砂指戦線
【本日の用語】
《砂指》: 砂丘の陰から斜行で“肩口”へ食い込む帝国の接近戦術。正面を避け、橋頭の脇腹を撫でて崩す。
《喉》: 橋頭堡の生命線となる細い通路。補給・担架・指揮が通る“幅”。太さの維持が勝敗を分ける。
《音殺し(おとごろし)》: 角笛や号令の周波数帯を吸って無効化する装備・術の総称。壺・布・結界など形態は多様。
《木鈴》: 音殺しに強い、短い刻で命令を伝える木製の合図具。裏拍で妨害を回避する。
《砂返し(すながえし)》: 砂指の進路に斜めの“癖”を付けて流れを返す防御工作。線ではなく“傾き”で止める。
夜明けの砂は青かった。渡河点の《橋頭堡》は、夜のあいだに土嚢の輪郭を太らせ、杭と縄で喉を縫い止めた。薄霧の上に、鳥のような影がひとつ、ふたつ──結界縁で揺らぎ、失速し、砂原へと消えた。試しに突っ込んだ《飛竜騎士》の斥候だ。
「結界、効いてますね、参謀殿」
測手が息を詰める。カリームは頷いた。
「効いている“うちは”な。──喉の幅は保て。渡し舟の間隔、四呼吸で出せ。刻を乱すな」
角笛が短く鳴る。が、その音は砂に吸い込まれたように浅く、遠くへ届かない。兵たちは互いに顔を見合わせた。
「音が……重い?」
「風じゃない。何か、かぶせられてる」
カリームは眉をひそめた。耳の奥に、膜を押し当てられたような鈍さ。そこへ前哨から木鈴の連打が走った。澄んだ木の音だけが、膜の向こうから返ってくる。
「《音殺し》だな。帯域を潰してくる。角笛は封じられた。木鈴に切り替えろ」
伝令が駆ける。木鈴の合図が、点々と火の粉のように塹壕へ落ちる。笛の旋律は死に、鈴の刻だけが橋頭の呼吸になった。
*
砂丘の陰。帝国軍の先遣工兵隊は、砂に“指”を差し込むように、斜行塹壕の口を開けていた。肩口から忍び寄り、正面の火を避け、橋頭の脇腹へ“触れる”技──《砂指》。
「距離、百四十。砂は乾く。鳴砂層、薄い」
低く報告したのは《砂指》の棟梁だ。彼の隣で、予備役将ザエルが砂をひと握りして落とす。
「怖れは前に置け。肩で入れ。笛は逆相、三拍子。喉元を直接噛むな。継ぎ目を探せ」
「はっ」
工兵たちが胸から木箱を下ろす。箱には短い管が入っている。口にくわえ、息を合わせると、ほとんど聞こえない微かな音が、砂の下で別の音に化けた。鳴砂の律、結界の縁──その両方に“逆位相”を差し込む《逆相笛》。
砂がざわりと動く。小さな崩れが、彼らの先にある王国軍の塹壕で同時に起きた。
「今のは……勝手に落ちた?」
「鳴砂です。向こう、結界のつぎ目を縫ってる。そこに逆相が入ると、面で持ちこたえていた土嚢が、点で抜ける」
アディルが口を挟むと、ザエルは短く頷いた。
「よく見ていろ、参謀殿。戦は“作法”を壊せば速い。だが壊すには、その作法を愛していなければならん」
ザエルは指で斜面を撫でるように示し、合図を出す。
「砂指、一の指──前へ」
静かな砂の牙が、橋頭の脇の陰に伸びた。
*
「崩れた?」
前線の小隊長が叫ぶ。土嚢列の途中に、小さな落ち込みが生じていた。そこは夜のうちに急ごしらえで結んだ“継ぎ目”──工兵線と歩兵線の段差が残った場所だ。
「補修班、土嚢十! 縄を回して──」
「待て、崩れは小さい。人を寄せすぎるな。喉の幅が詰まる」
カリームが手で制した。だが砂の下から、低い“鳴り”が続く。耳にひっかくような帯域。結界の縁が、わずかに歪む気配。
木鈴が短く四度。敵の《砂指》が“触れて”いる合図だ。鈴の刻に合わせ、対岸の対空魔導砲の霊線が一度、沈む。カリームは即座に命じる。
「対空砲、連続三斉のあと半刻沈め。冷却を優先。代わりに《風紋術》のゆらぎを一段階上げろ。飛竜を弾く壁は“風”で上げられる。が、喉の呼吸は鈴で合わせる」
「了解!」
鈴の刻が走り、工兵が動く。だが、砂丘の陰から、帝国の小型投擲器が顔を出した。筒口から飛んだ金属片が、空中で砕け、黒布を広げて落ちる。布は砂の上に貼り付き、音を飲み込む壺のように口を開けた。
「《音殺し》の壺か……!」
木鈴の音が、そこに吸い込まれ、近間が一瞬“無音”になった。合図がちぎれる。隊列が、一歩だけばらけた。
その隙を、砂の“指”が噛む。土嚢と土嚢の細い隙間に、帝国の突撃班が半身をねじ込み、短剣と符で縫い付けた縄を切りに来る。歩兵の若者が叫びながら立ち上がるが、喉の通路は狭い。担架が来る。補給も来る。
「止まれ! 喉に人を載せるな! 側面の《逆水堤》を上げろ!」
工兵隊長の吠え声と同時に、川縁の小舟が鎖で引かれ、砂袋が滑り降りた。即席の浮柵が、逆流の牙──油と火の舌が舐めてくるのを散らす。帝国側が油火を流し込んできたのだ。火舌は《逆水堤》に当たって千切れ、橋頭の喉に届く前に薄くなった。
「消火班、砂! 結界縁に火を当てるな、位相がずれる!」
鈴の刻。砂の雨。火はたちまち呼吸を失った。
「前へ出るぞ!」
王国軍の下士官が盾と短槍の列を押し出す。だが、その“押し出す”一歩の前に、彼らの耳へ、別の音が刺さった。ひゅう、と細い。耳鳴りよりも細い音。足元の砂が一瞬、“無重力”のように柔らかくなる。
「伏せろ!」
カリームの声と同時に、小さな崩れが列の脇で起きた。逆相が合った。砂が落ちるところでは、足が取られる。列は自然と狭まり、喉は細る。
「砂指は正面で噛んではこない。肩で撫でる。こちらも肩で押し返す」
カリームは地図盤に手を走らせた。橋頭の内側に、短い斜行を自ら描く。
「《砂返し》をつくる。相手の指の向きに対し、逆向きの斜面をつけろ。向こうが三歩で寄るなら、こちらは二歩でずらす」
「土嚢、斜めに? そんな器用な──」
「器用でなくていい。線ではなく“癖”をつけろ。砂は癖に従う」
命令が飛ぶ。工兵は土嚢を斜めに置き、歩兵はその影で木鈴を鳴らし、伝令は壺を避けて走る経路を覚えた。結界班は風の縁を三度波で揺らし、飛竜の喉をくすぐる。帝国の上空で、数騎がたまらず高度を落とし、翼を畳んだ。
*
帝国側・砂指壕。
「音は効いている。だが向こう、鈴で逃げる帯域を作った」
アディルが笛の管を外し、肩で息をしながら言う。ザエルは唇を引いた。
「帯域が潰されれば別の帯域に“作法”を置く。悪くない。──こちらも帯域をずらす。木鈴の上にさらに《音殺し》を置くと、逆に布石を読まれる。……《木霊》を使え」
「木霊?」
「穴の中で音を跳ね返せ。鈴の刻が帰ってきた時、半拍だけ遅らせる。向こうの“刻”を狂わせる」
工兵が手際よく、浅い壕の壁に木片を打ち付ける。密やかな空間ができ、そこへ小さな飾り鈴が吊るされる。アディルが息を潜め、外から響く木鈴の刻に耳を合わせた。叩き返す。半拍遅れて、同じ音色が返る。
橋頭の内側で、列がわずかに乱れた。鈴の“正しい刻”と、耳に返る“遅れた刻”が干渉する。間合いの読みが一瞬だけ鈍る。
「今だ。指、二、三──肩で入れろ」
砂指が二本、影に沿って伸びた。斜行壕の先端から、短い梯子が出る。帝国の突撃兵が肩で砂を押し、半身だけ塹壕にねじ込む。刃は出ない。刃ではなく、縄を切る小さな鉄の鈎が土嚢の結び目を叩いた。結び目は砂を抱えて粘る。鈎は何度も叩く。
「そこを切るな!」
王国兵の怒号。が、怒号は壺に吸われる。二つ目の結びが切れかけた瞬間、低い唸りが橋頭を這った。《対空魔導砲》が二斉だけ、喉の上で唸ったのだ。砂に埋め込まれた鉄骨を震わせる帯域。突撃兵の手が一瞬止まる。
「“刻”だ……!」
アディルが歯を鳴らす。王国軍は銃砲ではなく「周期」で殴ってきた。三斉は撃たない。三斉の“前”で、喉に響かせ、半刻冷やす。その周期がわかれば入れるが、わかっても潰される。
ザエルは静かに笑った。
「それでいい。向こうの刻が読めるなら、こちらは刻の外側に立つ。砂は時間より律に従う」
彼は地図の継ぎ目を指差した。
「向こうの《砂返し》、悪くない。だが、返しの“返し”はまだだ。返しの肩を越え、さらに斜め上から“喉”の天井を叩く。頭上から土嚢の口を落とせ。《砂天蓋》だ」
「そんな器用な……」
「やるのは砂だ。俺たちは癖をつけるだけ」
*
午後。空は白く、風は薄く、鈴の刻は数えきれないほど往復した。王国軍の喉は辛うじて“太さ”を保っていたが、砂指は三本では足りず、五本に、七本に増えていた。どれも正面からは見えない陰を通り、肩口から寄る。
「参謀殿、斜め上から落ちる崩れが増えています。天井が叩かれている。砂が“降る”」
工兵の声に、カリームは眼を細めた。
「返しの返しを置いてきたか。……なら、こちらは“刻”をもう一段深くする」
彼は指で机の上を叩いた。一定のリズム。だが、ひとつだけ意図的に“ズレ”を入れる。
「鈴、五の刻で行け。だが、三と四の間に小さく入れる“裏拍”をつくれ。木鈴を二種類用意して、片方は帯域をずらせ。音殺しが壺で吸うのは大きな帯域だ。細い針金のような刻なら、通る」
「そんな細工、歩兵に通じますか?」
「通じさせろ。……それと《逆水堤》を一段、上げろ。夜になったら油火はもっと来る。喉は、火と音の両方で詰まる」
鈴が変わった。耳で拾わなければわからないほど細い裏拍。工兵の指が動く。突撃班の足が、半歩だけ遅れても、担架の動きは止まらない。喉は、紙一重で“通る”。
「──右、砂の“指”!」
若い歩哨の叫び。陰から帝国兵が躍り出る。短剣ではなく、棒。棒の先に布と砂が巻き付けられている。土嚢の結び目に叩きつけると、砂の重みで結びが“落ちる”。入り口が半ば開いた。
「槍、頭だけ!」
下士官の短い叫び。槍の穂先が、布と砂の巻かれた棒の“頭”だけを叩く。棒の柄は生きるが、頭が潰れる。帝国兵がひるむ。その一拍で、結び目に別の縄が重ねられた。
ザエルは遠目にそれを見て、ふうと息を吐いた。
「嫌な兵だ。……嫌いじゃない」
アディルが肩で笑う。
「向こうの参謀は、喉を“力”で守るのではなく、作法で守っている」
「作法は裏切らん。裏切るのは人の慢心だ」
ザエルは砂に片膝を付いた。
「さて、今宵は“黒渡し”だ。砂指は七本。ここから先は、指で喉を裂くのではなく、喉に“鈍い刃”を当て続ける。相手が喉を太らせた分だけ、こちらは肩を増やす。潰し合いではない。息の取り合いだ」
*
夕刻。空は赤く、結界の縁が薄く光っていた。《飛竜騎士団》は今日、結界の膜に三度挑み、三度弾かれ、二騎が翼を損じて退いた。帝国の空は“牙を立てられない”ままだった。それでも、地の牙は増え続けた。砂指は九本に達し、一本は橋頭の内側で“膝”を作っていた。
「膝?」
「はい。こちらが押し返すと、砂指の内側に空洞を作って膝を付く。崩れない折れの姿勢です」
「膝を許すな。膝の上に砂を“置け”。落とすな、置け。砂は置かれた方に従う」
カリームは自分でも何を言っているのかわからなくなる瞬間があった。だが、兵たちはその“作法”を飲み込み、実行した。砂は、生き物のように、癖の通りに動いた。
木鈴が、細く、速く、そして時に遅く、鳴る。壺は吸うが、全部は吸えない。裏拍は滑り、表拍は叩かれる。《霊線》は揺れ、《対空魔導砲》は鳴き、沈み、また鳴いた。《風紋術》は縁を擦り、飛竜は牙を研いで空を回った。
王は夕闇の最前線に立ち、担架列に自ら歩を合わせた。ファハド王の手は、昼に倒れた若者の名をまだ覚えている。その指が、担架の布の角をそっと直す。木鈴の音が、王の耳に届く。
「名を、記録に」
王の低い声。書記官が頷く。
カリームは喉の上で立ち止まり、砂まみれの地図盤を見つめた。砂指は九本。こちらの砂返しは十。本数の問題ではない。刻の問題だ。
(息が続く側が勝つ。砂は息に従う)
夜が来る。帝国は《布覆い》で光を殺し、《音殺し》で声を黙らせ、《逆相笛》で砂の律を撫でてくるだろう。こちらは《木鈴》で刻を繋ぎ、《逆水堤》で火を散らし、《防空結界》で空を薄くする。どちらの作法が先に“疲れる”か──それが今夜の勝敗だ。
「各隊、木鈴の裏拍をもう一段、細く。鈴が無理なら、指で卓を叩け。刻は耳だけでなく、骨でも拾える。……焦るな。喉を細らせるな」
「了解!」
鈴の音がまた走る。木の音は星の可聴域で、砂の上を転がった。
*
帝国・砂指中枢。夜。
ザエルは短い祈詞を省き、儀礼の白布を外した。《儀礼》は今日までだ。明日からは《制裁》の式次第。
「鳴砂層、逆相、角度十二。……指、十本。十一の指を準備。音具は二種。木霊の箱は浅く置け。深い箱は“声”を呼ぶ」
アディルが頷き、工兵に符を配る。
「将軍、飛竜は?」
「まだ“風”が勝つ。今日は地で決める。──いいか諸君、砂は《思想》よりも正直だ。鼻で嗤った我らの過ちを、砂は覚えている。だからこそ、砂の作法で償う」
笑い声は上がらない。代わりに短い「はっ」が重なった。砂指は、星の下で、さらに一本、伸びた。
*
深夜。橋頭の喉の上。木鈴の音は、細く、絶えず、折れず、続いていた。工兵が眠り、起き、また眠り、また起きる。歩兵が膝をつき、立ち、また膝をつく。担架が往復し、縄がほどけ、結び直される。
カリームは、短い仮眠の前に、地図端の黒い渦を見た。渦の中心に小さく「膝」と書き、横に「喉の高さ」と殴り書きする。
(膝を折らせるな。喉を太らせろ。砂は息に従う)
彼は木鈴を一度、指で叩いた。裏拍で、静かに。鈴は答えた。遠くで別の鈴が、同じ裏拍で返事をした。《音殺し》の壺に吸われる前に、骨が拾った刻が、土嚢の影で受け渡される。
夜の砂は冷たい。だが、喉はまだ、生きていた。