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エピローグ:冬は道、春は刃

本日の用語


氷鳴り(こおりなり):氷路が温度差で軋み発する低音。消えると解氷が近い兆し。


風返りのふうがえりのさや:防空結界の“風返り”を逆用し、攻撃衝動や高速侵入を鈍らせる運用思想。


春期追補しゅんきついほ:第三の約定に付け足す春用の条項集。価格上限や緊急閉鎖の細則を含む。


夜のよるのふね:解氷期の臨時補給艇。夜間・低反射・無灯に最適化し、空の目と鈴の法を迂回する。


水路図すいろず:氷路図面を転用した春用の運河・側溝・逆流路の実測地図。

夜、最後の氷鳴りが遠のき、空に星が戻った。テントの端で白い息が折れ、焚き火の赤が低く縮む。測手が氷尺を引き上げ、薄い霜を指で払い落とす。


「厚み、二尺八。——終わりが近い」

 カリームが低く呟く。氷に残された季節の余白を、彼は数で見積もる。


「参謀殿、春の初動案を」

 副官が板札を差し出した。

「一、対空結界を“壁”に戻し、風返りを刃の鞘にする。

 二、氷倉を解いて材を橋へ。氷路の図面は“水路図”に転用。

 三、回廊は人道枠のみ残し、物資枠は“夜の舟”へ切替。」

 読み上げ終えると、彼は小声で問う。「帝国は?」


「ザエルは“紙と風”の次を出す。——鋼の翼の母機が本気で来る」

「勝てますか」

「勝ちは“折れない”積み重ねの果てに現れる。負けは一度の慢心で足元から来る。——神話は作らない」

 カリームは星尺を閉じ、焚き火の縁に置いた。鉄の冷たさが掌で少しずつ眠り、皮膚が夜の湿りを覚える。


 そこへイルイナが歩み寄り、巻紙を差し出す。封紐は白、端には第三の約定の印影が淡く重ね押しされていた。

「春期追補です。価格の“天井”も定めましょう。——刃が高く売られないように」

「受け取った。春は、私たち三者それぞれの“鞘”を試す」

 カリームは巻紙を懐に入れ、焚き火の火勢を抑える。空は澄み、春告風が一拍遅れて旗を撫でた。


 角笛が三度、冬営の終わりを知らせた。歌刻の輪が自然に締まり、誰からともなく低い合唱が起きる。ファハド王は天幕から出てきて、担架列の通り道に片膝をついた。


「名を、順に」

 王の声は大きくない。だが、焚き火より温かかった。書記官が白革の板に一つずつ名前を書き、王はそれを反復する。指の跡にだけ霜の艶が失せ、夜がわずかに明るくなる。


「冬は道だった」

 王は立ち上がり、兵たちに向き直る。

「道は、弱さを運び、強さを運んだ。春は刃だ。——笑いの中にも刃は潜む。歌え。歌は鞘だ」

 歌がもう一度広がる。折れないことを誇らず、折れそうだった夜を数え直す歌だ。


 翌朝、氷倉が解かれはじめた。角材は一本ずつ番号が打たれ、橋脚の補強に回る。氷の床に白墨の線が交差し、線はそのまま側溝と導流路の予定線に転記される。氷路は水路図として生まれ変わる。


「この角、昨夜の火で割れた場所だ。弧で取れ。直角にすると春水が噛む」

 カリームは鉋を自ら取って、角材の角を落とした。兵が目を丸くする。

「参謀自ら?」

「図面だけでは“寒さ”が分からない。手の痺れは、図には描けない」


 対空班は結界の位相を戻す作業に入った。冬の“網”から春の“壁”へ。風返りの鞘を厚くするため、陽石柱アンカーの角度をわずかに変え、霊線の余長を“息”のリズムに合わせて結び直す。

「鳴くな。吸え。油を回せ。——吸って、吐け」

 喉鳴り対策のかけ声が今も残り、銅の冷却路は静かに光った。


 布覆い班は、夜の舟のための反射殺しの布を点検する。縫目は黒、端糸は切らずに房にした。水面の皺に沿わせやすくする工夫だ。

「夜は舟。舟は夜になる。——昼の法は、夜の水に届かない」

 イルイナが半ば自分に言い聞かせるように呟き、布の袋を締めた。


 昼、ルーシ国の橇師たちが最後の橇を引いてきた。犬の毛は冬毛の名残を光らせ、鼻先だけがもう春を嗅いでいる。

「橇は今日まで。明日からは舟です」

 橇頭が言う。

「約定どおり、“人道枠”は道を残す。舟の刻は夜。出だしは半刻置き、沈黙の歌で漕げ」

 カリームは刻と歌を手渡した。

「歌なら任せておくれ。狼にも風にも、歌は通じる」

 橇頭が歯を見せて笑い、犬たちの綱をほどく。綱の端はそのまま舟の舳へ結ばれる。冬と春の継ぎ目が、掌の大きさに縮む。


 対岸、黒松の砦の灰色の作戦室。ザエルは湯気の立たぬ茶碗を掌で温め、窓外の薄雲を眺めた。

「紙と風は半分答えを出した。土と影で残りを詰める」

 副官が首を傾げる。

「土?」

「上流の側岸を崩すのではない。崩れかけの“見せ”を作る。検閲隊と鈴の詩人が騒げば、彼らは自分で止まる」

 ザエルは細い墨筋で地図に点を打った。「影は検印だ。——夜の舟には夜の法を、こちらは夜の影を」

「鋼の翼は母機を前へ?」

「一度だけ、骨を見せる。喉を鳴らさず足を払う手を使え。——刃は光でなく拍で扱うのだろう?」

 副官はうなずき、記録に「拍」の二文字を大きく残した。


 夕刻、第三の約定の春期追補が読み上げられる。価格天井は陽石、油、薬草、穀物に設定。臨時閉鎖の条は、黒(準備)—白(半閉)—赤(完全閉鎖)の旗の順守を三者で再確認。

「“鈴”の音は合図ではない——付記」

 イルイナが文末に書き加える。

「詩人には詩で返す」

 カリームが苦笑し、署名を置く。帝国士官は無言で代筆印を押した。


「これで、春の刃が“市場”で暴れない」

 イルイナが巻紙を巻き直す。

「暴れるのは水と足。——それで十分に厄介だ」

 カリームは合図塔を振り仰いだ。黒い旗は巻かれ、白い旗が高く、赤い旗は箱に眠る。


 夜更け、星が三つ増える。夜の舟の初便が、側溝の影から滑り出した。舟底に布覆い、舳に消灯の札。漕ぎ手は四呼吸の歌を胸で刻む。

「吸え、回せ、緩め、締めろ」

 結界の風返りが鞘になり、空の目は濡れた夜で鈍る。望楼の鈴はもう無い。代わりに、犬の遠吠えが一度だけ短く上がり、すぐに消えた。


「南の導流路、浅瀬を覚えろ。次はそこに“継ぎ目”ができる」

 カリームは岸で囁き、舟の腹を軽く押した。波紋は広がらず、ただ星明りを細く噛んで沈んだ。


 その夜の遅く、帝国からひとかけらの紙が届いた。墨は乾き、文は短い。


歩く音で分かる距離を保て。水門の刻は正す。

 ザエルの手だ。

 カリームは返文を書いた。

歩く音が変わったら、旗を変える。道は道の律で、刃は刃の拍で。


 火の粉が一つ、紙の端で小さく弾けて消えた。沈黙が残り、沈黙が語る。


 夜明け前。氷鳴りはもうどこにもいない。測手が最後の杭を抜き、氷井戸の蓋を閉じた。角笛が三度、冬営の終わりと春営の始まりを告げる。


「撤収列、東へ。橋脚補強班、南へ。対空は“壁”。水門は“拍”。舟は“歌”」

 カリームは三本の線を地面に引いた。道、刃、そして鞘。

「続きだ。次の計算を始めよう」

 彼は星尺を閉じ、息を整える。星は凍るのをやめ、ゆっくりと滲み、春の水に変わっていく。


 冬は道。春は刃。

 彼らは、その両方を、読み違えずに握ろうとしていた。紙と風、土と影、歌と拍。

 ザエルもまた遠い砦で同じ四拍を指先で刻み、王は名を呼ぶための白革を胸元に収め、イルイナは天井の数字の上に、人の数を一人分空けておいた。埋まらないことを願って。


 東が白む。道は見えなくなり、刃だけが薄く光った。

 その光は、鞘に戻すための光でもあった。

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