『余命半年の彼女を妻として看取りたい』ですか。……おかしいですね、私が先日こっそり薬をすり替えたのですが、彼女はとても元気そうに私の悪口を叫んでいらっしゃいますよ?
公爵邸の私室には、上等な紅茶の香りと、芝居がかった咳の音が満ちていた。
「ゴホッ、ゴホッ……ご、ごめんなさい、私の体が弱いばかりに……」
「気にするな。俺が必ず、『白百合病』から君を守り抜くから」
ソファの上で、婚約者である公爵令息——ロディリオン様が、男爵令嬢の細い背中を壊れ物でも扱うようにさすっている。男爵令嬢の名はアンジェリカ。今年で十七になるという、栗色の巻き毛が愛らしい娘だ。
私は、その光景を斜め後ろのテーブル席から眺めていた。
ロディリオン様は、私の視線を意に介する様子もない。当然だ。彼にとって、これは「幼馴染の不憫な娘を、兄として守ってやっている、高潔な行為」なのだから。
婚約者がその傍らで顔を伏せて控えていることに、罪悪感を抱く理由は——彼の世界には、存在しない。
ロクに眠っていない頭は鉛のように重く、出された紅茶はとうに冷め切っている。差し出されてから一度も口をつけられなかったその紅茶を、私はぼんやりと見つめていた。
——可哀想に。淹れた者の労が、報われませんわね。
などと、自分のことを棚に上げて思う余裕は、まだあった。
私はリリエンタール侯爵家の長女、エヴィリーナ。
代々領地で薬草を栽培し、王宮御用達の薬草園を任されてきた家の娘だ。当然、薬学に関する素養は幼い頃から徹底的に叩き込まれている。十五の頃には、宮廷薬師の資格を取得した。それは家の名のためでもあったし、私自身の誇りでもあった。
そしてその「誇り」が、今や私の首を絞めている。
——いや、正確には違う。私の首を絞めているのは、ロディリオン様の隣で背中をさすられている、あの男爵令嬢の存在だ。
アンジェリカ・カーディフ男爵令嬢。
彼女と、ロディリオン様は、いわゆる「幼馴染」だった。
カーディフ男爵家は、公爵領の隣接地に小さな所領を持っていて、亡くなったアンジェリカの母親と、ロディリオン様の母君である公爵夫人が、若い頃から親しい間柄だったのだという。
アンジェリカの母親が病で亡くなったあと、公爵夫人は遺された幼いアンジェリカを、まるで娘のように可愛がった。物心ついたときには、アンジェリカは公爵邸に出入りし、ロディリオン様と兄妹のように育っていたのだとか。
だから、ロディリオン様が婚約者である私の前で堂々と彼女に寄り添っていても、社交界の誰も、表立っては何も言わない。
それどころか──。
「公爵家が、カーディフ男爵家の令嬢の面倒を見ているらしい」
「ロディリオン様は心優しいから、病気の妹分を放っておけないのだろう」
「あの侯爵令嬢、もう少し寛容になればよろしいのに」
「嫉妬から嫌がらせをしてるって話ですよ」
「まあ……」
私が応接間で「アンジェリカ様の症状には不自然な点がございます」とロディリオン様に進言した半年前から、私は社交界で「狭量で嫉妬深い、冷たい侯爵令嬢」になっていた。
誰が広めたのか、考えるまでもない。
反論は、できた。だが、反論すれば、それは「公爵家への当てこすり」になる。
リリエンタール侯爵家は王宮御用達の薬草園を任されている家だが、政治的影響力は公爵家に遠く及ばない。父は私に、こう言った。
「エヴィリーナ、しばらくは、堪えなさい。我が家は、表で公爵家と争える家ではない」、と。
そう。表では、争えない。
だから私は、半年間、ただ薬を作り続けてきた。
「幼馴染を見捨てない高貴な公爵令息」と、「嫉妬で嫌がらせをする狭量な侯爵令嬢」。社交界が好む、わかりやすい構図。私はその構図の、悪役の方を演じさせられてきた。
……まあ、いい。
表で争えないのなら、密室で証拠を突きつけて、合意書にサインさせればいい。
「エヴィリーナ」
ロディリオン様の声が、鞭のように飛んできた。
「お前が作る薬を飲んでも、アンジェリカの発作は一向に良くならないじゃないか。いったい何をしているんだ」
「……申し訳ございません。処方を、もう一度見直してみます」
「もう一度見直す? その台詞を聞くのは何度目だと思っている」
ロディリオン様は、アンジェリカの背を抱き寄せたまま、私を睨みつけた。
私は、自分の手のひらを膝の上で握り締めた。乳鉢で薬草をすり潰し続けた指の腹には、いくつもマメができ、潰れ、また固くなっている。袖口に隠れたその手が、冷たくこわばる。
白百合病の特効薬を調合できるのは、王国でも私を含めて数人しかいない。
リュガリス草の配合は極めて繊細で、産地の異なる葉を季節ごとに見極め、患者の体調に合わせて毎日処方を微調整しなければ、薬効が出ないどころか、毒にすらなる。
宮廷の老薬師長は、すでに齢七十を超え、新規の調剤からは退いている。ほかに対応可能な薬師は二人——いずれも、王宮直属で動かせない立場の人間だ。
つまり、王国内で「アンジェリカのために、毎日新鮮な薬を調合し続けられる薬師」は、事実上、私しかいなかった。
「まさか、お前——わざと効果の薄い薬を渡しているんじゃないだろうな?」
「……滅相もございません」
頭を下げる。淑女として、習い性のように。
内心で、私は冷たく嗤った。
——だって彼女、全くの健康体なんですもの
アンジェリカ・カーディフ男爵令嬢は、健康そのものだ。咳ひとつ、嘘である。
私の手の中で潰れたマメも、削った睡眠も、薬草園から取り寄せた貴重な乾燥葉も、すべて、健康な小娘の芝居のために費やされた、ということになる。
半年だ。半年もの間、私はこの茶番に付き合ってきた。
ロディリオン様は、男爵令嬢の肩を抱いたまま口を開いた。
「単刀直入に言う、エヴィリーナ」
唐突に、ロディリオン様が告げた。
「お前との婚約を、解消したい」
——おや?
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……理由を、伺っても?」
「アンジェリカの余命が、あと半年なんだ」
ロディリオン様は、悲劇のヒーローのような顔をした。眉根を寄せ、声を震わせ、抱き寄せたアンジェリカの肩を撫でながら、噛みしめるように言う。
「俺は、残された時間を彼女に捧げたい。彼女を、妻として看取りたい」
ロディリオン様は、ちらりと壁の方を見た。応接間の壁には、公爵家の歴代当主と夫人の肖像画が並んでいる。一番手前の、現公爵夫人の肖像。ロディリオン様は一瞬だけ見上げ、それから私に視線を戻した。
「母上も、きっと賛成してくださっている。リリエンタール侯爵には、俺から正式に話を通すから」
——余命半年、ね。
——お抱えのヤブ医者に、いったいいくら握らせたのかしら。
私は、内心の毒を完全に押し殺し、淑女の微笑だけを表に貼り付けた。
……なに、驚くにはあたらない。
三日前に、私はすでにこの結末を予測していた。だから、こうして用意もしてある。
私は腰元の小ぶりなクラッチから、一枚の書面を取り出した。
シルクを敷いたテーブルの上に、書面をすべらせる。
「承知いたしました。では、こちらにご署名をいただけますか」
婚約解消の合意書である。日付は今日、双方の家名が記載され、違約金条項まで揃った、完璧な書面。
署名欄だけが、空白だった。
ロディリオン様は、書面と私の顔を見比べて、わずかに眉をひそめた。
「……ずいぶん、用意がいいんだな」
「公爵家のご意向を、いつでも受け入れられるよう、心がけておりましたゆえ」
「ふん」
鼻で嗤って、ロディリオン様は羽根ペンを取った。インクをたっぷりと含ませ、一気にサインする。流れるような署名は、自分の名前を書くのが大好きな男の癖だ。
ペン先がインク壺の縁を叩く音。それから、ロディリオン様は冷たく言った。
「お前は本当に、冷たい女だな」
「……」
「最後まで、アンジェリカを気遣う言葉もないのか」
——おやおや。
私は、唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げた。
「ええ。健康な方に気遣いなど不要ですから」
「……は?」
ロディリオン様の顔から、芝居がかった悲愴さが、すっと抜け落ちた。代わりに浮かんだのは、純粋な戸惑いだ。何を言われたのか、まだ理解が追いついていない、という顔。
アンジェリカの方は、ぴくり、と肩を揺らした。こちらは、勘がいい。
私は冷め切った紅茶のカップに指をかけた。受皿との間に細い隙間ができ、私の指先と、磁器がかちりと触れる音だけが、室内に響く。
「白百合病、というのは、特殊な薬草——具体的には、当家の薬草園で栽培しているリュガリス草の葉を、毎日継続して摂取しなければ、肺が炎症を起こして血を吐く病です」
「何を今更……そんなことは知っている! お前、薬の調合が上手くいかないからって出鱈目を──」
「私が三日前から、アンジェリカ様にお渡しする薬を、『ただの甘いシロップ』にすり替えていたこと、ご存じでしたか?」
ロディリオン様の表情が、固まった。
「……なん、だと?」
私は、ゆるりと首をかしげた。
「白百合病の患者なら、三日も葉を切らせば、今ごろ床にうずくまって血を吐いているはず。ところがアンジェリカ様、見てください。今日もこんなに、ピンピンしていらっしゃる」
アンジェリカの顔から、さーっと血の気が引いた。
ロディリオン様が、ゆっくりとアンジェリカの方を見る。抱き寄せていた肩が、少しだけ離れる。
「……アンジェリカ?」
「あ、あの、ロディリオン様、そ、その私は……っ」
「薬はちゃんと飲んだのか?」
「の、飲みました! ちゃんと、ちゃんと飲んで……! 甘いシロップなんて嘘です!」
アンジェリカは、必死に頷いた。
栗色の巻き毛が揺れ、潤んだ大きな目が、上目遣いにロディリオン様を見上げる。
——ああ、その顔。
三日前の、彼女の顔と同じだ。
§
三日前の昼下がりのことだった。
私はその日、調合した薬を予定より早く仕上げ、アンジェリカの部屋を訪れた。彼女に渡した薬の分量について、念のため確認しておきたい点があったのだ。
……いや、本当のところを言えば、すでにこの頃には、私は彼女に対して、ある疑念を抱いていた。
半年もの間、私は最高品質のリュガリス草を惜しみなく使い、最善の調合を心がけてきた。にもかかわらず、アンジェリカの「発作」は治まる気配もない。それどころか、悪化することもなく、絶妙な頻度で「咳き込んでみせる」。本来、白百合病の発作は、季節や気圧の影響を強く受ける。雨の日の朝に集中するか、乾いた風の吹く午後に偏るか、必ず傾向がある。
だが、アンジェリカの発作は——いつも、決まってロディリオン様が部屋に入ってきた直後に起こった。
偶然にしては、出来すぎている。
廊下の絨毯は厚く、私の足音はほとんど立たなかった。扉の前まで来たとき、中から、楽しげな笑い声が聞こえてきたのだ。
病人が、笑っている?
私は手を止めた。扉は、ほんのわずかに開いていた。
「ったくさぁ、こんな苦い薬、飲めるわけないじゃん。いくら薬だからって、味にも気を遣えっての」
アンジェリカの声だった。咳ひとつ混じらない、はずむように軽い声。
「でも私が咳き込むだけで、殿下は優しくしてくれるし、あの偉そうな侯爵令嬢を顎で使えるんだから最高よね。目の下に隈作っていい気味。さっさと過労で死んでくんないかな」
侍女らしき声が、くすくすと笑った。
「殿下がアンジェリカ様を次期公爵夫人に迎える日が待ち遠しいですね」
「んね。ま、さっき余命半年だって言ったから、そろそろロディリオン様が婚約破棄切り出してくれると思う」
「本当でございますか。大変楽しみにしております!」
「うん楽しみにしてて。手ガッサガサの女が公爵夫人になれるわけないんだからさ」
私の指先が、扉枠を握った。
アンジェリカは寝台に座り、私が苦心して調合した薬の小瓶を、傾けていた。窓辺に置かれた鉢植えに、ドボドボと、黒々とした薬液を注ぎ込んでいる。鉢の中の、もとは可憐だった白い花は、土ごと焼けたように茶色く萎れていた。
「これでまた、明日もロディリオン様は私に膝枕してくれるよね」
アンジェリカは、空になった小瓶を放り投げ、けらけらと笑った。投げられた小瓶は、絨毯の上を転がり、机の脚にぶつかって止まった。それは、私が昨夜、何度も濃度を計り直して仕上げた、二日分の薬の最後の一瓶だった。
——ああ。
私は、扉から一歩、後ずさった。
すうっと、何かが冷たく落ちていく感覚があった。手のひらのマメの痛みが、嘘のように消えた。
私の薬を。私が誇りをかけて作った薬を。
鉢植えに、捨てた?
リュガリス草は、王国南端の岩場にしか自生しない、希少な薬草だ。父が三十年かけて、温室での栽培技術を確立した。一株を育てるのに、二年。葉を一枚摘むときには、職人が祈るような顔で鋏を入れる。それを、私は惜しみなく使った。彼女のために、ではない。私の家の名と、薬師としての職務に対して、誠実であろうとしたから。
その葉が、その葉から作った薬が、土を腐らせる肥料になっていた。
——許さない。
心の底から、そう思った。
婚約者を奪われたから、ではない。淑女としての矜持を傷つけられたから、でもない。
ただ、一人の薬師として、許せなかった。
婚約解消合意書の下書きを始めたのは、その日の夜のことだ。
翌朝、私はアンジェリカの薬を、こっそりと「ただの甘いシロップ」にすり替えた。砂糖と水と、リュガリス草に似た色を出すための、ごく無害な草の煎じ汁。当然、薬効はゼロ。
——三日。
三日も薬を飲まなければ、本物の白百合病患者なら、咳き込みすぎて血を吐く。
私は、それを待っていた。
§
「薬はちゃんと飲んだのか?」
「の、飲みました! ちゃんと、ちゃんと飲んで……! 甘いシロップなんて嘘です!」
アンジェリカは、必死に首を振っている。
「飲んで、いませんよね」
私は、静かに言葉を重ねた。
「私の作る薬は、強い。あまりに強すぎて、健康な土の養分を焼き尽くしてしまうほどに」
私は、アンジェリカの方を見ずに、ただ事実だけを並べた。
「アンジェリカ様のお部屋の窓辺。鉢植えが三つ、並んでおりますでしょう。白百合と、薄紅のジャスミンと、青いリンドウ。昨日、お見舞いに伺った折、すべて枯れ果てておりましたわ。土ごと、焦げたように」
「……」
「あれは、私の薬を捨て続けた結果ですわね。飲まずに、ずっと、鉢植えに」
ロディリオン様の腕が、アンジェリカの肩から、完全に離れた。
「アンジェリカ。本当のことを言ってくれ」
「ち、違うんです、ロディリオン様、私は、私は本当に……っ」
「ずっと俺を騙していたのか!? 同情を引くために、俺の愛を奪うために——!」
「違うの、あなたを愛してるから、つい——!」
「『つい』だと!?」
二人が、醜く言い争いを始めた。アンジェリカは涙を流し、栗色の髪を振り乱して、ロディリオン様にすがりつこうとする。ロディリオン様はそれを振り払い、腕を振り上げ、また下ろし、忙しなく室内を歩き回る。
私は、その様子を、ぼんやりと眺めていた。
——馬鹿馬鹿しい。
心底、そう思った。
半年前、私が初めて「アンジェリカ様の症状には、不自然な点がございます」と進言したときのことを、思い出す。
あのときロディリオン様は、なんと言ったか。
『病人を中傷するのか。お前というやつは、本当に冷たい女だな』
そう言って、私を、応接間から追い出した。私は、自分の専門知識を、自分の家の家業を、自分の誇りを、踏みにじられた。それでも、淑女として頭を下げた。職務として、薬を作り続けた。
……馬鹿みたいだ。
本当に、馬鹿みたい。
「ま、待ってくれ、エヴィリーナ!」
突然、ロディリオン様が、こちらを振り向いた。
アンジェリカを突き放し、私の方へ、両手を伸ばしてくる。
「俺は——俺はこいつに、騙されていたんだ! 同情心につけ込まれて、愛してもいない女を、愛していると思い込まされていた! さっきのサインは、取り消す! 婚約は、解消しない!」
——今更なにを言っているんだろう。
私は、伸ばされた手を、すっと避けた。指先が触れることすら、もう嫌だった。
たぶん、この男にとって、私という人間は、最初から最後まで、こういうものだったのだろう。
都合のいいときは、家業を利用するための「侯爵令嬢」。
邪魔なときは、嫉妬深い「冷たい女」。
必要なときは、また戻ってくる、便利な「婚約者」。
私という人間そのものは、どこにもいなかった。
そう思うと、もう、怒る気力すら、湧いてこなかった。
代わりに、ひどく澄んだ気持ちで、私はこの男を見ていた。
「……騙されていた、ですか?」
たぶん、半年ぶりに、心から笑った。
「ロディリオン様。あなたは、騙されてなどいませんわ」
「な——」
「私が以前、『彼女の病状には不自然な点がある』と申し上げたとき。あなたは、なんと仰いましたっけ?」
「な、なんのことだ。そんなこと一々覚えてない!」
「『病人を中傷するのか』。『お前は冷たい女だな』。——そう仰いました」
ロディリオン様の唇が、薄く開いた。
「あなたが騙されたのは、彼女の演技が巧みだったからではありません」
私は、テーブルを回り込み、ロディリオン様の正面に立った。
「あなたが、私を信じなかったからですわ。自業自得です」
「エヴィリーナ、頼む、待ってくれ、俺は——」
「待ちません」
私は、ぴしゃりと言った。
「サインは取り消しません。合意書は、すでに有効です。違約金条項もお忘れなく」
「そんな——」
私は、一歩、後ろに下がった。
そして、淑女としての完璧な礼を取った。両手でドレスの裾を持ち上げ、片足を引き、深く、深く、頭を垂れる。リリエンタール侯爵家の長女として、十年以上仕込まれてきた、その所作を。
「健康な体で、どうぞ末永く、お二人で愛し合ってくださいませ」
アンジェリカが、絨毯の上で、ぺたりと膝をついていた。栗色の巻き毛は乱れ、頬には涙の跡。先ほどまでの愛らしい男爵令嬢の面影は、もう、どこにもなかった。
ロディリオン様は、立ち尽くしていた。両手を中途半端に空に泳がせたまま、何かを掴もうとして、何も掴めずに。
「ああ、それから」
私は、思いついたように、付け加えた。
「ご家族には、しっかりとご報告なさってくださいね。『無能で冷酷な侯爵令嬢に、自分から婚約解消を申し出た』と」
「……」
「もちろん、私の口からは——『真実』を、証言させていただきますけれど」
私は、ふと、応接間にあった公爵夫人の肖像画を思い出した。優しげに微笑む、息子の幼馴染を娘のように可愛がってきた、その人。
「公爵夫人にも、よろしくお伝えくださいませ。半年間、社交界に流れていた噂が、これからどう書き換えられるのか。私、ほんの少し、楽しみなものですから」
ロディリオン様の顔から、最後の血の気が引いた。
公爵家。男爵家。そして、王宮御用達のリリエンタール侯爵家。三家の力関係を、彼はようやく、思い出したらしい。半年間、私を顎で使えた「公爵令息」という立場が、真実を前にして、いかに脆いか。父が、王宮で薬草園を任される「専門家」であることが、社交界でいかに重い意味を持つか。
——今更理解したのですね、ロディリオン様。
──まあ、あなたは半年もの間、私を、「自分より格下」だと思い込んで、扱い続けてましたからね。
私は、扉を開けた。
廊下の冷たい空気が、頬を撫でた。背後から、アンジェリカのすすり泣きと、ロディリオン様の、何かを呻くような声が聞こえた。
私は、もう振り返らなかった。
——明日から、何をしようかしら。
私室の窓辺で枯れていた花たちを思い出す。あの鉢に、新しい土を入れて、もう一度、薬草の苗を植えよう。今度は、誰のためでもなく。私自身の、楽しみのために。
父には、なんと報告しようか。
きっと父は、最初は怒り、次に呆れ、最後に——笑うだろう。「お前にしては、ずいぶんと派手なことをしたな」と。そうして、書斎の奥から、私が幼い頃に欲しがって叶わなかった、薬草園の見取り図を引っ張り出してくるに違いない。「跡継ぎの話、もう一度、考えるか」と。
玄関ホールに出ると、磨き上げられた大理石の床に、午後の日差しが差し込んでいた。
執事が驚いた顔で私を出迎え、馬車の用意を、と慌てて指示を出している。
私は、執事に、にっこりと微笑みかけた。
「お世話になりましたわ」
「あ、あの、お嬢様、お顔の色が——」
「ええ、ずいぶんとよくなりましたでしょう?」
執事は、何かを言いかけて、口を閉じた。
玄関の重い扉が、しずしずと開かれる。外の光が、まばゆく差し込んでくる。
私は、その光の中へと、一歩、踏み出した。
——さて。
——帰ったら、久しぶりにぐっすり眠ろう。
それから、机の引き出しの奥にしまい込んでいた、新しい薬草の研究ノートを、引っ張り出してこよう。
水たまりに映る自分の顔を、ふと、見つめた。
目の下にはひどい隈があり、頬はこけ、髪も乱れている。ひどい有様だ。
だが、その顔は——笑っていた。
私は、思わず、声を出して笑った。
公爵邸の方角からは、もう何の音も聞こえなかった。




