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喉を握る指

【本日の用語】


逆相笛ぎゃくそうぶえ》: 鳴砂や結界の律に対し逆位相を吹き、崩落や位相乱れを誘発する信号具。


《音殺し(おとごろし)》: 音響系の指揮・合図・儀礼を減衰させる制圧器材。投下・設置で周辺の音を“黙らせる”。


逆水堤ぎゃくすいてい》: 小舟や砂袋で急造する浮柵型の堤。逆流・油火の“牙”を散らし、渡河の喉を守る。

白布が解かれた司令鐘は、朝の冷気を一度吸い込んでから、短く乾いた音を返した。地下司令の灯が絞られ、壁にかかった古地図の継ぎ目だけが白く浮く。


「――喉を握る」


ザエルは盤上の小石を二つ摘み、橋頭の細い出入口に並べて置いた。


「指は三本だ。一本目、砂指。砂に指を差し込むように斜行塹壕を刻む。正面からぶつからず、肩から絞る」

「はっ。工兵、二大隊投入。鳴砂罠に対し、足裏に皮革。音を殺します」

「二本目、とき。敵の砲は三斉で鳴き、半刻沈む。鳴き止む“呼吸”に合わせ、前衛を一歩だけ深く出す。欲張るな。一歩だ」

「一歩、承知」

「三本目、息。担架路と給水、交差点に圧をかけて声を大きくする。声が大きい所は、命令が通らん。命令が通らなければ、喉は自ずと細くなる」

「卑劣だ、との声は……」

「俺が飲む。飲み込んで、骨にする。――太鼓、舌打ち三。旗は黒。近符は短句、『押すな』『寄るな』『待て』のみ」


副官がうなずき、使者が走る。ザエルは白布を鐘へ戻しながら、指先で結び目を確かめた。


「朝には白、夜には黒。兵は朝を要る。朝があって初めて、違う刻を仕込める」



一方、アムサラ《橋頭堡》。青灰の空の下、陽石柱が低く唸っていた。結界の膜は張り、ところどころ薄く波打つ。罠の鳴砂が乾いた声で鳴き、塹壕の縁には砂袋がきれいに積み上がっている。


「参謀、補給路と担架路がまた噛みました。交差点に兵が滞留して……」

「標識を変えろ。旗ではなく灯だ。灯の油が弾ける音で進退を合図する。『パチ』は進め、『ジ』は止まれ。――声は短く、『押すな』『砂で』『耳で』の三つだけ覚えさせろ」


カリームは手短に言い、次の指示に移る。


「斜行塹壕を三本、逆傾斜で掘り下げろ。正面からは見えず、横から踏み込みづらい角度だ。鳴砂罠は“耳で”踏ませ。鳴ったら撃つな、砂を落とせ」

「対空魔導砲は?」

「二門一組。三斉で交替。冷却の刻は五分ずつずらす。鳴く前に黙らせる」


副官が苦笑し、そして真顔に戻る。


「兵が、持ちますか」

「持たせる。代わりに休みは休み。休みには仕事をさせるな」


そこへ工兵隊長が駆け込んだ。


「参謀殿、土嚢の袋が湿りすぎです。圧で破ける。砂の目も粗い」

「粗い砂は煙に使える。細かい砂は袋へ。混ぜるな。袋は二重口で結べ。結び目は外側に――切る時に早い」


「了解!」


カリームは水盃をひと口含み、空を見上げる。結界はあと半刻で安定域に入る――そこまで喉を保たせろ。そこから先は、空がこちらの味方になる。



砂丘の陰から、黒い線が三本伸び始めた。帝国工兵の斜行塹壕、砂指。鳴砂罠の帯は途切れず敷いてあるはずなのに、ほとんど鳴らない。先頭の兵は足裏に薄い皮革を巻き、指で砂の角度を探るように進んでいる。


「鳴らないな」

「鳴らせないように、耳を塞いでいる。布で足首を巻き、砂袋で音を吸っている」


狙撃手がささやき、横で砂を握っていた少年兵が唾を飲み込む。


「撃ちますか」

「撃たない。音で殺す。笛、逆相! 鳴砂、三袋、落とせ!」


耳を裂く逆相笛。砂が斜面をざらついて落ち、砂指の先端がわずかに崩れる。先頭の工兵が手を挙げ、すぐに後ろが短く舌打ちを打った。


「――舌打ち三。『一歩』だ」


ザエルが言ったとおり、一歩だけ深く出る。深く出た肩が、アムサラ側の斜行塹壕の継ぎ目に触れた。


「継ぎ目、抑えられる!」帝国従士が声を上げる。

「喜ぶな。喜びは足を止める」先頭の下士官が低く返す。「舌打ち、一」


一歩だけ、さらに深く。砂は声を吸い、息の音だけを返す。



砲陣地。銅が鳴くギリギリの温度で、対空魔導砲が三斉目を吐き切った。班長が歯を食いしばる。


「冷却、いけ! 水は使うな、砂を回せ!」

「油壺、来るぞ! 翼影、低い!」

「低い方は撃つな、結界に任せろ! 上の二だけ、狙え!」


青い膜が震え、黒い翼がわずかに歪む。飛竜が喉元で空気を噛み、翼を立てる。結界が整いきらない十五呼吸の穴を、騎手は見逃さない。


「入る!」

「入るぞ!」


一本が膜を擦り抜け、低く唸りながら突っ込んだ。投下された小さな筒が回転し、地上の笛座に降る。糸のような光がはじけ、音殺しが地面を這う。


「笛が……消える!」

「消えるのは“本物”だけだ。囮を混ぜた」


カリームが短く言い、笛座の兵が手で合図を送る。囮の笛柱が倒れ、本物は土嚢の陰で反対の律を保った。結界が唸り、翼は片方を石に擦った。


「翼、削れた!」

「今だ、撃て!――いや、やめろ。落ちてくる」


飛竜は自ら油壺に火を移し、川面へ投げた。黒い帯が水に浮き、ゆっくりと流れていく。


「水で消すな! 砂で蓋!」


班長の怒声に、兵が砂袋を切って黒に被せる。砂は重く、火は遅く、喉はまだ生きている。



帝国前衛。斜行塹壕が一つ、王国の担架路に横合いで噛みついた。混乱が起きる――起こさせた。


「右へ寄れ!」

「左が空く!」

「押すな! 押すなって――」


声が大きい。命令がほどける。ザエルは耳を傾け、太鼓の刻を一つ遅らせた。


「いまだ。押させるな。待てだ。待てば、向こうが押す」


副官が囁く。


「将軍、飛竜は?」

「もう使わない。習いをいじれ。人の習いだ」


「……卑劣です」

「卑劣を飲む。勝ちを膨らませると腹が裂ける、と向こうの参謀も知っている。だから腹を裂かない。その代わり、喉を握り続ける」



担架路の交差点。混み合う列に、砂で描いた矢印が新しく刻まれていく。灯の油がパチと弾け、兵が足を前に出す。ジで止まり、パチで進む。短い合図が短い動きを生み、喉の通り道がわずかに広がった。


「参謀、通りました!」

「よし。通ったら黙れ。喜びは声になる。声は喉を詰まらせる」


「……はい!」


そこへ別の報が飛び込んだ。


「南の砂指、二本目が鳴りません。鳴砂罠が死んでる」

「死んでない。耳を塞がれている。砂の上に布を敷いている。……笛を捨てろ。木鈴で刻め。音色を変えろ」


木鈴が乾いた鳴きを残し、砂の上で細かく跳ねた。帝国の舌打ちとぶつかり、律が乱れる。砂指の先端が一拍遅れ、王国の横穴から砂が落ちる。


「抜けるか!」

「抜けません! 砂、砂が!」


砂は音を消し、息を奪う。若い帝国工兵が咳き込み、隣の男が肩を叩く。


「吸うな。舌で鼻を塞げ。三呼吸だけでいい」


「……怖い」

「怖れは前に置け。前に置けば、見える」



昼。陽が高くなった瞬間、喉の上に別の手が伸びてきた。帝国の土手が、一ヶ所だけ崩れたのだ。人為の痕跡――整えられていた石列が抜かれ、小さな崩れが大きな水の舌になって王国の側を舐めに来る。


「水位、上がる!」

「待ってた、これを」


カリームは事前に積ませていた逆水堤の砂袋を指さす。


「小舟を横向きに並べろ。浮柵にして水の牙を散らす。対岸からの油を噛ませるな。舷側に毛布、火走りを止めろ」


工兵たちが小舟を押し、縄で編み、泡立つ水の歯を鈍らせる。逆流は喉を削りかけて、薄くなった。


「持ちます!」

「持たせろ。持たせて、その間に喉を太らせろ。担架路に板を渡せ。往路と復路を分ける。一方通行だ」


「参謀、板の在庫が……」

「倉庫を壊せ。木枠でもいい。壊すのは今だ」


倉庫の木枠が持ち出され、板橋が増える。兵の流れが二筋に分かれ、喉は指二本分、太くなった。



帝国の地下。報が重なる。


「崩しは半ば。逆水堤で受けられました」

「よく読んでいる。読めば、読まれる。――よし、戻せ。崩しは一度だ。二度やれば作法になる。作法は破られる」


副官が息を整え、次の紙片を差し出す。


「将軍、前衛が『一歩』を三度繰り返し、いま喉の外側に触れています」

「よくやった。だが触れるだけだ。握るのは夜だ」


「なぜ夜まで待つのです」

「昼は向こうの参謀の刻だ。夜は俺の刻だ。――刻で握る。指は夜にこそ締まる」



夕。防空の膜は完全に厚みを帯び、飛竜は遠巻きに唸るだけになった。砲身の銅は鳴いたが割れず、班長は銅の腹を撫でて笑った。


「まだいけるか」

「いけるとも。鳴く前に黙らせる、あの参謀のやり口は気に入らねえ」


歩哨線で若い兵が低く歌を歌い始め、すぐ止められた。


「歌は後だ。いまは耳で」


カリームは帳場で短く線を引き、紙片にまた三つ書いた。


「夜の合図は『灯三・笛二』だ。灯を先、笛を後ろ。音殺しに抜かれるな。……伝令、短く言え。長い言葉は砂に落ちる」


ファハド王が静かに天幕に入ってきた。指に砂をつけたまま、視線をカリームに置く。


「喉は生きているか」

「はい、陛下。指二本分の太さで」

「よく持たせた。――だが、獅子はまだ手首を見せておらぬな」

「ええ。今夜、もう一度、来ます」


王はうなずき、水盃を取り、半分だけ口を湿らせた。


「名を、記録に残す。喉を通った者、落ちた者、皆だ」

「書記官。筆を早く。人の名を忘れるな」



夜。黒渡しの舟がまた音を殺して滑る。先頭の小隊長は、昼間に砂を掻いた若い兵の肩に触れた。


「十五呼吸は長いか」

「長いです。でも、三は自分のために吸って、十二は仲間のために吐けば、ちょうどです」

「上等だ。怖れは前に置け」

「置きました。前にあります」

「なら、見える。見えたら、踏め」


舟の縁から、黒い逆位相楔がまた一つ、砂に刺さる。


橋頭の喉は、両側から指で押され、引かれ、広げられ、絞られた。砂は声を飲み、風は音を返し、銅は鳴き、灯は弾け、笛は律を織った。


夜が更けるたびに、両軍の指先は、もう一段深く、喉の粘りに触れていく。


そして薄明。喉は落ちなかった。だが、締める指は確かにそこにあった。


カリームは手袋を外し、掌の汗を乾いた風に晒す。


「――負けを小さくできた。勝ちは大きくならない」


副官が小さく笑い、すぐ真顔に戻る。


「次は?」

「次は、喉の奥に棚を作る。飲み込めないものを並べる。向こうの舌を鈍らせる」


帝国の地下で、ザエルは鐘の白布を撫で、また結び目を解いた。


「今夜は黒だ。明朝は白に戻す。朝を返せば、また夜が奪える」


二人の指は、まだ盤上でぶつかっていない。だが、その間合いは、ひと呼吸ごとに縮まっていた。


――喉は、まだ生きている。

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