代償の対価
それから一週間は何事もなかった。氷香ちゃんと学校へ行き、帰ってきては部屋にこもってイラストを描き投稿していた。
「うふふん!」
コメントがもらえるたびに元気になり、失恋する前の元気を取り戻していた。
「志望校は決めたのか?」
「うん、一応七菱……」
氷香はタブレットを見つめながら答えた。
「そうか」
以前聞いた時と同じだった。風太郎がいないので行く意味が無いとか言い出すかと思っていたので、ほっとした。成績的にも十分行けるところだろう。
「一番近いし、帰ってすぐに描けるからね」
「そ、そうか」
冷たい声だった。そこに「多々良風太郎」はなかった。
まるで、もう興味を持っていないような感じだった。
「……氷香、今日は金曜だし、たまには外食でもしないか?」
胸の奥がざわめく。嫌な予感がした。氷介は優しい声でそう言った。
「ごめん、今から描くから無理」
「描くなんて後でもできるだろ?」
「少しでも時間をかけたいの」
氷香はゆらりと立ち上がり、階段を上っていく。
「そ、そうか……その、無理するなよ?」
「うん」
空返事をする氷香。その目はただ一点だけを見つめていた。
「……」
氷介の記憶がフラッシュバックする。気づいた時には家を出ていた。
氷香は、それにすらまったく反応しなかった。
行き先も考えず、ただ歩く。一歩踏み出すごとに、薄れていた記憶が徐々によみがえってきた。
あれは小学生の時だった。陸奥家にはもうひとり、家族がいた。
近所の河川敷に捨てられていた子猫を、氷香が拾ってきたのだ。
両親は反対した。けれど氷香の泣きそうな顔、氷介の説得もあって、渋々ながらも両親は飼うことを許してくれた。
「矢吉にしよう」
どういう理由かは分からないが、氷香はそう名付けた。
矢吉を病院に連れていき、注射を打ってもらって、去勢手術も受けた。
エサもたくさん食べた。猫じゃらしでも遊んだ。一緒に寝てくれた。
だけど矢吉は、ある日突然、死んでしまった。
「元々体の弱い子だったんだ」
父は泣きじゃくる氷介を慰めた。母も泣いていた。
「…………」
だけど、氷香は全然泣いていなかった。氷香は家を飛び出した。
「いるよ、まだ」
帰ってきた時、氷香の腕の中には猫がいた。氷香はとても愛おしそうに動かない、動くはずのない猫を撫でる。
「――そうだな、まだいたな」
現実を受け入れるにはまだ早い年頃。父は氷香のその行為を受け入れた。
「矢吉、ご飯ですよ」
だけど、
「矢吉、散歩に行こう」
だが半年経っても、氷香はそれを続けた。その目はさっき見たものと、まったく同じだった。
早い話が過度な現実逃避。氷香は猫が死んだこと、風太郎が他の女子と付き合ったという「事実」と向き合わないよう、「代償行為」を取った。
けっきょく、猫の時はカウンセリングなどを半年近く受けて、ようやく立ち直った。しかしあれがきっかけなのか、氷香はひどく人付き合いを拒むようになった。
一つのことやりだすと、尋常ではないほどの集中力を見せる。だから今回も、何もしなければ氷香はただただイラストを描き続けていき、最悪進学できない状態になるかもしれない。
「余計なこと、言わなきゃよかったな……」
何気ない提案をしてしまった自分に、激しい後悔をした。落ち込んでいても、腹は減る。氷介はコンビニで菓子パンとジュースを買い、公園で食べることにした。
「どうするべきか……」
やめろと言うのは簡単だが、ただやめさせてどうにかなるような問題でもない。もっと根本的な部分から――。
「どうするべきか……」
急に、同じ言葉が公園内から聞こえてきた。その声はブランコの方からした。
「……あっ!」
目を凝らしてはっきりと見る。スマホを見ながら器用に立ち漕ぎしていたのは、氷介のよく知る人物、上城だった。