兄の声
体を持たない兄が、最後にくれたのは命だった。
北村里史、二十二歳。私は一人っ子だ。
そう、戸籍上も、記憶の表層でも、私は確かに一人っ子だった。
だが、夜更けに目を閉じると、いつだってそこに、もう一人の気配があった。
「里史、怖い話、聞きたいか?」
幼い頃、耳の奥――正確には、後頭部の深いところで――その声はいつも優しく響いた。
兄弟の声だった。
体を持たない、影のような兄。
私はその声を、決して誰にも話さなかった。話せば、笑われるか、狂っていると見なされるか、どちらかだとわかっていたから。
あの日まで――
雨の降る夜の国道。私が運転するバイクの前で、突然、先行車が転倒した。激しい金属音と衝撃。
世界が真っ暗になった。目覚めたとき、私は集中治療室のベッドに繋がれていた。
両親の話では、医師はすでに「脳死」と宣告していたという。延髄が損傷し、自発呼吸すら不可能だった。
しかし、私は生きていた。
「奇跡です」
医師はそう言ったが、その目には明らかな困惑があった。後頭部に、奇妙な腫瘤があった。
退化し、ほとんど吸収されかけた、もう一つの胎児の残骸。
いわゆる「寄生双生児」の痕跡。
その小さな塊が、私の損傷した延髄の代わりに、呼吸中枢の役割を果たしていた。
兄の名残が、私の命を繋いでいたのだ。私はベッドの上で、ゆっくりと息を吐いた。
後頭部に、微かな温もりを感じる。
それは、ずっと昔からそこにあったものだった。
――里史、もういいぞ。
俺の役目は終わったみたいだ。声は、昔と同じように優しかった。
ただ、どこか遠く、薄れゆく気配を帯びていた。子供の頃、彼はよく語ってくれた。
怖い話、優しい話、俺たちだけが知る秘密の物語。
体を持たず、私の後頭部に寄り添うように存在し、ずっと見守ってくれていた。
「いつか、お前の体の一部として役に立つ日が来る」と、彼は微笑むように言っていた。
「そのとき、俺は消えるかもしれない。でも、ずっと一緒にいるからな」
そして今、その約束が果たされた。
彼は私に命を分け与え、静かに溶けていこうとしていた。私は天井を見つめながら、静かに呟いた。
「…兄貴」
返事はない。ただ、後頭部の奥で、何かがゆっくりと萎んでいく感覚だけがあった。
まるで、長年寄り添っていた影が、ようやく安堵して身を引くような――
私は一人っ子だ。
戸籍上も、世間に対しても。だが、私は知っている。
この後頭部に、かつて確かに兄がいたことを。
彼の声が、温もりが、犠牲が、今も私の骨の髄に染みついていることを。そして、時折、眠れない夜更けに。
後頭部の皮膚の下で、何かがまだ、微かに脈打っている気がしてならない。
「お前は、もう一人じゃない」
そんな幻聴が、闇の中で囁く。私は微笑む。
それは、恐怖か、それとも愛か。
自分でも、わからない。ただ一つだけ、確かなことがある。
私は、兄と共に生きている。
そして、いつか彼が完全に消えたとき――
私は、きっと、本当の意味で一人になる。そのとき、私は何を失い、何を得るのだろう。
後頭部に残る、冷たい空洞は、沈黙を持って問いかけてくるのだ。
読んで頂き有り難うござしました




