勝率0
二つに一つの「賭け」は成功に終わった。
「おはよう……」
土曜日。氷香はかなりはやく目を覚ました。
「おはよう。早いんだな」
「うん、べつにまあ」
あいまいに答えて氷香は冷蔵庫から牛乳を取り出し、ラッパ飲みする。半分近く残されていた牛乳はあっという間に空になった。
「なにかあったのか?」
氷介はわざとらしくないよう、自然に聞いてみた。
「本人から直凸された」
言いよどむものかと思ったが、氷香はあっさりと暴露した。氷香は昨日の深夜、「良風」なる人物からもらったコメントのことを説明した。
「……本人とは限らないだろ?」
「ううん、絶対本人だよ。多々良先輩にちなんだ絵で、しかも『良風』っていう名前……ピンポイントすぎるもん」
たしかに、氷香の言う通り、いきなり「僕がモデルですか?」なんていうコメントをもらったら、信じてしまうのも無理はない。
「は~、なんであんなことしたんだろ……」
氷香は二本目の牛乳を飲み始めようとする。氷介は慌ててそれを止めた。
「もう、イラストは描かないのか?」
「うん、なんかもう……いいや」
氷香がどういう心境からその考えに至ったのか、分かるようで分からない。とにかく、氷香の妄執は完全に消えていた。
「べつに、気にせず描けばいいじゃないか。あれだけ上手いんだから」
「描いたところで、何かが変わるわけじゃないよ」
あれだけ今まで夢中になって描いていた者が言うセリフだとは思えなかった。
「あー、これであたしも次に進める。ようやく負けを受け入れられたよ」
さわやかな顔。澄んだ瞳だった。
「……そうか」
勝手に暴走し、勝手に冷める……好き勝手な妹だ。氷介は呆れ果てた。
「じゃっ、今日からあたしは受験生として歩みだします! 心配かけてすいませんでした!」
敬礼ポーズを取り、氷香は自分の部屋へ向かおうとする。
「氷香」
それを氷介は止めてしまった。
「なに?」
「……一つだけ、言わせてくれ」
『言うんじゃない。せっかく立ち直ったんだから』
氷介の中の理性が止めようとする。それを無視し、氷介は慰めるとか立ち直らせるとか、そういった「建前」を抜きにこう言った。
「ただ遠くから見ていて、あれこれ理由をつけて決して行動を起こさなかったお前が、『失恋した』とか、いっちょ前に落ち込むな」
氷介はじろりと氷香をにらみつけ、最後にこう言った。
「彼女たちに、失礼だ」
「じゃあ行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
日曜日。家から出ることがほとんどなかった氷香は珍しく家を出た。
氷介の説教のような言葉によって、氷香をしばっていたものは消え去った。その日、氷香は絵を描くことはせず、ずっと居間のテレビで動画配信されているアニメをずっと観ていた。そして本日、氷香は朝早くから図書館へ向かった。すべてを忘れるつもりで、受験勉強するらしい。
「よかったよかった」
おそらく、氷香の風太郎に対する妄執は消え去った。だが氷介の中の悩みが消え去ったわけではなかった。
『お前の妹ちゃん、言うほど好きだったわけじゃねえと思うぜ』
上城の言葉を思い出す。氷香の「好き」は本物だとは思う。それでもやはりどこか、氷香は「恋している自分」に酔っているところがあった。
内心、氷介も早いうちからそうじゃないかとは思っていた。それでもそれを本人に言わなかったのは、「妹を悲しませるから」という殊勝なものからではなかった。
自分に返ってくる言葉だったからだ。
「――よし」
妹にあれだけえらそうに説教をかましてしまった今、自分も変わらなければならない。
氷介はスマホからSNSのアプリを起動し、教えてもらったアドレスを開く。メール履歴はほぼゼロ。その数少ない連絡も文化祭の準備といった業務的なものだった。
「…………っし!」
氷介は思い切り画面にタッチし、そのアドレスの主に無料通話をかけた。
異様に長く感じられる待ち時間だった。一度切ってしまおう、そう思った時だった。電話が繋がってしまった。
『あ、もしもし』
久しぶりに聞いた声はまったく変わらないものだった。
「もしもし、元気?」
『うん、珍しいね。どうかした?』
そこで氷介の言葉が数秒途切れる。
そのわずかな時間、氷介は今までの記憶が走馬灯のごとくよみがえってきた。その最後に思い出したのは、「キッカケ」だった。
「史桜さん……いきなり、いや今さらこんなことを言われて、とても迷惑だと思うんだけどさ……」
すでに手遅れ。勝てる見込みは一切ない。それでも、それでも氷介は先に進むために、言った。
「ずっと――好きでした!」
かなり期間が空いてしまいましたが、ここで陸奥氷香・陸奥氷介の話は終わりです
残り二人、次は小牧春風です