油すまし
人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ ロマン・マロン
一、依頼人の訪問
古賀千尋は生きることに飽き始めていた。東京という雑多な土地が彼の肌には合わなかった。右を向いても左を向いても人が群れを成している。冬枯れの風に堪えるようにして俯き歩く人々の姿は巡礼者のようであるが、彼らが信奉するものはひどく曖昧で醜悪な機械仕掛けの人形である。
大正十一年の東京の冬は千尋にとって苦痛の時でしかなかった。故郷の熊本に別れを告げて、東京の大学に進学したものの、彼には野心が致命的なまでに欠落していた。両親は遠く離れた九州の大地で、息子が立身出世して帰ってくることを待ち望んでいるに違いない。しかし、千尋には他の大多数の人々が信仰する、「社会」という名の機械仕掛けの神に仕えるつもりはなかった。そこに意義を見出すことができなかったのである。
千尋が大学に通わなくなってから、数か月が経とうとしている。彼の自堕落な暮らしぶりを窘める人は下宿先の大家ぐらいである。しかし、それも滞りがちな下宿代を催促する延長でしかなく、本心から彼の堕落した生活を正そうという気はない。
千尋は東京都大田区の多摩川沿いに構えられた下宿で、熟れた脳髄を持て余しながら、幾度も読み返した推理小説のページを捲り続ける。孤独と退屈が紫煙の漂う部屋で横たわる彼のことを圧殺しようとしていた。
幾度目かの欠伸を噛み殺したころになって、部屋の引き戸がコンコンと叩かれた。千尋は手にしていた推理小説を文机に伏せると、大儀そうに立ち上がって薄っぺらな戸を引いた。千尋は大家がまた小言を繰り返しに来たのだと思っていたので、そこに佇んでいた女性の姿を見て少なからず驚いた。千尋の叔母にあたる古賀暢恵が息を弾ませて立っていたのである。
「千尋さん、お久しぶりですね。お邪魔してもよろしいかしら。東京は本当に胸が苦しくなるほどに賑やかな場所ですわ。ほら、こんなにも息が上がってしまって――、千尋さんも大変ですわね」
古賀暢恵は熊本の天草市栖本町河内にある古賀本家を如才なく取り仕切る才媛であり、日露戦争で夫を亡くしてから、その美貌に磨きをかけた、妖艶な雰囲気を纏う油断ならない人間でもあった。
千尋は意外な人の来訪を快くは思わなかった。彼は腹の底が知れない叔母のことを以前から薄気味悪く思っていたからだ。古賀千尋の脳髄は夢想家らしい熟れた性質を多分に含んでいたが、その一方で分析家らしい冷徹な気質も備え持っていた。
「あら、お部屋に上げてはいただけないのかしら。ひと月前にお手紙を差し上げたはずよ。ご相談したいことがあるので、上京するとお報せしたのだけれど、まさかご存じなかったのかしら」
美しい叔母は自分が猜疑心の込められた眼差しで見詰められていることを直に察したようだった。暢恵の言うように千尋は郵便物を確かめる習慣を持っていなかった。殊にこの数か月の間は強いて郵便を受け取らないようにしていた。彼のもとに届く物は大抵の場合は何かを催促する内容だったし、それらを見る度に忙しなく蠕動する世間に辛酸を嘗めさせられるようで馬鹿らしく思えたからだ。
いつまでも本家の使者を玄関に立たせているわけにもいかないので、千尋は嫌々ながらも暢恵を部屋に招き入れることにした。暢恵は乱雑な男部屋の様子を見て辟易したのだろう――彼女は眉をひそめて小さな溜息をついた。日露戦争で亡くした夫との間に子どもを授かることがなかった叔母にとって、年頃の男部屋の有様は少しばかり刺激が強かったようだった。薄い座布団に腰を下ろした未亡人は落ち着かないのか、そわそわと頻りに辺りを見ては顔を赤くしている。
「ご覧の通り、自堕落な生活を送っています。手紙の件はすみませんでした。僕のもとに届く物ときたら催促状ばかりなもので気が滅入っていたところなのです。どうか、ご容赦してください」
千尋は自分も敷かれた座布団にドカリと腰を落とすと、手持ち無沙汰を誤魔化すためにタバコに火を点した。
叔母は相談したいことがあって、熊本から東京までやって来たと言っていたが、千尋には正直に言ってどうでもよいことだった。
客に茶を出さないのは早く帰って欲しいという意思の表明でもあったが、訪問者である暢恵は一向に意に介さない様子で居座っている。
「お手紙を拝見しなかったことはお詫びしますが、こういう暮らしぶりをしているものですから、おもてなしすることもままならないのです。それにご相談したいことがあると仰っていましたが、残念ながらお力にはなれないと思いますよ」
暫くの沈黙の後に口火を切ったのは千尋の方だった。暢恵は黙然として動こうとしない。それは何かを熟考しているようでもあったし、都会の喧騒に揉まれて弾んだ息を整えているようにも見えた。
年頃の男の放つ饐えたような臭いのする部屋に、華美とはいえなくとも洗練された和服を身に纏った女性がいることが、千尋には酷く不釣り合いに思えてしようがなかった。
千尋に帰郷を促される前に話を詳らかにしなくてはならないと思ったのか、漸く暢恵は途切れがちではあるが、事の次第を語り始めた。
「どこからお話したらいいのかしら。お父様――千尋さんにとってはお祖父様になるのかしら――のことはご存知よね。七年前に河内の草積峠で行方不明になってしまった古賀清史郎さんのことなのだけれど」
千尋は『古賀清史郎が七年前に失踪している』という旨の一句を聞いただけで、鼻持ちならない叔母が何を懸念しているのか理解できた。『失踪ノ宣告ヲ受ケタル者ハ前条ノ期間満了ノ時ニ死亡シタルモノト見做ス』という条文を思い出した。千尋の祖父である古賀清史郎はその期間を全うしようとしている。そして、叔母である古賀暢恵はそれを良しとは思っていないだろうことは口調から察せられた。
「清史郎さんは熊本に炭鉱を持っていてね。古賀の家が豊かに暮らしていけたのも炭鉱のおかげだったのよ。でも、それも段々と苦しくなってきているのです。それに、お父様が存命ならば――私の肩の荷も降りますし、この歳になるといち早く安心したくて仕方がないのです」
千尋は暢恵の含みのある物言いが気に入らなかった。先の大戦で連合国が勝利したことにより、祖父が所有する炭鉱もかなりの利潤を上げていたはずだ。しかし、それも七年間も経つと底が尽きかけているのだろう。況してや、炭鉱主である古賀清史郎の失踪が法律によって、死亡したものと見なされたとしたら、古賀家にとっては弱り目に祟り目である。話は当然のごとく遺産相続の問題に波及してくるに違いない。暢恵にとっては「安心」とは程遠い状況に陥ることになる。それは、何としても避けたい局面なのだろう。
「はあ、叔母さんも大変ですね。はっきりと言ってくださっても平気ですよ。お祖父様が亡くなってしまったら古賀家にとって都合が悪いのでしょう」
古賀千尋は咥えていたタバコを灰皿に押し付けて揉み消すと、大人らしく着物の裾を揃えて座る叔母に向かって非情にも言って退けてみせた。甥の不躾な物言いを耳にしても、暢恵の表情は変わらなかった。千尋は叔母の人形のように整った外面を辛抱強く見詰めた。奇妙な睨めっこの勝者は女の方だった。
「分かりました。ここは叔母さんの言う通りということにしましょう。それで僕にどうして欲しいんですか。ご相談したいことがあると仰っていましたが、僕にできることはさほど多くはありませんよ」
千尋は履き古されたズボンのポケットから、タバコの箱を取り出しながら訊ねた。暢恵の硝子玉の瞳に直視されることを彼は本能的に拒んだ。それを覚られることを承知の上で、軽口を叩いて誤魔化すことぐらいしかできなかった。千尋がタバコに火を点し終えるのを待ってから、暢恵ははっきりとした口調で言い放った。
「私は貴方に古賀清史郎の生死について教えて欲しいのです」
古賀千尋は叔母の意外な要望に眉をひそめずにはいられなかった。彼は肺腑の隅々まで紫煙を満たすつもりで深く息を吸い込むと、今度は天井を仰ぎながらゆっくりと煙を口から吐き出した。
遠くで警察官が吹く警笛の音が長く響いている。古賀千尋は文机に伏せられた推理小説を手に取り、わざとパタンと音を鳴らしながら閉じてみせた。
二、油すましのこと
東京の寒空の下で働く警察官の警笛が長く尾を引くように鳴り響いていた。建てつけ悪くなった窓は風が吹く度に、ガタガタと軋んで悲鳴を上げる。古賀千尋は立ち上がって灯油ストーブに火を点けると、叔母の暢恵の言葉が指し示す意味を考えた。
――つまり、この美しい女性は自分に安楽椅子探偵役になることを望んでいるというわけだ――
千尋は祖父である古賀清史郎の生死にはさほど関心が注がれなかったが、正直に言うと暢恵の提案には多少なりとも心を揺さぶられていた。千尋にとってそれは退屈を凌ぐための一種の遊戯であった。また、気の抜けない人ではあるものの、熊本から上京してきた叔母を早々に立ち退かすのも憚られた。そうしようものなら、古賀本家からあまり良い印象を抱かれないだろう。叔母は古賀の屋敷から遣わされた使者なのだ。
「古賀家から大学に進学したのは千尋さんだけです。それにあなたは昔から、こういう謎を解くことを好んでいたらしいようですし、ここはひとつ力をお借りすることはできないでしょうか」
ここまで暢恵は常に甥の一歩先を行っている。千尋には選択権を与えるつもりは毛ほどもないようだった。もし、彼が断ろうものなら、東京での悠々自適な暮らしは立ち消えになるだろう。古賀本家の資金難を理由に故郷に連れ戻される未来は容易く想像できた。暢恵は初めから返答の是非を問うてなかった。それを察せないほど千尋の脳髄は蕩けていなかった。
「古賀本家の一大事となれば、お力をお貸しするしかありません。僕の手に負える範疇ならば協力致しますよ」
古賀千尋はあえて軽口を叩くように返事した。彼は暢恵にイニシアティブを取られたくはなかったからだ。千尋は道化を演じてでも叔母に屈服させられたくはなかった。
気を緩めれば全ての持っていかれるような物言わぬ気迫が彼女にはあった。熊本にある古賀本家を一人で切り盛りしているだけあって、さすがに暢恵は明晰怜悧な気質を充分に備えていた。
「古賀清史郎が行方不明となったのは七年前の一九一五年の冬のことです。熊本県天草市栖本町河内にある草積峠を越えようとしていた二人連れの男性が、夕刻に彼の姿を最後に目撃しています」
そう言いながら、暢恵はバックから何枚かの紙片を取り出して、畳の上に扇を広げるようにして丁寧に並べ始めた。叔母の聡明叡智な頭脳を知っている千尋にとって、既に彼女に調べ尽くされているのだろう資料は、意味を持たないように思えた。
「河内の炭鉱主だったこともあって警察は捜索願を受理しています。青年団等の有志も集って山を調べて廻りましたが、手掛かりを掴むことは出来ませんでした。目撃者である二人連れの男性も事件性を考慮して調査されたようです。警察によると二人の男性には特に怪しむべきところはなかったそうです。これは警察が保証しております」
千尋は件の二人連れの男性の写真を手に取って見せたが、何の変哲もない素朴な面差しをした青年だった。警察が保証しているのなら、この二人は老人の失踪に関わっていないのだろう。
千尋は二枚の写真を詰まらなそうに投げた。暢恵は大事な手掛かりである資料をぞんざいに扱われて額を曇らせたが、結局のところ、抗議らしいことは口にしなかった。
「お父様は草積峠を一人っきりで歩いていたのかしら」
古賀清史郎が何かしらの事件に巻き込まれていたとしたら、二人連れの男達が話した証言の方が重要になってくる。清史郎の挙動や言動に不審なところはなかったか否かを確かめておく必要があった。暢恵は手抜かりなくそれも調べていたらしい。
「ええ、古賀清史郎は一人っきりで草積峠を訪れていたらしいのです。二人連れの男性はそれを不審に思ったと言っております。というのも、草積峠を越える際には奇妙な決まり事のようなものがありまして――」
千尋は滅多に本家に近寄ることはなかったので、自然と河内界隈の事情には疎くなっていた。草積峠という場所にもまるで詳しくない。言われれば思い出すかもしれないが、河内に関しては漠とした印象しか残っていなかった。
「それはどのような決まり事なのかしら」
暢恵は何かを言い澱んでいるような素振りをみせた。暫くの間、彼女は口許に手を添えて言うか言うまいか悩んでいたが、千尋が沈黙で促すと観念したのか、ポツリポツリと草積峠に纏わる不可思議な伝承を語り始めた。
「私どもは幼い頃から草積峠を一人で越えてはならないと教えられて育ってきました。あそこには、『油すまし』が出て悪さをするから、決して峠を一人で歩いてはならないと教えられるのです。
それがどのような姿形をしてるのかは分からないのですが、『油すまし』は悪さをするものだから近寄ってはならないとだけ伝わっています。草積峠を一人で歩いていたら、誰しもがおかしいと感じるはずです。二人連れの男性も古賀清史郎が一人っきりで峠を歩いていたことを奇妙に思ったと言っています」
暢恵は旧態依然とした村の掟のようなものを恥じているようだった。しかし、それは探偵役を務める千尋にとっては貴重な情報の一つでもあった。河内の事情を知らなければ瑣末な出来事に見えるが、村の内側から見れば古賀清史郎の取った行動は異常なものだったということになる。
「なるほど、お祖父様の行動は不自然なものだったというわけですね。その『油すまし』というものについて詳しく知りたいのですが、お訊ねしてもよろしいでしょうか。些細なことでも構いません。今はとにかく情報が欲しいのです」
古賀暢恵の中で何かしらの算段が整えられたらしい。先ほどまで見せていた逡巡が嘘だったかのような口調で、河内に伝わる昔話を語り始めた。千尋は河内の伝説の一言一句を聞き逃すまいとして、目を閉じて静かに聴いていた。
「明治の頃の出来事だったと聞いております。河内には清史郎の祖母にあたる古賀文子という方がいらっしゃいました。
ある日、文子さんは孫の清史郎を連れて草積峠を越えて隣村を訪れることになりました。文子さんは孫の手を引きながら峠にやって来ると、懐かしそうな顔で、『昔はこういう所に、油すましというものが出たものだ』と語ったそうです。すると、俄かに藪の中から、『今でも出るぞ』という声と共に『油すまし』が飛び出てきたというのです。
それからというもの、草積峠には奇妙なものが棲んでいて、悪さを働くから一人で峠を越えてはならない、という掟のようなものが設えられたようです。
河内の方では、『油を搾る』ことを『油をすめる』と言います。確かにあの辺りでは藪椿の種から油を搾って用いることがございます。『油すまし』がどのような姿形をしているかは教わりませんでしたが、おそらく、そういった村の風習が生み出したお化けのような存在なのかもしれません。
いずれにせよ、大昔の出来事ですから曖昧模糊としていて詳しいところは分かりません。ただ、少なくともお父様――古賀清史郎はこの掟を律儀に守っていました。『油すまし』と出逢った者の一人ですから当然とも言えますけど、頑なに峠越えをすることを忌み嫌っておりました」
千尋は所用で本家を幾度か訪ねたきりで久しく無沙汰となっている。暢恵の語った内容がどれほど正確なのかは知る術はないが、万事において抜かりのない彼女のことだから実際にある話なのだろう。千尋は暢恵が語った話の要旨を脳裏に留めて次の質問を重ねた。
「古賀文子さんとはどんな方だったと聞いてますか」
暢恵は部屋を訪れてから初めて訝しげな眼差しで千尋は見た。話題は明らかに当初の予定から逸れて行っているように思えたのだろう。しかし、千尋はそれが語られるのを辛抱強く待った。それらは暢恵にとって些細な記憶でも、千尋にとっては重大な事実になり得る可能性を持っている情報だった。
「古賀文子は風変わりな方だったと聞いております。幼少のころから山に遊びに分け入っては惚けたような顔をして帰ってくる。数日の間を山で過ごすこともあったそうです。
河内の人々は彼女のことを気味悪がっていました。古賀文子は山の怪と戯れて遊んでいるという噂まであったようです。
彼女の死に関しては詳しくありません。大変な長寿を全うしたとか、山に戻って行ったとか、様々な憶測が飛び交っています」
千尋は全てを聞き遂げると満足したようで、畳の上に置いていたタバコの箱に手を伸ばした。そして、たっぷりと時間を掛けて紫煙を燻らせると、俄かに文机に散らばった鉛筆を取って紙屑に何かを走り書き始めた。暢恵は腰を浮かせて密かにメモを隙見しようとしたが、千尋が悪戯っぽく微笑みながらそれを遮った。
「残念ですが、今はまだ見せられません。暫くの間、そこで待っていてください」
古賀暢恵は謎めいたメモの隙見を諦めたのか、跡はもう、夢中になって書き物をする甥の背中を見守るばかりだった。東京の冬空が茜色に染まる時分になって、漸く鉛筆を握っていた千尋の手が止まった。千尋は居住まいを正しながら、くるりと暢恵の方に向き直ると真剣な面持ちで話し始めた。
窓の外では鴉達が枯れた声で頻りに鳴いている。古賀千尋の推理を傍聴する存在は彼らだけであった。鴉達は空に宵闇が訪れるまで、真っ黒な瞳を輝かせながら、相対する二人の様子を見守っていた。時折、ガアガアという野次を飛ばしながらも鴉達が飛び去ることだけは最後までなかった。
三、夢想家の推理或いは妄想
窓の外では鴉達が群れを成して屯している。ガアガアという枯れた声で野次を飛ばしながら二人の行く末を見守っていた。茜色に染まる空模様が彼らの真っ黒な瞳を一瞬だけ輝かせた。
古賀千尋は先ほどまでの弛緩した表情を一変させて引き締め、これから叔母が求めた安楽椅子探偵の役目を全うしようとしていた。彼の推理はそれほど長いものにはならないはずだ。千尋は乾いた唇を唾で湿らせると重い口を開いた。
「さて、先ずは結論から申し上げます。古賀清史郎の生死についてですが――残念ながら、彼はすでに亡くなっていると思います。草積峠を一人で訪れた理由は誰かに誘き出されたからでしょう。そうでもなければ、古賀の清史郎が夕刻という時間帯に一人っきりで草積峠を訪れる理由はなかったはずです。彼は草積峠を一人で越えることを忌み嫌っていたことからも察せられます」
暢恵は父親の死を宣告されたことに動揺せず、一切の感情を面に表さなかった。暢恵自身も古賀清史郎が生きているとは初めから考えていなかったのだろう。ただ、一つだけ問い掛けるだけで彼女の心は満足したようだった。
「お父様が誰かに誘い出されて草積峠を訪れたことは理解できますが、それが即ち死に繋がるとは言い切れないように思えます。千尋さんはどう考えているのかお訊ねしてもよろしいでしょうか」
千尋は文机に置かれた紙束の中から数枚のメモを取り出した。そこには細かな金釘文字で彼の推理した内容が隙間なく記されていた。千尋は目を細めながらもメモを読み終えると暢恵の質問に答えた。
「古賀清史郎は誰かに草積峠に一人で来るように強いられていたと考えます。そして、彼にはそれを断ることができなかった。つまり、彼は何者かに脅迫されていたのです」
暢恵の硝子細工の瞳に初めて曇りが宿った。千尋の熟れた脳髄が導き出した解答を覚ったのだろう。暢恵は彼が言おうとしている次の言葉を先んじて口にした。
「脅迫された上で行方知れずとなっているからには、何かしらの障害が生じたのだろうと考えたわけですね」
千尋はゆっくりと首を縦に振った。彼の推理は憶測の範疇を超えないものであるかもしれないが、それは充分に有り得る状況でもあった。少なくとも、暢恵はそれを不合理とは思わなかったようだ。脅迫されて誘き出された金満家の老人が謎の失踪を遂げた。そこに剣呑な印象を抱かない者はいないだろう。
「古賀清史郎がすでに亡くなっていると考える理由は他にもあります。草積峠を一人で越えてはならないという掟と、それに纏わる不可思議な伝承のことです。
古賀文子と清史郎は草積峠で『油すまし』と呼ばれる存在と遭遇した。それは一人で行き遭ったら身の安全を脅かす存在だったのでしょう。だから、古賀文子は峠を越える時は二人連れであるように戒めを残したのです」
河内に伝わる昔話が話題に上がったことに、古賀暢恵は少なからず動揺したようだった。千尋は相変わらず冷徹な眼差しで叔母の整った面を凝視している。そこには彼女の表情の変化を一片たりとも見逃すまいという強い意志が込められていた。
「古賀文子の言葉を信じるならば、『油すまし』とは明治期以前には屡々(しばしば)遭遇する存在だったが、以降においては行き遭うこと自体が稀であることが窺えます。
草積峠には『油すまし』と呼ばれる危険な存在が隠れていた。そして、それは明治期には何かしらの理由から既に廃れている存在だった。また、少なくとも古賀文子がそう判断しているからには明治期以前にそれと遭遇した経験を持っていたのでしょう」
千尋はメモを暢恵に見せるために畳の上に置くと、走り書きされた箇所を指さして示した。そこには次のような内容が金釘文字で記されていた。
①、それは過去には屡々(しばしば)遭遇することがあったが、現在では遭遇すること自体が稀である。
②、それは一人で遭遇すると身の安全を脅かすような存在であり、二人連れであることが求められる。
③、古賀文子は草積峠で油すましと呼ばれる何者かに遭遇した経験がある可能性が考えられる。
暢恵は黙ってそれを読んでいた。太陽が沈んだ代わりに宵闇が天窮に迫り、瓦斯灯に火を点す者達が街を闊歩する刻限になっていた。このような時間になっても、なお騒がしい街の様子に辟易しながらも、千尋は言葉を次々と紡いでいく。
「古賀文子は幼少のころから山に分け入って遊んでは惚けたような顔をして帰ってくる人だったと仰っていましたね。彼女は山に踏み入っては、『油すまし』と呼ばれる存在と屡々(しばしば)逢っていたのではないかと思うのです。
河内の地域では、『油を搾る』ことを『油をすめる』というらしいですね。しかし、単に椿の種子から油を採取することを指し示しているのならば、古賀文子はそれを連想させる存在が現れるという草積峠を恐れたりするでしょうか。
叔母さん――、僕は思うです。実際はもっと他の植物の種子から油を搾っている者が草積峠には隠れていたのではないかと。そして、それは明治期には大っぴらに採取することが憚られるような植物の種子だったのではないかと。
古賀文子はそういった違法か、それに近い植物の種子から油を搾る存在と交流を持っていたのではないでしょうか。そして、おそらくその存在は現在でも草積峠に隠れて暮らしています。
古賀清史郎は誰かに脅迫されて一人で草積峠を訪れています。ひょっとすると、彼は祖母の古賀文子と同様に、その違法的な存在と密かに交流を持っていたのかもしれません」
暗闇に支配されつつある部屋の中では暢恵の表情の変化は杳として判然がつかない。千尋は正座を崩して立ち上がると、弱々しく光る電球に繋がる紐を引いた。
暢恵は食い入るようにして床に置かれたメモを読み耽っていた。両腕を畳に着いて、紙屑に記された走り書きを読み漁る姿は、浅ましい四つ脚の獣のようであった。
千尋は美しい容貌の裏に隠されていた叔母の本性を漸く暴いたのである。
「大陸には特殊な草花の種子から採取した薬を相手に飲ませ、酩酊状態になっている間に強盗を働く犯罪組織があったそうです。その毒花の名前はダチュラ。そして、その犯罪組織の名前はダチュレアスと言います」
千尋は醜悪な獣と化した叔母の姿を睥睨しながら呟いた。暢恵は床に額を付けるような恰好のまま動こうとしない。千尋は彼女が不意に面を上げることを恐れた。きっとそこには鬼の形相が浮かんでいるに違いない。
「古賀文子は幼いころにそういった山賊連中に拐かされたことがあったのではないでしょうか。そして、以降も山間に棲む人々と交流を持ち続けていたのだと思います。
『油すまし』とは特殊な植物の種子から油を搾って用いる山賊を示す隠語のようなものだった可能性が考えられます。
古賀清史郎はそういった山間に暮らす人々との紐帯を断てずにいたところを誰かに脅された。おそらく、目的は炭鉱で儲けた金の一部か、或いは違法的な毒花の栽培で儲けた財産の一部だったのでしょう。
いずれにせよ、古賀清史郎という人物の裏には違法な金の流通があったと僕は考えています。そして、ある日、脅迫されるがままに一人で草積峠に赴き、ピタリと消息を絶ってしまった。叔母さん――、あなたの父親である古賀清史郎はすでに亡くなっています。誰かに殺されているのです。そして、おそらく、その犯人とは――」
千尋はその先を言おうとしたが口を噤んでしまった。叔母が床に額づいた姿勢のまま、クスクスと笑っていることに気が付いたからである。千尋は酷く醜い者を目の当たりにしたような気分になった。
古賀暢恵は依然として、クスクスという不愉快な含み笑いを止めようとはしない。千尋は頭蓋に収められた爛熟した脳髄を用いて暴いてはならない物に触れてしまったことを覚った。
「千尋さんは面白いことを仰るのですね。どれもこれも、的外れの当てずっぽうでしかありませんが、聴いていて楽しゅうございました。そんなに怯えることはないじゃありませんか」
古賀千尋は醜悪な叔母の姿を直視することを本能的に避けてしまった。顔を背けるばかりでは気が済まず、天井にぶら下がった電球の紐を引いてしまったのである。
暗闇の中で古賀暢恵の不快な笑い声がいつまでも響いていた。千尋は黒洞々(こくとうとう)とした闇の中で叔母の気配が消えてしまうまで立ち竦むことしかできなかった。
――全ては熟れて蕩けた脳髄が生み出した妄想に過ぎないのかもしれない――
古賀千尋は窓から射しこむ頼りない瓦斯灯の光をぼんやりと眺めながら思った。気が付けば叔母の笑い声が途絶えてから随分と時間が経っていた。だからといって、千尋は手に握られた電球の紐を再び引く気にもならなかった。
夜が白々と明けるまで千尋は真っ暗な部屋の中で佇んだまま、夢と現の狭間を往来し続けた。もはや、彼にとって真実と虚構の境界は曖昧なものに成り果てていた。
古賀千尋は生きることに飽き始めていた。一切の希望を失った脳髄が代わりに生み出したものは純粋な狂気だった。千尋の頭蓋の内側は熱に爛れて蛆が湧き出しつつある。相変わらず、窓の外では鴉達が忙しなく飛び交っていた。
四、ある精神科医の日誌の抜粋
大正十一年十二月十三日(金曜日)。晴レ後曇リ也。
東京帝國大学ニ籍ヲ置ク学生、古賀千尋(十九歳)ヲ収容スル。
重度ノ妄想癖又ハ虚言癖ガ認メラレル為、患者トノ接触及ビ会話ヲ禁止スル。支離滅裂ナ言動ヲ繰リ返ス。アブラスマシ、ダチユラ、セイシロウ、アヤコ、ノブエ等ノ言葉ヲ連想サセル行動ハ慎ムベシ。極度ノ興奮状態ニ陥ル事ガ有ル。
東京都大田区多摩川沿ノ下宿先デ、昏迷状態ニ有ツタ所ヲ大家ニ発見サル。譫妄ノ症状ガ診ラレル。大学ニ問ヒ合ワセタ所、昨年カラ通学記録ガ無イト云フ。本籍地ハ熊本県天草市栖本町河内ト云フガ、未ダ確認出来ズ。
発見時ハ重度ノ精神衰弱ノ状態ニ有ツタ。直チニ最寄リノ医院ニ搬送サル。ソノ際、看護婦数名ガ軽傷ヲ負ハサレル。危険性ノ有ル患者トシテ厳重ナル拘束ヲ必要トス。
下宿先ノ部屋カラハ支離滅裂タル内容ノ手記ガ見ツカル。熊本県天草市栖本町河内ニ関スル伝承ガ記サレルガ、患者ノ妄想ダト思ハレル。患者ノ親族ハ、未ダ発見出来ズ。近日、電気療法ヲ試ミル予定デアル。
東京都立松山脳病院。医師、若林恭介。
(了)