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開水(かいすい)の朝

本日の用語


開水かいすい: 冬の氷路が解け始め、川面が再び“道”から“水”へ戻ること。


水尺みずじゃく: 水位・流速・濁度を読む携帯計。第一部で活躍した《星尺》の春期版。


拍印はくいん: 結界運転・砲操作・舟運・水門開閉・合唱を同じテンポに合わせるための“時間の刻印”。


聞きききいた: 水門に吊るし、流れの音と震えで“水の機嫌”を読む薄板。調律で感度が変わる。


白革しらかわ: 帝国(+連邦式)の公文書用上質紙。ザエルが“紙の刃”として多用する。

夜の底が浅くなり、氷の呼吸がほどける。溝のように黒い筋が、川面の白を割って伸びた。ひと冬、道であったものが、ようやく水の顔を取り戻す。氷は音を立てない別れ方を知っている。ぱき、と遠くで一度だけ小さく鳴り、あとは沈黙のまま、厚みの記憶を隠していく。


 天幕の口を押し開けて、カリームは冷たい湿り気を肺に入れた。頬を撫でる風が、僅かに重い。冬の風は刃のように軽く、春の風は鞘を持つ。彼は胸元の《水尺》を指ではたき、刻み幅が夜明けの温度に合っているか確かめた。星の位置を追う季節は終わった。今は、水の拍を読む番だ。


「起こせ、拍台はくだいを。——今日は《拍印》を作り直す」


 副官の声が走り、工兵と船頭と歌い手が、同じ輪の中に集まってくる。結界班の術士、砲班の老練、回廊管轄のルーシ官吏イルイナ、そして衛生兵までが、肩を寄せるように立った。彼らは互いの匂いを知っている。汗、油、麻の粉、礼香の淡い残り香——この冬を通じて混じり合った、よく知る匂いだ。


「四拍子」カリームは小槌を持ち上げ、木の台に一度、落とした。「一、結界。二、砲。三、舟。四、水門。」


 木肌が澄んだ音を返す。拍台の横で《霊線》がひそやかに震え、隣の歌い手が短い音の階段をつける。合図の歌は、言葉より先に身体を整える。冬の間、彼らはこの仕組みで折れずにきた。春もまた、これで始める。


「《星尺》はおさめ、今日からは《水尺》を胸だ」カリームは若い兵に目を移す。「三角は裏切らない。だが今は角度より“濁り”と“重さ”だ。水尺を二度当てろ。違ったら三度目で“違い”の理由を探せ」


「参謀、星が見えない夜は——」


「夜でも川は鳴る。旗は揺れる。息は白くも青くもなる。星の代わりは、水と地面にいくらでも転がっている」


 拍台の輪の外では、工兵が水門の《聞き板》を下げていた。薄い板に麻縄を通し、支柱から吊る。板の縁には小さな切り欠きが並び、流れと当たって生まれる音を選ぶ耳の役をする。カリームは板の前に膝をつき、人差し指の腹で木口を撫でた。星尺を当てるときと同じ指先の仕事だ。


「板は軽く。——いや、軽すぎるな。風で歌う。水で歌え」


 イルイナが腰を落として覗き込み、紙束を脇に置いた。「板は霜で鳴りたがる。蜂蜜を薄く塗れば落ち着くことがあります」


「甘い川は虫を呼ぶ」カリームは微笑もせず答える。「**松脂油を指に塗って、なお手袋ごと撫でろ。人の手の重さだけ足せ」


 若い工兵が恐る恐る手袋の上から板を撫でる。細い音が、今度は風に引かれず、水に引かれて立った。聞き板は、川の語気をようやく掴んだらしい。


 拍。拍台が二度鳴り、合唱が短く応じる。結界の従波が息をひとつ吐き、対空魔導砲の《霊線》がきしみもせず座り直した。舟の棹は並んだまま動かず、待つこともまた拍であると教えている。水門の枠は、氷の季節の歪みをまだ身に残し、蝶番が時折、乾いた声で抗議した。


「水門の聞き板、両側で違う」と副官が報告する。「上流は明るい、下流は重い。濁りの帯が斜めに入っている」


「板を二度叩け。間に『』を置け」カリームは指で二本、空を切った。「上流の明かさに下流の重さを半拍遅らせて混ぜる。——聞き板は、歌を聴く。歌は、板を聴く」


 彼が小槌を三度、短く落とすと、聞き板が自分から“鳴く”ように震え、結界の従波がそれに寄り添う。冬じゅう風に向かって立っていた防空結界は、ゆっくりと“壁の息”から“川の息”に戻り始めていた。


 解氷の朝は美しいだけでは終わらない。朝の白が剝げるように、昼には黒が滲み出てくる。浮氷、流木、くずれた氷倉の皮、どれも結界の縁で不作法に光る。回廊の上空で、昨夜しまったはずの風鈴が、かすかに声を立てた。誰も顔を上げない。鈴は合図ではない——昨日、紙にそう書いたばかりだ。


 書と言えば、イルイナの卓には朝から白革が積み上がっていた。三者の追補案、価格天井の案、通行枠の時間割——紙は川と違って重さを増やすほどに仕事が遅くなる。イルイナは紙の山の上で筆を止め、眉を寄せる。


「参謀殿。帝国側の通達、朝一番で二通。……印影は正しいが、紙が違う」


 提出書は“白革”を名乗りながら、繊維の目が荒い。ザエルの机から出た紙なら、もう少し静かな鳴り方をする。紙は、叩けば答える。


「文面は?」


「水門の開度を三刻繰り下げよ。理由は『上空共有条・異常音検知』」


 カリームは紙を手の腹で撫で、指さきに残る感触を水尺の目盛りに並べる。紙が言っていることと水が言っていることを、同じ尺度に置き換えるのは、彼の癖であり長所であった。


「朝の聞き板は静かだった。異常音は鈴のことだろう。鈴は、もう規則ではない」


「帝国の監視所には、望楼の影が二本増えました」と歩哨が駆け込む。「高さは三丈。影は、昼の三刻で最も長くなります」


「影で測る気だ」とカリーム。「紙の刃は、影を好む。光の下で振るうとすぐ鈍る」


 彼は短く決めた。「午前の通行は予定どおり。三者立会いの《即地署名》で通す。紙は、現場で相殺する」


 イルイナは頷き、白革の束を規則にしたがって分ける。「通す紙」「破る紙」「返す紙」——紙にも道が要る。返すべき紙に、礼は欠かさない。彼女は筆の最後で、短い詩のような挨拶を書く。紙は刃でもあるが、橋でもある。


 川は午前が素直だ。黒くなりきる前の、その一瞬だけ、開水は人に微笑む。白旗の下、三者が並んだ。アムサラの棹は下げて、目は上げて。帝国の士官は視線を冷やしながらも、刃の匂いを漂わせない。彼の背で白い息が切れ、肩の上で止まる。ルーシの旗は、いつものように風に鳴らない。


「第三の約定、春期追補・仮稿。三者立会い。午前の通行、実施」イルイナが声を張る。


 帝国士官は小さくうなずいた。「ザエルから——“歩く音で互いが分かる距離で会おう”」


「今がそれだ」カリームは、士官の靴が氷から木へ、木から土へ踏み変える音を、わざと聴いた。冬は道。だが今、道は水に戻り、木は橋になって、土は岸に帰る。音はそれを全部、教えてくれる。


「開度、三。舟、二隻ずつ。歌、二度。——行け」


 聞き板が喉を開き、拍台が短く鳴り、舟が水を受ける。棹の先が微かに震え、合唱がその震えの速度を吸い上げていく。川は歌を嫌いはしない。歌は川をせき止めない。歌は、人をばらばらにしない。


 最初の列が渡り切る前に、小屋の裏手で筆音がした。イルイナの速書きだ。白革の上で、墨の線が迷わずに走る。《即地署名》。三者の印が並び、今日の刃は紙の中で眠る。


 帝国士官が振り向き、望楼の方へ目を投げた。影が長い。鈴は鳴らない。風は、返らない。彼は短く息を吐き、視線をカリームに戻した。


「近さは軽さではない。だが、輪郭は正確になった」


「輪郭が正確なら、間違えて撃つ者が減る」カリームは返す。「春は刃だ。だが、刃は鞘の中で育つ」


 士官は何も言わず、首だけで会釈し、背を向けた。歩く音は遠ざかる。互いが分かる距離が、ほんの少し伸びた。


 昼が黒に傾くと、川の顔も変わる。浮氷が一つ、聞き板の縁にぶつかって壊れ、板の震えが濁る。工兵がすぐに走り、板の姿勢を正す。カリームは板に耳を寄せ、声の高さを測るように指で辺を叩いた。星尺のときと同じく、わずかな違いを指で拾い、耳で拾い、拍に並べる。


「午后は一列」と彼は命じる。「角材の搬送は明日の朝に限る。重いものは川が軽い時刻に渡す。」


 回廊の端で、若い兵が問うた。「参謀。帝国は今日、灰猫(低空の小型滑空機)を出しませんでした」


「出さなかったのではない。出せる準備を、紙の上で試している」カリームは水尺を閉じた。「鈴の代わりに、紙を鳴らすつもりだ。」


 副官が帳面をめくり、朝の二通の白革に指を置く。「印影は正しいが紙が違う。……これは、どこから」


「“第三の約定”の周りに第三者を作ろうとしている手だ」イルイナが言った。「『共有』の名を借り、“共有の眼”を名乗る紙を差し込む。」


「紙の刃が先に動く」カリームは低く言った。「**刃は光で鈍る。——なら、光に出す。


 “明日の朝、三者立会いで紙を読む。紙に聞き板をつける。耳のない紙は、歌わない」


 彼は拍台に手を置いた。拍を刻む、木の手触り。冬の間、何度、この台を彼は叩いたか。指には木目が残り、木には指の跡が残っている。道具は人を覚える。人もまた、道具になにかを預ける。


「今日の仕事は、ここまで。」カリームは周囲を見回す。「歌を一度。——死者が休めるように」


 輪に入る者、外で見守る者、どちらも自分の位置から声を出した。低い合唱が、薄い霧を押し、川の上を渡る。氷の季節の終わりに合わせてきた歌は、水の季節のために拍を変えた。三角は裏切らない。拍もまた、裏切らない。裏切るのは、測る人間だ。


 夕暮れ。水門の聞き板が一瞬、固い音を返した。風ではない。紙の音だ。


 書記が小走りに現れ、白革を恭しく掲げる。「回廊運営三者、連署——“明朝より水門開度の試験運用。午前の通行は中断”」


 イルイナが眉を吊り上げ、紙端をつまむ。繊維は細い。墨は真っ直ぐ。正しい紙だ。だが、正しく届いていない。三者が同時に発した紙なら、誰かの机で一度、温度を吸う。この紙には、それがない。冷たい。


 副官が息を呑む。「ザエルか」


「将は“紙は剣より強い。ただし鞘が要る”と言った」カリームは白革を見つめ、静かに頷いた。「なら、鞘の中で読む。」


「どうします」イルイナが問う。


「明朝、三者立会いで《即地署名》の場を開く」カリームは拍台の上に白革を置き、木槌をそっと添えた。「紙の刃は、拍で鈍る。“紙に拍を打つ”」


 彼は小さく笑い、誰にも聞こえない声で星の名をひとつ呼んだ。もう星尺はいらない。だが、星は彼の背にいつも在る。水の拍も、星の拍も、同じ“時間”の手触りをしている。


 川は暗くなり、風は鞘を閉じる。開水の朝に始まった一日は、紙の夜に続く。拍台の上で白革が、木のぬくもりをゆっくり吸い、鈍っていった。明日、紙は光の下に出される。刃であればこそ、鞘の中で整えるために。

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