かなり遅く、少し早いサプライズ
久しぶりの五キロのランニングとその後すぐの素振り百回は、体にこたえた。涼しい季節だが、全身から汗があふれ出した。
その汗をシャワーで洗い落とす。浴室から上がり、冷蔵庫に入っていた父親のノンアルコールビールを一気に飲み干したところで、何もかも忘れられるくらい気持ちのいい状態を迎えられる――はずだった。
「……」
自分の部屋の窓から空を眺める。きれいな満月だった。風も気持ちよかった。それでも祐介は全然すっきりできていなかった。
「ちっ……!」
ノンアルコールビールだが、酔っ払ったような気分になる。祐介の脳裏に八重子の顔が浮かんだ。
『ごめんね……』
八重子はたった一言、寂しそうに言ってすぐにその場を離れた。
なぜあのタイミングで八重子が来たのか不思議だった。だがそれよりも自分と木南の「会話」が、八重子を傷つけてしまったことに後悔した。
「違うんだよ飯原」
祐介は八重子のことを恨んでなんかいなかった。それは祐介だけじゃない、おそらく部員たちのほとんどもそう思っているはずだ。
『感謝は結果で返そう』
それに気づいた者たちは、口には出さないが誰もが同じことを思ったことだろう。
だから祐介たちは努力した、甲子園に行きたかった。行って伝えたかった……。
しかし、それは叶わなかった。完全にタイミングを逃し、ただ大きな溝を広げてしまった。
二つの夢が潰えたのは、ちょうど同じ日。終業式――
「…………ん?」
そこで祐介はふと違和感を覚えた。
『その日の終業式に、この学校の美少女たちが、一斉に失恋したんだよ』
山田は確かにそう言っていた。それはあの日、その場に全員いたからという意味なのだろうと祐介は思っていた。。
「……本当にそうか?」
多々良風太郎と飯原八重子の関係。
あの日聞いた幻聴。
二つの事柄から一つの予想が生まれる。祐介はすぐにスマホでアドレス登録されているクラスメイトに、男女関係なく電話していく。
「ごめん、覚えていない」
「うーん」
「どうだったかな……?」
もう二ヶ月以上前のことだ。覚えていなくても仕方ない。
「ああ、そうだぜ」
一人、山田がはっきりとそう言った。
「間違いないんだな?」
「おう。ってか何でお前らが知らなかったんだ?」
謎が解けた。
カッコつけたようなことばかり言っていた祐介は、ようやく自分の気持ちに素直になった。
受験勉強は後回しだ。祐介はすべてを終わらせるために走り出した。
「飯原」
「え、な、なに……?」
金曜日の放課後。今日の晩ごはん何を作ろうかと悩んでいた八重子に、何者かがものすごいスピードで回り込んできた。
「ど、どうしたの相原くん……?」
汗だらけの顔、しわだらけのシャツ、ガクガクと震える足。ただ事ではなさそうだった。
「なんとか、間に合ったな……」
祐介はほっとしながら息を整える。八重子はかばんからハンカチを取り出し、祐介の顔の汗を拭っていく。
「ダメだよ制服で全力疾走なんてしちゃ。大怪我するよ?」
「悪いがついてきてくれ」
祐介は八重子の忠告を聞かずに、八重子の手を握りしめる。
「え、ちょっ……!」
有無を言わせず、祐介は八重子の手を掴んで元来た道、学校へと戻る。八重子は最初びっくりしたが、祐介の「熱」が伝わったのか、黙って祐介のあとをついていく。
「――野球部」
校内に入り、なぜか体育館の方へ向かっていく。祐介は入口前で止まり、ようやく口を開いた。
やはりそのことか……八重子は驚きはしなかった。
「うん。まだキナちゃんみたいに、私のことを許せないって人はいっぱいいるんだよね。今すぐには無理だけど、卒業までにはちゃんと、謝るよ」
「むしろ、謝るのは俺たちの方だ」
「え……?」
祐介は八重子に振り向く。そして深々と頭を下げた。
「ごめん……」
「な、なんで相原くんが謝るの!? 何もしてないじゃない!」
祐介のこんな姿を見るのは初めてだった八重子は、あたふたと困惑しだす。
「ああ、何もしていない、何もできなかった……甲子園に行けなかったからだ」
仕方ない、運が悪かった……祐介はそう割り切っていた。だから涙も流さなかったし、悔しさもなかった。だが今は違った。
「う、うん。悔しいのは分かるよ。私だって残念だなって思ったし……。で、でもさ! 私に謝るのは違うよ。私はその……逃げ出したんだから」
「まだそんなこと言っているのかよ」
「え?」
「もうみんな、知っているよ」
祐介は体育館のドアを開けた。もう下校時間、誰も残っていないはず。
「…………えっ!?」
両手で口を抑える。壇上に何人もの人が立っていた。野球部のユニフォームを着た、野球部員たちだった。
「いったい、どういう……」
「飯原八重子さん!」
ずらりと並んだ野球部員たちの中から、一人前に出る。相模だった。
「…………………………毎週火曜日と木曜日」
長い、長い沈黙のあと、相模はそう切り出した。
「部室の掃除、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
声が体育館に響き渡る。
「おにぎり、とても美味しかったです!」
「美味かったです!」
「一瞬でも疑って、すいませんでした!」
「すいませんでした!」
相模に続いて部員たちが復唱していく。
「えっと……その……」
「飯原先輩」
頭の中が真っ白となる八重子に、さらに衝撃が襲う。木南が目の前までやって来ていた。
「キナちゃん……」
「先輩……三年間、お疲れ様でした」
後ろに隠していた花束を飯原に手渡す。木南の柔和な表情と声にはもう、敬愛の感情しかなかった。
「…………みんな、本当にありがとう」
どういう経緯かは分からない。八重子は涙を浮かべながら、ただただ感謝した。
「今度こそ甲子園に行きます! だからぜひとも明日の試合、堂々と観に来てください!」
「来てくださいっ!」
「――うん! 絶対に行くよ!」
もう隠れる必要はない。八重子の野球部に対する負い目は完全になくなっていた。八重子は心からの笑顔をみんなに向けた。
「あーつかれた…………!」
――これでやっと勉強に集中できる。緊張の糸がぷつりと切れる。
祐介はばたんとその場に仰向けになった。
試合で勝ったよりも、とても清々しい気分だった。
次で八重子編は終わりです。