第28話
なんやかんやで6階層に戻ってきた俺は……とか書きたい。書かないけど。
今までどこにいたのか。下の方にいるような感じがしていたから、土中か沼の中だろう。
ヒドラとの戦闘中も姿を見せていなかった筈なのに、初めて見せたラドンの姿はボロボロと言っても過言ではなかった。
鱗は剥がれ、皮膚は裂け、百あると言われる頭部はもはや五つしかない。
沼の色が赤黒く変色するほどの血を流しながらも、満身創痍になりながらもラドンはヒドラの前に立ち塞がっている。
あの竜巻のような風から、ヒドラを守ろうとしたのだろう。
そして、俺からヒドラを守ろうとしているのだろう。
「……」
好機だ。二頭はもはや碌に動ける状態ではないようだ。
二頭に近づく。手に柄を握って。
目の前に立ち、手をゆっくりと上げる。鉄球は容易く頭を潰すことだろう。
簡単だ。後はこの手を振り下ろすだけでいい。それで、それだけで、災厄と呼ばれる生物を殺すことができる。死は容易く二頭を包むはずだ。
「……」
毒を持つヒドラも、百の頭を持つラドンも、俺が殺せるんだ。
再生も出来なくなって、縮こまっているだけの惨めなヒドラも。
ほとんどの首を失って、身を犠牲にしてヒドラを守ろうとする哀れなラドンも。
夢のような話だ。誰にも殺せないと言われている生物を、俺が殺す。
子供のころに夢見ていた事じゃないか。英雄のようじゃないか。
囚われの姫はいないけど、龍を、この手で、この手で……ッ!
「……ッ!!」
下ろせ。この手を下ろせ。
強くなるんだろう? 復讐するんだろう?
こいつらを殺せば、今までよりも強くなるんだろう?
何故迷う? 何を迷う? 復讐への近道じゃないか。
もうこんな機会はこないかもしれない。なのにみすみすこの期を逃すというのか?
「……グッ!!」
体が震える。振り上げた手が、凍ったように動かない。
目の前に二頭がいるというのに、体が拒絶するかのように固まって動かない。
強く噛みすぎたのか、歯の軋む音が辺りに響く。
くそっ……くそがッ! ……かぶりやがる!!
あの日の俺と妹に、二頭の姿がかぶりやがる!!
白と黒で形成された過去の映像が、瞼にチラついて離れない。
守れなかったと謝る妹の小さな声が、耳の奥で叫んでいる。
上げた右腕と逆の腕で、右腕を強く掴む。
「グッ……ううう!!」
だめ、ダメ、駄目だ。
下げるな、振り下ろせ。下げてしまえば、倒せなくなる。
この二頭を、二度と殺そうと思えなくなってしまう。
おろせ、下ろせ下ろせ下ろせ下ろせ、下ろせー!!
「うああああああああああああ!!!!!!!!」
掲げた手を一直線に振り下ろす。
同時に……シャランと錫のような音を立てて、鎖が地面に落ちた。
「あ……あぁ?」
手には何も握られていない。意思に従って振り下ろされた右腕は、無意識の内に武器を手放していた。
虚空に向かって下ろした拳に血が伝う。強く握りしめたからか、爪が皮膚に突き刺さっている。
困惑した。手に感じるはずの衝撃がない。重みがない。
右足の近くに落ちたオルトロスと呼ばれた武器。考えるより先に、拾うために手を伸ばす。
殺していない? 殺せなかった? 殺さなかった? ……殺せなかった。
見てしまったから、連想してしまったから、思い出してしまったから。
俺には……俺には殺せないッ!
愕然としてしまった。
全てを投げ捨ててでも復讐を果たすつもりだったのに、全てを踏みにじってでも復讐を果たすつもりだったのに、こんなにも、こんなにも……俺は弱い!
「ああああああああああ!!」
堪らず、後ろに向かって駆けだした。何も考えたくなかった。
四階層へ続く階段へ走る。逃げ出したと言っても過言じゃなかった。
飛び込むように階段を下りる。とにかくここを離れたかった。一秒でも早くこの場から離れたかった。
四階層は砂原となっている。砂漠に近い場所だ。太陽も出ていないのにひどく暑く、景色が揺らいでいて、上空には翼を持った龍が飛んでいる。
その中を、ただ走る。中央の泉に、龍の多くいる中央の樹に向かって走る。
上空を飛んでいた、名前も知らない龍が襲いかかってくる。それをいつの間にか刀に戻っていたオルトロスで斬る。戦いたかった。なにも考えずにただ戦っていたかった。
その鰐の様な口を、鋭い牙を、鷲の様な前脚を、ライオンのような後脚を、矢じりのような尾を、蝙蝠のような翼を、無心で斬り裂く。
こちらの姿を見た瞬間襲いかかってくる龍に、感謝したくなる。
流星のような速さで飛行する龍と対峙しつつ、心の中で安堵する。
良かった。殺せる。
速度を落とさずに、向かってくる龍を殺しながら大樹の根元まで辿りつく。
そこにいたのは、樹の根元を齧っている黒く光る鱗と翼を持つ龍だった。
上空には何十と龍がいるのに対し、地上の龍はこの一頭のみ。
故に酷く目立つ存在だった。
「なにを……」
濁ったような黒。ともすれば不吉としか感じないような黒さを持つ龍。
血の様に赤い瞳が、それを更に強く思わせる。
邪悪。そう表現するのが一番わかりやすいような龍だ。
「なにを……」
本来なら、恐怖を感じていたかもしれない。
その実力は兎も角、目に映る龍の全てが、まるで悪魔の様でさえある。
が、それ以上に。
「なにを笑ってンだくそがああああああ!!」
嘲笑するように歪んでいる爬虫類の口元が、やけに癇に障った。