継ぎ目の争奪
本日の用語
継ぎ目: 北河が本流と支流に分岐する要衝。水位・流速・地形の“段差”が生まれ、運用者次第で道にも罠にもなる。
逆拍: 通常の拍印をあえて反転させ、水門の開閉を半拍遅らせることで逆位相の立波を起こし、舟列の推進力を削ぐ技。
即地署名: 書面の真偽や条の解釈に争いが生じた際、その場に立ち会う三者(アムサラ・帝国・回廊運営)が現地で日付・時刻・状況を記し、現場の土と印で完結させる締結法。
拍印: 拍子木・旗・油循環・水門開閉を同一リズムで統一する運用符号。
水尺: 水位・流速・水温差を読む携行尺。星尺の姉妹具。
朝靄がほどけるより早く、北河の継ぎ目は声を出しはじめた。細く鳴って、太く鳴り、そして黙る。石積みの聞き板が湿り、水尺の目盛りには夜の冷たさがまだ残っている。
「上げ拍、〇・四。吐きが勝つ」測手が囁く。
「吐きを遅らせる。——逆拍で立てる」カリームは水尺に人差し指を当てて、二目だけ押し込んだ。「拍木は〈短・長〉、水門は半拍遅れ。舟は止まる」
拍子木が乾いた二音を響かせ、旗が一手下がる。水門の板がわずかにためをつくってから落ち、本流に向かう水はほんの少し遅れて吐かれた。継ぎ目の段差に、目に見えない脊が一本立つ。
「やれるのか。継ぎ目を刃にできるか」イルイナが見張り台から降りながら言う。
「道にも刃にもなる。握り方次第だ」カリームは短く返す。「——帝国の舟列は午の刻。書で来る。足で止めろ」
午前、支流の上に白い帆が並んだ。槍は立てず、旗は白、商標は帝国港湾庁。だが帆柱の根にくくりつけられた巻皮は白革の色をしている。
「帝国補給列、昼渡河の届け」使者が巻皮を掲げる。「三者条に基づき、物資枠の臨時追加。発行者、黒松の砦・ザエル代署」
見張り台の帝国士官も同じ文面を掲げた。表情は冷たいが、刃ではない。彼は言う。
「こちらは内記と通された。——君らは?」
「紙は紙だ」イルイナは巻皮を受け取り、紙質を指でつまむ。「繊維は良い。だが漉き目が違う。回廊で使う紙じゃない」
「印影は精巧だが、印泥が薄い」書記官が続ける。「——決めるのはここだ。条は紙にあるが、運用は足でやる」
カリームは即地署名の板箱を開き、三本の筆と印泥を並べた。印泥は朱ではない。継ぎ目の土をすり潰し、油で練った暗い赤茶だ。
「即地署名だ」彼は静かに告げる。「三者立会い、時刻、水位、風、舟数。ここで完結させる。——紙はここで決まる」
帝国士官は目を細めた。「異議はある。だが……必要はある」
「必要の名で押せ」イルイナが言い、板箱の蓋を裏返し、その裏を署名台にした。「規則は凍った道に似ている。割れ目があるなら指でなぞって埋める」
ザエルの代署が紙にある。だが代署は立会いではない。立会いは足音だ。歩く音で分かる距離に三者が並び、筆が重い土を掬い、日付と刻と拍印を記した。
「即地、午二刻。水位、二尺七。風、南東。拍印、〈短・長〉運用中。——臨時追加、不可。人道枠、通過。物資枠、夜の舟へ振替」
三つの印が、土の上で咲いた。赤茶の輪郭はにじまない。乾いた音を立てて紙に移る。
帝国使者の顎が硬く動いたが、声は出さなかった。帝国士官が一歩だけ足を引き、短く言う。
「受領。——渡河は夜」
帆が伏せられ、舟列が支流の桟に寄せる。川は拍に従い、継ぎ目の脊は緩んでいない。
午後。水面の色が濃さを増し、逆拍の立波が継ぎ目の喉に居座る。舟は動こうとして動かない。舳先の泡が崩れては戻り、船頭は棹を押しては諦める。
「——止まったな」砲班長が見張り台に上って、手のひらで風を受ける。「撃つ必要はない」
「撃たない勝ちがある」カリームは拍木に指を添えたまま、水門の相を見続けた。「逆拍は刃だ。自分も切る。半刻まで。やり過ぎるな」
「半刻後、拍を裏返す。鞘に戻す」
拍が変わる。吐きが前に戻り、立波は稜を低くした。舟列の舳がわずかに進む。だが橋の中程には白旗、署名台には土の朱。紙はここで決まっている。
「参謀」イルイナが巻皮を振る。「帝国から追文。白革、“状況急変につき特例”」
「状況は即地で記録済みだ」カリームは淡々と返す。「紙は紙で切る。土で縫う。——相殺」
書記官が相殺印を取り出し、巻皮の末に〈相殺・即地〉と赤茶で押す。白革の刃は鈍り、継ぎ目の喉はそのまま閉ざされた。
夕刻。風が南へ寝る。拍は緩み、道はやわらかくなる。カリームは聞き板に掌を当て、逆拍で酷使した板の響きを確かめた。
「板が疲れた。今夜は拍を短く。水門の油を替える」
「舟列は夜に回る。灯火は〈布覆い〉で隠す。鈴がまた鳴るでしょう」イルイナが笑う。「鳴らせておけ。鈴は詩に入れておく」
「詩は刃にもなるが、刃は鞘にも入る。——鞘は手順で作る」
カリームは裁定盤に今日の拍と署名の写しを挟み、板箱を閉じた。
黒松の砦。ザエルは短い報を受けて、茶碗の湯気をひと息に吸った。
「即地署名で切り返したか」
「は。巻皮は相殺。舟列は夜へ」
「輪郭は正確に、か」ザエルは筆で机の端を軽く叩く。「紙は紙で勝てる。ただし、紙を足で書ける者に限る」
彼は地図の継ぎ目に小さな点を打った。「明日は風ではなく、重さで揺らす。紙は置いていく。舟は軽く、水は重く」
副官が頷く。「喉鳴りは封じられ、灰猫は温存射で落ちる。次は——」
「足元だ」ザエルは立ち上がる。「踏み方だけで転べるところがある」
夜。白旗の下で三者は灯を絞り、人道枠だけが静かに動いた。舟列は順番を受け入れ、舳に布覆いを掛けて川の声を殺し、漕ぎ手は歌を低く繋いだ。
「——参謀」若い兵が恐る恐る問う。「今日は勝ちですか」
「勝ちは紙の枚数でも落ちた影の数でもない」カリームは拍木を握り直す。「折れなかった回数だ。今日は一回、折れなかった」
兵は頷き、息を吐いた。川は拍に合わせて吸い、吐き、継ぎ目は静かに眠った。
明け六つ。冷えが戻る。水尺は二尺六を示す。カリームは筆を取り、即地署名の控えの余白に一行だけ書いた。
逆拍は刃。刃は手順。手順は足音。
土の朱が乾く。
紙はここで完結した。
決着章はまだ半分。継ぎ目は、次の朝にも争奪の声を上げるだろう。
冬の詩は終わり、春の刃が研がれていく。




