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輾転草・令和百物語  作者: 胤田一成
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狐者異

 狐者異(こわゐ)我慢(がまん)豪情(ごうぜう)一名(いちみやう)にして、世話(せわ)(いふ)無分別者(むふんべつもの)也。(いき)ては法にかゝはらず、(ひと)(おそ)れず(ひと)のものを(とり)くらひ、()して妄念(もうねん)執着(しうちやく)(おも)ひを(ひき)無量(むりやう)のかたち(あらは)し、仏法(ぶつぽう)世法(せほう)(さまたげ)をなす。


 『絵本百物語・桃山人夜話』

 巻第壱/第三より抜萃



 一、頬肉の香草焼き


 「いつだってきっかけは些細(ささい)なことなのだ」と貝塚(かいづか)マコトはフライパンに油を()()めながら思う。長年にかけて愛用してきた鉄鍋(てつなべ)は充分に手入れが(ほどこ)され、持ち主の顔を鏡のように映すまでになっている。貝塚(かいづか)(てのひら)()をくるりと(もてあそ)ぶと、腕に掛かる重みに満足して、黒々と光沢する鉄鍋(てつなべ)をキッチンの棚に納めた。

「また、ホトケサンを食べるつもりか。あんたの仕事の腕前は認めるが、(さば)いた肉だって、もとは人間なんだぜ。敬意を払って扱わなきゃ、いずれ罰が下るんじゃないか」

 貝塚(かいづか)が背後を振り返ると、バスローブを身に(まと)った青年が、髪をしとどに濡らしたまま、彼を屹然(きつぜん)(にら)みつけている。貝塚(かいづか)はこの青年――村田(むらた)ミノル――のことを憎からず思っている。(なま)意気(いき)ではあるものの、仕事には真摯(しんし)であるし、国立大学の出身らしく明晰でもある。融通(ゆうずう)()かないが、いい加減な仕事をされるよりはマシだった。

 貝塚(かいづか)は彼の瞳を特に気に入っていた。そこには、貝塚(かいづか)が失って久しい輝きがあった。鋭く(きら)めく双眸(そうぼう)に見詰められるたびに胸の奥がざわざわする。しかし、不思議と不快ではない。若さへの憧憬(どうけい)とでもいったようなものを貝塚(かいづか)は抱いているらしかった。彼は今年で四十になる。

「ミノル、そこがお前の悪いところだよ。この商売に同情や共感はいらない。それは命取りになる感情だ。これは、肉の塊だよ。機能不全を起こした時点で物質になるんだよ。ホトケサンを(さば)くとき、初めに頭と腕を切り落とすのは、そういった共感的反応(シンパシー)遮断(しゃだん)するためでもある。人間としては立派な反応だが、俺たちのような掃除屋(そうじや)には必要ない。どうか、それを知っておいてくれ」

 貝塚(かいづか)幼子(おさなご)(さと)すかのような口調で言うと、キッチンに備え付けられていたガスコンロのつまみを(ひね)った。オーブンに火が()き、金網に()せられたアルミホイルの包みをジリジリと(あぶ)りはじめた。ほどなくして、包みの隙間から油が(したた)()ち、部屋中にバターのこうばしい香りが漂う。

 村田(むらた)は不機嫌そうに濡れた前髪を指で払うと。(しつら)えられたソファに向かって歩き出した。あと、もう十五分もすれば、食事は出来上がるはずだ。貝塚(かいづか)咥内(こうない)(つばき)が満ちる。

 貝塚(かいづか)マコトが掃除屋(そうじや)――死体処理稼業に()いたのは八年前のことである。三十二歳、彼は(はたら)(ざか)りのサラリーマンであると同時に欲望の奴隷(どれい)でもあった。天涯孤独の身の上という事実が彼の野性を解き放ったと言っていい。転落は早かった。尋常(じんじょう)でない勢いで借金は膨れ上がり、(じき)に暴力が支配する世界へと身を落としていった。

 「細切(こまぎ)れにされて魚の(えさ)になる側」か「細切(こまぎ)れにして魚に(えさ)を与える側」に立つかを選べと迫られるようになった。そして、貝塚(かいづか)はさして悩むこともなく後者を選択した。

 その日から、貝塚(かいづか)マコトはとある組織の〈所有物〉となった。彼の仕事は組織から送られてくる死体を処理すること。以来、彼は山小屋に(こも)って死体を(さば)き、或いは燃やし続けている。それでも、貝塚(かいづか)マコトは幸せだった。彼は新しい幸福追求の手段を仕事の中に見出(みいだ)したのである。彼は執念の鬼――快楽を(むさぼ)る一匹の餓鬼(がき)であった。

「あんたは腕のいい掃除屋(そうじや)かもしれない。でも、人間が人間を食ってよいという理屈にはならんだろう。僕は仕事の手解(てほど)きを求めているんじゃない。論点はそこじゃないんだ。あんたは話をはぐらかしているだけさ。今、僕は罪について話しているんだよ。あんたは罪を意識したことはあるかい」

 村田(むらた)はソファに身を横たえながら挑むような口調で貝塚(かいづか)に問い掛けた。貝塚(かいづか)は戸棚から食器を取り出しては机に並べていたが、村田(むらた)の声の内に込められた熱をやがて(さと)った。

 貝塚(かいづか)村田(むらた)の顔色を(うかが)おうとしたが、華奢(きゃしゃ)(てのひら)(おもて)を覆っているため、(よう)として知れない。ポケットから抜き出したタバコに火を(とも)すと、努めて穏やかな口調で自身の考えを述べはじめた。

「罪を感じなかったと言ったら嘘になる。だが、そういう感覚の鮮度はすぐに失われていくのも事実だ。正義や真理が不朽(ふきゅう)ならば、罪もまた絶対であるべきじゃないか。だから、俺は大罪(たいざい)(おか)しているとは思わない。人は大なり小なり罪を抱えているものだからな。ならば、みんな誰に(ゆる)しを()えばいい。罪に対して誠実(せいじつ)であろうとするならば、破滅(はめつ)を覚悟しなくてはならない。俺たちは(おろ)(もの)ではあるかもしれない。だが、神さまから見捨てられるほど罪深くはないはずさ。俺はそう考えている」

 貝塚(かいづか)紫煙(しえん)を吹きながら、だいたい、そんなことを語った。村田(むらた)は顏を(てのひら)で覆ったまま動こうとしない。これが詭弁(きべん)であるということは貝塚(かいづか)にも分かっていた。彼は正義や真理を信じていない。それと同じ程度に罪の実存を疑っていた。

 明晰な頭脳を持つ相棒のことである。村田(むらた)がこの欺瞞(ぎまん)に気が付かないはずがない。

 沈黙を破ったのは、キッチンタイマーのアラームであった。貝塚(かいづか)はタバコの火を灰皿に押し付けて揉み消すと、台所に(まわ)り込んでオーブンの(ふた)を開けた。(かぐわ)しい香りが煙となって部屋に満ちる。バターと香草、それと肉から(したた)()ちた(あぶら)が溶けあったにおいだ。

 アルミホイルの包みを白磁の皿に()せて(ほぐ)していく。ホロホロと崩れ落ちてしまいそうなほど柔らかい肉――一般にツラミと呼ばれる頬肉の部分――が銀箔(ぎんぱく)の隙間から顔を(のぞ)かせる。付合(つきあわ)せに入れた人参(にんじん)榎茸(えのきだけ)が赤白の(いろど)りを()えていた。ローズマリーとタイムの香りが湯気となって立ち込め、鼻腔(びくう)いっぱいに甘く(さわ)やかな風格が広がる。〈頬肉の香草焼き〉である。貝塚(かいづか)は食卓に着くと、さっそく、銀のナイフとフォークを(あやつ)りはじめた。

「なあ、僕たちは罪人じゃないよな。(たの)むから、もう一度だけ、そう言ってくれ。神さまは僕たちを見捨てちゃいないと。なあ、お願いだよ。ひどく心細いんだ」

 村田(むらた)哀訴(あいそ)(ふいご)を鳴らすような、か細く(たよ)りないものだった。無我夢中で肉を(むさぼ)貝塚(かいづか)の耳には(わず)かに届かない。ただ、カチャカチャと食器が互いに触れ合う音だけが、(いたずら)に響いている。シルクのヴェールが薄い皮膜(ひまく)となって彼らの間に介在(かいざい)しているようだった。その晩、二人の男が言葉を交わすことは(つい)になかった。



 二、内腿肉のユッケ


 昨晩、(さば)いた死体は鮮度が良かったため、いつもより多くの素材を切り取ることができた。人の肉は()ぐに味が落ちる。処置を(ほどこ)さないと十日が限度といったところである。貝塚(かいづか)マコトは必要以上に肉を取らないようにしている。彼にとって食事は神聖な行為である。素材を無駄にしたくはない。

 貝塚(かいづか)は冷蔵庫の中からバットに()せられた肉の塊を取り出した。赤身(あかみ)(あぶら)対照(たいしょう)が美しい(もも)の肉である。貝塚(かいづか)牛刀(ぎゅうとう)を手にすると、サシの入った肉を細く薄く切り分けていった。手際(てぎわ)よく肉を麺状(めんじょう)に切り(そろ)えると、戸棚から気泡の入った青いガラス皿を取った。涼しげな皿の上に円錐(えんすい)になるように()()けていく。親指の腹で山の(いただき)()して(くぼ)みをつくり、そこに卵黄(らんおう)を静かに落とす。

 〈内腿(うちもも)(にく)のユッケ〉。貝塚(かいづか)はこれを胡麻油(ごまあぶら)苦椒醤(コチュジャン)の合わせタレで食べるつもりでいる。(いろど)りとして果物(くだもの)が欲しかったが備蓄(びちく)はない。今日は伝達係――メッセンジャーが来るはずであるが、昼食までには()()いそうにない。貝塚(かいづか)は少しだけ残念に思いながらも、(はし)卵黄(らんおう)を崩して、麺状(めんじょう)に切られた肉と混ぜ合わせはじめた。香り高いタレを肉の上にサッとかける。唾液(だえき)(せん)から(よだれ)が湧いてきた。

 (くち)(ふく)むと、胡麻油(ごまあぶら)の豊かな風味と苦椒醤(コチュジャン)の甘辛いような味わいに包まれた肉が(ほど)けていく。上品な(あぶら)は舌の上でトロリと()け、柔らかい赤身(あかみ)は頬の内側にじんわりとした(うま)みを広げる。卵黄(らんおう)が調味料の角をまろやかにしていた。貝塚(かいづか)滅多(めった)に食べられない肉の刺身に舌鼓(したつづみ)を打った。肉の美味(うま)さを()()める。

「ああ、食料が底を尽きそうだよ。メッセンジャーはまだ来ないのかい。もう、クラッカーは食べ()きちまった。もっとも、あんたには関係ないようだけどな。()えとは縁遠(えんどお)い暮らしをしているみたいだから」

 勢いよく玄関の扉が開け放たれると同時に、村田(むらた)ミノルが苛立(いらだ)たしげに言う。山小屋の外に普請(ふしん)された倉庫の備蓄(びちく)(あさ)っていたのだろう。服のあちらこちらに(ほこり)がついていた。

 ――たしかに、飢餓(きが)とは無縁(むえん)な人間に見えるのだろう。だが、それは思い違いというものだ。飢餓(きが)を経験したからこそ、今の俺がいるというのに。いつだってきっかけは些細(ささい)なことなのだ――

 村田(むらた)ミノルがこの山小屋に送られるよりずっと以前のことである。貝塚(かいづか)マコトは飢餓(きが)を経験した。

 組織の伝達係は物資の運輸(うんゆ)も担当しているのだが、こちらから連絡する手段は一切(いっさい)ない。貝塚(かいづか)マコトはどこまでも組織の〈所有物〉であった。

 いつのことだったか、伝達係がふっつりと山小屋を訪れなくなったことがあった。二か月間ほど、貝塚(かいづか)()(くる)しんだ。食料が底を尽きたとき、彼は死を覚悟したほどだ。

 最後に残されたものは、組織から処理を押し付けられた一つの死体だった。貝塚(かいづか)は散々に悩んだすえに、それを食べることにした。生きるためには必要な行為だったし、()えが判断を(にぶ)らせてもいた。それは、とても美味(うま)そうに見えたのである。

 貝塚(かいづか)は泣きながら肉を食べた。彼が罪を感じたのは、その一度きりである。ほどなくして、彼は()みつきになった。

 ――やめようと思えばやめることもできた。でも、俺は人間の肉を食い続けている。楽しんでいるのだ。だが、それが悪いことなのだろうか。仕事に楽しみを見出(みいだ)しでもしなければ、耐えられそうにない。俺はどこかおかしいのだろうか――

 村田(むらた)はまだ部屋をうろつき歩いている。貝塚(かいづか)はそれを横目に見ながら思う。彼にも限界が近づいているのだ、と。貝塚(かいづか)(くる)っているかもしれないが、村田(むらた)よりもはるかに人間として生きていた。

「あッ、メッセンジャーのクルマが来たぞ。もう、腹が()いて死にそうだ。荷物の運搬(うんぱん)は僕がやっておくよ。あんたは食事を楽しんでいてくれ。()()って、メッセンジャーと話したいこともあるし。それじゃ、行ってきます」

 そう言うと、村田(むらた)(あわ)ただしく外へ()けて行った。おそらく、物資の一部を占有(せんゆう)するつもりなのだろう。それが彼にとっての唯一の楽しみであるということくらい貝塚(かいづか)も知っている。

 村田(むらた)とすれ違うようにして、組織から送られてきた伝達係が部屋に入ってきた。

 油の浮いた顔面に、薄くなった頭髪。(あか)じみたシャツを着た小柄な男が、黄色い歯を()()して笑っている。この男はさすがに食えないな――と貝塚(かいづか)は思う。食欲が()せた。

悪食(あくじき)ぶりは相変(あいか)わらずのようだな。それは生肉かい。腹を壊さないようにしろよ。この仕事は身体が資本なんだからな。しかし、まるでコワイだな。同じ人間とは思えんよ」

 耳馴(みみな)れない言葉を聞いて、貝塚(かいづか)は少しく興味を(いだ)いた。いずれにせよ、この男の登場によって、食欲は完全に()せてしまった。彼は(はし)を置いて伝達係を(にら)みつけると、「コワイって何のことだ」と不愉快(ふゆかい)そうに(たず)ねた。伝達係は頭を()きながら答える。

「気を悪くしないでくれ。狐者異(こわい)というのは悪食(あくじき)の妖怪のことだ。お前が死体の肉を食らう姿を見て思い出しただけさ。これでも、大学では(みん)俗学(ぞくがく)専攻(せんこう)していたんだ」

 この男の気まぐれのせいで、六十日間に(わた)って飢餓(きが)(あえ)いだ。貝塚(かいづか)は食人という行為を()いたことはない。彼にとって食事は神聖な儀式である。伝達係の怠慢(たいまん)(ゆる)すつもりはないし、無礼(ぶれい)見逃(みのが)してやる理由もない。

「あんたは俺のことを侮辱(ぶじょく)した。気を悪くするな、というが無理な注文だな。はっきりと不快(ふかい)だ。さっそくで申し訳ないが、この山小屋から出て行ってくれないか。あんたを見ていると食欲が()せる」

 貝塚(かいづか)マコトの声は冷たく鋭かった。伝達係の顔に血が(のぼ)り、額に玉の汗が浮かぶ。タバコ臭い気焔(きえん)を吐きながら小男が詰め寄る。

随分(ずいぶん)()めた口を()くじゃねぇか――豚野郎。お前が生きていられるのは、会社のおかげだということを忘れるな」

 貝塚(かいづか)マコトはどこまでも冷静沈着だった。伝達係は恫喝(どうかつ)が通じないと知ると、()ぐに身を(ひるがえ)して部屋を後にした。そろそろ、村田(むらた)ミノルの運搬(うんぱん)作業(さぎょう)も終わる(ころ)()いだろう。しばらくして、外から自動車のエンジン音が鳴り響き、次第(しだい)に遠ざかっていった。

 村田(むらた)が部屋に戻ってきたのは、それから二時間後のことである。「倉庫の整理をしていた」と彼は言っていたが、貝塚(かいづか)()ぐにそれが嘘であることを(さと)った。

 村田(むらた)の靴底は水で濡れていた。倉庫にいたのなら、そんなことにはならないはずだ。そういえば、彼は伝達係に話があると言っていた。あれはどうなったのだろう。嫌な予感がする。

 しかし、貝塚(かいづか)()(ただ)そうとしなかった。相変(あいか)わらず、越えがたい壁が二人の間に(そび)()っているようだった。

 貝塚(かいづか)微温(ぬる)くなった料理をゴミ箱に捨てると、晩の献立(こんだて)の内容を考えはじめた。さて、次はどのように料理しようか。



 三、胸腺の赤ワイン煮込み


 ――おそらく、あのメッセンジャーは殺されているのだろう。そして、その犯人は村田(むらた)ミノルであるに違いない。あいつは嘘がへたくそだから、組織も(じき)に気が付くはずだ――

 両手鍋に(たた)えられた赤ワインのソースを煮込(にこ)みながら、貝塚(かいづか)マコトは考える。

 玉杓子(たまじゃくし)で鍋の底を(さら)うと、トロリとした肉片が(すく)い上がった。肉片の正体は胸腺(きょうせん)である。上質な(あぶら)()けて、赤身(あかみ)(から)まり()らしている。ブーケガルニは、パセリ、セロリ、タイム、玉葱(たまねぎ)()(のぼ)る湯気は葡萄酒(ぶどうしゅ)と香草の香りだ。

「あんたの料理はさぞかし美味(うま)いんだろうな。でも、どうしてもホトケサンを食べる気にはなれないんだ。僕はそこに罪を感じずにはいられない。情けないことに、僕はまだ自分が清廉(せいれん)な身の上であると思い込みたいらしい」

 村田(むらた)は缶詰の果物(くだもの)をフォークで突きながら(つぶや)いた。この数日間のうちに、彼は随分(ずいぶん)と憔悴していた。貝塚(かいづか)は油の抜けた後輩の顔を一瞥(いちべつ)すると、小さくため息をついた。銀の皿に葡萄酒(ぶどうしゅ)煮込(にこ)み料理をよそい、仕上(しあ)げにパセリの葉をひと(つま)みだけ散らす。

 〈胸腺(きょうせん)の赤ワイン煮込(にこ)み〉。貝塚(かいづか)は少しだけ悩んだすえに、それを青年の前にそっと差し出した。

 きっと、村田(むらた)ミノルは食卓に()る料理を拒絶するに違いない。彼は清廉(せいれん)ではないが誠実(せいじつ)な人間ではあった。欺瞞(ぎまん)を許せない性質(たち)の人間なのだ。貝塚(かいづか)は彼の(おろ)かしさが好きだったし、(うらや)ましくも思っていた。彼は拒絶されることを期待(きたい)していた。

「気持ちはありがたいけれど、僕はあんたのようにはなれないよ。これを食べてしまったら、神さまに見捨てられてしまうような気がするんだ。どれほど、血に濡れようとも、越えてはならない境界がある。それを(おか)さなければ、僕はまだ人の子でいられる――そんな気がするんだ。馬鹿(ばか)げているよな」

 そう言うと、村田(むらた)自嘲(じちょう)めいた微笑(びしょう)を浮かべてみせた。「たしかに、馬鹿(ばか)げている」と貝塚(かいづか)は思ったが言葉にはしなかった。この青年は本気で神さまに救いを求めている。貝塚(かいづか)は神さまを信じていなかったが、神さまにすがる人々の苦しみは理解しているつもりである。

(ため)すようなことをしてすまなかった。ミノル――お前は人の子だよ。この料理は相応(ふさわ)しくないのだろうな。拒絶してくれてよかったよ」

 貝塚(かいづか)は銀の皿を取リ下げると、(さじ)を手にして食事をはじめた。肉は()けるほど柔らかい。葡萄酒(ぶどうしゅ)煮汁(にじる)は胃袋をじんわりと温めるようだ。鼻腔(びくう)に香草の(さわ)やかな風味が広がる。ひと(つま)みのパセリが味わいに奥行きを与えているみたいだった。

 ――ああ、この味だ。脳髄(のうずい)(とろ)けてしまいそうだ。なるほど、俺は人の道を外れた魔物なのかもしれない。だが、それがどうしたというのだ。恍惚(こうこつ)陶然(とうぜん)とはこういう境地(きょうち)を示すに違いない。こればかりはやめられそうにない――

 伝達係の男は貝塚(かいづか)のことを悪食(あくじき)と呼んで(さげす)んだ。それは彼にとって屈辱(くつじょく)(きわ)みである。だが、貝塚(かいづか)は自分が人倫(じんりん)に反した行為を繰り返していることも知っていた。(しゃく)ではあるが、人の道を外れた者は妖怪や魔物と呼ばれて(しか)るべきだし、神さまから見限られてもしようがないのである。

「僕は神さまに嫌われてもしかたがないことをしてしまったんだ。取り返しのつかないことをしてしまったんだ。僕はあんたの料理を拒絶したんじゃない。臆病(おくびょう)なだけなんだ」

 村田(むらた)ミノルが何を言おうとしているのか、貝塚(かいづか)には理解できるような気がした。

 食人と殺人のどちらの方が罪深いのか、彼らには分からない。しかし、この仕事を始めてから、どこか()(わけ)めいたものを探し続けている自分がいることは(たし)かである。解答はいまだに導き出せていない。

 村田(むらた)潔癖(けっぺき)を思えば地獄のような状況だろう。村田(むらた)(すで)に境界を越えてしまっている。だからこそ、食人にまで手を伸ばしたくないのだろう。村田(むらた)は顔色を青くして震えている。貝塚(かいづか)はそれを見守ることしかできない。いくらかの沈黙の後に、とうとう、村田(むらた)は細い声で話し出した。

「あのな、どうやら、僕は大罪(たいざい)(おか)してしまったみたいなんだ。僕はあのメッセンジャーのことを――」

 だが、村田(むらた)告解(こっかい)(なか)ばで(さえぎ)られてしまった。玄関の扉が勢いよく開け放たれ、黒いスーツを身に(まと)った男たちが部屋に侵入してきたからだ。聖餐(せいさん)()(にじ)られて終わりを(むか)えた。物々しい雰囲気が辺りを包む。彼らが組織の人間であることは明らかだった。長身痩躯(ちょうしんそうく)の男が一歩進み出て訪問の(よし)を語りはじめる。

夜分(やぶん)に押し掛けてしまって、申し訳ございません。よんどころない事情がありまして、失礼させていただいた次第(しだい)です。貝塚(かいづか)マコトさん、あなたに殺人の容疑が掛けられています。単刀直入にお(たず)ねします。あなたはうちの伝達係を殺しましたか」

 村田(むらた)は椅子から立ち上がると、ひどく狼狽(ろうばい)しながら男に詰め寄った。その様子を見て、貝塚(かいづか)マコトは全てを(さと)った。

 この(おろ)かな青年は罪から(のが)れるために隣人(りんじん)を売ったのである。きっと、彼は銀貨の代わりに誠実(せいじつ)を買い戻そうとしたのだろう。それが欺瞞(ぎまん)だとしても(あこが)れないわけにはいかなかったのだ。そう考えると、不思議と怒りは湧いてこなかった。

「約束と違うじゃないか。こんな大勢でやって来て調べるなんて聞いていないぞ。あんたらは全てをぶち壊したんだ」

 口角(こうかく)(あわ)()ばして(げき)する村田(むらた)()(とど)めて、長身痩躯(ちょうしんそうく)の男は静かに言う。村田(むらた)ミノルは明らかに進退これ(きわ)まっていた。彼の嘘を信じている者は誰一人としていないようだ。

「あなたの指示に(したが)う理由は一切(いっさい)ありません。我々は必要に応じて速やかに行動します。あなたの供述は信頼できないと判断しました。村田(むらた)ミノルさん、率直(そっちょく)に申し上げますと、我々はあなたのことを疑っています」

 村田(むらた)は反論しようとしたが、黒服の男たちが(はば)んだ。一本の(こぶし)が彼の鳩尾(みぞおち)穿(うが)つ。痛みと苦しさのあまりに(かが)んだところを、幾本もの腕に(から)()らえられた。一方的な暴力の嵐が村田(むらた)を揉みくちゃにする。長身痩躯(ちょうしんそうく)の男は我関(われかん)せずといった表情で貝塚(かいづか)に問い掛けた。

貝塚(かいづか)さん、この男はあなたが当社の伝達係を殺害したと言っています。それは本当のことでしょうか。もう一度、お(たず)ねします。あなたは伝達係を殺しましたか」

 貝塚(かいづか)マコトはしばらく逡巡(しゅんじゅん)した後に、銀の皿からスープを(すく)うと(くち)(ふく)んだ。(すで)に熱は(うしな)われて微温(ぬる)くなっている。それが残念でならない。彼は静かに(さじ)を置いた。

 ――俺たちは(おろ)(もの)であるかもしれない。だが、神さまに見捨てられるほど罪深くはないはずだ。俺は食人を(おか)し、奴は殺人を(おか)した。俺は自身の行為を()いてはいないが、二つの罪を(おか)したくはない――

 貝塚(かいづか)マコトは青年のことをよく知らない。青年がどうして殺人を(おか)し、虚偽(きょぎ)(よそお)ったのか知らない。彼は青年を救おうとは思っていない。ただ、ほんの少しだけ、誠実(せいじつ)でありたいと願っただけである。

「人の子よ、(なんじ)()すべきことを()せ。狐者異(こわい)になり切るのは大変だ……」

 彼は黒服の男たちに羽交絞(はがいじ)めにされている青年に微笑(ほほえ)むと穏やかに語り掛けた。



 四、フィレ肉のステーキ


 この(くさり)から()(はな)たれたい、と村田(むらた)ミノルは願っていた。大なり小なり、常軌(じょうき)(いっ)していなければ、死体処理の仕事は続けられない。肉を切り分け、骨を(くだ)(たび)に人間性がちょっとずつ()がれ落ちる感覚――それに彼は耐えられなかっただけである。

 村田(むらた)ミノルは十五歳の頃に父親から捨てられた。組織に買い取られなければ、臓器を抜かれて魚の(えさ)になる運命のはずだった。組織は彼に教育の機会を与えたが、その他のことに関しては一切(いっさい)の干渉を(くわ)えなかった。

 実際、村田(むらた)は長年に(わた)って自身が組織の(こま)であると意識することはなかった。八年間、彼は自由に暮らした。金に困ったことはない。その点において、組織の羽振(はぶ)りは実によかった。それだけに、この山小屋での軟禁生活は苦しく感じられるのだった。

 貝塚(かいづか)マコトは実に上手(うま)く仕事と付き合っていたといえよう。彼は必要に応じて正気と狂気の合間(あいま)を自由に行き来する(すべ)を身につけていた。彼は確固(かっこ)たる自我(じが)を持っていた。()(がん)彼岸(ひがん)往来(おうらい)するに()()強固(きょうこ)意志(いし)を持っていた。それは、村田(むらた)ミノルにはない個性である。

 「私が知る唯一の自由は、精神および行動の自由である」とカミュは説いた。彼らが組織の〈所有物〉である以上、行動は常に制約(せいやく)される。貝塚(かいづか)は誰も手を伸ばせない領域(りょういき)――精神の中に自由の神殿を(きず)()げた。死が彼の心臓を止めるまで、宮殿は不滅であるはずだ。彼は肉体の内側に自由を求めたのである。村田(むらた)はそれに気が付かなかった。

 春の嵐が山小屋を翻弄(ほんろう)している。滝のような雨が水幕(すいまく)となって窓を濡らしている。屋根裏を野鼠(のねずみ)たちが走り回っているのだろう。稲妻(いなずま)が空に(ひらめ)(たび)にカタカタと天井が鳴った。時計は正午を示していた。昼食の時間だ。

 村田(むらた)は冷蔵庫を開けると、バットに()った肉の塊を手に取った。黒胡椒(くろこしょう)の香りがほのかに漂う。肉にはフィレを使うことにした。背中のうちで腰に近い部位である。薄い桃色をした岩塩(がんえん)をサッと振りかけると、さっそく、フライパンを温めはじめた。

 ――貝塚(かいづか)さん、随分(ずいぶん)と小さくなっちゃったな。あなたの肉は全て僕が食べます。僕はあなたのおかげで()(なが)らえている。ありがとうございます――

 村田(むらた)ミノルは二人の男を殺した。一人は組織の構成員。もう一人は相棒の男である。きっかけは些細(ささい)な口論だった。

 村田(むらた)ミノルは自分が組織の〈所有物〉であることを失念(しつねん)していた。伝達係に対する警戒を(ゆる)め、待遇(たいぐう)有利(ゆうり)になるように交渉をしようと(こころ)みた。当然のごとく、伝達係は激昂(げっこう)した。村田(むらた)は罵詈雑言を浴びせ掛けられた。

「どうやら、お前は自分の立場を勘違(かんちが)いしているようだな。生意気な口を()きやがる。お前は親父の借金のために売られた惨めな孤児(みなしご)だということを忘れるな。うちの会社が拾ってやらなきゃ、闇に消えていたということを忘れるな。ふざけるのもそこら辺にしておけよ。今から、本社に報告して、バラバラの死体にしてやる」

 頭蓋(ずがい)(つぶ)れるまで石で打って殺した。男の死骸(しがい)は車と一緒に山奥(やまおく)の沼に沈めた。貝塚(かいづか)マコトに罪を着せようとしたが、それは全くの(くる)(まぎ)れの思い付きだった。首尾(しゅび)よく終わるとは彼自身も考えていなかったし、組織の追及(ついきゅう)から上手(うま)()(おお)せられるとも信じていなかった。

 要するに、村田(むらた)ミノルは沈黙と停滞に()えられなかったのである。臆病(おくびょう)が彼を大胆にしていた。全てが終わった時、村田(むらた)は伝達係から(うば)()った携帯電話を(にぎ)()めて、通話ボタンを押していた。そこからさきのことはあまり覚えていない。

「罪に対して誠実(せいじつ)であろうとするならば、破滅(はめつ)を覚悟しなくてはならない」

 村田(むらた)ミノルはそう(つぶや)くと、熱した鉄鍋(てつなべ)黒胡椒(くろこしょう)()いたフィレ肉をゆっくりと落とした。()ぐにこうばしい香りが漂いはじめる。赤身(あかみ)に焼き跡がつく(ころ)()いを見計(みはか)らって、大蒜(にんにく)のチップを散らして(あぶ)る。パチリという音を立てて油が跳ねた。

 ――僕は誠実(せいじつ)の本質を知らなかった。それにも関わらず、自分は純粋無垢な存在であると、心の隅で信じて疑わなかった。(おろ)かであるということは幸福なのかもしれない。誠実(せいじつ)が行き着く先は破滅(はめつ)なのだから。貝塚(かいづか)さんは、それを理解していたように思える――

 青年の脳裏(のうり)(よぎ)る言葉は「殉教(じゅんきょう)」の二文字(ふたもじ)だった。貝塚(かいづか)マコトは食人行為を()(あらた)めようとしなかったし、神さまの存在を信じてもいなかった。それでも、彼は神さまのために生命を(ささ)げたように思えてならない。青年は一人の男の信念――或いは執念によって生かされていた。

 「人の子よ、(なんじ)()すべきことを()せ」とだけ()げて貝塚(かいづか)マコトは死んでいった。しかし、村田(むらた)ミノルが福音(ふくいん)(したが)うことはない。彼は誠実(せいじつ)であることを(あきら)めている。彼は生きることを選んだのである。それは罪から目を(そむ)けることに他ならない。

 組織との連絡が途絶(とだ)えて三十日が経とうとしている。しばらくすれば、山小屋の食料も底を尽きるはずだ。冷蔵庫の中にある肉も残り(わず)かになった。やがて、飢餓(きが)時節(じせつ)が訪れるだろう。だが、村田(むらた)ミノルは最後まで生にしがみつき、しゃぶり尽くすつもりでいる。

 ――神さまに嫌われてもかまわない。僕は生き抜いてみせる――

 焼き加減を見るために、フィレ肉にナイフを入れる。さらりとした血が(あぶら)と共に流れた。(したた)る肉汁が蒸気となって中空(ちゅうくう)(うず)を描いて消えた。ガーリックの香りが鼻腔(びくう)に満ちる。グウ、と胃袋が鳴った……。



(了)










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