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目覚めた獅子

【本日の用語】

逆位相楔ぎゃくいそうくさび》:結界の律に逆向きの揺らぎを打ち込み、一時的に“風穴”を開ける小型楔。

野戦号令権やせんごうれいけん》:儀礼手順を省き、現地指揮官が鼓・旗・符で即時に命令を通す権限。

白布を巻かれた司令鐘が、地下の薄闇で喪に服すように沈黙していた。香炉はまだ甘い煙を吐き、礼香の匂いが石壁に染みついている。その静けさを、砂を踏む硬い靴音が切り裂いた。


「――鐘の白を外せ」


低い一声に、従卒が反射で手を伸ばす。外套の裾に砂をつけた男、予備役将ザエルが進み出ると、祭壇の火へ指をかざし、ふっと蓋を閉じた。空気が一つ沈む。


「儀礼を切る。今より《野戦号令権》を開放。号令は鼓と旗と近符だ。祈りはあとだ」

「はっ、将軍! 伝令、太鼓隊へ――」

「待て。太鼓は短く、三。『舌打ち』を刻め。遅い命令は死だ」


石の床が太鼓の震えを返す。薄暗い廊に「トッ、トッ、トッ」と乾いた音が走り、書記官が慌てて筆を止めた。


「敵は渡河し、喉を作った。喉を握れば身体は勝手に窒息する」

「握る手順、三つ。第一――」

「黒渡しだ」ザエルは水晶盤の縁に黒い小石を置く。「黒衣軽装、二十。布覆い、音消しの草鞋、短刀だけ。対岸の継ぎ目に《逆位相楔》を刺して風を裏返せ」

「了解。川面の反射は布で殺します」

「二手目は?」

「砲の『癖』を叩く。敵の《対空魔導砲》は三斉で鳴く。鳴き終わりの半刻、前衛を一歩深く出す」

「よし。三手目」ザエルは針を摘み、人差し指で軽く弾いた。「《逆位相楔》で十五呼吸の風穴を開ける。その隙に六翼のみ通す。油壺を砲の《霊線》と補給舟へ」

「十五呼吸……戻れるか、六翼」

「戻れぬなら、落ちる前に燃やせ。風は借り物だ」


石壁に貼られた古い地図。継ぎ目に重ねた薄紙の端が、彼の指先で抑え込まれる。ザエルは短く息を吐いた。


「合言葉はいつもどおりだ。『怖れは前に置け。曲がり角には正面で入れ』」

「繰り返す。『怖れは前に置け。曲がり角には正面で入れ』」


川風は夜に冷え、布覆いでまるめられた舟が音もなく滑る。黒衣の小隊長が囁く。


「声は喉の奥で。息は鼻で二、口で一。櫂は水じゃない、風を掻け」

「……隊長、風を掻くって……」

「耳で聞け。皺が逆さに走る。いま、だ」


川面に生じる細い線が、流れの向きとは逆へ走った。若い兵が身を伏せ、包から楔を取り出す。金属でも木でもない、黒い石英に薄い符が巻かれた小楔だ。


「刺したあとが本番だ。刺す“直後”に周りの空気が沈む。指を噛まれるな」

「怖れは前に置け……」

「そうだ。怖いまま刺せ。三、二、一――」


微かな音。砂に刺すよりも、膜を押し破るような感触。楔の符が青白く瞬き、周囲の空気が縮む。耳の奥で紙が裂けた。


「入った。十五呼吸、数えろ!」


同じ夜、アムサラの《橋頭堡》。薄い防空の膜が風を擦り、陽石柱が低く唸っている。歩哨が肩越しに囁いた。


「隊長、灯が三つ、対岸に――いや、消えました」

「消えた? 数を数え……」

「待て。川の皺が……逆です」

「逆?」

「逆です!」


角笛の音が半拍遅れて立ち上がる。天幕の内でカリームが顔を上げた。


「逆相だ。――逆相笛! 耳を二倍に、灯は殺せ。見張りは交互に噛め!」


副官が焦燥の息で言葉を詰まらせる。


「参謀、空が薄い時間に――」

「知っている。薄いからこそ『聞く』。笛の律で対抗しろ。継ぎ目に人を寄せるな、土嚢を寄せろ」


砲陣地では班長が短く怒鳴る。


「標定手、偏角七! 仰角四! 霊線、安定させろ! ――斉射!」


乾いた閃光が夜を裂く。空で何かがひっくり返る音、炎の尾。歩兵が思わず叫ぶ。


「落ちた! 一翼、落ちたぞ!」

「喜ぶのは帰ってからにしろ! 二翼目、低い! 油だ!」

「三斉目いけるか!」

「銅が鳴く! 無理だ、冷却!」


耳を刺す金属音。砲身の内部で熱が軋み、班長が歯噛みする。


「沈め! 砂を持て! 水使うな、火が走る!」


油が砲座の周囲に散り、《霊線》沿いに黒い火が蛇のように走った。補助舟の係留綱が爆ぜ、舳先が炎に噛まれる。衛生兵が叫ぶ。


「消火に水を……!」

「水は駄目だ、油が浮く! 砂で窒息させろ!」

「負傷者の担架が通れません!」

「担架は右側、銅路に触れるな!」


天幕に戻ったカリームが矢継ぎ早に噛み合わせる。


「対空は二門一組で交互。三斉ごとに交替、冷却はずらせ。油火は砂で蓋、霊線は切り離して巻き直せ。――歩兵、逆相笛で楔を刺した点を止めろ。『笛が勝つ』律で押せ!」


「はっ!」


耳に痛い笛の逆音が継ぎ目で鳴る。黒衣の影が一瞬たじろぐ。


「抜け! 楔を抜け!」

「抜けません、吸われます!」

「なら、穴ごと埋めろ。土嚢二段、砂を先に落とせ!」


砂がざらりと崩れ、微細な震えが鈍る。楔の符が最後にちろりと光り、息が解けた。


「十五呼吸、閉じます!」

「閉じればいい。閉じる間に、あいつらは“数えた”。――次は『人の癖』を突いてくる」


カリームは作業表を引き寄せ、さらりと時刻を塗り替える。


「交替をずらせ。冷却の刻、給水の刻、巡検の刻――全部、半刻ずつずらす。律を乱せ。眠気を嫌うなら、眠気の出る刻を移せ」


副官が目を瞬く。


「兵が疲弊します」

「疲弊は数で補える。癖を読まれた時の致命傷は、数では補えない」


帝国側、ザエルは低い太鼓を二つ聞き分け、報告を促した。


「黒渡し、帰還」

「損耗、軽傷四、死亡なし。楔、二本有効。一本は笛で乱されました」

「笛か。律をあてる笛だな。よし、笛に笛をぶつけるな。笛のない時刻を選べ」

「六翼――一、喪失。二、軽傷。油は砲座の霊線と補助舟に命中」

「半ばで十分だ。敵は水が使えぬ火を抱いた。夜の半刻ごとに『同じ場所』ではなく『同じ癖』を叩け。交替、冷却、救護。人の律は読める。読めば折れる」


副官が小声で問う。


「将軍、飛竜は増やしますか」

「増やさない。増やせば結界に食われる。必要なのは翼ではない、刻だ」


石盤の上で黒石が一つ、すべる。継ぎ目へ、半歩深く。ザエルは白布を巻き取って机の端へ置いた。


「白は朝に戻せ。今夜は黒だ」


黒衣の若い兵は舟の底板に頬をつけ、歯の根の震えを吸い込んだ。


「十五、呼吸って、長いな……」

「長い。だから、最初の三は『自分のため』に吸え。残りの十二は『仲間のため』に吐け」

「……隊長は戻れると思いますか」

「戻る。戻れないなら、戻れないまま次のやつが渡る。怖れは前に置いたろ」


舟腹を撫でる水の気配が、風へと変わる。櫂が空気を掻く感触に、若い兵はやっとひとつ笑った。


「風って、掻けるんですね」

「掻けるとも。あいつらが掻けるなら、俺たちも掻ける」


橋頭堡の一角。衛生兵がカリームの前に立ちはだかる。


「参謀殿! この給水のずらしはきつい! 診療所がまわりません!」

「二刻ごとに『休め』を当番で出す。水盃は半量に調整、干し棗で血糖だけ保て」

「それで持ちますか!」

「持たせる。代わりに、休みに仕事をさせるな。休みは休みだ。休みを削るな」


砲班長が横から割って入る。


「参謀! 銅が鳴く刻は鳴くんです。ずらしても鳴きます」

「鳴くのは『癖』だ。だから、鳴く前に交替させる。交替をずらす。――鳴く前に黙らせろ」

「黙ったら撃てません」

「撃てない時間で死なない陣形にする。それが参謀の仕事だ」


歩哨が駆け込み、息を切らす。


「敵、南側の土手で角笛。太鼓は三、間が一拍長いです」

「一拍長い……『舌打ち』で前進だ」カリームは即答した。「歩哨線を引き、銃は撃つな。反射で撃たせたいはずだ。撃たないで、一歩だけ下がれ」


副官が目を丸くする。


「下がる……ここで?」

「一歩だけだ。敵の『前進一歩』と噛み合う。噛み合えば、喉と肩がぶつかる。ぶつかれば、息が切れる。――喉を守るのは筋肉じゃない、間合いだ」


帝国前衛。太鼓が短く三度、鼓手が舌で小さく音を合図する。先頭の中隊長が低く笑った。


「噛んだ。噛んだぞ、あいつら下がったな」

「下がりました!」伝令が重ねる。

「では一歩深く。一歩だけだ。欲張るな。欲張ると喉を出す」


黒い影が砂丘の陰を伝い、継ぎ目へ指を入れるようにじわりと寄る。狙いは盾ではない、盾と盾の間だ。


深夜。風穴は三度開き、三度閉じた。毎回、別の角度、別の高さ。結界は唸り、陽石柱は微かに冷えていく。砲座の銅は一度も割れなかったが、冷却のたびに兵は瞼を重くした。カリームは作業表にさらに一本線を引く。


「交替の合図は笛から木鈴に変えろ。音色を変えると、体内時計が乱れる」

「参謀、兵が混乱……」

「混乱は意図して作れ。敵も混乱している。どちらの混乱が浅いかの勝負だ」


歩哨がまた駆け込む。


「南東、黒衣の影。楔、一本。抜こうとした兵が指先を……」

「止血。指は縫え。抜けないなら、音で殺せ。逆相笛を二本、同時。足元に砂を落とし続けろ。音と砂で鈍らせ」


若い兵が躊躇う。


「笛、耳が痛くて……」

「耳が痛いのは生きている証拠だ。痛みは、死なない方を選んだ証拠だ」


ザエルは鼓の返事が一拍長くなったことを聞き取り、顎をさすった。


「奴ら、交替をずらしたな」

「ずらしました」

「よし。ならば『ずらし』を学んだ兵に『ずらせない仕事』を投げろ。担架路だ。傷病者の搬送路はずらせない。そこを踏むのは卑劣だが、卑劣は戦の性だ」

「……承知」

「ただし踏み潰すな。踏めば憎しみが律になる。律は強い。怖れだけを増やせ」


副官が息を呑む。


「将軍、それは……」

「兵の命を秤にかける仕事だ。お前が嫌なら、俺がやる。俺が嫌でも、誰かがやる。だから俺がやる」


暗い通路に短い沈黙。やがて副官がうなずいた。


「命令を」


ザエルは盤上の黒石を一つ弾き、別の継ぎ目に置き直した。


「担架の合流点へ圧をかけろ。押し合いを作れ。押し合いは声を大きくする。声が大きいところは、命令が通らない」


橋頭堡の通路で、担架列が交差した。衛生兵が声を張る。


「右へ寄れ! 右だ!」

「違う、左! 左が空く!」

「待て、押すな! 押すなって言ってるだろ!」


声が大きくなり、命令がほどける。カリームはすぐに鉛筆で線を引き足した。


「交差点を一方通行に。右回りだけ。標識は『旗』ではなく『灯り』だ。旗は見えない。灯りは耳でわかる」

「耳で?」

「灯りの油が弾ける音を合図にする。パチで進め。ジで止まれ」


副官が苦笑する。


「そんな合図、聞いたことがありません」

「いま作った。作った合図は、作った者が大きい声で最初に言え。いま俺が言った。――動け」


夜は長く、そして短い。三度目の風穴のとき、六翼のうち一翼が防空の縁で翼を裂かれ、落ちていった。落ちながら、騎手が自ら油壺に火を回し、川面へと投げた。炎は水に浮き、黒い帯になってゆっくりと流れた。


「……落ちたか」

「はい、将軍」

「名は?」

「リオル。二十二」

「覚えておけ。人の名を忘れるな。忘れれば、戦は数になる。数は嘘をつく」


ザエルは短く目を閉じ、すぐ開いた。


「四度目はやらない。兵が疲れる。――『癖』を叩く仕事に戻る」


薄明の前。砂の色が灰から薄金へ移る頃、風は少しだけ温度を戻した。歩哨が固いパンをかじり、相棒へ水を回す。


「十五呼吸、もう来ないかな」

「来るさ。十五呼吸はどっちにもある。俺たちにも、あいつらにも」

「でもさ、怖れって前に置くと、ずっと前にあるだろ」

「うしろに置くよりましだ。うしろに置くと、いつか背中を噛む」


二人は黙って笛を握り直した。


カリームは天幕の外で薄い空を見上げ、汗で滑る手袋を指で整えた。陽石柱が低く鳴る。防空の膜はまだ張り詰めているが、張りが均一ではない。均一ではない張りは、人の手作業の証拠だ。証拠は、読まれる。


「参謀。空、晴れてきます」

「曇りだ。俺にとってはいつでも曇りだ。――だから、計算する」


副官が苦笑し、すぐ真顔に戻る。


「次は、どうします」

「喉を守る。守るのに必要なのは、筋肉でも銅でもない。『時間』だ。――交替のずらしをさらに細かくする。半刻では粗い。五分刻みで乱せ」


副官が息を呑んだ。


「五分刻み……伝達が追いつきません」

「追いつかせる。人を動かすのは符でも鼓でもない。『言葉の短さ』だ。短く言え。短い言葉を増やせ」


彼は紙片に三つ書き付ける。


「『押すな』『砂で』『耳で』――この三つだけ覚えさせろ。三つ以上は忘れる」


衛生兵が小走りに近寄り、頭を下げる。


「参謀殿、水盃の件……ありがとうございました。兵が、助かります」

「水は血だ。血を回すなら、回した分だけ働けと伝えろ」

「はい! ――働けば、助かる者が増える」


カリームは頷き、彼の肩を一つ叩いた。


地平がわずかに白む。帝国の地下で、ザエルは司令鐘の白布を手に取り、指で撫でた。


「朝になったら戻すのですか」と副官。

「戻す。戻すことで兵は『いつもの朝』を取り戻す。取り戻した朝に、違う刻を仕込め」

「まだ続けるのですね」

「続けるとも。喉はすぐには潰れない。喉を握るのは、指ではない。習いだ」


副官がふと笑った。


「将軍、あなたは獅子ですか」

「違う。獅子に噛まれた痕が残っているだけだ」


ザエルは白布を鐘に戻し、紐を軽く結んだ。結び目は簡単だった。簡単な結び目は、早くほどける。早くほどける結び目は、またすぐ結べる。


「行け。今日も三手だ。だが『同じ三手』ではない」


太鼓が朝の石床を震わせ、兵の背筋に刻み込まれる。


その音を、渡河地の湿った砂も確かに拾っていた。橋頭堡の影で、若い兵が相棒に問う。


「……勝てると思う?」

「知らない。けど、負けるときを減らせる」

「刻を減らす?」

「うん。参謀が言ってた。勝ちは大きくならない。負けを小さくするんだって」


二人は同時に息を吸い、同じ長さだけ吐いた。十五呼吸より短い呼吸。兵たちの人間の呼吸が、朝の風に紛れていく。


遠くの空で、結界の膜が薄くきしみ、すぐに収まった。ザエルはその音を聞き、口角をわずかに上げた。カリームは同じ音を聞き、紙片に小さな×印を付けた。


二人の指が、それぞれの盤で、同じ喉へゆっくりと近づいていた。

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