第16話
そう言って笑う女性。その言葉に、槌を強く握る。
怒っているような、泣いているような、そんな顔をするものだから……どうしても頷く他になかった。
少しだけ、母さんを思い出した。
料理が上手できれい好きで、いつも笑顔で優しかった母さん。
そういえば何か悪いことをして怒らせた時だけは、あんな顔をしていたっけ。
あまりにも悲しそうに叱るから、何度も何度もごめんなさいして、それを見た母さんも何故か泣きながらごめんねごめんねって泣いて。
帰ってきた父さんと妹が不思議そうな顔して、何で二人して泣いているんだって笑うんだ。
ほんとだねって僕らも笑って、いつもより少しだけ暖かいスープを飲んで。
……なんでこうなっちゃったんだろ。
なにも悪いことしてないのに。誰にも迷惑かけてないのに。
僕は、僕たちはただ、あの家で暮らしていければそれだけで、幸せだったのに。
「うん? どうした、泣いておるのか?」
いつの間にか涙を流していたようだ。最近泣きすぎだよな、俺。
「ふむ、そなたが何に対して涙を流しているかは知らぬが、その涙はなんとも、醜いの」
そう言って女性はカッカッと笑う。なんとも老人くさい笑い方だ。
「いや、美しい涙などこの世に存在せぬか。少なくとも余は知らぬ。知らぬものは存在せぬも同義」
「人は、過去となってしまったことにしか、涙を流せぬ。そなたの涙は過去の幸福を省みてか。それとも、絶望を嘆いてか……記憶の残滓に微睡むことは、なんとも耐え難き欲求よな。故に、醜い」
「過去は過去じゃ。どれだけ思おうと戻らぬし、変わらぬ。終わったものに、余はそれほど興味を抱かぬ。故に何があったかは聞かぬし、何に泣いておるのかも聞かぬ。だが……」
ペラペラと流暢によく喋る。何を知っているというんだ。自分のことなど、何も知らないくせに。
何が醜い涙だ。何が過去のことだ。何も知らないくせに。何も知らないくせに!
自分の中で炎が渦巻くのが分かった。女性に大声をあげるものではないが、ただの他人にこれ以上言われると、盛大に噴火してしまいそうだ。
「その暖かな記憶は、そなたからは決して逃げぬ。思い出に浸るのは、全てが終わってからで良いのではないか?」
その暖かな記憶は、決して逃げない。その言葉を聞いた瞬間、自分の中に、何かがスッと落ちてきた。怒りに狂いそうな感情が鳴りを鎮める。確かに彼女の言うとおり、今は思い出に浸る時ではない。
「今はとにかくほら、こやつにトドメを刺してやれ。幸いにも、腕は元に戻っておるであろう」
そうだ。この腕。確かにワイバーンに喰われた筈だ。咀嚼するのも見たし、なにより、自分で焼いたのだ。痛みも、喪失感も間違いなく本物だった。何故当たり前のようにあるのか。
それだけじゃない。
ワイバーンのこと、この洞窟のこと、回復のこと、ウーロボロスのこと、彼女のこと。分からないことはたくさんある。むしろ分かることのほうが少ないくらいだ。
「そなたも運が良い。落下の衝撃でワイバーンの胴体は粉々に砕け、消化されようとしておった腕ごと、そなたは吸収した。肉片というよりは粒に近いが……そなたの腕はそれでもまだ残っておった。ここの性質上、肉体の欠損は戻らぬ筈なのだがな。ワイバーンの再生力とそなたの遺伝子情報を同時に取り込んだそなたの肉体は、瞬く間にその腕を再生させよった。胴体が粉々にならなければ、腕が完全に消化されておれば、高い再生力を持つワイバーンでなければ、戻らなかったやもしれぬな」
うんうんと頷きながら、女性は瞬く間に疑問を解決してくれた。それにしても再生したのか……生えてきたのかな。なんか嫌だな。
氷の裏側に回ってみると、確かに下半身は無いようだった。霜が降ったような氷の表面とワイバーンの大きな翼に邪魔されて見えていなかったようだ。断面が非常にグロい。
「そら、ワイバーンの生命力は非常に高い。凍らされても、下半身が無くなっても、未だ生きておる。痛みも感じておるじゃろう。可哀想じゃ、はよう……止めをさしてやれ。龍は強きものを愛す。自らを打倒したそなたの血肉となるのなら、こ奴もまた、本望じゃろう」
彼女の言葉に違和を感じるが、とにかくこのワイバーンに止めを刺すことにする。力を込め、槌を大きく振りかぶる。強き龍、飛龍ワイバーンに敬意を込めつつ、俺はワイバーンの頭部分に槌を振り下ろした。
キンと澄んだ高い音を奏でながら、氷が砕ける。自分の身長の何倍も大きい筈なのに、粉雪のように儚く散り、やがてそれは俺の中に集まり消えていった。
「ありがとう。そしておめでとう。さあ、行こうかの。色々と、積もる話もあるじゃろう」
そう言って女性は歩きだした。聞きたいことがたくさんある。
一瞬、脳裏に夢に出てきた家族の笑顔がチラついた。暖かな記憶は、決して逃げない。その言葉を思い出し、ブンブンと頭を振るい自分も歩きだす。そう、今は思い出に浸る時ではない。無理矢理追いだした母の泣きそうな笑顔が、どうしても忘れられなかった。