泥田坊
泥田坊
むかし北国に翁あり。子孫のためにいささゝかの田地をかひ置て寒暑風雨をさけず時々(ときどき)の耕作をおこたらざりしに、この翁死してよりその子酒にふけりて農業を事とせず。はてにはこの田地を他人にうりあたへければ、夜な夜な目の一つあるくろきものいでゝ、田をかへせかへせとのゝしりけり。これを泥田坊といふとぞ。
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より
一、懸命に生きる
煮売り屋のお初は、近ごろ、めっきりと細くなった髪を繕いながら、ホウッと溜息をついた。もとより繁盛とは程遠い小商いぶりだったが、夫と死別してからというもの、日々の暮らし向きは貧しくなる一方だった。分厚い帳簿を捲ると生活の貧窮は具体的な数字となって両肩に圧し掛かってくる。お初はまたもや、ホウッと一息ついた。
油が勿体ないので、そろそろ暖簾を下ろそうかと思った矢先に、一人の男がフラフラとした足取りで店に入ってきた。お初はその男――陣内平太が銭にならない客であると知っていながらも、安手の徳利に半合ばかりの酒を注ぐと、楚々(そそ)とした所作で男の前に差し出した。それは、彼女なりの抗議の流儀だった。
「いらっしゃいまし――、また随分と召し上がって来たみたいでございますね。そういう遊びも若いうちだけの楽しみですよ」
陣内平太は片頬を引き攣らせるような笑みを浮かべると、酒で焼けた喉をヒュウヒュウと鳴らして声を引き絞った。
「お生憎様だね。今さら、直そうとしても無駄だよ。とっくに駄目になっちまっているんだから。それにしても、ちょっと酒が少ないんじゃないかい」
お初は愛想笑いを崩さぬように努めつつ、突き伸ばされた猪口に酒を注いだ。加賀の毛勝山の雪解け水を用いた地酒をグイと呑み干すと、平太は皮肉屋らしい暗い双眸で彼女をジッと見詰めた。瞬間、うなじを氷で撫ぜられたような怖気が走った。お初は彼の眼付きが嫌いで仕方がなかった。
「世間は暦が改まったといって騒いでいるが、慶安とはまた大仰な名前を授けたもんだ。全く、笑わせてくれるね」
平太はそう言うと、空になった猪口を差し伸ばした。お初はこの男が何を言いたいのか分かるような気がした。
確かに、この界隈に住む人々の暮らしぶりは豊かなものとは言い難い。毛勝三山から流れ込む片貝川の勢いは急であり、度重なる洪水によってろくに農業を営むことも出来やしない。
僅かに残された農地で痩せ細った作物を取る日々に、片貝川流域に居を構える皆が苦しみ喘いでいる。少なくとも、お初は太平とは掛け離れた生活を送っていた。
「お上が決めなさった事に文句を言うもんじゃありませんよ。誰が聞いているか分かったもんじゃありませんからね」
陣内平太は寛永の飢饉で母親を亡くしてから後、父親の左衛門と二人きりで暮らしている。
古人らしい頑強な老父である左衛門とは異なり、息子の平太はどことなく頼りない風貌をしており、気質もそれに伴うかのように歪み曲がっているらしかった。
単なる天ノ弱とは根本から違う、堕落を真っ向から見詰めるかのような性情を、お初は以前から内心で怖れていたが、今夜の平太は危ないまでの妖気を身に纏っているように見えた。
「女将さんはもうあの噂を聞いたかい。何でも、加賀藩のお殿様はこの片貝川に開墾の御布令を出すつもりでいるというじゃないか。家の親父は気が早いことに鍬の手入れなぞを始めているよ」
夫に死なれてから世間との交流を絶った気でいたお初は、この報せを聞いて、少なからず驚いた。雑木林に囲まれた辺境の土地である東山麓を、加賀の殿様は見捨ててはいなかったという事実に動揺したのだ。
しかし、お上は暴れ川として有名な片貝川をどのようにして治めるつもりなのだろうか。その脅威を知っている人々の一員である彼女にとって、その御布令はあまりにも無謀なものに思えてならなかった。
「でも、どうやって――」
そう言い澱むお初を一瞥すると、平太は面白くもなさそうに鼻を鳴らしてから、誰にともなく冷たく言い放った。
「馬鹿が考える事なんてたかが知れているさ。盛土だよ。俺たちに土嚢を担がせて、ひたすら土を盛らせるつもりなのさ。でも、そうやって拵えた田畑も所詮は藩の物に違いはない。額に汗して開墾しても、年貢はきっちりとむしり取るつもりでいやがる。何のために働くのか分かっている奴なんざ、これっぽちもいやしないんだ。全く、骨折り損のくたびれ儲けだよ」
この男は自分の父親を蔑んでいるのだ、とお初は程なくして気が付いた。左衛門は妻を飢饉で亡くしている、と考えると老父の気持ちも分からないでもない。少しでも飯の種が増えるのなら、彼は勇んで苦役に臨むのだろう。お初はそれを思うと、いじらしさで胸が苦しくなってしまった。
「家の親父は馬鹿な野郎の筆頭だね。土嚢を背負って暴れ川を鎮めても、結局は自分の首を絞めることになるんだからな。加賀の殿様に弄ばれているということに気が付かないで、せっせと鍬を磨いて悦に浸っているが、その時が来ればどんな顔をするのやら。いやいや、全く馬鹿げた話さ」
お初は自身の頭にカッと血が上るのを感じた。同時に、この冷血漢に酌をしている自分が情けなくも思った。彼女はしばらく考えた末に、自身が為すべきこと定めると、思い切って行動に移した。
お初は客の前に置かれた徳利を取り上げると、中に注がれた僅かな酒を、ピシャリと平太に浴びせ掛けた。
「店を閉めるので帰ってください。言っておきますが、貴方のお父上は立派な方です。先の飢饉で亡くされた奥様を偲んで鍬を振るうのです。それが子供の貴方には分からないのですか。一生懸命に生きようとしている人を指さして笑うのですか。貴方は恥を知るべきです」
お初の感情の発露を見ても、平太の表情はまるで変わらなかった。酒を浴びせ掛けられたことに気が付いてないようですらあった。
陣内平太はただ、片頬を引き攣らせて微笑していた。彼は猪口に残された最後の酒をグイと呑むと席を立った。
「女将さんが思うほど親父は美しくないよ。あれは泥の海を泳ごうとしている老人に過ぎない。それ以上でも以下でもない妄念の塊だ。それに、一生懸命に生きることの何が偉いっていうんだい」
憤怒に駆られたお初は冷笑を浮かべる平太の後ろ姿を見送ると、門口から暖簾を下ろして塩を撒いた。
誰もいなくなった店の中で彼女は帳簿を開き、陣内平太酒半合二文也と下手な筆で書き記した。
越中国加賀藩新川郡の夜は深々(しんしん)と更けていく。先刻から降り始めた小糠雨は片貝川に落ちて水嵩を高めるのだろう。春夜の雨といえども油断はできない。
お初は暴れ川の機嫌を思い煩い、あまりの悩ましさに、ホウッと嘆息をついた。
二、流れる血潮
陣内左衛門が煮売り屋を訪れたのは、慶安四年の冬の夜更けのことだった。左衛門は細くやせ衰えた腕で暖簾を掻き分け、髪に白い物が交じり始めた歳頃のお初を驚かせた。
「まあ、驚かせないで下さいな。それにしてもお久しぶりですこと。今日はもうお店を閉めようとしていたところですのよ。あまり、上等な物は拵えられませんが、ごゆっくりなさっていって下さいな。左衛門さんなら、いつでも歓迎致しますわ」
お初は徳利に酒を並々(なみなみ)と注ぐと、寒空の下を歩いてきた老人を思いやり、早々(はやばや)と燗にする支度を始めた。
左衛門は座敷に腰を下ろすと懐から煙管を取り出して、震える手で刻み煙草をゆっくり丹念に丸めてから火を点した。
北陸の古人は黙然として容易には話そうとしない。お初はそれが何とはなしに嬉しかった。自分も歳をとったのだ、とお初は思う。
「左衛門さんたちのおかげさまで、最近は暴れ川も随分と穏やかになりました。段々(だんだん)とですが、田畑も肥えだしたようで助かっております。三年という月日の間に世の中はすっかりと様変わりしました」
徳利に湛えられた燗酒を盆に載せて運びながら、ふと老人の履き古された藁沓を見ると、まだ乾き切っていない泥が付いていた。道は霜が降りるほどに凍てついているはずである。藁沓の首の辺りまで泥が跳ねるようなことは先ずあり得ない。
――ああ、左衛門さんはまた田圃に寄って来たんだわ――
三ヶ年前に陣内平太が煮売り屋を訪れて以来、お初はこの老父のことを気掛かりに思っていた。夫と死別してから世間との紐帯を絶ったつもりでいた彼女であるが、陣内家の事情については密かに耳を傾ける癖のようなものが、知らぬ間にすっかりと身に付いてしまった。
「陣内左衛門は開墾に取り憑かれている」
東山村の人々は健気な老人を指さして笑っていた。お初にはそれが悔しくて堪らなかった。冬枯れの山麓で僅かに耕された田地を愛おしみ、昼夜を問わずして土を弄る老人の姿を思うと、お初の胸中は哀しみと憐れみでいっぱいになるようだった。
――一生懸命に生きようとする左衛門さんは立派だわ――
左衛門の墾田への専心を馬鹿にする者は存外に多かった。お初は客連中が老父の暮らしぶりを口さがなく噂し合うのを聞く度に、彼の息子のことを思い出さずにはいられなかった。相変わらず、平太は父親の苦役を肴にして、酒に溺れるようにして過ごしているらしい。
『一生懸命に生きることの何が偉いっていうんだい』
冷笑と共に放たれた言葉をお初は忘れていなかった。あれ以来、平太が煮売り屋を訪れることはなかったが、左衛門の噂を耳にする度に、平太の青白い額と澱んだ双眸の幻影を思い起こしてしまう。お初はそれが堪らなく厭であった。何か高潔なものが徒に穢されたような気がしてならない。そいった気分を味わう毎に、彼女の髪は白くなっていくのだった。
「左衛門さんも随分と淋しい思いをなさっているようですわね。何せ、息子さんがあの様子では――さぞかし、憂き目にも遭ってきたことでしょう」
お初は言ってしまってから後悔した。これでは口さがない客連中と変わらない。朱に交われば赤くなる、とは言うが彼女にとってそれは屈辱の極みだった。片頬を引き攣らせて笑う平太のシタリ顏が脳裏を過った。
お初は非常な羞恥を感じながらも、ひと先ず老父の顔色を窺った。北陸の古人は依然として煙管を吹かしているだけで、機嫌を損ねたような素振りは一切見せない。何か言わなければ、とお初の方が焦り始めた頃になって、ようやく左衛門は口を開いた。
「もとより、息子には何も遺してはいかないつもりだ。あの土地だけは誰にも譲る気になれない。俺が死んだ後も土地は残り続けるだろう。あの世に持っていけないのが残念だ」
左衛門は糸のような紫煙を吹き終えると、訥々(とつとつ)とした口調で話し始めた。寡黙な老人の魂は田圃の辺りを彷徨っているらしく、お初は左衛門の言わんとする事を容易には汲み取れずにいた。ただ、左衛門が自分の田地をどれほどの愛しているのかだけは、ひしひしと伝わってくる。
「左衛門さんは田圃を愛しているのでございますね。私も先の飢饉で夫を亡くしたようなものです。奥様への手向けとして開墾に精を出すお気持ちは分かりますが、お身体を壊してしまっては元も子もありません。せめて、冬の間だけでも休んで下さい」
お初の言葉を聞くや否や、左衛門は激しく首を振るった。老人の頑なな意志を前にしてお初は少なからず驚いた。
「いやいや、分かっておらぬ。あの田圃は俺の命そのものなのだ。あの土地には俺の血潮が流れている。誰であろうと俺の田圃を穢すことは許さない」
左衛門はすっかり冷めてしまった燗酒を手酌で猪口に注ぐと、トロリと沢のある聖水を飽くことなく見詰めながら、誰にともなくボソリと呟いた。
「誰かが鍬を振るって田を耕した。この酒にも誰かの血潮が流れている。俺は削られた魂の一部を呑むのか。勿体ないことだ。業の深いことだ」
左衛門は遂に酒に手を出すことはなかった。ただ、頻りに煙管を吹かしては遠い目をして物思いに耽っていた。その寂しげな後ろ姿を見て、お初は老父の余生が決して長くはないことを予感した。
彼女の思った通り、陣内左衛門は翌年――慶安五年の皐月に老衰により、静かに息を引き取った。
煮売り屋のお初は陣内家の行く末を案じながらも、無事に歳を重ねて四十路を迎えたが、客連中は相変わらず、彼女を「お初さん」と呼ぶ。それが何だか恥ずかしいように思える歳頃となった。
慶安という暦は早くも改まり、承応の二文字が世の中に広まろうとしている。それが陣内家の盛衰の有様を表しているようで、お初にはうら寂しく感ぜられるのだった。
――陣内平太には父親の死を偲ぶという人情が欠けているように思えてならない――
彼は父親である左衛門が亡くなると同時に田圃を質に流してしまったらしい。陣内左衛門の田地は山田徳右衛門という富農の手に渡ることになったのである。
今年も田圃に水を張ろうと意気込む客連中をあしらうと、お初は炊事場の裏手に逃げて、人知れず静かに涙を流した。一滴の涙は頬を伝い、やがて酒の湛えられた樽の中へと消えた。
三、泥田の化け物
承応二年の皐月のことである。陣内左衛門が世を去ってからちょうど一年が経ち、忌日も巡って喪に服するべき期間が明けた頃になって、山田徳右衛門はフラリと煮売り屋を訪ねてきた。
――この恰幅の良い男が左衛門さんの田圃を奪った山田徳右衛門か――
東山麓を牛耳る富農らしく、丸々と太った恵比須顔は、平生なら愉快に見えるのだろう。だが、お初は陣内家の衰亡が平太と徳右衛門の間に密約が交わされた事に拠ると知っているだけあって、別段に歓迎する気分にもなれなかった。
山田徳右衛門は注文すると何やら物思いに耽っているようで、チビリチビリと冷酒を舐めながら、ぼんやりと虚空を見詰めていた。お初は左衛門の田地を奪ったという男の横面を睨みつけずにはいられなかった。
「陣内左衛門という方をご存知でしょうか」
お初は富農である徳右衛門に訊ねた。返答次第では店から追い出すつもりでさえいたのである。お初は陣内平太と山田徳右衛門を甚だしく恨んでいた。
長い月日を経る毎に、彼女の中で陣内左衛門の記憶は崇高なものへと昇華していった。お初にとって左衛門は暴れ川である片貝川を治め、土地に豊饒を齎した英傑に他ならなかった。
「勿論、知っているに決まっているだろう。陣内左衛門といったら片貝川を治めるばかりか、一代で田畑まで築き上げた傑物だ。尤も、村の人々の中には彼の成功を嫉む者も少なくないが、左衛門は実に立派に生きた農家の一人だ」
お初は少なからず動揺した。山田徳右衛門は陣内左衛門に確かな敬意を抱いているようだった。お初は混乱しながらも前掛けの裾を握り締めて徳右衛門に詰め寄った。
「ならば、なぜ左衛門さんの田圃を奪ったりしたんです。あの土地には左衛門さんの血潮が流れています。誰かに踏み荒らされることなどあってはならないのです」
お初の並々(なみなみ)ならぬ声風に気圧されつつも、徳右衛門は穏やかな微笑みを浮かべて事の次第を説き始めた。
「陣内左衛門という方の話は以前から伝え聞いていた。昼夜を問わず開墾した田を愛でて、最期の時まで勇猛果敢に鍬を振るい続けていたらしいではないか。
私は自身が充分に富を手にしていることを知っている。これ以上、富み栄えようとは思わない。守銭奴のようなマネをして地獄には落ちたくはない、と考えるほどに歳を重ねてしまった」
山田徳右衛門は手酌で酒を注ぐと、大きく嘆息してから言葉を継いだ。門口に吊られた提灯に数羽の蛾が明りに魅せられて躰をぶつける音が響いている。
「陣内平太が私の屋敷に押し掛けてきて、父親の田地を質に流したい、と相談を持ち込んできた。あれに土地を任せていては左衛門殿も報われまい、と私は思った。平太は酒さえあれば良いという類の怠惰な男だ。ならば、左衛門殿の供養のためにも私が彼の田を買い取って、管理しようと思ったのだが――」
お初は山田徳右衛門の話にじっと耳を傾けていたこともあって、彼が何かを言い澱んでいると即座に気が付いた。美談の中に隠された不都合な事実を彼女が見過ごすことはなかった。またもや、陣内平太の冷笑が脳裏を過った。何かあるとするならば、彼のせいに決まっているように思えた。
「左衛門殿の魂はまだ土地を離れていないらしい――。田に水を張る季節になったので、私たちは左衛門翁の加護を求めて盛大な水口祭を行なった。左衛門翁の魂は毛勝山へと上り鎮まって、田の神として豊穣を約束してくれるとばかり信じていた。しかし――、彼の魂は山に帰ってなどいなかったようなのだ」
山田徳右衛門はガックリと肩を落としながら語る。福々(ふくぶく)しい相好は崩れて、声は細く引き絞られ、生気を一息に吹き消されたような印象すら覚える。その姿を見るや否や、お初は冷たい指先で背筋を撫ぜられたような凄さを感じた。
「左衛門殿の魂は田圃から離れていない。彼を田の神として迎える祭は失敗に終わった。ああ、恐れ多いことだ。今でも、ハッキリと思い出すことができる。
水口祭が終わる夕刻の時分に奇妙な声が響いた。微かではあるが、私の耳には、『田を返せ、田を返せ』と聞こえた。祭事に携わった者たちにも、その声は聞こえているらしかった。
ふと、水を張ったばかりの苗代田を振り返ると――そこには一つ目、三つ指の泥人形のような異形のモノが、恨めしそうにこちらを指さして立っていた」
山田徳右衛門はそう言ったきり黙って口を開こうとしない。お初は俄かには信じ難い事の顛末を聞かされて、呆然とするほかに仕様がなかった。
左衛門の魂は、まだこの世とあの世の狭間を彷徨っている。もし、それが本当なら彼を繋ぎ止めているものは何なのだろう。何故か、陣内平太の顔が思い浮かんだ。
泥に塗れた一つ目の化け物が、三つしかない指でこちらをさして、「田を返せ、田を返せ」と恨み言を繰り返す。
それが貶められた英傑の姿である。暴れ川を治め、泥にも塗れて田を耕し、僅かばかりの作物を取り、ようやく口を糊する老父の成れの果てが、徳右衛門の言うようなものであってほしくなかった。
お初は徳右衛門の悄然とした様子を仔細に観察していた。しかし、この男からは悪意のようなものを感じ取れない。もし、陣内左衛門を此岸と彼岸の端境で留めている者があるとしたら、息子の平太に違いないように思えた。
――左衛門さんを現世に繋ぎ留めている者があるとしたら、息子の平太に違いない――
全ての元凶が陣内平太にあるようにしか、お初には思えてならなかった。平太はあの土地に父親の魂が取り憑いていることを知っていたのだろう。左衛門の死と時を同じくして、山田徳右衛門のもとに田地を流したのも、今となっては意味深長な振る舞いである。何としても陣内平太と会わなくてはならない、とお初は密かに決心した。
承応二年の水無月の陣内家の田地は禁域として定められ、その年から田が水を湛えることは二度となかった。
村の大人達は、聞き分けのない童達を叱る時、「泥田坊が出るぞ」と脅かすようになった。陣内左衛門という名は次第に世間から忘れ去られていった。それは、お初にとっては辛く悲しいことでもあった。
土嚢を担ぎ、片貝川を治め、田を耕した老人の物語は露となって消えていく運命にあった。それが、お初には耐えがたいほどに寂しかったのである。
四、泥海を泳ぐ
承応二年葉月の夜更けに煮売り屋のお初は陣内家を訪ねた。亡くなった左衛門は最期まで質素倹約に努めていたらしく、山田徳右衛門が一目置くほどの田圃を持ちながらも、住居は極めて侘しい造りをしていた。
陣内平太は深酒のために浮腫んだ顔をしており、暗い双眸は黄色く澱んですらいた。両頬は黒ずみ、指先の震えは容易にはおさまらないようだった。
陣内平太はお初を座敷に招くと、自分はぐい呑み茶碗に並々(なみなみ)と酒を注いで、頻りに杯を傾け始めた。
「女将さんが言いたいことは何となくだが分かっているつもりだ。親父の田圃を質に流したことを責めに来たんだろう。いや、もしかしたら泥田坊の話かな」
陣内平太の片頬を引き攣らせて笑う癖は抜けていなかった。世の中の全てを小馬鹿にしたような不遜な態度である。お初は部屋中に満ちた酒の香りに辟易しながらも、懐から分厚い帳簿を取り出して、平太の前に突きつけた。
「慶安元年に召し上がった酒代を頂戴しに来ただけです。しかし、貴方は私を見て何かを思ったのでございましょう。腹に泥を抱えていらっしゃるのでしたら、仔細に伺いたいと存じ上げます」
平太は帳簿に書き記された、『酒半合二文也』という字をまじまじと見ていたが、やがては目を逸らして、「払いたくとも払えんわ」と呟いた。平太は酒代二文すら銭を持ち合わせていなかったのである。
「このどぶろくも隣の家からくすねてきたものだ。とっくの昔に陣内家は破綻しているのだ。それより、親父――陣内左衛門の話をしてやろう。女将さんは何か大きな勘違いをしているようだからね」
左衛門の名前が語られた途端にお初は眦をキッと釣り上げずにはいられなかった。平太は死人を貶めてまで己の正しさを証立てしたいらしい。今や、お初は平太を心の底から軽蔑していた。
「女将さんや徳右衛門殿は、陣内左衛門という人間を大そう立派に思っているようだが、それは考え違いというものさ。最期まで親父は泥の海を泳ぐことに執着していたに過ぎない。あれは紛れもない化け物だ」
お初の頭にカっと血が上った。彼女は慎みを忘れて口端に唾の泡を飛ばして怒鳴りつけた。眼前はチカチカと明滅を繰り返し、心臓は踊り狂わんばかりに鼓動を早めていた。
「そうではありません。左衛門さんは亡くされた奥様のことを思っていらしたのです。貴方の奥様は飢饉で亡くなりました。物が食べられずに、ゆっくりと死んでいく人の気持ちを貴方は知らないのです」
陣内平太はゲタゲタと笑いながら、お初の激昂を聞いていたが、やがて一息つくと居住まいを正して問うた。
「貴方は一度でも左衛門の口から母上の名前を聞いたことがあるのですか。さあ、母上の名前を言って御覧なさい。陣内左衛門は母上の話をしましたか」
平太の意外な問い掛けに、お初は思わず答えに窮してしまった。確かに左衛門の口から、妻の話が語られることはなかった。「淋しい思いをしてきたのだろう」と訊ねた時も、彼の眼には田圃のことしか、映じていないようだった。それを薄情だとは思わなかったが、一抹の違和を感じたのも確かだった。
「親父――陣内左衛門は開墾に執着していただけなんですよ。いや、生きることに執着していたと言ってもいい。泥に塗れて作物を取ることに取り憑かれていたのです。それを誰かに分け与えてやろうなどとは考えもしなかったのでしょう。一生懸命に生きることの何が偉いのか、私には全く分かりません」
平太が静かに怒っていることは一目瞭然であった。弓形に細められた両眼の奥には冷たく燃える火が点されていた。お初は陣内平太という人間に心魂を鷲掴みにされたような気分に陥り、思わず肉体を震わせずにはいられなかった。
「巷間で囁かれている噂もあながち間違ってないように思えるのです。陣内左衛門は田圃を返して欲しいだけなのです。あれは道を外れた化け物になったのです。あれは妄執の塊が泥を纏った姿に他ならない。山田徳右衛門殿には申し訳ないことをしましたが――、どうやら、それも終わりのようです。ほら、女将さんには聞こえませんか」
ピシャリ、ピシャリという泥田を打つような微かな音が遠くで響いている。お初がその音に耳をそばだてていると、突如、鞴を鳴らしたような細い声が、後ろから聞こえてきた。それは紛うことなく左衛門の声だった。
「田を返せ、田を返せ」
お初の脇の下を冷たい汗が伝った。振り向こうにも身体が動かない。陣内平太は片頬を引き攣らせて、ゲタゲタと笑うと茶碗に満たされた酒をグイと呑み、怖気に震えるお初の許にいざりより、肩を掴んで叱咤した。
「さあ、今すぐお帰りなさい。ここには二度と近づいてはなりません。走ってできるだけ遠くに逃げるのです。決して振り返ってはなりませんよ。親父に魅入られるといけないから」
お初はフラフラとした足取りで陣内家の門口までやって来ると、倒けつ転びつしながらも、道を一目散に駆けて行った。恐怖が彼女の心臓をしっかりと掴んでいた。
山麓に辿り着く頃には幾らかの平静を取り戻したが、ピシャリ、ピシャリという泥田を打つ音はいつまでも耳に残り、容易には忘れられそうになかった。陣内平太はあのあばら家で泥田の妖怪と共に暮らすことになるのだろうか、と考えると恐ろしさのあまりに背筋が冷たくなった。
ふと、お初が毛勝山を見上げると満月が頂に掛かろうとしていた。風颪に吹かれて山の木々が揺れる様を見ながら、お初は確かな狂気を感じていた。
生きることに懸命になれば、何かを失うことになる。陣内左衛門は何を失ったのだろうか、と思いを巡らせている間に月は山に隠れた。
翌日、陣内平太は自らの首に鍬を叩き落として死んだ、という噂が村を騒がせたが、お初は知らぬ顔を通して過ごした。陣内平太の謎めいた狂死と、煮売り屋のお初の髪が一夜にして真っ白に色を落としたことを、訝しむ人々は後を絶たなかったが、流れゆく月日の中で噂は長くは続かないものだ。
一つだけ確かなことは、陣内平太の死の後に、彼女を「お初さん」と親しみを込めて呼ぶ者は村からいなくなったことだけである。
(了)