終わりあれば始まりあり
カキンッ。
気持ちのいい音が先ほどから何度も聞こえる。
「きゃー! いけいけー! 走れ走れー!」
その度に甲高い応援の声が上がる。誰もがその声に注目していた。
「やった! ねえ見た見た? もう四点差だよ!」
ぐらぐらと肩を揺すられる。そこでようやく祐介は英単語帳から顔を上げた。
「すまん、もう少し落ち着いてくれ」
「あっ、ごめん……」
異常に興奮していた声の主、八重子は祐介の言葉にようやく冷静さを取り戻した。そこでスリーアウトチェンジになった。相手チームに覇気はない。このままいけば勝てるだろう。
「ありがとう」
再び英単語帳を見始めようとした祐介に、八重子はぼそりとお礼を言った。
「気にするな。俺も行こうかなと思っていたから」
嘘である。本当はずっと眠っていたかった。だが結果的に祐介は、モーニングコールで起こされ、八重子と野球部の試合を観に来てしまった。
「それだけじゃなくて、昨日のことだよ」
その理由は「答え合わせ」のためだった。八重子はそわそわしながら祐介からの説明を待った。
「……まず最初に言っておくが、昨日のアレはお前のため……だけじゃなく、俺自身のためにもやったことだ」
変な誤解はさせてはいけない。祐介は前もってそう言った。そして説明を始めた。
「順を追って説明すると、お前が毎週火曜と木曜日に、部室を掃除してくれていることは、一年前から知っていた」
「え!? な、なんで……?」
「簡単な話、お前の姿を見たからだ」
祐介は一年前、部室に忘れたスマホを取りに行った時のことを思い出す。たしか火曜だった、みんな帰ったはずの部室から光が灯っていた。中を覗くと、八重子が雑巾がけをしている姿が目に入った。
「と、ということは、そのことをみんなに教えたの?」
「いや、教えたのは昨日が初めてだ。気づいた奴らのほとんどは同学年、お前のマネージャー時代を知っている奴らだよ」
「……そう、だったんだ」
「言っとくが誰も怒っていないからな? ただ今まで黙っていたのは、お前が内緒でやっている行為に水を差すような真似をしたくなかったからだ。」
こっそりやっているのは、野球部に対して申し訳ない気持ちから。なら感謝を伝えることは逆効果、気負わせてしまう。だから祐介も他の部員も黙っていた。
「木南が気づかなかったのは、ほとんどお前と入れ違いって感じで入部したからだろうな。本人も悪気はないんだよ」
「うん、それは分かっているよ。キナちゃん、いい子だもん!」
どうやら二人の溝は完全に消え去ったようだ。祐介はほっとした。
「えっと、じゃあ何で今になって、その……教えたの?」
「その前に確認なんだが……飯原、お前ってあの日よりも前に、分かっていたのか?」
「え、何を?」
「自分が失恋したってこと」
「ぶふっ!」
思わぬ言葉に、八重子は吹き出した。
「な、ななななんでそれを……?」
「やはりか。タケとか言う男子に聞いたんだが、お前と多々良風太郎は幼なじみで、色々と世話していたらしいな」
「う、うん……よく知っているね……」
「つまり、多々良風太郎の家に行って、料理を作って一緒に食べるくらいの仲ってことだよな」
「そうだね……」
「そんな何でも世話してくれるお前に、多々良風太郎が何も言わないはずがない。だから少なくとも数日前には、そのことを教えていないのはおかしいんじゃないかって思ったんだよ」
もしも教えていないのだとしたら、多々良風太郎という人物は言っちゃ悪いが「良い奴」ではない。あまりにも残酷すぎる。だがそれは無いと、祐介は信じていた。
「……そうだよ。私はもう知っていたんだ、風ちゃんがフミちゃんのことを好きなことは……」
遠い目をしてその時のことを思い出す八重子。その顔は笑っていた。
「お前は『あの終業式』以前に、多々良風太郎と結ばれないと知っていた。悲しい、つらい気持ちでいっぱいだったはずだ。……なのにお前は、あの日応援に来てくれた」
あの日、山田は八重子が休んだと言った。あの時見た人影は見間違えではなかった。今ならはっきりと言える。あの応援のおかげで、祐介は最後まで投げられたのだと。
「そのこと知ったらよ、ずっと黙っておこうなんて気持ち、どっかにいっちまったよ」
そうと決まれば祐介の行動は早かった。
祐介は翌日、朝一番に野球部部室前に到着し、みんなに八重子の「手伝い」について教えた。
一番驚いていたのは木南だった。
「――伝えましょうっ!」
木南はわなわなと体を震わせ涙目で叫んだ。木南に釣られてキャプテンの相模が音頭を取る。あとは人海戦術、野球部一同は校長に頭を下げ、採集下校時間後に、体育館を使わせてほしいと懇願した。
その尋常ならざる雰囲気に飲まれた校長は理由は聞かず、ほんの少しならと許可をくれた。
部員たちは体育館を使用する部活動すべてを回り、気持ち早めに終わって体育館を出て欲しいと頼んだ。中には不満げな部活もあったが、ついには根が折れて、了承してくれた。
そして最終下校時刻、祐介は八重子が学校を出たという情報を知り、慌てて追いかけ、強引に体育館に連れて行った――。
「とまあ、だいたいはこんな感じだ」
大まかに祐介は説明を終えた。いつの間にか再び七菱高校野球部の攻撃に代わっていた。
「そうだったんだ……なんか、ごめん。色々迷惑かけちゃったみたいで」
「謝らなくていい」
「――そうだよね。ありがとう」
何度目になるか分からない感謝の言葉。だがその言葉はいくら聞いても飽きることのない、魔法の言葉だった。
「あの、私のためにってことは分かったんだけど……なんで体育館だったの? グラウンドだったら、簡単だったんじゃ……」
「……木南は多分、『上書き』しようとしたんじゃないか」
「上書き?」
「体育館で多々良風太郎が告白したという事実に対してだよ。今後、何らかなの形でその動画が回ってきても、ショックを受けないよう楽しい記憶に変えようとしたんじゃないか」
「だったらそれは大成功だよ! 私、一生忘れられないくらい、嬉しかったもん!」
八重子は目を輝かせながら祐介にスマホ画面を見せる。祐介が膝をつき倒れ込んだ後、八重子は野球部員たちと写真を撮った。なぜか祐介も八重子とともに真ん中に立たされ撮ったものだ。みんな、いい笑顔だった。
「……失恋の方は、大丈夫なのか?」
祐介は恐る恐る訊いてみた。
「うん。それについてはもう五月頃には決着がついてるよ」
「は!? そんなに早くに?」
「風ちゃんの口から聞いたのは、それこそ前の日だったけど、もう風ちゃんの心が他の娘に行っているのは分かっていたからね」
「いやだってお前、最近ずっと元気なかっただろ?」
祐介はずっと眠ってばかりいた八重子のことを思い出す。
「そりゃそうだよ~。受験勉強しなきゃいけないのは憂鬱だし、さらには野球部が甲子園に行けなくて悔しかったんだもん」
「マジかよ……」
失恋だと思っていたが、八重子はまったく違うことで元気がなかったらしい。祐介はぽかんと馬鹿みたいに口を開けた。
「あ、でも失恋したのも本当に悲しかったよ? でも振られて気づいたんだけど、私にとって風ちゃんは手間のかかる弟で、風ちゃんにとっての私も姉だったんだよ。だから、それでいいやって思ったんだ」
「そうか……」
勝手に独り相撲を取っていた気持ちになった。祐介は昨日よりもさらに全身から力が抜けた。
まあいい。これで本当の本当にすべてが終わった。この試合はコールド勝ちするから早く帰れるだろう。祐介は試合を観ながらも、頭は勉強モードに切り替え、一週間分のスケジュールを立て始めた。
「あの、最初に言っていた俺自身のためって?」
八重子が祐介の最初の言葉について質問する。
「ああ……、それはお前にはずっと笑っていてもらったほうが、嬉しいからだ」
ほとんど無意識に祐介は答えた。
「……あ、あはは……あ、ありがと……!」
八重子頬が赤くなり、胸の奥がドクンと大きく鳴らしたことに、祐介はまったく気づいていなかった。
というわけで、八重子編終了です
書いている内にプロット通りには進まず、思っていたよりも長くなりそうです
残りは三人……その前に次は再び幕間です