ、汝の為すべきことを為せ。狐者異になり切るのは大変だ……」
彼は黒服の男たちに羽交絞めにされている青年に微笑むと穏やかに語り掛けた。
四、フィレ肉のステーキ
この鎖から解き放たれたい、と村田ミノルは願っていた。大なり小なり、常軌を逸していなければ、死体処理の仕事は続けられない。肉を切り分け、骨を砕く度に人間性がちょっとずつ剥がれ落ちる感覚――それに彼は耐えられなかっただけである。
村田ミノルは十五歳の頃に父親から捨てられた。組織に買い取られなければ、臓器を抜かれて魚の餌になる運命のはずだった。組織は彼に教育の機会を与えたが、その他のことに関しては一切の干渉を加えなかった。
実際、村田は長年に亘って自身が組織の駒であると意識することはなかった。八年間、彼は自由に暮らした。金に困ったことはない。その点において、組織の羽振りは実によかった。それだけに、この山小屋での軟禁生活は苦しく感じられるのだった。
貝塚マコトは実に上手く仕事と付き合っていたといえよう。彼は必要に応じて正気と狂気の合間を自由に行き来する術を身につけていた。彼は確固たる自我を持っていた。此岸と彼岸を往来するに耐え得る強固な意志を持っていた。それは、村田ミノルにはない個性である。
「私が知る唯一の自由は、精神および行動の自由である」とカミュは説いた。彼らが組織の〈所有物〉である以上、行動は常に制約される。貝塚は誰も手を伸ばせない領域――精神の中に自由の神殿を築き上げた。死が彼の心臓を止めるまで、宮殿は不滅であるはずだ。彼は肉体の内側に自由を求めたのである。村田はそれに気が付かなかった。
春の嵐が山小屋を翻弄している。滝のような雨が水幕となって窓を濡らしている。屋根裏を野鼠たちが走り回っているのだろう。稲妻が空に閃く度にカタカタと天井が鳴った。時計は正午を示していた。昼食の時間だ。
村田は冷蔵庫を開けると、バットに載った肉の塊を手に取った。黒胡椒の香りがほのかに漂う。肉にはフィレを使うことにした。背中のうちで腰に近い部位である。薄い桃色をした岩塩をサッと振りかけると、さっそく、フライパンを温めはじめた。
――貝塚さん、随分と小さくなっちゃったな。あなたの肉は全て僕が食べます。僕はあなたのおかげで生き長らえている。ありがとうございます――
村田ミノルは二人の男を殺した。一人は組織の構成員。もう一人は相棒の男である。きっかけは些細な口論だった。
村田ミノルは自分が組織の〈所有物〉であることを失念していた。伝達係に対する警戒を緩め、待遇が有利になるように交渉をしようと試みた。当然のごとく、伝達係は激昂した。村田は罵詈雑言を浴びせ掛けられた。
「どうやら、お前は自分の立場を勘違いしているようだな。生意気な口を利きやがる。お前は親父の借金のために売られた惨めな孤児だということを忘れるな。うちの会社が拾ってやらなきゃ、闇に消えていたということを忘れるな。ふざけるのもそこら辺にしておけよ。今から、本社に報告して、バラバラの死体にしてやる」
頭蓋が潰れるまで石で打って殺した。男の死骸は車と一緒に山奥の沼に沈めた。貝塚マコトに罪を着せようとしたが、それは全くの苦し紛れの思い付きだった。首尾よく終わるとは彼自身も考えていなかったし、組織の追及から上手く逃げ果せられるとも信じていなかった。
要するに、村田ミノルは沈黙と停滞に堪えられなかったのである。臆病が彼を大胆にしていた。全てが終わった時、村田は伝達係から奪い取った携帯電話を握り締めて、通話ボタンを押していた。そこからさきのことはあまり覚えていない。
「罪に対して誠実であろうとするならば、破滅を覚悟しなくてはならない」
村田ミノルはそう呟くと、熱した鉄鍋に黒胡椒の利いたフィレ肉をゆっくりと落とした。直ぐにこうばしい香りが漂いはじめる。赤身に焼き跡がつく頃合いを見計らって、大蒜のチップを散らして炙る。パチリという音を立てて油が跳ねた。
――僕は誠実の本質を知らなかった。それにも関わらず、自分は純粋無垢な存在であると、心の隅で信じて疑わなかった。愚かであるということは幸福なのかもしれない。誠実が行き着く先は破滅なのだから。貝塚さんは、それを理解していたように思える――
青年の脳裏を過る言葉は「殉教」の二文字だった。貝塚マコトは食人行為を悔い改めようとしなかったし、神さまの存在を信じてもいなかった。それでも、彼は神さまのために生命を捧げたように思えてならない。青年は一人の男の信念――或いは執念によって生かされていた。
「人の子よ、汝の為すべきことを為せ」とだけ告げて貝塚マコトは死んでいった。しかし、村田ミノルが福音に従うことはない。彼は誠実であることを諦めている。彼は生きることを選んだのである。それは罪から目を背けることに他ならない。
組織との連絡が途絶えて三十日が経とうとしている。しばらくすれば、山小屋の食料も底を尽きるはずだ。冷蔵庫の中にある肉も残り僅かになった。やがて、飢餓の時節が訪れるだろう。だが、村田ミノルは最後まで生にしがみつき、しゃぶり尽くすつもりでいる。
――神さまに嫌われてもかまわない。僕は生き抜いてみせる――
焼き加減を見るために、フィレ肉にナイフを入れる。さらりとした血が脂と共に流れた。滴る肉汁が蒸気となって中空に渦を描いて消えた。ガーリックの香りが鼻腔に満ちる。グウ、と胃袋が鳴った……。
(了)