表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

兄の声

作者: をはち
掲載日:2026/08/07

体を持たない兄が、最後にくれたのは命だった。


北村里史、二十二歳。私は一人っ子だ。


そう、戸籍上も、記憶の表層でも、私は確かに一人っ子だった。


だが、夜更けに目を閉じると、いつだってそこに、もう一人の気配があった。


「里史、怖い話、聞きたいか?」


幼い頃、耳の奥――正確には、後頭部の深いところで――その声はいつも優しく響いた。


兄弟の声だった。


体を持たない、影のような兄。


私はその声を、決して誰にも話さなかった。話せば、笑われるか、狂っていると見なされるか、どちらかだとわかっていたから。


あの日まで――


雨の降る夜の国道。私が運転するバイクの前で、突然、先行車が転倒した。激しい金属音と衝撃。


世界が真っ暗になった。目覚めたとき、私は集中治療室のベッドに繋がれていた。


両親の話では、医師はすでに「脳死」と宣告していたという。延髄が損傷し、自発呼吸すら不可能だった。


しかし、私は生きていた。


「奇跡です」


医師はそう言ったが、その目には明らかな困惑があった。後頭部に、奇妙な腫瘤があった。


退化し、ほとんど吸収されかけた、もう一つの胎児の残骸。


いわゆる「寄生双生児」の痕跡。


その小さな塊が、私の損傷した延髄の代わりに、呼吸中枢の役割を果たしていた。


兄の名残が、私の命を繋いでいたのだ。私はベッドの上で、ゆっくりと息を吐いた。


後頭部に、微かな温もりを感じる。


それは、ずっと昔からそこにあったものだった。


――里史、もういいぞ。


俺の役目は終わったみたいだ。声は、昔と同じように優しかった。


ただ、どこか遠く、薄れゆく気配を帯びていた。子供の頃、彼はよく語ってくれた。


怖い話、優しい話、俺たちだけが知る秘密の物語。


体を持たず、私の後頭部に寄り添うように存在し、ずっと見守ってくれていた。


「いつか、お前の体の一部として役に立つ日が来る」と、彼は微笑むように言っていた。


「そのとき、俺は消えるかもしれない。でも、ずっと一緒にいるからな」


そして今、その約束が果たされた。


彼は私に命を分け与え、静かに溶けていこうとしていた。私は天井を見つめながら、静かに呟いた。


「…兄貴」


返事はない。ただ、後頭部の奥で、何かがゆっくりと萎んでいく感覚だけがあった。


まるで、長年寄り添っていた影が、ようやく安堵して身を引くような――


私は一人っ子だ。


戸籍上も、世間に対しても。だが、私は知っている。


この後頭部に、かつて確かに兄がいたことを。


彼の声が、温もりが、犠牲が、今も私の骨の髄に染みついていることを。そして、時折、眠れない夜更けに。


後頭部の皮膚の下で、何かがまだ、微かに脈打っている気がしてならない。


「お前は、もう一人じゃない」


そんな幻聴が、闇の中で囁く。私は微笑む。


それは、恐怖か、それとも愛か。


自分でも、わからない。ただ一つだけ、確かなことがある。


私は、兄と共に生きている。


そして、いつか彼が完全に消えたとき――


私は、きっと、本当の意味で一人になる。そのとき、私は何を失い、何を得るのだろう。


後頭部に残る、冷たい空洞は、沈黙を持って問いかけてくるのだ。


読んで頂き有り難うござしました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ