喉鳴りの変奏
本日の用語
喉鳴り(のどなり): 対空魔導砲の銅冷却路や霊線配管に外部振動を同調させ、金属を“鳴かせて”機能不全を誘う干渉攻撃。
変奏喉鳴り: 低周波の断続パルスを用い、共振域を“踏み分け”ながら拾わせる改良型。一定波ではなく、意図的な間で金属の癖を突く。
油循環拍: 冷却油を吸入・吐出で律動させる運転拍。拍台で全砲を同期し、流量・圧を微細調整する。
逆位相吸吐: 加えられた外部振動に対し、油の吸いと吐きを半拍遅らせることで共振エネルギーを打ち消す運転法。合図は「吸って、吐け」。
引き金保留: 視認目標があっても、砲の引き金に触れず撃たないことで装置の健全性を優先する規律。 “我慢の勝ち”とも。
薄曇りの夕。川面は鉛色で、風は東から低く押し寄せていた。結界の縁は春の水に馴染み、冬の“壁”から“鞘”へと役目を換えつつある。だが、空の向こうで鳴る何かは、まだ冬の名残をわざと掘り返すつもりだった。
「来る。今日は“音”で来る」カリームが言った。拍台の上に手を置き、指で板を二度、浅く叩く。「目を閉じても聞こえる音だ。——引き金に触れるな。触れるだけで負ける夜もある」
対空班が無言で頷く。砲床に跨がる兵が、癖のように引き金へ伸びる指を、そっと膝の上へ戻した。整備兵が銅の冷却路に耳を寄せ、油量計に針の影を合わせる。イルイナは拍台の帳面を開き、“油循環拍”の欄に今日の予定拍を書きこもうとして、筆を止めた。
「参謀、いつもの拍(長・短・短/間/短・長)でいい?」
「一拍、遅らせる。外から“間”が来る。——“吸って、吐け”を逆位相に回す」
「逆位相吸吐ね」イルイナは頷き、帳面に半拍遅延の朱を入れる。
そのときだった。腹の底を撫でるような、見えない手が一度、二度。低い唸りが、天幕の布を内側から引き下げる。連邦式“鋼の翼”母機の発振だ。一定ではない。鳴って、黙り、鳴って、黙る。間がいやらしく置かれている。変奏だ。
「第一段、“喉鳴り”——低周波、断続。来ました」測手が報告する。霊線の針がゆっくり往復し、油のゲージの数字が僅かに呼吸する。
「拍台、いく。——“吸って、吐け”の合図を全砲へ」カリームは拍木を握り、長・休・短/休/短・長——半拍ずらした音列を鳴らした。
整備兵がバルブの輪を握る。「吸って……吐け」輪が半呼吸遅れて回り、冷却油が銅の腔を逆らうように流れ始める。外から押される腹の手を、中の油でいなす。
再び、空の手が押した。天幕の縄がわずかに鳴り、砲の銅が鳴きたいと身をよじる。だが、油が吸う。吸って、吐く。半拍ずらした呼吸が、外の間を吸い取ってしまう。銅は鳴かない。
「二段目、来る——間の長さ、変えてきた」測手が声を上げる。「“長・長・休/短”です」
「こちらは“長・休・長”に返す。拍は負けない」カリームは拍台を鳴らし直した。「吸って……吐け」
油が喉を通り抜ける音が聞こえた気がした。金属の喉ではない。油の喉だ。銅の声は沈黙を選ぶ。我慢の勝ち——カリームは心の底で呟く。
黒松の砦。ザエルは窓辺に立ち、薄い茶を両手で包む。副官が報告書を持って入ってきた。
「“喉鳴り”、二変奏とも無効。油の拍を逆位相で合わせてきます」
「拍で返したか。足の方だ」ザエルは茶碗を置き、薄く笑う。「紙に刃が潜み、場に律が潜む。拍を握れば、場は固い」
「次の手は?」
「“欠伸”だ」ザエルは指で机を二度叩いた。長い休符。「間に隙を挟む。油は律に弱い。律の中の油を眠らせる。——欠伸をさせろ」
「母機に指示します。断続の“休”を長く」
「長く、しかし不規則ではなく。“眠くなる規則”でいけ」
副官は頷いた。「“眠くなる規則”……了解」
川辺では、眠気が最初に兵を襲った。腹の唸りが遠く伸び、寸前で止まる。続けて同じ長さでまた伸び、また止まる。緊張をほどく種類の規則。肩の力が知らず抜け、指が引き金へ近づく。
「触れるな」カリームは言い、歌を命じた。「“吸って、吐け”の歌だ。口の中で歌え。声は出すな。拍で眠気は殺せる」
口の中で、低い歌が始まる。
すって、はいて、ひらいて、とじる。
すって、はいて、(一拍)ひらいて、とじる。
歌に合わせ、油が吸って、吐く。半拍の遅れは保ったまま。眠くなる規則に対し、眠らない規則で返す。
喉鳴りが欠伸を誘っても、銅は眠らない。油が起きているからだ。整備兵が囁く。「鳴きません、参謀」
「鳴かせるな。銅は歌わなくていい」
第四射台の若い兵が、視界の端に走る黒い影へ反射的に指を伸ばした。イルイナの短い指笛が飛ぶ。「保留」若い兵は我に返り、引き金から指を離す。彼は噛み締めた奥歯を、ゆっくり緩めた。
「参謀、弾は?」砲班長が問う。
「今日は撃たない」カリームは首を横に振った。「この夜は“守る”が攻めだ。我慢が勝ちだ」
砲班長はうなずき、霊線の張りをひと目盛り緩めた。油の泡が立ちかけては消える。キャビテーションの音が喉の奥でひゅうと鳴りかけ、吸って、吐けで落ち着く。
空の唸りが三度、四度。休が長い。眠い規則が続く。だが、拍台の上に置かれたカリームの手は動かない。必要なときにだけ一度、浅く叩く。逆位相吸吐の合図を忘れさせないために。
夜が半ばを過ぎた頃、喉鳴りは——止んだ。風の音が戻り、天幕の布がただの布に戻る。
「終わり」測手が囁く。
カリームは拍台から手を離し、油量計を見回った。「銅は鳴かなかった」
「はい。全台、正常範囲」整備兵が胸を張る。第四射台の若い兵は、こぶしを静かに握り、開いた。「撃たないほうが、難しいですね」
「そうだ」カリームは笑わなかったが、声は柔らかかった。「“撃て”は簡単だ。“撃つな”は、皆で守る規律だ」
明け方。油の温度が安定し、銅の肌が霜のような微かな白を纏って眠る。イルイナは記録帳に今夜の曲を書きつける。
「“喉鳴りの変奏/欠伸型”。対処——“逆位相吸吐”、口内唱歌併用。効果——銅鳴き無し」
「“眠くなる規則”は、歌で壊せる」カリームが付け加える。「拍は心の筋肉だ。鍛える」
そこへ走脚が一人、息を白くして飛び込む。「〈報〉連邦式母機、退去。——黒松の砦、静穏」
イルイナが肩で息をつく。「やり過ごした」
「やり過ごしただけだ」カリームは拍台の布を掛け直した。「次は“音”ではないかもしれない。紙か、影か、風か」
「でも、今夜は勝ちです」若い兵が言う。彼の声は小さく、しかし真っ直ぐだった。
「ああ」カリームは頷く。「“銅は鳴かない”——それが勝ちだ」
黒松の砦。ザエルの前に、アーネストが立つ。彼は余計な言葉を挟まない男だが、今夜は一言だけ添えた。
「鳴りませんでした」
ザエルは短く息を吐く。「眠気に勝てるのは、拍か」
「はい。拍で“眠くなる規則”を壊しました」
「よい」ザエルは頷く。「拍に勝てない夜はある。ならば拍を散らす。——“場所”を増やし、“時”をばらせ」
「“紙”に戻しますか」
「紙と風の合わせ技だ」ザエルは窓外の雪残りを眺める。「紙は刃、風は鞘。——あの参謀は鞘を増やす。こちらは刃を薄く長く伸ばす」
アーネストは小さく笑った。「薄い刃は、よく曲がる」
「曲がってもいい。折れなければ」ザエルは笑いを返し、茶碗を指で回した。「折るのは、最後でいい」
日が出る。回廊の小屋に光が漏れ、氷の名残がきしりと鳴って消えた。カリームは若い兵たちを集め、短い講義をする。
「今夜、なぜ勝てたか。——“撃たなかった”からだ」
兵たちが静かに息を呑む。
「装置には二つの勝ちがある。敵を壊す勝ちと、自分を壊さない勝ちだ。今夜は後者だ。喉鳴りは、こちらの我慢が崩れた瞬間に牙を立てる。だから歌を使い、拍で互いの我慢を支え合う。——英雄譚は要らない」
イルイナが手を挙げる。「参謀、規律の名称を“引き金保留”で統一する?」
「そうしよう」カリームは頷く。「『保留』がかかったら、誰が合図しても全員が引き金から指を離す。——“我慢の勝ち”。標語にする」
兵の一人が笑う。「子どもでも覚えられる」
「子どもでも覚えられる規律が、一番強い」カリームは言った。「戦場の歌は、簡単でいい」
拍台の端に朱で新しい行が加わる。
《引き金保留》——合図一声、全員指を離す。
(合図語:保留)
(補助:口内唱歌“吸って、吐け”)
遠くで、鈴が一度だけ鳴った。望楼の軒の遊びだろう。誰も、そちらを見ない。見るべきものを、彼らは見ている。
カリームは水尺を握り、朝の拍印を準備した。「今日も、足で刻む。紙が来ても、音が来ても、風が来ても——足で返す」
拍木が板に触れ、一度、短い音を落とす。川はそれを聞き、静かに流れを返した。
銅は鳴かない。
我慢の勝ち。
そして春は、少しだけ近づいた。




