風鈴
本日の用語
風鈴片:封緘対象の“三者鈴”を回避するために望楼私物として吊られた極小の金属片。微風で鳴り、異常検知を誤誘導する狙いがある。
人道枠:第三の約定で保障された救護・医薬・食料の優先通行枠。原則、停止の対象外。
再観測:現場の三者立会いで行う臨時の二重測定。既存記録より優先される。
音指標:風・氷の状態を音で判断する補助項目。単独では停止判断の根拠にならない(第三の約定・附票二)。
附票:約定に添付された運用細則。条文の解釈や手順を定める“白革の注釈”。
昼の鐘がわずかに遅れて鳴った。粉雪は降らず、空は薄い灰。北河回廊の氷面は静かな光を返し、三者詰所の炉は弱火で赤い舌を揺らしている。
「……鈴?」
歩哨が眉をひそめて空を仰いだ。結界の縁、対岸の帝国望楼の軒先に、髪の毛ほどの金属片がいくつもぶら下がっている。風が通るたび、軽い音が重なり合った。
「風返りの異常、有感——」
観測役が反射的に唱えかけ、書記官の顔色が変わる。「条に従えば、停止シグナル。通行を止めねばなりません」
「第三の約定、第二条」とイルイナが即座に遮った。「人道枠は止めない。物資枠のみ検討」
「だが、物資列は——」書記官が言いかける。
「止めない」
カリームの声は低いがはっきりしていた。「“誰かの鈴”で止まらない。——再観測を行う。三者立会い、二重測定だ」
帝国側監督士官が、乾いた目で望楼を一瞥した。「鈴は私物だ。封緘対象の“三者鈴”ではない」
「だからこそ」イルイナが受ける。「“音指標”は単独停止の根拠にならない。——附票二、項目三」
ルーシ官吏が厚手の手袋を外し、帳場の端から附票の束を引き寄せた。「……たしかに。“音のみによる停止は不可。影長か位相計の数値と併存すること”」
「観測係、結界器」カリームが短く言う。「主位相・副位相・影長、三本読み。読まない音は“演奏”だ」
観測係が結界器を軽く叩き、位相盤の針をのぞく。「主位相、〇・〇二右回り……平常。副位相、微動なし。影長、帳面の季節係数に一致。」
「数値、平常域。鈴以外の要因なし!」
イルイナが墨を走らせる。「“音指標のみ”——附票違反の停止要請。記録」
帝国士官は肩をすくめた。「我々の条で止めろとは言っていない。“見えている”だけだ」
「“見せている”に見える」カリームは窓枠に手を置き、風の向きを一度だけ確かめた。「——通せ」
白旗が上がる。荷橇が一台、また一台と氷を渡りはじめる。犬の吐息が白く弾け、樽は鈍く鳴り、鈴はなお細かくさざめいた。回廊は、鈴に構わず黙って動いた。
三者詰所の中は、火の匂いと紙の匂いが混じっていた。書記官が震える指で停止票を半分まで書きかけ、止めたままにしている。
「記録は残す。だが、停止票は出さない」イルイナがその半紙を横へ滑らせる。「“停止に至らず”。——その欄を太く」
「参謀」と副官が耳打ちする。「帝国望楼の“風鈴片”、本数は昨日に比べて増えています」
「増やす理由は一つだ。音の密度を上げ、観測員の“心”を叩く」
カリームは星尺を取り出し、氷面からの反射角と望楼の影の縁をざっと計った。「今日は影が味方だ。——影は嘘をつかない」
「影幾何、禁止のはずだが」帝国士官がぼそりとつぶやく。
「影“操作”はな」イルイナが静かに返した。「影“観測”は義務です」
ルーシ官吏が炉端で湯を温め、声を落とした。「犬が待っている。人も」
カリームは頷き、氷上へ出た。犬橇の先頭で、ルーシの橇師が片手を挙げる。
「アムサラ殿、行けるのか」
「行ける。人道枠はなお、物資枠も今日の分は通す」
「鈴が鳴る」
「鳴らせばいい。——鈴で凍死者は出ない」
橇師はニヤリと笑い、犬の背に軽く触れた。「では犬に歌をうたわせよう。鈴に負けないやつを」
犬たちが低い唸りを揃え、氷の上に四本の黒い線を引いて走り出す。望楼の鈴が追い、橇の鳴具が応え、回廊は音で満ちた。音は多いほど意味を失う——カリームはそう教わってきた。
午後。通行の波がひと段落すると、イルイナは帳場に附票を広げた。帝国士官が向かいに座り、ルーシ官吏が湯を三つに分ける。
「“音指標”の扱いを、次回の附票改訂で明文化したい」イルイナが言いだす。「“風鈴片”のような私物を、公式観測から外す条を」
「該当する語の定義が厄介だ」帝国士官は眉間を押さえた。「鈴と風鈴片の境は」
「“封緘の対象”を“取り付け方”で括る。望楼構造材を介さぬ吊り物は観測外——」
「賛成」とルーシ官吏。「風で鳴るものは、いずれ市場でも鳴る。止めるすべは市場ではなく、条だ」
カリームは三人のやり取りを聞きながら、結界器の針の鈍い戻りを目で追った。
(紙は遅い。だが鎖になる。——ザエルは鎖の節を読み、真っ先に磨く側だ)
「参謀」副官がそっと一枚の紙を差し出す。帝国経由の短い報。「“風鈴片”は兵の私費。連邦からの供給ではない旨」
「書き方が上手い」イルイナが笑みを含んだため息をつく。「“では取り締まれない”と読む人のために」
「取り締まらない。——読み替える」カリームは首を振った。「“私物”なら、約定の外。“外”は“観測外”。——今日の判断を厚くする」
「つまり、“音は鳴っていたが、観測対象ではなかった”」帝国士官が頷く。「記録の文言はこちらで用意しよう」
「助かる」
火の割れる音が小さく跳ね、外の風が一度だけ表をめくった。鈴はまだ鳴っている。だが紙は鈴より重い。
黒松の砦。ザエルの机に、短い報が届いた。封蝋は薄く、紙は冷たい。
「通したか」
「通しました」ミルドゥーンが簡潔に告げる。「“音指標のみ”を理由に停止せず。人道枠・物資枠ともに通過」
ザエルは目を細め、湯呑を掌で転がした。「鈴は詩にしかならなかった、か」
「しかし、附票の改訂を打診しています。“風鈴片の観測外”——こちらの思惑に沿っています」
「鎖に名がつく」ザエルは短く笑い、窓の外の黒松を見た。「ならば鈴は冬の詩にでも入れておくか」
「次は」ミルドゥーンが地図を押し広げる。「“足払い”の積み増しを。朝の“小休”は効いています。昼の枠はなお詰まり、犬の待機時間が伸びた」
「良い。言葉で足を払い、風で足を滑らせ、紙で足を縛る。——鈴は歌詞だ。歌詞で人は死なない**」
ザエルは筆を取り、白革の端に小さく書いた。
〈風鈴、詩。喉鳴り、音楽。白革、譜面。〉
(譜を書くのは今だ。演奏は春に遅らせる)
夕暮れ。回廊の氷は薄く藍を帯び、望楼の影は長く伸びて一つに溶けた。風は鳴かず、鈴は疲れたように沈黙した。
「終日運行、完了」
イルイナが帳場の角に印を押し、ルーシ官吏が肩から力を抜く。「犬も人も、よく働いた」
「鈴は」歩哨が耳を澄ます。「……もう鳴らない」
「鳴らなくても、残る」カリームが空を見上げる。「“鳴ったかもしれない”という記憶が。——だから紙で縫う」
「“風鈴片、観測外”。」イルイナが記録を読み上げる。「“音指標は二次。停止判断は影長・位相計を主とする”。」
「よし」
カリームは星尺を閉じ、外套の襟を立てた。(冬は道。道は音に惑わない。惑わすのは、いつも人だ)
「参謀」副官が、遠慮がちに紙束を差し出す。「帝国側から、鈴の撤去命令。——“望楼の構造強度に影響の恐れあり”」
「上手い」イルイナが笑う。「“安全”の名に勝てる者はいない」
「安全は遅延の最も鋭い言葉」カリームは小さく呟き、望楼の黒い縁を見た。「——だが今日は、前に進むための言葉だった」
犬が最後の橇を引いて戻ってくる。橇師が手を振り、声を張った。
「アムサラ殿! 鈴の歌、つぎは負けない歌で返すぞ!」
「負けなくていい。静かな歌でいい」
「静かな歌は、寒い夜にいちばん強い」
橇師は笑い、犬の背を撫でた。
回廊は沈黙した。鈴は封じられ、紙は太くなり、風は細くなった。ザエルの詩は冷く、カリームの記録は熱を落とし、冬はまだ続く。
鈴を詩に戻した。次に鳴るのは、春の刃か、市場の鐘か。——どちらでも、道は続けなければならない。




