初めての感情
ガキの頃から、大抵のことはなんでもできた。
学校のテストも授業を聞けばある程度の点は取れるし、初めてやるスポーツもすぐに体が順応した。
勉強、スポーツができて、それである程度身長も高いということもあり、女子からも人気があった。バレンタインでは何個もチョコをもらい、本命もあった。
だから「リア充」だと皮肉っぽく言われることがあった。たしかに、客観的に見れば俺はかなり恵まれている人間だった。
だがそれがすなわち「充実」につながるというわけじゃない。不自由のない生活が、逆に不自由だと感じていた。
なにか、刺激がほしかった。俺はすでに与えられたものを極めるのではなく、まったくのゼロから何かを成し遂げてみたかった。
まあぶっちゃけ、そんなものはいくらでもあった。だがそのどれもが「やりたい」と思わせるものではなかった。
けっきょく、中学にいる間、何も得ることはできなかった。正直、全然中学生活を思い出せない。
転機が訪れたのは、中学卒業後、高校入学を控えた春休み最終日のことだった。友達に借りっぱなしだった様々なジャンルのゲームを返しに行く途中、河川敷の橋の下にいた男に、俺は声をかけられた。
「なあ、ちょっと手伝ってくれないか?」
短髪の、筋肉質な男だった。男のそばには少女がいた。
「おー、ちょっと待ってな」
特に急いでいるわけでもなかったので、俺は坂を下りて男の元へ向かう。男は近くで見るとさらにでかかった。
「で、どうしたんだ、迷子か?」
俺は少女の方に目を向ける。少女は目から涙を流していた。
「違うよ。アレだよ」
男は首を振り、上にある橋を指差す。裏側から橋を支える柱に、猫の姿が見えた。猫はじっとこちらを見ているが、その場から動こうとしない。
「ネネ……ネネ……!」
女の子は猫の名前を泣きながら呼ぶ。猫もそれに応えるようにニャーニャーと鳴いた。
「……長い棒でも持ってくるか?」
「いや、とてもじゃないけど届かないよ。だから俺が登る」
男はとんでもないことを言い出した。
「登るって、どうやって?」
「端っこから伝ってだよ」
そう言うと男は河川敷の坂をのぼり、ぐいっと懸垂の要領で橋の下にもぐりこんだ。
「もしも猫が落ちたら、キャッチよろしくー!」
とんでもない無茶振りだった。言い返そうにも、男はすでに猫の元へ向かっていた。俺は友達に借りたゲームを地面に置き、全神経を集中させ猫の動向を見守る。
「ほーら、いいこですねー、こっちにおいでー!」
落ちれば大怪我は免れないほどの高さ。男は一切の恐怖心を感じさせず、四つん這いで猫のところへ進む。
頼むから落ちないでくれ……! 俺はただ祈ることしかできなかった。
「よーしよしよし……よし」
男と猫の距離がどんどん縮んでいく。そして、男は猫を無事掴んだ。
「ネネ!」
女の子は顔を上げ猫の名前を呼ぶ。それが、失敗だった。
「あっ」
女の子の声にびっくりした猫は、男の手の中を暴れまわる。そしてぴょんと宙に跳んだ。
「おいおいおい!」
猫が身軽だといっても、この高さはシャレにならない。時間がゆっくりと流れ始める。俺はなんとしても猫をキャッチしようとした。
「――え?」
だがその必要はなかった。猫が跳んですぐ、男も跳んだ。
「うおおおおお!」
両手で猫を抱きかかえる。
「っ!」
激しい音が響く。思わず俺は目を閉じてしまった。
「…………え?」
どれくらい経っただろうか。俺はおそるおそると目を開ける。すると信じられない光景があった。
両手で猫をがっちりと掴んだ男が、普通に立っていた。
「お、おい大丈夫か!?」
あの状態からしっかりと着地できたのか? ……いやよく見ると違った。
男の服はところどころ破れ、頭、右腕、左足など、あらゆる部位が出血していた。
「はは、大丈夫、だいじょうぶ……。ちゃんと受け身は取ったから……!」
「いや受け身って……」
明らかに無理をしている作り笑いだった。男はその笑顔を保ったまま、女の子の元へ近づく。
「はい。もう逃しちゃダメだよ」
「うん! ありがとう!」
女の子は無傷の猫を受け取ると、嬉しそうに走り去っていった。
「ふう、ありがとう。助かったよ」
「いや、俺はなんにもしていな……っておい!」
張り詰めていた糸がぷっつり途切れたのだろう。男は膝から崩れ落ちた。
「はは、やっぱ折れたみたい……!」
男の顔が真っ青になる。右腕はだらんとしていた。
「なんであんな無茶したんだよ? もっとスマートなやり方があっただろ!」
「まあ、そうなんだけどさ……昔からなんだ。頭より先に体が動いちゃうんだ」
そこで男のセリフが止まる。男は笑顔のままで意識を失った。
救急車を呼ばなければならない。なのに、俺がまず第一に思ったのは、発した言葉は違っていた。
「やべえ、かっけえ」
体中の血という血が熱くなる。
基本濁っていた俺の視界が晴れやかになる。
生まれてはじめて誰かをカッコいいと、本気で思った。
これが多々良風太郎……親友だった者との出会いだった。




