上げて、下がり、踏み出し、そして……
兄のひいき目を抜きにしても、陸奥氷香はかわいい女の子だ。
氷介が中学三年の時、新入生として入学してきた氷香は、その容姿から、一年だけではなく二年三年にも、すぐにその名が知れ渡った。
だから氷香は何度も告白されたらしい。告白は兄である氷介を介して行われることもあった。
「――ごめんなさい」
そして氷香はその告白をすべて断った。
理想が高いとかではない。告白してきた者の中には、モデル顔負けの男子もいれば、スポーツ万能、さらには勉強もできる男子もいた。
「ビビッと来ないからかなあ」
断る理由を尋ねると、氷香はそう言った。だが、氷香はそもそもあまり人付き合いが得意ではなく、どちらかというと自室で一人で漫画を読んだりするのが好きなタイプだったのが原因だろう。
早い話がコミュ障でオタクだった。
次第にそのことがみんなにも伝わっていき、氷香には彼氏どころか友達もできないでいた。
このままでは心配だ。氷介は自分が卒業するまでに、氷香のコミュ障を変えてみようとした。
「は? お兄には関係ないでしょ。それにあたし、二次には彼氏たくさんいるし」
だが兄とはいえ、人の性格をそんな簡単に変えることはできない。氷香はゲームや漫画のキャラの名前を出しては、いつもそうやって誤魔化した。
本人にその気が無いのなら仕方ない。中学卒業間近になった頃には、氷介はすっかりとあきらめていた。
「お、お兄……ちゃん。ちょーっと訊きたいことがあるんだけど……!」
けれどそれは意外なことに、本人の口から破られた。氷香は体全体を左右に揺らしながら、両親に小遣いをせびる時のような猫なで声で、氷介にこう訊いた。
「多々良先輩って……知ってる?」
氷香がビビっと来た相手、それが多々良風太郎であった。
氷香が多々良風太郎に恋をしたキッカケはいわゆる「一目惚れ」だった。
「漫画買いに本屋に行ったの。そこでさ、急に先輩に話しかけられたの。先輩、勉強の本を探していたみたいで、一緒に探すことになって、けっきょく先輩が買ったのはなぜかあたしのオススメの漫画で……それで、それで……好きになったの!」
恥ずかしげもなく、氷香は多々良風太郎に恋した経緯を、顔を火照らせながら説明していった。
「ふうん、そうなのか」
その時の氷介はそのくらいにしか思わなかった。
「というわけでお兄。……先輩って彼女いるの!?」
そして説明の終わりに、急に氷香は眼を煌めかせ尋ねてきた。
「ごめん、知らない」
率直に簡潔に氷介は答えた。一気に氷香の眼から輝きが失い始めた。
「……ちっ」
「そんな舌打ちされても……俺、多々良くんとはクラスは同じでも、そんなに親しくないし」
「バレンタインのチョコの数で競い合う仲でしょ? ライバルでしょ?」
「違う違う。でも、彼女はいないと思うよ。そういう噂も素振りも無いし」
誰かと誰かが付き合っているなんていう情報は、今の情報社会ではあっという間に伝わる。当時の風太郎にそれは一切なかった。
「ってことは……チャンスはあるわよね……!」
ひとまず安心したのか、氷香はほっと息をつく。
「――あ、うん頑張れよ」
長年兄妹をやっていると、嫌でも分かってしまうことがある。氷介はそそくさと部屋から出ようとする。それを氷香は手を掴み止めた。
「お・に・い?」
気味の悪いほどに笑みを浮かべる氷香。
「あたしの恋、手伝って!」
嫌な予感は当たった。この日から氷介は、氷香の恋路を応援することになってしまった。
それから氷香は氷介を通して、何度も風太郎にアタックをかけた…………ということはなかった。
一切、なかった。
「受験の邪魔をしたくなかったから」
氷香はそう言って、翌年の四月から行動を開始した。
「ま、まずは情報収集から始めないとね! お兄、よろしく!」
偶然にも同じ高校に通うことになった氷介に、氷香は頼んだ。氷介は妹のためにと、様々な情報を提供した。
「なるほど、部活はサッカー部で、好物はラーメンなんだ」
メモ帳にそれらの情報をまとめる氷香。
だが、それだけだった。氷香は一貫して、「見」に回った。
たしかに中学二年と高校一年。中々出会える機会はないのは仕方ない。
それでもやろうと思えば、いくらでも出会えるチャンスはあった。
にも関わらず、氷香はその「一歩」を中々踏み出せず、遠くから風太郎を眺めることばかりだった。
おそらく氷介に協力を要請した時が一番テンションが高かったのだろう。
「お前さ、そろそろ動き始めるべきじゃないか?」
これまで風太郎の「情報」のみを与え続けてきただけの氷介であったが、あまりに動かない氷香に、それとなく行動するよう促した。
「……う、うん……そうだよね……うん、そうだ……」
氷香も思うところがあったのだろう。氷香はようやく覚悟を決めた。
「じゃ、じゃあ明日……まずはあいさつしてみる」
一歩どころか半歩くらいの歩み。それでも氷香にとっては大いなる一歩だった。
だけど、氷香がその一歩を踏み出した時には、すでに他の「ライバル」たちは百歩は先に向かっていた。
そして氷香が二歩目を踏み出そうとした時には、その内の一人は「ゴール」にたどり着いていた――。