突風
「珍しいな、お前が宿題忘れるなんて」
「すいません」
「ま、気をつけろよ」
学武は数学教師に頭を下げる。教師も普段の矢代を知っているから、他の生徒に比べると、柔和な怒り方だった。
「……」
その後はいつもどおり、学武は授業を真面目に聞いた。抜き打ち小テストも満点を取った。
だがそれは習慣づいた行動から出た無意識なもの。学武の頭の中はずっと昨日のことでいっぱいだった。
突如として対戦を放棄し、いなくなったSPR。与一や他の知り合いのプレイヤーに聞くと、SPRは何か思い立ったように、ゲームセンターを走って出ていったとのことだった。
のっぴきならない事情があったのかもしれない。それでも自分と対戦する直前に抜け出されたのは、あまりにもショックだった。
そんな学武に与一は、また来るだろうと慰めの言葉をかけた。話によると、彼女がまた現れたのは昨日が初めてであったが、他のゲームセンターでもその姿は目撃されていたらしい。
つまり、毎日行っていれば会える確率はかなり高い。学武はさっそく今日もまた向かい、「御伽大乱」をプレイしながら彼女を待つことに決めた。
財布の中身と相談し、今日の昼食はカレーパン一個とパック牛乳にしようと決めた時にはすでに昼休みに入っていた。
パンが失くなる前にと購買へ向かおうとする学武。
「矢代、くん!」
それを思わぬ人物に止められた。教室ドア前に、女子が立っていた。
「…………何?」
見たことはある、「可愛い」という理由でかなり有名な女子だったが、すぐに名前は浮かばなかった。学武は「誰」という言葉を寸前で飲みこみ、女子に用件を尋ねた。
「ちょっとお弁当作りすぎたんだ。だから、一緒に食べない?」
その言葉に驚いたのは、学武だけではなかった。聞いていた誰もが同じ顔になっていた。
「いいよ、もらう理由が無」「ありがとー! じゃあ行こっ!」
被せ気味に女子はお礼を言って、学武の手を掴んだ。細く長い、柔らかい手だった。なのに力は強く、ひょろい体型の学武は為すすべなく引っ張られた。
女子は急ぎ足で廊下を歩き、あっという間に理科準備室にたどり着いた。
「……」
女子はドアとカーテンを閉める。そして学武と向き合った。
「矢代くん」
力強い眼で女子は学武を見る。学武は目をそらすことができず、身動きが取れなくなった。
「な、なに……?」
一瞬、ほんの一瞬だが学武は邪なことを考えた。
「……してほしいの」
「え?」
その邪念は、女子の言葉でさらに加速した。けれどすぐ、その邪念は振り払われた。
「アタシが、SPRだってこと、内緒にしてほしいの」
スタートボタンを押されたかのように、学武は静止した。
「あの、矢代……くん?」
女子の声にハッとなり、学武はビクッと体を震わせた。
「あ、ごめん……今、なんて言った?」
ゲーセン通いの弊害で、聴覚が悪くなっているのだろう。学武は集中してもう一度聞いた。
「だからアタシがSPRだってことを黙っていてほしいの」
「……」
聞き間違えではなかった。だからなおさら意味がわからなかった。
「どういうこと?」
「――ああもうっ! とぼけたフリしなくていいから。昨日、あんたとアタシ目が合ったでしょ?」
急に女子の声色、雰囲気が変わった。女子は苛立ちを学武にぶつける。
「目が合ったって……」
確かにその通りだ。だが学武は、それがこの女子だとはまったく思ってもいなかった。そもそも、そんな選択肢自体、学武の中に存在しなかった。
「……え、ちょっ……マジで気づいていなかったの……?」
学武の戸惑いぶりに、女子は冷や汗をかき始める。学武はうんとうなずいた。
「……………………な、なーんちゃって!」
長い沈黙の後、女子は声色を戻して引きつった笑みを学武に見せた。
「面白い冗談だったでしょー! ははは、うふふ!」
「…………」
「……はあ」
しばらくして、女子は大きくため息をついた。女子はスマホを取り出し何か操作して、学武にこう言った。
「何が望み?」
「望みって……」
まるで学武が脅しているかのような言い草だった。
「黙っていてもらえるなら、一つだけ言うことを聞いてあげるわ」
「え、何でも?」
思わずそう聞き返してしまった。そこで女子はスマホを取り出す。
「言っておくけど、もしもエロい頼み事したら、訴えるからね」
女子がさっきいじっていたのはスマホの録音アプリだったようだ。
「い、いやそんなこと頼むわけないよ!」
変な誤解を与えてしまった。学武は慌てて首を振る。
「……その」
女子がSPRなのかどうかはいったん置いておく。それよりもまず、訊かなければならないことがあった。
「君の名前、何?」
「は?」
「いやだから君の名前」
顔は知っている。だが名字と名前が出てこない。
「……小牧よ。小牧春風」
ようやく名前が判明した。春風はぶすっとした顔で答えた。
「小牧さん、『オトラン(御伽大乱)』の持ちキャラは?」
「知ってるでしょ、桃太郎よ。『ディテバト(探偵戦線)』なら明智。『獣拳』ならネココ。あと昨日、二十連勝」
「……っ!」
間違いなさそうだった。春風は答え合わせとばかりに本人しか知らないようなことも言った。
「そっか……」
驚きはない。学武はただ嬉しかった。正直、もう二度と会えないかもと思っていたところもあったからだ。
「小牧さん」
学武は自分の本気を示すため、眼鏡を外す。そして憧れであり目標である彼女にこう言った。
「僕と……やってほしい」「――最っ低!」
なぜか大きな誤解を与えてしまった。




