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春前の兆し

本日の用語


氷解線ひょうかいせん:雪氷が最初に切れはじめる細い帯。黒く沈んで見え、川道の“早い春”を告げる。


春告風はるつげかぜ:冬の乾いた北風が湿りを帯びて南東へ巡りはじめる転じ風。結界の風返りに、日中だけ緩みを作る。


水門すいもん:分岐点や堰を制御するゲート。流量・流速・水位差を操る“見えない砲”。


継ぎつぎめ:地形・工事・結界・書面の境い目。力も責任も集まり、破れやすい場所。


逆流返し(ぎゃくりゅうがえし):短時間だけ局所逆流を作って敵の渡河タイミングを崩す策。水門・導流路・合図旗を同期させる。

三日後の朝、北風がわずかにやわらぎ、息の白さに湿りが混じった。旗竿がきしむ音も低く、氷の下の鳴りは腹から胸へと移っている。


「氷路、午后は一列。角材の搬送は朝に限る」

 伝令が小屋から飛び出し、作業帯に向かって走る。イルイナは帳場箱を抱えたまま、外に出た。


「北の丘が黒い。雪が薄くなってきました」

「春の足音だ。——“刃”の重さを量る時が来る」

 カリームは、見張り台の梯子を二段登って、北河の曲り角を見やった。川面の真ん中に、細い黒が一本、《氷解線》として延びている。


「本隊の食事刻、半刻前倒し」

「交代律、書き換えます」

 イルイナは頷き、白革の板札を裏返した。


 小屋の戸が軋む音とともに、帝国士官が現れた。外套には粉雪、肩章は濡れて暗い。表情はいつものとおり乾いている。


「将から伝言。『歩く音で互いが分かる距離で会おう』」

「今か」

「今のうちだ。春の前の静けさは、長くない」


 橋の中程——まだ氷が橋脚を抱く、冬と春の継ぎ目。カリームとザエルは、再び向かい合った。互いの足音が氷に伝わり、同じ刻を刻んでいるのが分かる距離だ。


「冬は道になった」

 ザエルの声は低い。周囲の風音に溶けず、しかし氷を割る鋭さでもない。

「道は、互いの読み違いを小さくした」

 カリームは目を細める。

「ならば春は——」

「刃になる」

 二人は同時に頷いた。頷きは浅く、深かった。


「次は“どこ”で“なに”を賭ける」

 ザエルが問う。

「水門。——北河が分岐する“継ぎ目”」

「同意だ。継ぎ目は鼻で嗅げる者が取る」

「私も、将も」

「互いに嫌うタイプだ」

 ザエルが笑い、カリームも笑った。笑みは浅く、深かった。


「条件を詰めよう」

 ザエルは掌ほどの白紙を出し、指先で折り目をつけて十字にした。

「民間と商は刃の外。回廊は日中開ける。夜は双方の合図で臨時閉鎖もあり」

「異議なし。ただし」

 カリームは星尺の紐で、橋の欄干に細く結び目を作った。

「水門の合図旗は三段にする。赤は完全閉鎖、白は半閉、黒は逆流返しの準備。——黒は兵にしか見せるな」

「良い工夫だ。黒は兵の怖れを均す」

 ザエルは短く頷き、折り目の白紙に三色の印をつけた。


「試しをしたい」

 ザエルが視線を上げる。

「喉鳴りは諦めた。次は水で行く。昼の前に半刻、水門を半閉する。君の逆流返しを見たい」

「見せる。ただし見学料を取る」

 カリームは欄干の霜を指で払った。

「帝国望楼の鈴を外せ。春に鈴は嵐になる」

「礼と刃は別だが、礼を軽くすると刃が鈍る。——外そう」

 ザエルは背後の士官に軽く頷いた。


「もう一つ」

 カリームが指を立てる。

「第三の約定の“人道枠”、春も続ける。君の署名が欲しい」

「将の代筆印でよければ」

「十分だ」


 二人は別れ、橋の両側へ歩いた。歩幅は違う。足音は似ている。


 回廊小屋に戻ると、イルイナが湯気の立つ茶碗を差し出した。

「会談、どうでした」

「刃の重さを量る前の、指の温め方だ」

「焦げる匂いは?」

「紙の端が一枚」

 カリームは茶碗を受け取り、窓の外を見た。春告風が、旗を一拍遅れて揺らしている。日中だけ結界の風返りに緩みが出る——《春告風》の癖だ。


「三刻後、水門で半閉の試し。逆流返しを組む。——導流路に土嚢、側溝を開け、旗は黒を準備」

「黒は兵だけ」

 イルイナが復唱する。

「布覆い班、反射を殺して。霊線は乾いたまま運ばない。湿りが入って嘘をつく」

「砲班には?」

「撃つな。——水の戦では砲は目になる」


 工兵隊が小屋の外を走る。土嚢の口を紐で締め、角材を引きずり、杭を肩に担ぐ。歌刻が低く流れ、四呼吸の節が彼方で合う。


 水門の上。鉄の歯が鈍い音を立てて噛み合い、板門が半枚ぶん沈む。川面は呼吸を変え、白い線が逆さに走った。


「逆流返し、準備——黒」

 合図係が小旗を二度振る。黒旗は低い位置で絞られ、民間の目には見えない。


「導流路、開け!」

 側溝の栓が抜かれ、水が別の筋へ吸い込まれていく。氷の縁が小さく鳴り、砂の粒が踊った。


「来ます」

 観測兵が耳に手を当てる。「上の流、速い影。——滑空じゃない、筏だ。軽い偵察」

「見せ玉」

 カリームは星尺を折り、欄干に置いた。

「合図、白まで待て。半閉の返りで背を折る」


 筏が継ぎ目に差しかかったとき、川は一瞬、逆に息を吐いた。人の膝一本ぶんの高さの逆流。筏の鼻が浮き、尾が沈む。漕ぎ手の腕が上へ伸び、力は空を掴んだ。


「今——白!」

 合図旗が切り替わる。水門の歯が戻り、逆の息はやむ。筏は鼻先で立ち、くるりと身を翻して自陣へ戻った。誰も落ちない。誰も進まない。礼が刃を包む瞬間。


「試し、了」

 観測兵が筆を走らせる。「帝国、鈴を外しました。望楼は静か」

「見学料、受領」

 イルイナが淡々と記す。黒の意味は兵だけの胸に残された。


 黒松の砦。灰色の作戦室に、薄い湯気が地図の上を漂う。ザエルは毛織の上着を肩に引っかけ、北河の印を黙って見ていた。


「将。半閉、逆流返し、見ました」

「見せてもらった」

 ザエルは頬の髭を指で撫でる。「刃の重さは、水で量るのが速い」


「鈴を外した礼は?」

「礼は返す。昼の回廊は開けておく。ただ」

 ザエルは筆を置き、地図に細い墨筋を引いた。

「水門の合図が黒から白に変わる間、三呼吸。——そこに刃を差し込む者が必ず出る。友でも敵でもない第三が」


「連邦か」

「鈴の詩人たちは賑やかだ。喉鳴りが黙ったから、言葉で鳴かせに来る」

 ザエルは短く笑い、窓の外の粉雪を眺めた。(紙と風で、春の刃の半分は研げる。残りの半分は——足だ)


「歩く音で互いが分かる距離」

 副官が呟く。

「将、あの言葉は賭けでは」

「賭けだ。——だが、賭け金は若い背中ではない**。凍った土と紙と水で払う」


 夕刻、春告風が一段と湿り、空に薄雲が走った。ルーシの橇師が犬の毛を梳きながら言う。

「犬が鼻で春を嗅いでいる。——夜は裂ける」

「裂け目を橋にする。それが仕事だ」

 カリームは短く答え、水門の欄干に肘を置いた。合図旗の黒は巻かれ、白が上で揺れている。


「参謀」

 若い兵が駆け寄る。「氷解線、増えました。中州の右にも黒が一本」

「地図に継ぎ目を増やせ。——継ぎ目は鼻で嗅げ。目で見る前に足で覚えろ」

 カリームは星尺を畳み、若い背を軽く叩いた。


「参謀」

 イルイナが帳場から顔を出す。「王がお見えです」


 ファハド王は外套の氷を払い、欄干に手を置いた。指の跡にだけ霜が消える。

「春が来る」

「はい」

「冬は道になった。道はよかった。——春は刃だ。刃は誰の鞘に収まる?」

「収まらないかもしれません」

 カリームは正直に言った。

「なら、歌で包め」

 王は微笑む。「歌は鞘だ。刃を見せ過ぎないための」


「歌刻、続けます」

「頼む」

 王は担架の列が砂を噛んだ戦の記憶へ一瞬だけ遠い目をし、すぐ戻ってきた。「名を呼ぶ夜が来る。——春は楽ではない」


「分かっています」

 カリームは水門の鎖に手を当て、鉄の冷たさを掌に覚えた。(刃の重さは秤でなく、背で量る。背が折れぬように均すのが、参謀の仕事だ)


 宵。水門の下で、水が一瞬だけ高く鳴った。帝国側の導流路が小さく開いたのだ。三呼吸、四呼吸——閉じる。


「誘い」

 イルイナが記録の筆先を止める。

「刃を差し込めと言わんばかり」

「差し込まない。——今夜は道を温めるだけ」

 カリームは黒旗を半分だけ解いて、兵に見せる。民には見えない高さ。


「参謀、流木」

 歩哨が囁いた。「上から二本、速い影」

「鈴の代わりか」

 カリームは胸の内で数える。一、二、三。

「半閉——白」

 水門が沈み、影は鼻を上げて戻る。逆流返しは使わない。使えることを知らせた後は、使わないことで裂け目を狭める。


「参謀、これでは進みません」

 若い兵が悔しそうに唇を噛んだ。

「進みたければ折れないことだ。刃の重さは折れる拍の直前に測れる」

 カリームは静かに答える。「今は重さを量る刻だ」


 深夜。雲が切れ、星が三つだけ見えた。星尺の紐が震えずに垂れる。春告風は眠っている。


「参謀」

 観測兵が北を指す。「丘の黒が広がりました」

「氷解線、二本が一本に合わさる前兆だ」

 カリームは地図に薄い墨を足す。「明日の午前、回廊は一列も危うい。犬も橇も軽く」


「ルーシに通達」

 イルイナが帳場から顔を出す。

「通した。橇師たちは鼻で春を嗅いでいる。怒らない。彼らの春は商の春だから」


「帝国は?」

「鈴は無い。望楼は灯を落として黙っている」

「沈黙は言葉だ」

 カリームは星尺を閉じ、焚き火に手をかざした。(冬は道。——読み違えれば、春は墓道だ)


 翌朝。湿った風が旗を鈍く叩く。氷の鳴りは浅く、岸の砂は重い。ファハド王が見張台に上がり、川を見た。


「春が指で触れれば、氷は音を変える」

「はい」

「名を呼ぶ紙を用意しておけ」

「もうできています」

 イルイナが白革の板を持ち、王に渡した。名を書く列は空白のままだ。空白は刃より重い。


 伝令が駆けて来る。

「帝国より書状。——『歩く音で分かる距離を保て。水門の刻は正す』」

「返事」

 カリームは短く言う。「『歩く音が変わったら、旗を変える』」


 水門の鎖が鳴り、板門が一刻表の印に合わせて上下する。川は新しい律を覚えはじめた。冬の道は、春の刃に変わる寸前で、なお歌の拍に従っている。


「将から伝言」

 帝国士官が橋の中程まで進み、声を通す。「『次は水門の“継ぎ目”で会おう』」

「承知」

 カリームは欄干に手を置き、冷たさを掌に吸い込んだ。「『継ぎ目は鼻で嗅げる者が先に着く』」


「互いに嫌うタイプですね」

 士官が乾いた冗談を置いて去る。笑いは浅く、深かった。


 春前の静けさは、長くない。——だが、短いからこそ精密に刻める。歌で、星尺で、水門の鎖で。

 カリームは胸の内で四呼吸をそっと刻んだ。吸え、回せ、緩め、締めろ。刃は光でなく、拍で扱う。


 ザエルもまた、黒松の砦の窓辺で、同じ四拍を指先で叩いていた。歩く音が分かる距離。刃を交える前の、最後の礼。

 そして、北河は静かに息を吸った。春はそこに居る。刃の重さが、秤に乗る音がした。

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