希儚ノ歌
希儚ノ歌
「いらっしゃいませー」
「ありがとうございましたー」
こぢんまりとしたカフェの店内にわたしの声とドアチャイムが響く。オーナーである父親の意向で、イマドキのカフェにしては珍しく音楽はかけていない。海辺にあるのだから波の音で十分だ、と言い張ったのだ。実際、あまり荒れることのないこの町の波の音は、聞いているだけで落ち着く。だからなのか、本やらパソコンやらを持ち込んで何時間も粘る常連さんも多い。まあ、たいていそういう人はコーヒーだけじゃないからいいのだけれど。
「茉奈、なんかあった?」
お客さんが一段落したとき、空いた席に腰かけあの心地いい波音に聞き入っていたわたしに、カウンター越しに母親が声をかけた。
「……え、なんで」
「なんかぼーっとしてるから。もう上がってもいいよ」
言う通り、わたしの頭のなかはいろいろな考えがぐるぐると渦巻いていた。お気に入りのエプロンを外しながら、母親の横をすり抜け階段をあがり自分の部屋へ向かう。ドアを開けて一番に目に入るギターケース。これが最近のわたしの悩みの種でもある。
始まりは二ヶ月前。学校帰り、いつもの駅の改札を抜けたときだった。普段であれば駅前の小さな広場で子供たちが遊ぶ声が響くのに、その日は違った。ベンチの前にできていた小さな人だかり。別に急いでいたわけでもないし、興味本位でその人の集まりに近づく。すると、綺麗な歌声が聞こえてきた。
どうにか背伸びをして人の頭の間から覗いてみると、ベンチに腰掛けた若い女の人が、ギターを弾きながら歌っていた。細い身体から出ているとは思えない力強い声。心にすっと入ってくる歌詞。なにより心から楽しそうに歌うその人の笑顔に、わたしは引き込まれていた。
周りの人の小さな拍手で我に返る。だいぶ聞き入っていたようだった。あれから二、三曲歌い、私の後ろにも人がいた。歌っていた女の人がギターを片付け始めると聴衆も一人、また一人と離れていく。立ち上がり帰ろうとしたその人に、思わず声をかけていた。
「あの、すごく感動しました」
「ありがとう、そう言ってもらえると本当に嬉しい」
たったそれだけ言葉を交わしただけなのに、その人の後ろ姿を見送りながら、歌っていた時と同じような綺麗な笑顔にわたしも笑顔になっていたことに気づく。ただ一人、ぽつんと動けなくなったわたし。
――わたしも歌いたい
あの人のように聴いた人が笑顔になるような、幸せな気持ちになるような音楽を奏でたい。その思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。中学生の時にお父さんが持っていたギターを貰った。その時はずっと弾いていたけれど、最近は部屋の隅に追いやったままだ。そろそろカフェのお客さんも一段落する時間。わたしは、駅からそう遠くない家へ全力で駆け出していた。
あの日から毎日夢中になってギターの練習をしている。慣れない指はすぐに痛くなったりしてなかなか辛いけれど、それでも自分で鳴らせる音が増えていく感覚の方が楽しくて、すっかり虜になっていた。そして、簡単な曲なら弾き語りができるようになった頃。
――シンガーソングライターになりたい
それは、今まではっきりとした将来の夢や明確な目標を持つことがなかったわたしにとって、初めて自分で志したものだった。叶えたい、叶えてやる。そう心から思ったのも、もちろん初めてだった。
高校二年の夏休み、学校でも進路の話を聞くことが増えて、まわりの友達も勉強に熱が入り始める。模試を受けて、志望校の過去問を解いて、なんて子もいる。それに比べてわたしはどうだろう。イマイチはっきりとなりたいもの、やりたいことも見つからなくて、勉強する気にもなれなくて、まわりの友達と差は開いていくばかり。
でも今は違う。わたしにもなりたいもの、やりたいことができた。せっかく見つけた目標をこのままで終わらせたくなかった。どうしてもこの夢を叶えたい、その思いは日に日に、ギターを弾く度に強くなる。
ただ、両親はどう思っているのだろう。
『カフェは好きでやりたくて始めたから、茉奈も好きなことをやりなさい』
シンガーソングライターになりたい、という意思を伝えたとき、両親はそう言って、応援するとも言ってくれた。だからこそ頑張りたかった。
勉強机の上に置かれた何枚ものオーディションや大会のチラシ。すべて受けたものだった。その中で合格したり、賞をとったものはひとつもなかった。嫌でも、"わたしには才能はないんじゃないか"そう考えることが多くなる。わたしより歌が上手な人も、素敵な歌詞を書く人も山ほどいる。
そして、二週間前。このままの状況が嫌で、自分を追い込むためにも、と勢いで両親にこんな宣言をしてしまった。
『次のオーディションでなんにもなかったらこの夢は諦める』
ギターを始めてまだ間もないからとか、音楽なんて聴く人によるんだからって、両親は止めてくれた。それでも、言い出したら聞かない頑固なわたしに二人が折れた。後悔していないわけではないし、その優しい言葉に甘えたかった。でもそれ以上に、自分が勝手に描いた夢物語に縋っているような今の状況が嫌だったのだ。そのオーディションまで、ちょうどあと1週間。
チラシの横にある進路希望調査。夏休み明けに提出だった。さっさとそんな現実味のない夢なんて捨てて、無難に大学に進学した方がいい。薄っぺらい無機質な紙にそう言われた気がして思わず目を背ける。目の前のギターケースを掴んで部屋を飛び出した。
「どこ行くの?」
「そこ!」
閉店したカフェで後片付けをしていた母親の問いかけに答えになっていないような答えを返し、砂浜にぽつんとあるベンチへ腰掛けた。なんでこんなところにあるのかはわからない。でもわたしは潮風を浴び続け色褪せたこのベンチが大好きだった。友達と喧嘩したとき、なにか考えことをしたいとき、家に居たくないとき、決まってやってくるのはこのベンチ。あまり人も通らないし、親もここだってきっとわかっているから、ひたすらに歌いたいときにはうってつけの場所。
大好きな歌を海に向かって一人で歌っていたときだった。
「茉奈ちゃん?」
「将人さん!」
不意に後ろから声をかけられた。振り返るとカフェの常連の大沢将人さん。地元の大学に通っていて、カフェでテスト勉強やレポートを書いたりしている。何度か話すうちに名前も覚えてくれて、たまに雑談もするようになった。そして、わたしの好きな人でもあったりする。
「茉奈ちゃんがこんなに歌もギターも上手なんて知らなかった」
隣、いい?と聞かれれば断るわけもなく、端によってスペースを作る。二人きりで話すことも、まして隣に座るなんてことも初めてだった。自然と鼓動が早くなる。
二人でベンチに座って、だんだんと暗く、空と同じ色に染まる海を眺めながらいろいろな話をした。話すといってもわたしは緊張して、将人さんの話を聞くだけだったけれど。それでも将人さんの大学やサークルの話を聞くのは楽しかった。
「将人さんは、将来何になるんですか?」
ふと会話が途切れ、波の音に耳をすませていたときにそう問いかけてみた。驚いたように一度こっちを見て、聞かない方がよかったかな、なんて焦ったけれどすぐに照れたように笑って話してくれた。
「俺はね、医者になりたいんだ」
開業医のお父様の病院を継ぐために勉強している。そう話す将人さんはしっかりと将来を見据えていて、その目にははっきりした意志があった。かっこいい。純粋にそう思った。
「茉奈ちゃんは?あるの、将来の夢」
真っ直ぐな瞳でそう尋ねられ、嘘をつくこともできずに頷いたわたしは、堰を切ったように今までのことを話しはじめた。シンガーソングライターを目指したいこと、でも思うようにいかないこと、夢の期限が来週であること、すべて。
将人さんはわたしの夢の話しを馬鹿にしないで、真面目に聞いてくれた。そして。
「これ、貸してあげる」
何かを手首から外して渡してくれた。綺麗なピンク色の、小さな貝が連なったブレスレット。それをぼんやりと空に浮かぶ月にかざしてみる。薄いピンク色が儚げに光を浴びてきらめいた。その幻想的な色に見惚れているわたしの横で将人さんが優しい笑顔でつづける。
「ここの砂浜で拾った桜貝で作ったブレスレット。ばあちゃんが作ってくれたんだ」
「そんな大事なもの……」
「お守り代わりにつけていって。俺は、茉奈ちゃんにその夢を叶えて欲しい。ここで終わりにしないで欲しい」
それ、めっちゃ効くよ、なんて笑う将人さんにつられてわたしも思わず笑った。笑顔でありがとうございます、そう言えた。どこか自暴自棄になっていたわたしの心に、あの日と同じようなやる気が生まれていた。
あれから1週間。それまでのどこか迷っていた気持ちが嘘のようだった。寝る時間も削って必死に新しい曲を作り、歌い込んだ。将人さんにもいつか聞いて欲しいな、そんなことを考えながら。
「七十六番、逢澤茉奈です。よろしくお願いします」
多くの人がひしめき合う会場に、マイクを通してわたしの声が響いた。一気に静まり返る。 左手首につけた桜貝のブレスレットを一度握り、目を閉じて深呼吸をする。不思議と心が落ち着くのがわかった。
ギターを抱え、大好きな音色を響かせる。会場にいるすべての人がわたしに注目していた。
明るいコード、自分の思いを並べた歌詞、それをたくさんの人が聞いてくれている。
楽しい
今のこの感情を表すにはその一言だけで十分だった。あっという間にラストの大サビを迎える。
――言いたいことがあるなら言えばいい
――我慢なんてすることないから
――大きな声で叫べばいい
歌に、音楽に対するこの思いが、誰よりもわたしのことをわかってくれた両親への思いが、最後に背中を押してくれた将人さんへのこの思いが、届きますように。
「大好きだって」
それだけを考えて、最後のフレーズを歌い上げた。
Fin.
2015年8月 執筆