「創る者」なら誰もが持つ欲求
「どうするべきか……」
ぶくぶくと泡を立たせながら、氷介は氷香の今後についてを考えた。
来年氷香は受験を控えている。もしもこのまま休み続けてしまえば、進路に絶大なダメージを与えることになってしまう。両親が海外出張で不在の今、氷介は自分で打開策を考えなければいけなかった。
「……あっつ」
しかしいくら考えても風呂の熱さもあって良いアイディアは思いつかなかった。氷介はのぼせた状態で風呂から上がった。
「とりあえず、寝よう」
まだ早いが氷介は一度リセットすることにした。
「あ、お兄……」
珍しい時間帯に、氷香は部屋から出てきていた。
「風呂? それともご飯?」
「……お風呂、疲れた」
だらんと力の抜けた歩き方で、氷香は風呂場ヘ向かう。こうして返事をしてくれるあたりは、最初に比べればだいぶ立ち直ったかのように見える。
「もう少しかもな」
自分が何もしなくても時間が解決してくれるかもしれない。氷介は安心して眠りにつくことにした。
「……あれ?」
二階に上がると、氷香の部屋のドアが大きく開かれていた。部屋は薄暗く、奥のテーブルに置かれたノートパソコンだけが光を発していた。
「せめて電気はつけろって……ん?」
パソコン画面をよく見ると、そこにはイラストらしきものが映っていた。
「……上手いな。でもこれって――」
「ぎゃ、ぎゃああああっ!」
体全体を伝う、激しい叫びだった。
「あ、氷香……あっ! これはその……」
振り返るとそこには下着姿の妹が立っていた。だが氷香、そんなことなどまったく気にせず、ものすごい勢いで氷介に迫ってきた。
「な、なんで勝手に入ってんのよ馬鹿兄っ!」
「ご、ごめん……!」
「あーもうっ! 早く出てってよ!」
氷香は氷介の背中に回り、タックルで外に出そうとする。
「わ、分かった分かった! ……ちなみにさっきの絵ってもしかして――」
「ああああっ!」
押しがさらに強くなる。氷香の叫びに遮られ、氷介は部屋を追い出された。
「やっちゃったな……」
せっかく立ち直りかけていたのに、不用意な行動のせいで台無しになってしまった。
「……でもあれって……ううーん?」
後悔とともに疑問が生まれる。あの調子だともう見せてはくれないだろうが、もしかしたら――。
「お兄、まだいる……?」
ドア越しから弱々しい声がした。
「あ、うんいるけど。ごめん、勝手に入って」
「こっちもごめん怒鳴って……。でも、これだけは言わせて」
そこで一端言葉を止め、氷香はすうっと息を吸い込み、氷介の疑問を解決させる言葉を口にした。
「わたし……もうけっこうそれなり、ううんだいぶ……吹っ切れているから」
「ど、どういうことだ?」
氷介は耳を疑った。
「ちょっと恥ずかしいけど……これなんだ」
氷香は後ろに隠していたノートパソコンを見せる。そこには先ほどの絵があった。
写実的ではない、漫画の絵。少女漫画に出てくるような美形の男がボールをがっしりと掴む瞬間が描かれていた。
「……上手だな」
絵のことはよく分からない。ただこの絵には迫力があった。
「――ああ、このキャラクターが好きになったってことか。なんていうキャラなんだ?」
「……先輩」
「え?」
「これは、多々良先輩。あたしが……描いたの」
欲求が満たされない時、それを和らげるための働きの一つである「代償」。氷香は「絵を描く」という行為によって、それを実践していた。
氷香がイラストを描き始めたと告白したあと、氷介は内心「強がりなんじゃないか?」と思った。それだけで失恋から立ち直れるなんて思っていなかったからだ。
「久しぶりに、学校行ってみるよ」
しかし次に氷香の口から出た言葉で、氷介は信じてみることにした。その宣言通り、氷香は翌日学校へ向かい、早退もせずに帰ってきた。
さすがに精神的に疲れただろうと思ったが、氷香はすぐに自室にこもった。氷介はドアの隙間からそおっとのぞくと、氷香は薄暗い部屋の中で、パソコン画面とにらみ合いながら、ペンタブレットを用いて絵を描いていた。
「ふんふーんふふふんふーん!」
鼻歌をうたいながら、氷香はものすごい勢いでペンを動かしていく。氷介は邪魔しては悪いと思い、そっとドアを閉めた。氷香が一階に降りてご飯を食べたのは、日が変わる直前だった。
学校に行き、帰ってきては絵を描く。そんなサイクルが一週間は続いた。
「そんなに描くの、楽しいのか?」
「うん。描いてると、全部忘れられそう」
氷香はニヤッと笑った。氷香はチラシの裏にも描いていた。
「そうか……」
ちゃんと学校に行っている。電話も来ないし、授業はしっかり聞いているのだろう。
「それ、イラストサイトに投稿してみたらどうだ?」
ちょっとした思いつきだった。それを聞いた氷香は目が点になった。
「べつに……誰かに見せるためじゃないし……」
「でも、俺には見せただろ?」
「それは……」
「せっかく描いたんだし、いろんな人に見てもらった方がいいんじゃないか? 兄のひいき目抜きにしても、かなり上手だぞ」
「……うん、うーん……」
悩みに悩みまくる氷香。その日の深夜だった。
「お、お兄……み、見ててね……!」
氷香は氷介を無理やり起こし、イラストを投稿する瞬間を見て欲しいと頼んできた。
「い、いくよ……!」
氷香は意を決してイラストを投稿した。
少ないながらも応援コメントを貰えれば、氷香はさらに元気になるだろう。氷介はおめでとうと拍手を送り、眠りについた。
「……やった」
その思いは間違いではなかった。想像以上だった。
翌日、氷香は慌てながら氷介を起こした。
「めっちゃ見られてた……!」
嬉しさ半分、戸惑い半分といった具合に、氷香は投稿したイラストの閲覧数を見せる。五百は超えていた。
「……すごい」
他の投稿者がどんなものかは分からない。だが深夜に、しかも初投稿したイラストが、たった数時間の間にこんなにも閲覧されるなんていうのは中々ないんじゃないだろうか。氷介の眠気は一気に覚めた。
「やったな!」
素直に嬉しかった。氷介は今度は本心から拍手を送った。
「うん……い、いひひ……いひひ……!」
奇妙な笑い声を上げ、体を震わせる。
とにかく、これで元通りだ。氷介は胸をなでおろした。
そう、信じたかった。