黒水禍
本日の用語
黒水: 融雪で生じる土砂混じりの濁流。流木・氷片・油膜まで抱き込み、光と音を乱して計器を惑わせる春特有の水。
濁流ノイズ: 黒水が結界器・位相計・霊線センサーに与える誤検知。乱反射・泡立ち・漂流物の叩音が主因。
目盛り折り: 水門の水尺や計量盤の目盛り板を物理破壊/偏曲させ、運用者の判断を狂わせる妨害。
布覆い(ぬのおおい): 反射を殺す黒布。灯火・水面のグレアを抑え、敵の光学照準を鈍らせる。展張手順が定められている。
拍印: 太鼓・拍木・旗で全員の動きを同期させる現場合図。大人数を“ひとつの手”のように動かす。
聞き板: 水門の開閉音・水の通り声を拾う調整板。音で“水の拍”を読む職人道具。
朝いちばんの川は、冬の鏡面を捨て、黒をまとった。雪代が谷から押し出され、砕けた氷片と流木が絡み合い、水が水以外のものになる。白い泡がひき裂かれ、油の薄膜が虹をほどき、陽が射すたびに目が痛む。結界器の針が震え、測手が顔をしかめた。
「位相、踊ります。読めません」
「読まなくていい」カリームは言った。水門上の見張り台にあがり、水尺の白墨印を指でなぞる。「今日は目と耳で読む。器は“黙らせる”。——聞き板を出せ」
職人が木箱から薄い板を取り出し、門柱に立て掛ける。水が通る声が、よく通る喉のように艶を帯びて響く。カリームは耳を寄せ、蒼い指で板の角を半分だけ緩めた。音が低く落ちる。黒水の拍が、聞こえる——長・短・短。彼は頷き、拍台に合図を書く。
「拍印、今日は“長・短・短”。合図語は“押し・止め・押し”」
そのとき、結界班が走ってきた。「結界器、濁流ノイズで赤! 反応が“壁”いっぱいに散ります!」
「散るものは刈れない」カリームは即答した。「布覆い班、第一展張。白布じゃない、黒だ。水面の反射を殺す。——黒水には黒を返せ」
黒布が肩から肩へ渡され、棒へ、綱へと登っていく。布が張られるたび、水の上で踊っていた光が鈍り、望楼の足場からは影と形だけが残る。グレアが消えると、黒水の筋が見えた。速い筋、遅い筋。押しと引き。
「押し!——止め!——押し!」拍木が鳴り、門の綱を引く三十の手がひとつになる。濁流は牙を見せるたび、拍に噛み合わされて力を削がれていった。
黒松の砦。ザエルは窓の向こうで日が割れるのを見ていた。黒い水の背筋を眼で追い、短く唇を歪める。
「自然は、最良で最悪の同盟者だ」
副官が報告を差し出す。「本日、黒水。濁流ノイズ。——“目盛り折り”を実施可」
「滑空機は?」
「二十。母機一。荷は“鉛環”と“鉤輪”、いずれも落下衝撃で水尺の板を折る仕様」
「折るな。折り“たい”と思わせて曲げろ」ザエルが目を細める。「板が“まっすぐでない”ほど、相手の推算はゆっくり壊れる。『今日は黒水だから狂ったのだ』と自分で言わせろ」
「了解。『目盛り折り』ではなく『目盛り撓め』に」
「そして滑空機は見えすぎる**。黒布を張ってくる。——反射の目安を奪われても狙えるよう、音を学ばせたか」
「教師役は“喉鳴り班”から拝借。音の“間”で投下」
ザエルは地図の端を指で叩く。「狙いは水尺の白墨と聞き板**。目と耳を同時に曇らせろ。自然の煙幕の内側でな」
昼をまたいで、黒水はさらに黒くなった。谷の一本分が落ちてきたのだ。流木の群れが門の前で回り、氷の破片がその隙を抜け、空気ごと水面を切り取る。イルイナが背後で短く息を呑む。
「参謀。滑空音。低い」
見張り台の影が一度沈む。布覆いの黒を、黒が通り抜けてきた。風はほとんどない。滑空機が水の“筋”を舐めるように進み、鉛環をぽとりと落とす。目標は——水尺の白墨。
「落下!」誰かが叫ぶ。鉛の輪は水面に小さな穴を開け、跳ね、板へ。
——鈍い音。
白墨が半分、剝がれた。
「目盛り、剥離!」測手の声が走る。「一尺、読めません!」
「“剥がれた”のは紙だ」カリームは即答した。「黒墨を。白は使うな。黒水は黒で読め」
記録係が墨壺を持って駆け寄る。カリームは膝をつき、濡れた板に黒の目盛りを逆算で引く。聞き板の声と水の肩を見比べ、指の幅で補正を入れた。
「仮目盛り、通した」イルイナが頷く。
「仮でいい。今日正確であるより、今一貫であれ」カリームは立ち上がり、拍台に戻る。「押し!——止め!——押し!」
第二波。滑空機がさらに低く潜る。布の下腹を擦り、鉤輪が聞き板を狙う。
ガンッ。板の角が欠け、音の輪郭が崩れる。
「聞き板欠損!」
「予備板。角をわざと丸めろ。黒水は角に噛みつく」カリームは工具袋を掴んで走った。職人から小刀を受け取り、板の欠けた角を削り、曲線に整える。耳を寄せると、音がひとつに戻る。“長・短・短”。彼は笑わないが、眼が少しほどけた。
第三波。滑空影は数を見せ、あえて同時に来た。布覆いの継ぎ目に影の縁を差し込み、二つの鉛環が連続して落ちる。ひとつは仮目盛りの中央、もうひとつは綱車の歯。
「綱車!」砲班長の低い吠え声。
ギャッと鳴って、一本の綱が跳ねた。人がひとり転び、指が綱に巻かれ——イルイナの指笛が裂く。
「保留!」
全員が引き金ではなく綱から手を離す。綱のはねは床で暴れ、誰の指も取らなかった。
沈黙。黒水の轟きだけが響く。二拍置いて、カリームの声。
「拍印、再開。“押し・止め・押し”。——行け」
押し。門は一寸だけ動き、止め。黒水が牙を出し損ね、押しで噛み合わせを変える。人海の動きが一本になり、綱の唸りは歌**になった。
黒松の砦。副官が紙束を置く。「『目盛り撓め』——限定的。水尺に黒墨補正、聞き板に曲線処置。拍印が強固」
「強固ならば、次は弱さを使わせろ」ザエルは静かに言う。「人の弱さではない。“書”の弱さだ」
「“白革”を再起動?」
「いや」ザエルは首を振る。「白革はもう“彼らの手”に入った。『紙は刃。だが刃は見える』と学んでいる。——水でいけ。黒水は、あと二刻で最黒だ。反射を殺した布の縁に、白を流せ。油膜を一点、白に。そこだけ見せろ」
「白い“目”。照準のための」
「そうだ。狙わせ、狙わせない。——“見せ玉”を水に作る」ザエルの口元が少し上がった。「狙う意志が強い者ほど、目を奪われる」
黒水に小さな白が浮いた。最初は誰も気づかない。油膜が虹をやめ、乳色に固まる。布覆いの黒に対して、そこだけ目のように光らない光。
見張り台の若い兵が、顔をしかめる。「あそこだけ“静か”です」
「目だ」カリームは短く言った。「狙わせるための“目”。——布覆い第二展張、縁を二尺下げ。白を隠すな。囲め」
黒布が二の字に降り、白の周囲に影の額縁ができる。白は白のまま、目のように強くなる。上空を回る滑空機の影が一度だけ揺れ、鉛環が白へ落ちた。
——ばしゃ。
水だけが跳ねた。白は油膜。硬さはない。鉛環は底で石を打ち、無駄に重く沈む。
もう一機が焦って聞き板を狙い、布の縁に鉤輪を引っ掛ける。布は破れず、縫い目が伸びて衝撃をなめた。鉤輪は布に負け、水へ戻る。
拍印が鳴る。「押し!——止め!——押し!」
黒水の背が曲がり、門は一本の手に押されるように素直に従った。
夕。滑空機の影が薄くなる。黒水はまだ黒いが、怒りの質が変わる。轟きは低く、粘る。イルイナが帳面を繰る。
「本日の損耗。水尺:白墨剥離一、仮黒墨補正済。聞き板:角欠損一、曲線整形済。綱車:歯一枚損。人員:擦過傷四、骨折なし」
「最小だ」カリームは頷く。彼の指先は黒墨で汚れ、爪の間に黒水が入り込んでいる。「今日の勝ちは“読めなくさせない”勝ちだ。——目盛りは目だが、目だけで読むな」
若い兵がためらいがちに手を挙げた。「参謀。どうして白を隠さず“囲んだ”んです?」
「狙わせるためだ」カリームは答える。「狙いは“強い意志”を持つ。強い意志は、用意された目に吸い寄せられる。——こちらが“狙い所”を決める。そこへ何も置かない。撃たせて外させる」
「将棋みたいですね」
「将棋は“歩”が強い」カリームは拍台を軽く叩いた。「拍印は“歩”を金にする。——皆で動けば、弱いところは消える」
ファハド王が背後で聞いていた。王は濡れた外套を脱ぎ、黒い布を自ら畳んだ。「見ていた。歌も、手も、よかった」
「歌は必要でした」イルイナが頷く。「“押し・止め・押し”を、皆が口の中で言ってた。緊張がほどけない**」
王は笑みを薄く見せ、川面を一度見た。「春の最初の牙を、折らずにかわした。——良い」
夜。黒水は少しだけ浅くなる。天幕では布覆いの破れが繕われ、綱車の歯が予備と交換される。整備兵が油の巡りを確かめ、聞き板職人が削り粉を払い落とす。カリームは帳面を前に星尺ではなく水尺を置き、今日の答え合わせをする。
「“自然は敵ではない”。敵は“自然に刃を隠す手”。——今日、手は“見えた”」
イルイナが朱で線を引く。「“紙”より“水”の刃。白革は使わず、白の油膜を“目”に。新規だね」
「ザエルは“紙”と“風”と“水”を並べて読む人だ」カリームは小さく笑う。「だから、こちらは“足”。——足が拍を刻んでいる限り、刃は滑る」
彼はペンを置き、短く息を吐いた。「明日は水門の聞き板を二重にする。片方は偽物**。——**音の“目”も用意しよう」
「音に“目”を?」
「音の“目盛り”だ。目盛りを折られたら、耳盛りで読む。板に刻みを入れ、指で読む。濁流ノイズの夜は、指が一番正確だ」
イルイナは笑った。「参謀の“指”は、寒さに強い」
「痺れてるだけだ」カリームも笑い、手を軽く握って開いた。指の腹に残る黒墨が、今日の仮目盛りの手応えを教えている。
黒松の砦。ザエルは薄い茶を飲みきり、空になった茶碗を窓辺に置いた。副官が書付を手に戻ってくる。
「目盛り、折れず。撓めは僅少。白の“目”は一機に通用、二機目で対応されました」
「読んだな」ザエルの声は乾いているが、責めてはいない。「読まれたなら、次は“読ませない”だ。——夜の舟に気を配れ。物資枠の切替が近い。紙の刃はそこで効く」
「第三の約定、春期追補の条……」
「“必要は輪郭を与える”。彼らは輪郭を守る。なら、輪郭ごと動かす。——“黒水禍”の報は、連邦にも送れ。市場に黒を落とす」
副官は一礼し、出てゆく。ザエルは窓の外を見やった。黒い水が夜へ沈み、布の黒と混じる。自然は刃にも鞘にもなる。読む者の前だけで。
真夜中前。川はようやく息を整えはじめた。拍台には布が掛けられ、門は半分だけ下ろされる。人海は焚き火の輪で短く粥を食べ、誰かが静かな歌を口の中で続ける。
「本日の記録、最後」イルイナが読む。「“黒水禍”。布覆い第一・第二展張。拍印“押し・止め・押し”。白の目、囲み処置。仮黒墨目盛り。聞き板、曲線整形。綱車、歯交換。人員、軽傷四。——“最小被害で凌ぐ”」
カリームは頷き、短い合図で帳面を閉じた。「明朝、目盛りを正式に引き直す。黒墨で。白は、夏まで使わない」
「了解」
「それから」カリームは焚き火の火をひと匙すくい、黒布の縁を照らしてみる。「布の縫い目、いい顔になった」
「縫い直し班がよくやりました」整備兵が胸を張る。
「継ぎ目は、誇っていい傷だ」カリームは言った。「継ぎ目で持つのが現場だ」
彼は水尺をそっと立てかけ、聞き板に掌を当てる。木の温かさがまだ残っている。黒水の怒りは去り、力だけが残った。彼らはその力を拍で分け合い、最小の傷で夜を越えた。
明日はまた別の刃が来る。紙か、風か、水か。だが足は同じだ。
押し・止め・押し。
足で読む。耳で書く。指で刻む。
黒い水が、やがて春の道へと澄んでいくまで。




