喉鳴りの夜
【本日の用語】
《喉鳴り(のどなり)》: 金属冷却路や結界の位相に外力が当たり、共鳴で“鳴く”現象。過負荷の前兆にも、陽動にもなる。
《砂指》: 砂丘の稜線が幾本も指のように延びる地形。風向と音の通り道を決める。
《防空結界》: 飛行体の侵入位相を乱す広域妨害結界。陽石柱アンカーで地形に縫い止める。
《対空魔導砲》: 魔力束を飛行体へ指向射する陣地砲。銅の冷却路が三斉で“鳴く”。
《霊線》: 陣地・結界をつなぐ導通線。振動と雑音に脆弱。
砂指戦線・夜。風は南。砂稜は弓なりに唸り、布覆いの天幕が低く鳴った。結界測定台の針は、薄紫で小刻みに震えている。砲座に配られた薄酒は温く、誰も口をつけない。
「……聞こえるか」
砲班長が耳をそばだてる。砂の向こうで、低い喉の奥を擦るような響きが続いた。金属の共鳴でも、飛竜の羽鳴りでもない。輪郭だけが、夜気に触れて震える。
「誰だ、撃ったのは」
「まだ撃ってません、班長。なのに――」
銅の冷却路が、確かに“コォ”と喉を鳴らした。
カリームは測手から針の紙を受け取り、秒針の刻みで指を叩く。
「南南東の砂指。音の通り道を使われている。冷却路の固有に当ててきた……外から揺さぶって“鳴かせ”ている」
副官が顔をしかめる。
「喉鳴りで安全機構が働けば、砲が沈黙します」
「それが狙いだ。――風紋基音、北東アンカーで逆相をかけろ。九呼吸だけ、北を緩める」
「九呼吸? その間、結界が薄く……」
「薄い喉を、厚い沈黙で塞がれるよりましだ」
同時刻、対岸の闇。砂指の背に、木枠と腸線で組まれた砂琴が十挺、風を食んで低く鳴く。枠の下で兵が喉を震わせ、符を噛んだ舌で音を滑らせていく。
「怖れは前に置け」
ザエルは砂に膝をつき、砂琴の一本に手を当てた。
「曲がり角には正面で入れ。――南二番、半音上げろ。銅の鳴き目はそこで開く」
副官サハルが喉を震わせる。
「将、渡河斥候は?」
「三つ灯して三つ消せ。〈布覆い〉を忘れるな。光を学べば、風は言うことを聞く」
砂琴の唸りが合わさり、ひとつの長い喉になる。彼方の砲座で、また“コォ”と短く応える。ザエルは目を細めた。
「いい、喉が鳴いた。次は結界の喉だ」
「北緩め、九呼吸――入るぞ」
測手が指で合図し、陽石柱アンカーの符に火が走る。風がひと呼吸だけ途切れ、すぐ戻る。
「位相ずれ、0.07……0.05……戻りかけ」
「その間に来る」カリームは言った。「来させて、切る」
小走りの伝令が滑り込み、肩で息をした。
「対岸より黒舟、川面に皺、逆向き……!」
砲班長が咆える。
「標定手、偏角七、仰角四、照準――」
冷却路がまた“コォ”。安全機構の札が赤に跳ね、引き金の符が重くなる。
「うそだろ、まだ撃ってねえぞ!」
班の若い兵が叫ぶ。
「喉を鳴かされてる。湿布を巻け、泥で襟巻きだ」
「泥ぉ?」
「泥は音を食う。文句は後だ」
兵たちが冷却路に泥を撫でつける。手は震え、泥は冷たく、砂がざらつく。泥の鈍い匂いが金属の息を変えた。
「逆相、入る――今!」
測手が叫び、結界の縁がわずかに鈍る。風が返り、砂が逆毛を立てる。
「黒舟、止まった……いえ、沈む――潜りです!」
「潜り?」
「気泡が……ない。膜を張って水を割ってる!」
カリームは即答した。
「銛班、前へ。対舟符《杭》、束起動で河底へ打ち下ろせ。――“怖いまま押せ”だ」
「怖いまま、押せ!」
銛班が復唱し、十枚束の青白い光が川面の下へ針の束となって沈む。水が鈍く跳ね、浮かびかけた布覆いが夜に貼り付いた布のように剥がれた。呻き声。短い泡。
砂指の背。砂琴の一挺が裏返った風に裂け、音が途切れる。サハルが舌打ちした。
「杭だ。奴ら、河底を打ってきた」
「良い反応だ」ザエルは淡々と言う。「次は喉ではなく、喉の根――霊線に揺さぶりを」
「切断班、出すか」
「切るな。“ほどけ”だ。切れば結び直す。ほどけば、戻す手数が倍いる」
サハルが頷くと、三人の技兵が砂を滑るように降りていく。彼らは針金のように細い符を指に絡め、砂の下の霊線にそっと寄り添わせた。
「霊線の脈、さわるな。撫でろ」
ザエルの声は低く、風に混ざった。
「喉鳴りの夜は、喉を切る夜ではない。声を枯らす夜だ」
砲座。泥を巻いた冷却路は黙り、若い兵の息だけが荒く鳴っている。
「班長、行けます!」
「行け。三斉で止めろ。鳴いたら沈め」
「了解!」
「一斉――発!」
対空魔導砲が夜を貫き、魔力束が黒舟の上で白い花を咲かせた。二斉、三斉。銅は――黙っている。班長が歯を見せた。
「泥の襟巻き、効くじゃねえか」
「整備が見たら殴られますけどね」
「生きて殴られろ」
測手が顔をしかめる。
「……あれ?」
針が、ゆっくりと、だが確かに南南東へ流れ始めた。
「位相が……ズレ続けてます。戻らない」
カリームは一拍だけ目を閉じ、言葉を噛んだ。
「霊線を“ほどかれ”ている。切られてはいない。だから見落とす」
副官が額の汗を拭う。
「対処は?」
「“結び”を増やせ。子結びで絡め、余長を取れ。――結界隊、全員、結び目を増やす」
結界隊の若者が走る。白い手が砂に走り、霊線に子結びがかかる。指は砂で裂け、血がにじむ。だが針は――わずかに戻った。
「戻る。戻るぞ」
「九呼吸で0.03。まだ薄い」
「薄くても、黙って撃てる。――続けろ」
対岸。サハルが歯噛みする。
「子結びで押し返してきます」
「良い癖だ」ザエルは砂に小さく指で線を引いた。
「癖は、次に狙える。今夜はここまでだ。喉は鳴った。声は枯れた。――獲ったものは?」
技兵が膝をついた。
「結び目の位置、三十七。子結びの癖、交互。測手の返しは九呼吸単位。砲座の冷却路は泥で減衰、三斉まで可能」
「十分だ」ザエルは立ち上がり、砂琴の残りを倒した。砂は音を飲み込み、夜は再びただの風になる。
「獅子は吠えない夜も牙を研ぐ。次は牙の先で行く」
サハルが問う。
「将、飛竜は?」
「まだだ。結界に“喉の傷”ができた時、初めて噛みつく」
夜明け前。砂の冷たさが骨に入る頃、ファハド王は巡視に出て、泥塗れの砲座に立った。兵が慌てて敬礼する。王は笑って手を下ろし、銅の襟巻きを指でつついた。
「新しい軍装か?」
班長が照れ笑いした。
「整備に殴られる軍装であります」
王は頷くと、砲身の脚にそっと手を置いた。
「いい“喉”だ。鳴かされても、歌は忘れるな」
カリームは王に並び、低く言う。
「敵は外から喉を鳴かせ、内で霊線をほどきに来ます。今夜はしのぎましたが、次は“癖”を学ばれて来ます」
「ならば、こちらも癖を変えれば良い」王は短く笑った。「酒の席で盃の持ち手を変えるみたいにな」
「結び目の位置を毎刻ずらす。子結びは奇数から偶数へ。――砲座は泥巻きを正式化、布覆いは風鈴に付け替えろ。風に鳴らせて、音階を崩す」
副官が驚く。
「風鈴を……戦場に?」
「音で来るなら、音で返す。喉は喉で黙る」
遠い砂指の尾根で、最後の砂琴が倒れる気配がした。夜がほどけ、薄青い風が結界の縁を撫で、針は静かに真に戻る。
カリームは紙の端に一行だけ走り書きした。
「――相手、ザエル。地図の継ぎ目に鼻。曲がり角に正面」
そして紙を折り、懐にしまう。
「次は、こちらが喉を鳴かせる番だ」