Café Altair(カフェ・アルタイル)
「宇宙大規模構造…って知ってる?」
閉店間際、洗い終わった食器を拭きながら、店主である三ツ谷は突然そんなことを言った。店内には、若い女性客が1人。カウンター席で、ぼんやりとメニューを見つめている。
「は?大規模構造?」
そう答えた彼女は、化粧っけもなく、顔色が悪い。目の下にはクマがあり、席に着いてからずっと、ため息を繰り返していた。
「『この宇宙はどんな形をしているのか』っていう研究分野のことだよ。君は、宇宙ってどんな形だと思う?」
何故自分がそんな質問をされたのか、彼女はまったく飲み込めない。少し考えて、次のように呟いた。
「真っ暗で…星がたくさんあって…無重力で…?」
その答えに、三ツ谷はふんふんと頷く。
「残念だけど、少し違う。それは、日本はどんな形ですか?という質問に、山が多くて、海に囲まれている…と答えるようなものだ。質問者は、あくまでも形状を知りたい。」
「…あ、そっか…。」
この店の名前は、Café Altair。
都心に位置しているが、店主はあえて人の少ない路地裏で営業している。そのせいか、時折こうして心の疲れた者がふらっと立ち寄ることが多い。三ツ谷はかなりの年数をこのカフェで過ごしながら、そんな者たちにコーヒーを出し続けている。
「ではもう一つ、質問。この地球は太陽系にあるけど、その太陽系は、何の一部だと思う?」
またもや、女性は首をかしげた。
「太陽系は太陽系じゃないの?」
三ツ谷は静かにほほ笑んだ。
「正解は、『天の川銀河』。太陽系は、何百億という星で出来た渦の、一部にすぎない。ちなみに、銀河は銀河同士で集まりあって、さらに大きな集団…銀河団と呼ばれるものを形成しているんだ。」
ふうん、といったような表情で、女性は三ツ谷を見つめた。この話がどこへ向かうのか、多少は興味がある。
「もっと言うとね、その『銀河団』もまた、『銀河団同士』で集合体を作っている。そしてその集合体はね、ドームのような形をしている。では、そのドームの中には、何があるのか…?」
三ツ谷はそう話しながら、設置してある機械にミルで挽いた豆をセットした。その豆は、このメニューに最も合うものとして、彼が長年かけて探しだしたもの。
「答えは、無。つまり、ドームの中には何もない。」
そう言いながら、カップとソーサーを取り出し、機械の抽出口にセット。
「無空間を覆う、巨大なドーム…。そんなものが、縦横無尽にびっしりと並んでいる。それがどうやら、我々が住む宇宙の構造らしいんだね。ねえ、それって何かに似てないかな?」
かちり、と軽い音がして、機械のボタンがオンになる。やがて芳しい香りが立ち込め、黒い液体がカップに注がれた。店主はそれを持ち上げると女性に背を向け、コーヒーの表面に何かを行っている。
「はい、どうぞ。」
やがて、その言葉とともに、入れたてのエスプレッソが女性の前に差し出された。ふわりとした真っ白な泡には、きらめく星や土星が描かれていた。
「僕のおごり。」
彼女はその言葉に戸惑いつつ、すみません…とお礼を言う。絵を壊さないよう、スプーンで泡をそっとすくった。
「『泡構造』。さっき話した宇宙の構造は、例えるなら泡に近いよね?だからそう呼ばれているんだ。そんな途方もなく大きい泡、誰がどうやって作ったのか…いつ生まれて、いつ終わるのか…そんな難しい疑問を解決しようと、優秀な学者たちが日々、頭を悩ませている。でもね…」
三ツ谷は、すっかり暗くなった窓の外を眺める。
女性は唇を白くしながら、コーヒーをすする。
「こうして都会の片隅で生きていると、宇宙の成り立ちなんて、実はそんなに難しくないんじゃないか?って思うね。つまりさ、僕らの世界は、どこかの誰かが作った一杯のエスプレッソの泡にすぎないんじゃないかな?って。宇宙の始まりから終わりまでのことだって、僕らが勝手に『膨大な時間』だと感じているだけで…本当は、誰かがそのコーヒーを飲み干すまでの、短い時間の出来事にすぎなくて…。ちょっと、分かりにくいかな?」
ま、あくまでも僕の空想だよ…と三ツ谷は笑って見せる。女性もまた、それにつられたようにクスっと笑った。まだ、コーヒーは残っている。
「でも、僕ら人間は厄介だから…答えが簡単であればあるほど、難しく考えてしまう…ってのは事実だろう。」
もしかしておじさん…と、女性は三ツ谷の顔を見つめた。
「慰めてくれてるの?私が悩みを抱えてることに、気が付いたから?」
カップの内容量が減ったせいで、土星も星も、もはやただの渦巻になってしまった。それをすすりながら、女性はさらに問う。
「もっと角度を変えて、楽に考えてみたら?って言いたいんでしょ?」
まあ、そんなとこかな…と三ツ谷は肩をすくめる。
女性は来た時よりも柔らかな表情で、美味しかったです、おじさんの『宇宙』…と言いながら立ちあがった。
「ごちそうさまでした…。次来た時も、エスプレッソにしようかな。」
そして店を出る間際、いつでもどうぞ…と声をかける三ツ谷に向かって、おじさんも不器用ね…と笑った。