星尺(ほしじゃく)の方程式
【本日の用語】
《星尺》: 夜空を方眼紙のように区切る基準。星の並びを“物差し”にして角度を読む。
《角刻》: 角度の時間変化を刻むこと。Δθ/Δt(どれだけ速く星の前を動いたか)。
《二点測角》: 離れた二か所から同じ目標の角度を同時に測る方法。高さと距離を推定できる。
《影道》: 影が星の前をなぞった軌跡。次に通る“空の通学路”。
《射界扇》: 対空魔導砲が安全に撃てる扇形の範囲。無駄撃ちを減らすための枠。
朝の冷えた風が、簡易黒板の煤をさらう。砂地に立てた枠に糸が張られ、夜空の代わりに白布がかけられていた。
「――今日は空の算数だ」
カリームが白墨を持つと、観測班の若者たちが輪になった。レイラは一番前でノートを開く。
「まず《星尺》。星と星を結んで“方眼”を作る。ここが原点、北の三つ星で横軸、東の昇る星で縦軸。目盛は一目盛=一度。いいね?」
「はい!」
「次、《角刻》はΔθ/Δt。影が星一個ぶん(約一度)動くのに三秒なら、角速度は1/3度/秒」
レイラがすばやく書き留める。
「先生、それで高さは?」
「《二点測角》を使う。AとB、二つの観測点をLだけ離す。同時刻の仰角をθA、θBとする。すると――」
カリームは黒板にさらさらと書く。
高さ h ≈ L × tanθA × tanθB / (tanθA − tanθB)
「式は覚えなくていい。“二か所で同時に測れば、だいたいの高さと距離がわかる”。それが今日のキモ」
砲班長が腕を組み、ニヤリとする。
「そいつで敵の《影道》を引けりゃ、《射界扇》をそこで待ち構えりゃいい」
王が端で聞きながら、ひと言。
「“待ち構える勇気”もまた、兵の仕事だな」
夕暮れ。砂が冷え始めた頃、観測枠が二つ、橋頭堡の両端に立った。
「A班、レイラ。B班、サミル。同時刻読みを忘れるな。『三・二・一・刻』で声を合わせる」
「了解!」
霊線の騒ぎを避けるため、合図は手旗。風鈴は“ずらし”のリズムに張り替えられた。
「……来る。北の三つ星、左から」
レイラが息を整え、囁く。
「A視、仰角二七度、通過!」
対岸、サミルの声が重なる。
「B視、仰角二三度、通過!」
「角刻、一度を三秒!」
「影の濃さ、薄い。偵察型!」
カリームは計算板で珠をはじいた。
「L=四〇〇歩、θA=27°、θB=23°……hおよそ千歩弱、速度は角刻×距離で――」
砲班長が覗き込む。
「撃つか?」
「**撃たない。**まだ《見切り線》を越えない」
「了解。扇だけ合わせて待つ」
砂盤に白線が延びる。星と星を結んだ方眼の上を、黒い点が走る。
「これが《影道》。今夜はこの線を教科書にする」
同時刻、対岸。砂指の背でザエルが風を嗅いだ。
「……“星の物差し”を持ったな。賢い子がいる」
副官サハルが苦笑する。
「参謀殿、敵を“子”呼ばわりすると、部下がびびります」
「褒めてる。褒めてから、倒す」
ザエルは糸巻きを掲げた。細かい反射片が風に踊る。
「影を増やす。《雲糸》だ。星の前に偽の線をいくつも通す。相手が数字を信じるなら、数字ごと濁す」
「結界は?」
「触るな。今夜は相手の教科書をめくる番だ」
夜。星がよく見える。AもBも、目盛の隙間に視線を落とす。
「……あれ、線が二本?」
レイラの声が硬くなる。
「A視、二七度で二重影。手前が濃い、奧が速い」
サミルが追う。
「B視、二四度と二一度。奧のほうが角刻が一度/二秒……速い!」
「《雲糸》だ。反射の偽線が混じってる」
カリームは短く言い、次を指示した。
「いいか、“星は嘘をつかない”。嘘をつくのは線のほうだ。二点同時の“ズレ”を見る。ズレない線が本物」
レイラが頷く。
「A≠Bの差が一定のほう……奧の速い線!」
「正解。**本線確定。**影道更新――」
白墨が走る。方眼紙の上、一本だけがまっすぐ繋がった。
砲班長が《射界扇》をそちらへわずかに切り替える。
「参謀、まだ撃たんのか」
「まだ。“学び勝ち”を積む夜だ。相手は今、教えてくれている」
黒い影は、星の前で僅かに弧を深くした。
サミルが息を呑む。
「B視、二十度へ降下、角刻上昇!」
レイラが叫ぶ。
「A視、二十四度! 見切り線、接触します!」
カリームの声が落ちる。
「――一発、喉だけ鳴らせ。」
「了解。位相、下げ打ち!」
対空魔導砲が、光も炎も上げずに空気の柱だけを叩いた。風紋がめくれ、見えない壁がぐにゃりと歪む。
影が、星の上でくにゃりと折れた。
「回避した!」
砲班長が歯を見せる。
「いい**“授業料”**だろう?」
「高い授業料だ。銅は鳴らすな」
「了解、冷却に入る!」
影は深追いせず、北へ退いた。風鈴が、少し遅れて平常のリズムを取り戻す。
撤収前の静けさ。砂の上に膝をつき、レイラがノートを整える。
「参謀殿、今日の方程式、ここまでで合ってますか」
彼女は自分の字でまとめたページを指で押さえた。
星尺で座標化
角刻=Δθ/Δt
二点測角で高さ/距離
ズレ一定=本線
射界扇を合わせ、喉だけ鳴らす
カリームが頷き、隅に一行書き足す。
= “撃たない勇気”+“撃つ一拍”
「これで“方程式”は完成。数字だけじゃない。間も変数だ」
ファハド王が肩越しにのぞき、穏やかに問う。
「次は、どうなる」
「今夜の相手は偵察。次はきっと試し斬り。《鋼の翼》は、鈴にも星尺にも二つ目の答えを用意してくる」
砲班長が鼻を鳴らす。
「こっちも二つ目の解答を置いときゃいい」
レイラが手を挙げる。
「“二つ目の解答”って?」
「昼の空の授業だ」
カリームが砂盤を指で弾く。
「星は出ない。だから今度は影じゃなくて影の“影”――影が落とす風を観る」
若者たちの目が同時に輝く。
「風の方程式……!」
「そう。**星尺の次は風尺**だ」
東の空が白み、風鈴が朝の音に戻る。
数字で縫い、間で結ぶ。**“学び勝ち”**は、まだ始まったばかりだ。