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冬営の講義

本日の用語


星尺ほしじゃく:星や地上目標の角度を測る折り畳み式の測角具。簡易分度と紐尺を備え、誰でも扱えるように改良された。


交代律こうたいりつ:前線勤務の睡眠・哨戒・食事・作業を刻む時間割。疲労の波を“均す”のが目的で、英雄行動の隙間をなくす。


氷鳴図ひょうめいず:氷の鳴り方を時刻・気温・風位相と併記した音の地図。翌日の渡河判断の根拠になる。


四呼吸法よんこきゅうほう:対空魔導砲の冷却路“喉鳴り”を避けるための手順。「吸う→回す→緩める→締める」を一拍ずつ揃える整備・射撃合図。


歌刻うたどき:作業や渡河の歩調を歌で刻む習慣。恐怖を均し、全体の足並みを乱さないための技法。

夜、冬営地の外れに焚き火が三つ、等間に置かれていた。火の輪は風を遮る盾になり、囲む兵の影は氷上に柔らかく伸びる。遠くでは犬橇の鈴が一度だけ鳴り、すぐに止んだ。


「全員、輪になれ。手袋の片方は外す」

 カリームが言うと、若い兵たちが少し戸惑いながら従う。指先が冷気に刺され、「ひゃっ」と短い声が漏れた。


「今夜は講義だ」

 カリームは背嚢から布包みを取り出し、《星尺》を一つずつ配っていった。折り畳みの木製の骨、糸に通した小さな錘、そして目盛りは白革に墨で刻んだものだ。


「三角は裏切らない。——裏切るのは、測る人間だ」

 彼はそう言って、焚き火の火に星尺の影を投げた。「二度測れ。違ったら、三度目で“違い”の理由を探せ」


「参謀、星が見えない夜は?」

 一番年若い歩兵が手を挙げる。頬はまだ丸い。


「風を見る。氷の鳴り方、旗の揺れ方、息の白さ。——星の代わりは、いつも地面にある」

 カリームは火のそばに立てた細旗を指した。「旗の揺れが一定なら、風は安定。結界の風返りは薄い。一定でないなら、節が来る。節に重ねて撃つな。節の外で撃て」


「敵はいつ来ます?」

 別の兵が身を乗り出す。背には銅線巻きの霊線が覗く。


「いつでも来る。だから“いつでも”に耐える仕組みを作る。交代、睡眠、食事、歌。——英雄譚は不要だ。折れないことが、最初の勝ちだ」

 カリームは《交代律》の板札を掲げた。「四刻を一輪。二刻で前線、半刻で食事と手入れ、半刻で仮眠、残りで交替準備。——破る者は、英雄になる前に死ぬ」


 火の粉がひとつ上がり、夜空で消える。誰かの腹が小さく鳴り、輪の端から笑いが漏れた。


「測りの練習をする。星の代わりに火を使う」

 カリームは星尺の糸を伸ばし、錘を静かに垂らす。「火の芯に糸を合わせ、向こうの旗竿を副標にする。角を読む。二度読む。書く。——書いたら、隣の者と交換しろ。違いを見つけろ。責めるな。“違いの理由”を見つけろ」


「書くのは苦手です」

 さきほどの若い兵が小さく言う。


「字は武器だ」

 カリームは焚き火の板を指で叩いた。「《氷鳴図》は字でしか残らん。残らねば、明日が迷子になる。——うまく書けとは言わん。残せ」


「参謀、氷の鳴り方って、どれも怖い音です」

 斜め向かいの女兵が言った。工兵の腕章が見える。


「怖いでいい。——怖いを三つに分けろ。低く長いのは腹に来る鳴り、広く薄い割れ。高く短いのは表の乾き。ぱきっと一発鳴るのは荷重の偏り。どれも即撤収ではない。重ねて聞く。時刻と気温と風を添える。それで地図になる」


 輪の外から、イルイナが帳場箱を抱えて近づいてきた。手袋のない指は墨で黒い。


「補足します。書くときは数字の尻を揃える。時刻は左、音は中央、備考は右。——明日の自分が読み返せるように」

 彼女は白革の見本帳を数冊、輪に配った。「書き方は武器です。きれいな武器は、よく当たる」


「対空の話に戻る」

 カリームは対空魔導砲の冷却管を模した銅管を一本、焚き火にかざした。「“喉鳴り”は銅が泣くことだ。——泣かせるな。《四呼吸法》を体で覚えろ。“吸え、回せ、緩め、締めろ”。四拍子だ。歌に乗せる」


「歌?」

 輪がざわめく。


「歌は恐怖を均す。歩調と整備も均す。歌刻で四呼吸を合わせる」

 カリームは低く、一定の節を取った。

 「吸え(すう)/まわせ——/ゆるめ——/めろ」

 四拍、焚き火のはぜる音と重なる。


「合図係が節を取る。射手は吸で手を止め、回で油を送り、緩で霊線を楽にし、締で戻す。——喉鳴りは泣きたい時に歌を聴かせると黙る」


「参謀……歌がずれたら?」

 工兵の女兵が笑う。


「笑ってから、やり直せ」

 カリームも笑った。「怒るな。怒りは恐怖の影だ。影は伸びる」


 輪の向こう、ルーシの橇師が腕を組んで見ていた。白い毛皮帽子の下で目が細い。


「犬にも歌がいる」

 橇師が口を開いた。「呼吸が合わん橇は、角でひっくり返る。吸で踏ん張り、回で伸び、緩で尾を下げ、締で耳を立てる。——人も犬も四つで走る」


「借りる」

 カリームは頷き、四呼吸の節に短い合いの手を加えた。

 「吸え(すう)/回せ(まわ)——/緩め(ゆる)——/締めろ(し/め)」

 輪が笑い、合唱の練習のように口々に繰り返す。


「食事の話をする」

 カリームは湯の入った鍋を指す。「冷えても食え。温めるために列を止めるな。《交代律》の食は半刻。早食いを競うな。噛め。噛むほど眠りは短くて良い」


「参謀、眠気は敵です」

 背の高い青年が目をこする。


「眠気は拒めない。割れ」

 カリームは短い木片を二つ、青年の掌にのせる。「片方に“いま”を書け。もう片方に“次”を書け。目が閉じそうになったら“いま”を落とせ。“次”が残る。交代で拾い合え。——眠気は敵じゃなく天候だ。読め」


「英雄譚は?」

 別の声が火の向こうから飛ぶ。少し刺がある。


「作るな」

 カリームは焚き火の棒炭で地面に円を描いた。「英雄譚は、円の中だけを明るくする。外が暗くなる。暗いところで隊が折れる。——名は背中で付く。口で取りに行く名は、墓標の名だ」


 輪が静まった。氷の下で低い音が渡る。誰かが無意識に四呼吸の節を、声にならないほどの小ささで刻んだ。


「問題」

 カリームは二本の小旗を抜いて、地面に立てた。「風は北東、位相は〇・〇二右回り、影長は季節係数どおり。——結界の節が来るのはいつだ?」


「真夜中と日の出前、それから日没」

 さきほどの若い兵が答える。「昨日の《氷鳴図》で見ました」


「良し」

 カリームは頷き、次の旗を指す。「その節に“重ねて撃つな”と言った。——では“いつ撃つ”?」


「節の“外”。半刻前と半刻後。渦の背骨がいちばん細いとき」

 工兵の女兵が続けた。


「良し」

 カリームの声にわずかに熱が乗る。「“知っている”は武器じゃない。“言える”が武器だ。——言葉は歌と同じで、恐怖を均す」


 そのとき、背後から雪を踏む足音が近づいた。護衛が影を投げ、ファハド王が火の輪に入ってきた。外套の裾に霜が白い。


「続けろ」

 王は輪の端に腰をおろし、手をかざした。目だけが若い。


「陛下」

 イルイナが立ち上がりかけたのを、王が手で制した。


「息子たちよ」

 王は輪を見渡し、声を落とした。「歌え。——死者が休めるように」


 低い合唱が、氷の上を渡っていく。はじめはばらばら、やがて四呼吸の節に乗り、歩調になり、眠気を均し、恐怖を均した。犬が小さく鼻を鳴らし、望楼の鈴は今夜、一度も鳴らなかった。


「参謀」

 歌の合間に王が声をかける。「星は、見えぬ夜がある」


「はい」

 カリームは星尺を膝に、王を見る。


「そのとき」

 王は焚き火の火を見た。「星の代わりに、お前は何を見る」


「人を見ます」

 カリームは少しの間を置いた。「眠りの深さ、手の震え、息の速さ。英雄譚を語りたがる口。——星より早く崩れるものを、先に見る」


「よい」

 王は小さく笑い、輪に向き直った。「息子たちよ。歌え。——明日のために声を残せ」


 合唱が厚みを増し、四呼吸の節と交代律の合図が交じって一つの道になった。冬は道。道は歌で刻まれる。


 講義の後半は手の練習だった。星尺で影を測り、結界器の針を読む。氷の息を帳面に書き、湯の立つ煙の傾きを角度に直す。


「参謀、手がかじかんで、字が震えます」

 若い兵が帳面を見せる。曲がった数字が並ぶ。


「震えた字は役に立つ」

 カリームは笑って、指を揉みほぐす仕草をまねた。「震えた手で書いた数は、震えている夜の証拠だ。次の夜に同じ震えが来たら、同じだけ用心する。——きれいな嘘より震えた真実を残せ」


「参謀」

 工兵の女兵が銅管に油を差しながら訊いた。「喉鳴りが来たとき、怖くて四呼吸が飛びます」


「合図を分けろ」

 カリームは合図係の腕章を指した。「一人が四拍を全部取るな。二人で二拍ずつ。責任を半分にする。——怖いものは半分に割ると、扱える」


 輪の端でイルイナが白革に短歌のような覚え歌を書いて見せた。

 『吸で息を合わせ 回で油を送り

  緩で手をゆるめ 締めで戻す』

「書けば歌になる。歌になれば誰でも口にできる」


「口にできるものは、心でも辿れる」

 カリームは頷いた。「——だから、英雄譚じゃなく歌を残せ」


 講義が終わるころ、東の空が少しだけ白んだ。見張塔の影が短くなりはじめ、氷の鳴りは昼の準備を告げる低音に変わる。


「各班、交代律どおりに解散。記録は帳場へ。歌刻は各自で続けろ」

 カリームの言葉に、兵たちは立ち上がり、星尺を大事そうに袂へ仕舞った。


「参謀」

 若い兵が最後に近づいて、小声で言った。「俺、英雄にはなりたくありません」


「良い」

 カリームは彼の肩を叩いた。「なら、英雄譚を語る人間の隣で、歌を刻め。隣の者を折らせなければ、それが勝ちだ」


 若い兵は笑い、駆けて行った。焚き火に新しい薪が一本くべられる。ファハド王は立ち上がり、外套の裾を払った。


「カリーム」

 王がささやく。「お前は星を見ていた男だ。——いま、星より人を見ると言った」


「はい」


「星は戻る。人は戻らぬ。それを忘れるな。名を読むときのあの夜を、忘れるな」

 王は一瞬だけ目を閉じ、担架の列が砂を噛んだ戦の記憶に触れたようだった。


「忘れません」

 カリームは焚き火の灰を靴先で崩し、灰の下に赤が生きているのを確かめた。(冬は道。星は時刻。人は重り。——重りを均して道を残す)


「息子たちよ」

 王が最後に輪へ向けて声を張った。「“折れないこと”を誇れ。歌で刻め。お前たちが明日の道だ」


 低い合唱がもう一度、薄明の上を渡っていった。四呼吸の節と交代律の鈴が交錯し、北河回廊の氷は静かに答えた。

 英雄譚はどこにも始まらず、道だけが続いている。

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