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灰猫の迂回

本日の用語


灰猫はいねこ: 帝国の低高度・薄影滑空戦術。支流上空を這うように侵入し、数を多く“見せる”編隊で防空射を浪費させる狙い。


支流空路しりゅうくうろ: 本流の結界縁を避け、枝川の温度差と地形乱流を利用してレーダ代替の感覚器(結界器)を攪乱する進入経路。


見せみせだま: 実害の薄い囮機・囮符・反射束。数を誤認させ、弾と冷却余力を奪うために投入される。


渦の背骨うずのせぼね: 編隊が空気と魔力相を切り裂くときに生じる圧の脊梁。ここを折ると編隊全体の制御が崩れる。


温存射おんぞんしゃ: 「二射で足りる」を旨とするアムサラ対空ドクトリン。見せ玉には撃たず、背骨だけを狙って必要最小限で終える。

夕刻、川面の色が水門の石壁に海松茶を映し、風は日中の硬さを脱いで綿のように緩んだ。結界の縁はほのかに薄明を帯び、聞き板の音が昼より丸い。そのを縫うように、北の枝川の上から低い影が這い寄ってきた。


「……支流空路だな」測手が眉を寄せる。「温度差、上からじゃなく横から来る」


「音が細い。猫だ」イルイナが肩で息を整えた。「——灰猫」


 対空射台の霊線が一度、びりと震えた。線の先で、薄い鈴の音に似たノイズが跳ねる。旗竿の先端に結んだ黒布が、半手だけ揺れる。


「数、二十——いや、四十に見える」


「見えるように飛んでいるだけだ」カリームは星尺ではなく水尺を懐から出し、目盛りに指腹を当てた。「見せ玉の間へ撃つな。——背骨だけ折れ」


 彼は拍木を〈長・短・短〉と二度打ち、温存射の合図を明確にする。砲班長が復唱した。


「二射で足りる。三射目は禁止。四射目は喉鳴りの切欠になる。——泣かせるな」


「はっ!」


 影は薄い串のように列を組み、支流の上を舐めながら、結界の縁に指を這わせてくる。先頭の二つは金属箔の光をわざと散らし、数を多く見せ、後尾の三つは風紋に同調して、結界器の針を揺らす。


「一波、進入角三〇。二波、後ろに乗ってくる……」測手の声が低くなる。「間がいている」


「その間こそ、背骨だ」カリームは指で水尺の目盛りを二目押さえ、呼吸を整えた。「——今。一斉」


 一射目。青白い束が夜の境を縫い、細い影の背中を折る。一つ、二つ、落ちる。氷がもうない季節、黒い点は水へ吸い込まれ、泡の白だけが残った。


「二射目、待て」カリームが制止の手を挙げる。


「参謀、数がまだ——」


「数は数えるためのものじゃない。使わせるためのものだ」カリームは目を閉じ、風の返りを耳で測った。「今じゃない。吸え。——吸って、吐け」


 霊線がわずかに緩み、油路の拍が合う。喉の奥に手が伸びてくる気配——だが、銅は鳴かなかった。帝国の**“喉鳴り”の気配が微かに混じっていたが、断続で針を揺らすだけで、対空の胸には届かない。


 二射目。カリームは指を離す。砲身が短く鳴り、編隊の背骨を支える三番機の下腹に針が立つ。影は四つ、ねじ切れて水へ落ちた。残りは散開して上へ逸れ、支流空路の薄闇に戻った。


「……終息。追撃は不要」砲班長が息を吐く。


 警戒の拍印〈短・短〉が打たれ、合図旗が一手下がる。対空台の若い兵が、まだ指を震わせたままカリームを見る。


「参謀……撃ち足りません。見えていたのに」


「足りるときに足りさせるために、撃たないときがある」カリームは冷たく言った。「二射で足りるは美学じゃない。寿命だ。銅にも、兵にも、寿命がある」


 イルイナが聞き板を立てかけ、指で水面をいた。「灰猫の本命は二波目だった。見せ玉で数を増やし、背骨を隠す。——隠れている背骨がいちばん硬い」


「硬いから折る」カリームは短く笑い、すぐに表情を戻す。「今夜は温存だ。角材の搬送は朝、市場枠は夜へ。裁定盤、割合を反転」


 裁定盤の前で、拍印〈長・短〉(市場)と〈短・長〉(工事)が入れ替わり、矢が静かに三円の重なりの中心へ戻る。白旗は上がらない。鞘入れは必要ない——刃が出**ていないうちは。


 あいだに、小屋の背で焚き火が低く燃え、若い兵が器におかゆを受けている。頬はこわばり、眼は乾いていた。


「——参謀」砲班の副手が近づく。「さっきの二波、支流から“重なって”来ました。温度層を抜きながら、鈴の音で針を揺らすような……」


「帝国の望楼に吊った風鈴と同じ仕掛けだ」イルイナが苦笑する。「鈴は詩になったが、詩はまた刃にもなる」


「詩は紙に書ける」カリームは裁定盤を振り返る。「紙に書けるものは、折れる。折れないのは、手でしか伝わらない“待つ”の長さだ」


「——待つのは、怖いです」若い兵が器を両手で持つ。「見えるのに撃たないのは……」


「怖いのは当たり前だ。だから歌がある。歩調がある。拍がある」カリームは器の縁を指で叩き、〈長・短・短〉をひとつ刻んだ。「音は恐怖を均す」


 兵たちの息が少し揃い、肩の力がわずかに抜けた。


 黒松の砦。薄い蒸気の立つ茶碗を前に、ザエルは報告書をめくる。灰猫の線は細い墨で地図の支流上を這い、ところどころに×が重ねられている。


「二射で背骨だけ折られたか」


「は。見せ玉へは撃たず。喉鳴りは飲まれ、銅は泣きませんでした」副官が簡潔に答える。


「喉に手をやるふりは、一度で見切られる」ザエルは筆の先を握り、地図の支流に円を描く。「ならば次は足を払う。水門に行くのではない。水そのものの重さをずらす」


「増水期は今日で折り返し。黒水の揺れは薄くなります」


「薄いと見せて、厚いところを作る。紙で止め、風で誘導し、水で転ばせる。——白革を出せ。水門裁定の行間に紐を通す」


 副官が小さく息を呑む。「将、裁定は——」


「裁定は敵ではない」ザエルは首を振る。「裁定は地形だ。地形は使うものだ」


 彼は窓の外の粉雪を見た。もう雪とは呼べないほど薄い白が、黒松の枝を濡らす。(近さは軽さではない。輪郭は正確に——)


 夜半、支流の上で風が裏返る。だが今夜は来ない。沈黙は言葉。黙り方で手の内を隠す。カリームは星尺ではなく水尺を閉じ、聞き板に掌を置くだけにとどめた。


「——参謀」イルイナが囁く。「二射で落ちたのは四。残りは散開。被害ゼロ。冷却路の余裕、半刻以上」


「それでいい」カリームは短く答える。「勝ちは足し算で来る。負けは一回の引き算で足元から来る」


「明朝は角材を橋へ。市場枠は夜の舟。天井は据え置きで」


「裁定盤に残す。紙は重ねるほど鈍る。——鈍らせておけ」


 焚き火が低く鳴り、川風が小屋の布覆いを撫でた。対空台の若い兵が、最後にもう一度トリガーに触れ、そして離す。離せたことが今夜の勝ちだった。


 明け方。支流の上に薄靄が残り、鳥の影が二つ三つ、低く渡る。カリームは台帳の余白に小さく書いた。


二射で足りる。——“足りる”ように、足りない時に撃たない。


 その一行は、詩ではなかった。手順の断片。寿命の計算。

 彼は筆を置き、聞き板にもう一度だけ耳を当てる。水は軽く笑い、背骨はどこにも露出していない。今朝の川は柔らかい背中を見せている。


「——参謀殿」副官が駆け寄る。「本流に鈴の音。しかし結界器は平常。裁定盤、静置の指示を」


「〈短・短・短〉。白旗は上げない。音を止め、足を動かす。市場枠、夜へ振替。工事は今、橋脚の継ぎ目」


「了解」


 拍が響き、旗が揺れ、舟が進む。

 灰猫は来ない。沈黙は次の言葉を運ぶ。

 二射で足りる——その美学が、今夜も寿命を一日延ばした。

 そしてそれは、明日の“足りる”を保証する、いちばん地味で、いちばん強い戦だった。

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