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水門裁定

本日の用語


水門裁定すいもんさいてい: 北河回廊の水門運用を軍から切り離し、三者(アムサラ王国・帝国・ルーシ国)共同の民生規程として条文化した取り決め。


裁定盤さいていばん: 水門小屋に設置される共用の運用盤。拍印・灯火・旗の合図を三者共通記号へ変換し、開閉や優先枠の割当を記録する。


拍印共通記号: 〈長・短・短〉=「押し・止め・押し」など、拍木・角笛・旗動作を同じ意味に束ねた標準符号。誤解による交戦を避けるための“音と言葉の地図”。


天井てんじょう価格: 医療・食糧・燃料・陽石基剤など基礎物資に設定される上限。平年相場に係数を掛けて決める。


優先枠ゆうせんわく: 人道・工事・市場の三区分。水門通行や夜の舟の番を、割合と時刻で予約する仕組み。


鞘入れ手順さやいれてじゅん: 事態が刃へ傾いた際、交戦を避けて運用へ戻すための段取り。白旗三角の掲揚、裁定鐘三打、拍印停止→再同期などを定める。

氷の縁がほどけ、川面に春の黒がわずかに残る朝。水門小屋の前庭は、板と布と人の静かな混雑で満ちていた。三脚に載せられた大きな板——裁定盤——の中央には、白墨で三つの円が描かれている。円は互いに重なり、その重なりの部分に金の鋲がひとつ打たれていた。


 アムサラ側の参謀カリームは、手袋を外して指先をあたため、板の上の記号を確かめる。彼の右には、ルーシ国の官吏イルイナ。左には、帝国から派遣された連絡士官——ザエルの伝言係である若い男が立っていた。背後には書記官と測手と職人、それから拍木と角笛と旗竿を抱えた信号班が三国それぞれに並ぶ。


「それでは——『水門裁定』の条文案、読み上げます」イルイナが巻紙を広げる。その声は、冬のあいだ石に水が沁み入るように、静かで強い。


一 目的条


一条 本裁定は、北河回廊の水門運用を民の安寧と往来のために行い、軍の私利や威圧に供さないことを目的とする。

附記 交戦は本裁定の外にあり、交戦を避けるための手順は本裁定の内に置く。


 帝国士官が眉をわずかに上げる。「“避ける手順”を条の内に?」


「刃を鞘に納める“手順”まで紙に書く」カリームは頷く。「それがこの回廊の勝ち筋です」


 士官は短く笑みをつくる。「ザエルも、そう申すでしょう」


二 裁定盤条


二条 水門小屋に裁定盤を設置し、開閉・拍印・灯火・旗の合図はすべて盤上の共通記号へと変換・記録する。

二項 裁定盤は三者各一名の裁定手が同時に操作する。裁定手の交代は拍印〈短・短〉で行う。

三項 盤上の金の鋲は運用の。これが三円の重なりにあるときのみ、水門は運用される。


「鋲は“矢”です。指で押し、ここに留める。」イルイナが金の鋲を軽く叩く。金属の響きが小屋の梁へ上っていく。


三 拍印共通記号条


三条 三者は、以下の拍印共通記号を用いる。

 〈長・短・短〉=押し・止め・押し(水門の基本拍)

 〈短・短・短〉=停止(運用と信号の即時停止)

 〈長・長〉  =人道枠通行(負傷者・医療・子供)

 〈短・長〉  =工事枠(水門・橋・堤の保全)

 〈長・短〉  =市場枠(物資・商い)

附記 拍木・角笛・旗動作は同一の意味を持つものとする。夜は灯火点滅〈三・一〉=〈長・短〉に相当。


「音は国境を越える」カリームが拍木を取り、長・短・短を三度刻む。続けて帝国の角笛が同じ拍を吹き、ルーシの黒旗が三手で揺れた。音と動作が、同じ言葉になっていく。


四 優先枠条


四条 通行は人道・工事・市場の三枠に区分し、昼は人道二・工事一・市場一、夜は人道一・工事一・市場二の割合で運用する。

二項 黒水時・増水時は人道・工事を優先し、市場は夜の舟(小型舟運)へ振替える。

三項 緊急時は裁定鐘三打ののち、鞘入れ手順へ移行する。


 帝国士官が記録に朱を入れる。「割合の明文化。——異議なし」


五 天井価格条


五条 基礎物資(医療水・食糧・燃料・陽石基剤)の価格は、平年相場の一・二倍を天井とする。

二項 市場枠での過剰利潤(天井超過)は、次回優先枠の剥奪で裁定する。

三項 天井の基準はルーシ商会の帳簿と帝国関税台帳、アムサラの市場見いちばみの三冊照合で決める。


「“高く売られた刃”は動きが鈍る**」イルイナが微笑む。「市場を鞘にする条です」


「刃を金にしない**」カリームも応じる。「兵糧が“矢”を曲げるのを止めたい」


六 鞘入れ手順条


六条 喧噪・誤射・“喉鳴り”類似音など、刃のしるしを認めた場合は、次の鞘入れ手順に従う。

 一、白旗三角を三者同時に掲揚。

 二、裁定鐘三打。

 三、拍印〈短・短・短〉で全信号を停止。

 四、裁定盤の矢を三円重なりから離し、中立窓へ退避。

 五、聞き板で水の拍を確認し、〈長・短・短〉に戻せるかを三者で合議。

 六、記録員が経過を筆録し、違背の有無は日没後の小裁こさばきで裁定。


 帝国士官が顔を上げる。「“刃の納め方”に合意した、ということですね」


「はい」イルイナが言う。「手順さえ同じなら、誰の手でも刃は鞘に入る」


 小屋の外で風が変わり、布覆いの縁がかすかに鳴った。春の黒が、昼の光に薄まっていく。


 条の読み上げが終わると、実地の試行に移る。三者の信号班が裁定盤の前に立ち、カリームが合図する。


「まず、基本拍。——〈長・短・短〉」


 拍木がトン——トン・トン。角笛がブォ——ブッ・ブッ。黒旗が大きく一、間を置いて二。水門の綱が一寸だけ動き、止まり、もう一寸押される。聞き板の音が整う。


「次に緊急停止。——〈短・短・短〉」


 音が三つ、短く切れて返る。職人の手が綱から離れ、計器の針が落ち着く。誰も走らない。走らないこともまた、条文で決められた動きだった。


「鞘入れ手順、演目」イルイナが告げる。


 白旗三角が同時に上がる。裁定鐘が梁で三つ、乾いた音を打ち、三人の裁定手が矢を重なりから外して中立窓へ置く。聞き板。カリームが耳を寄せ、帝国士官が肩越しに音を聴く。“長・短・短”に戻せる——頷き。拍木が再び基本拍を刻む。運用に戻る。


 帝国士官が小さく言った。「——“戦の終わらせ方”が、ここにはある」


「戦を“始めない”ほうです」カリームが返す。「終わらせるのは、もっと高くつく」


 休憩のあいだ、裁定盤の端で価格天井の計算が進む。ルーシの帳場から平年相場の数字が読み上げられ、帝国の関税台帳と照らし、アムサラの市場見が現地の実感で補正を入れる。


「医療水、平年八銅。天井、九銅六厘」


「干し棗、一籠六銅半。天井、七銅八厘」


「松脂油、一樽十二銅。天井、十四銅四厘」


 カリームは筆を止める。「陽石基剤は特例を。軍需と民需で同じ天井にすると、どちらも嘘をつく」


 イルイナが頷く。「民は“灯り”に使う。軍は“刃”に使う。——民需は一・一倍、軍需は一・二倍。差額は回廊基金へ」


 帝国士官が口角をわずかに上げる。「将は“金で刃を研ぐな、紙で鈍らせよ”と」


「同意」カリームはさらりと答える。「紙は鈍るまで重ねられる」


 午後、小事件が起きた。望楼の風鈴が、誰の手でもない風で勝手に鳴りだしたのだ。結界器は平常域、水の拍も乱れてはいない。しかし条文に照らせば、「異音」は運用停止の徴として扱い得る。


 見張りが不安げに叫ぶ。「条に従えば、止めるべきでは?」


 イルイナが即答した。「条の“内”に鞘入れ手順がある。止めずに鞘に寄せる」


 カリームが裁定盤に矢を当て、拍木へ指示。「〈短・短・短〉——停止ではない、“静置”だ。白旗は上げない」


 帝国士官が角笛で〈短・長〉を吹き、工事枠へ切替。望楼の階で職人が風鈴の取付角を改め、鳴るべきでない音を止める。水門は止まらなかった。条文の“内”が、刃の気配を吸収した。


「“紙の勝ち”です」書記官が小声で言う。


「紙だけで勝ったのでない」カリームは聞き板に掌を当てる。「“紙に書かれた手順”に、手が従ったから勝った」


 日が傾く。三者が裁定盤の前に並び、最後の条——署名に移る。筆と印泥が配られ、巻紙の下辺に三者の文字と印が重なる。帝国士官は印を捺す前に、懐から薄い封書を取り出し、カリームへ差し出した。


「将からのお言葉を、代読してよろしいか」


「どうぞ」


 士官は封を切り、簡潔な文字を読む。


——近さは軽さではない。ただ輪郭は正確に。

紙は刃を鈍らせる道具であり、刃を鞘に納める道具でもある。

お互いの“鞘入れ”を紙に書けたなら、春は長く続く。

署:ザエル


 イルイナが笑む。「詩のようで、計算書のよう」


「将らしい」帝国士官もわずかに肩を揺らした。


 カリームは頷き、筆を取る前に一度川を見た。黒水はもう黒ではなく、深い緑に近い。流れは速いが、拍は読める。彼は署名し、印を押し、巻紙は**『水門裁定』として結ばれた。


 署名後の実装はすぐ始まる。裁定盤の脇に拍印一覧が掲げられ、信号班は互いの道具を交換しながら練習を重ねる。ルーシの若者がアムサラの拍木を、帝国の兵がルーシの黒旗を振る。言葉は違っても、〈長・短・短〉は同じ足取りを呼ぶ。


「夜の運用へ移行」イルイナが告げる。「人道一・工事一・市場二。市場は“夜の舟”の番表へ」


 番表の穴が、三者共通記号へ塗り替えられていく。白(人道)・灰(工事)・薄青(市場)。色も、音も、旗も、同じ意味を持つ道具へと整えられていく。


 帝国士官が帽子の庇を触り、短く息を吐いた。「これで、“間違って撃つ”隙が減ります」


「間違って“止める”隙も」カリームが応じる。「止めることさえ“武器”にされたのが冬でした」


「春は」イルイナが言う。「止めることを“技術”にする」


 三人は互いを見た。笑みは浅く、そして深い。それは冬の間じゅう何度も交わした、あの薄くて重い笑みだった。


 夜。裁定鐘が一度鳴り、夜の舟が二隻、水門をくぐる。船頭が拍印に合わせて棹を押す。押し・止め・押し。

 見張り台の上で、カリームは聞き板に耳を寄せた。水の声は丸い。刃の音はしない。


「参謀」副官が囁く。「これで勝てますか」


「勝ち負けは、紙に書かれない」カリームは静かに答えた。「だが、“折れないやり方”は書ける。——今日書けたのは、刃を鞘に納めるまでの手順だ」


「手順は、詩より強い」イルイナが聞き板の反対側に掌を当てる。「明日、誰が立っても、同じように鞘に戻せる」


 帝国士官が遠くの望楼を見やり、低く言う。「将に報せます。“鞘の図”が出来たと」


 川風が布覆いを撫で、旗が一手だけ揺れた。

 紙は夜露でわずかに重くなり、その重みのぶんだけ、刃は鈍った。

 それでいい——と、三人はそれぞれの胸のうちで言った。

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