勝ちたい
不純な動機からやることになった空手だったが、想像以上にきついものだった。
犬藤道場の理念は「基礎に始まり基礎に終わる」という、単純かつ厳しいものだった。
入門してからの一ヶ月、鼓太郎は延々と拳立てとスクワットをさせられた。
ようやく体が慣れてきたと思ったら、今度の一ヶ月はひたすら正拳突きと前蹴りを繰り返す。とにかく、地味できついことばかりやらされた。
だが、全員が全員というわけではない。フィットネスや習い事感覚で来る門下生には、サンドバッグを叩かせたり組手を主体に教えている。
練習メニューが違うのは、琉歌が鼓太郎に嫌悪感を抱いているからというわけではなかった。地味できつい練習は琉歌に「認められた」者だけにさせる特別なことだった。
だが当時の鼓太郎はそんなことを知らず、単なる憂さ晴らしだと思っていた。それでも鼓太郎がやめなかったのは、やはり惚れた弱みというやつで、少しでも琉歌と同じ時間を過ごしたいと思ったからだ。
「先輩って、彼氏いるんですか?」
もはや習慣と化したスクワット。疲労を超えた先にあるハイな状態に達した鼓太郎は、核心を突くことを尋ねてしまった。
「……ふむ、いないな」
めちゃくちゃほっとして、足から力が抜けた。危うく膝をつきそうになるのを、鼓太郎は次の質問をすることで耐えた。
「好きな人もですか?」
「そうだな。今のところはだが」
「どんなタイプが好きなんですか?」
「強い男だな」
それを聞き、鼓太郎はいっそう練習に励むようになった。
基礎体力をつけはじめてから三ヶ月。鼓太郎はようやく本格的な実践に入ることを許された。
殴られる、蹴られる……それがこんなにも楽しみだと思うのは初めてだった。
しかし、それは叶わなかった。
「すまん。怪我をした」
琉歌は真っ赤に腫れ上がった右拳を鼓太郎に見せ、申し訳無さそうに謝った。道場の壁の一部が赤く染まっていた。
「…………っ!」
どうしてそんなことをしたのか、鼓太郎にはまったく理解できなかった。けれど後日、門下生で同級生の女子からから聞いたある事実によって、その意味を知った。
「先輩、多々良って人のこと、好きだったんだって」
ぷつりと張り詰めていたものが切れた。
すべてがどうでもよくなった。鼓太郎はその日を境に、道場へ行くことをやめた。
「体、なまってねえか?」
再び気持ちに火がついた鼓太郎が、後日男に連れられやってきたところは道場……ではなかった。
「一応、家でも筋トレはしてたんで……あの、なんでここなんですか?」
鼓太郎は自分たちがいる場所、河川敷に来た理由を尋ねた。
「いいだろ、めったに人も来ないからやり放題だぜ」
「いや、普通に道場使わせてもらえばいいんじゃないんですか?」
「えー、お前これから対決する奴に、手の内さらして勝てると思うのか?」
「いや、それは……」
「――はは、わるい、冗談だ」
「え?」
「今のは建前。本音はまあ、『使えない』だ」
男は気まずそうに言った。
「使えないって……あのうわさ、やっぱり本当なんですか?」
「お、知ってんのか。そうだよ」
「あの、なんでそんなことしたんですか?」
先入観から男を「やばい奴」と決めつけていた鼓太郎だったが、今まで話してきた感じだと、とても無差別に暴力を振るうような人間だとは思えない。
「――俺を買いかぶりすぎだ。クソ野郎だからクソなことをした。そんだけだ」
男は自虐する。鼓太郎はそれ以上なにも聞けなかった。
「それじゃ、お願いします」
今はそれどころじゃない。鼓太郎は気持ちを切り替え男に向かって身構える。
「あー、一応言っておくけど、これは『練習』だからな?」
あたりを見回しながら、男は鼓太郎に確認を取る。いざという時の口裏合わせのためだろう。
「分かってますよ」
だが鼓太郎は気に入らなかった。まるで一方的な展開になると言われているみたいだったからだ。
苦しく厳しい特訓を耐えてきたという自信がある。鼓太郎は特訓とはいえ負けるつもりはなかった。
「じゃ、始めますか。ほい、かかってこい」
男は開始を宣言する。
「……」
先ほどの自信はすぐに消える。まだ動き出していない。だが構えを見ただけではっきりと分かる。この男は強いと。
「…………はっ!」
だが臆してはいられない。鼓太郎は右足で力強く踏みこみ、左を放った。
(ガードしたところですぐに右を入れる。その後蹴りを入れてまた左……)
鮮明に脳内でイメージが出来上がる。予測どおり、男はガードした。
だが、そこまでだった。
「……おーい、生きてっかー」
口の中に炭酸の刺激が伝わる。
「ごぼっ! ちょっ、何するんですか!」
苦しさから起き上がる。口の中に入れられたものの正体はコーラだった。
「何はこっちのセリフだ。お前、いくらなんでも弱すぎるぞ?」
男はかわいそうなものを見るような眼で言った。
「ゆ、油断しただけですよ! 不意打ち入れたからって偉そうにしないでください!」
そうじゃないということは自分がよく知っていた。
鼓太郎の左ジャブをガードした男は、次に鼓太郎が繰り出した右ストレートに対してカウンターを入れた。たった、それだけだった。
「分かった分かった。そういうことにしといてやる。じゃ、もう一度やるか」
「望むところですよ」
あまりに単純な倒され方をしてしまった自分自身に怒りが沸き上がる。頭に血が上る。鼓太郎は下手に手を出さないよう、まずは相手の動きを見ることにした。
「――あふぇっ!」
星がぐるぐる目の前を回る。鼓太郎は再び倒れていた。
「え……あへ……?」
焦点が合わない。呂律もうまく回らない。鼓太郎は自分に何が起きたのかまったく分かっていなかった。
「後の先を取ろうなんざ十年はえーよ」
男は厳しい言葉を投げかける。もう、このまま寝てしまいたかった。
「――ざけるな」
それを鼓太郎は無理やり繋ぎ止めた。
「お願い……します!」
ふらふらのまま鼓太郎は立ち上がる。
強い男になり、琉歌を振り向かせたい。その気持ちは変わらない。
これはあくまでも特訓。頭ではそう理解している。
だがなぜか、鼓太郎の中でこの男に「勝ちたい」という思いの方が強くなっていた。
「いいねえ!」
鼓太郎の覚悟を肌身で感じ取った男は、うれしそうな顔をする。鼓太郎は三度男に向かって突進した。




