黒松の砦にて
本日の用語
白革:紙と印で流通や手続きを制御する“書類戦”。今回は「異常通告」の様式で回廊停止を狙う。
影幾何:望楼や柱の影を時間・角度に合わせて操作し、観測記録を偽装・誘導する手法。
風鈴列:微風位相でのみ鳴るよう調律した鈴の連鎖。風返り“異常”を人為的に可聴化する装置。
異常検知誘導:実害のない微細な揺らぎを増幅・可視化し、規定により“安全停止”を引き出す戦術。
足払い:要塞や主力ではなく、補給・通行枠・時間割など“足元”を崩して戦果を得るザエル流の間接戦。
「喉は鳴かなかったか」
報告書を閉じたザエルの声は、湯気の向こうで低く平板だった。黒松の砦の作戦室。灰色の壁、煤けた梁、硝子越しに粉雪がうごめく。卓上の地図には北河回廊と陽石柱アンカーの位置が刻まれ、細い墨線が蜘蛛の巣のように交わっている。
「鳴きかけて、飲まれました。油の流し方を変えたようです」
副官ミルドゥーンが記録板をなぞりながら答えた。「“吸って吐け”の合図に合わせ、霊線の弛緩と締めを同期。銅の冷却差を均し、共鳴の起点を潰している」
「ならば次は喉を狙うのをやめる」ザエルは椅子の背から外套を取り、肩へ雑にひっかけた。「喉に手をやるふりをして、足を払え」
ミルドゥーンが回廊図の右縁に墨で点を打つ。「氷倉、角を丸めました。昨夜の火で弱点を学んだのでしょう」
「学んだ者に教えを返すのが礼儀というものだ」ザエルは鼻だけで笑った。「——“白革”の刃を研げ。昼に回廊を止めろ。理由は“風返りの異常”」
「検知していない異常を、どうやって」
「検知“される”異常を作ればよい」
ザエルは窓の外の白を眺める。「望楼の影を増やし、風鈴を吊る。鳴るべきでない音を鳴らせ。——“規則に従う者”は、自ら止まる」
鋳造小屋は暖かい。工兵と細工師が一列に並び、真鍮の輪に薄い舌を吊るしては、水面に落とした氷片のような音を確かめていた。輪の径、舌の厚み、吊り糸の張り。どれも風返りの位相に合わせてわずかに異なる。
「将校。鈴は三種類——東寄り風、北下がり風、凪の返り。合奏させれば“異常音”になります」
細工師が誇らしげに説明する。
「鳴るべきでない音を鳴らす、と言ったな」ザエルは輪の縁を爪で軽く弾いた。透明な音が、梁から梁へ跳ぶ。「——鳴らすべき音は鳴らすな」
兵が顔を上げる。「将?」
「三者鈴は鳴らさない。条文の“安全停止”は、観測員の報告で発動する。鈴は呼び出し、報告は止める。今は後者だ」
「了解」
ミルドゥーンが帳場に向かい、書記官へ頷く。「白革班、起案。様式“異常通告・一時停止”。宛先は回廊運営三者、但し“提出前の草稿”として倉に回す」
「提出前?」書記官が首を傾げる。
「草稿は“内部記録”だ。だが官吏は草稿も“見える”。——“見えてしまう”場所まで運ぶ」
ミルドゥーンは筆の先をすこし歪め、印影の滲みを真似て見せた。「影幾何もそうだ。見えてしまう影を見えるべき影の上に重ねる」
望楼の基礎に、仮柱が一本立った。大工兵が頬に筆をくわえ、棟木の角度を測る。太陽は薄い。だが影は濃い。影幾何は、低い冬の日を愛する。
「影、三歩延長。刻の線に重なりました」
「よし。——影を二つに割れ」ザエルは足元の雪を指先で払った。「真の影と、仮の影。見張りの眼はどちらかを必ず拾う」
布覆いの帯が影の端に渡され、黒が深黒になる。見張り所の観測盤は影の長さを刻む。影の跳ねは風返りの跳ねと記録上“隣り合う”。隣り合うは、ときに重なる。
「将。吊り鈴は望楼三と五、渡り板の下へ。人が渡っても鳴らない位置に」
「良い。風だけが鳴らせ。人で鳴ったら偽だ。風で鳴ったら真か?——違う。“規則”が真にする」
ザエルの言葉に、若い工兵が目を丸くした。「規則が……真?」
「戦は“事実”で決まることもある。だが多くは“手続き”で傾く」
ザエルは白革の束を軽く叩いた。「“鳴った”と記す者が二人いれば、それは“鳴った”。——鳴っていなくても」
夕刻、黒松の砦の一隅で連邦顧問官が小声で囁いた。細い口髭、灰緑の外套。名はヘルツと名乗ったが、真名かは問わないのが礼儀だ。
「閣下、“鋼の翼”は静養中。今夜の主役は紙と風、拝見します」
「貸与の礼は春に返す」ザエルは無愛想に返し、窓の外を見た。「“足払い”はゆっくり効く。——冬は道、春は刃だ」
ヘルツは肩を竦める。「貴国の詩は、冷たい」
「暖かい言葉は兵を眠らせる」
翌日。北河回廊・監視小屋。三者詰所の炉は弱火、白旗は巻かれ、鈴は沈黙していた。アムサラの書吏イルイナが帳場に座り、帝国側監督士官が対面に居る。ルーシ官吏は羊毛の帽子を深く被り、凍った茶碗を両手で包んだ。
「風返り、平常」
「影長、平常」
「氷鳴り、平常」
三者の唱和は滞りない。午前枠の補給列は渡河の列を作り、橇には松脂油の樽、藁包みの薬草、干し棗。犬の吐息が白い。
その時、望楼三の吊り鈴が、ひとつ、微かに鳴った。風は弱い。人は渡っていない。鳴るはずのない音。
「……鈴?」見張りが顔を上げる。
影が二重に伸び、観測盤の目盛が一目分跳ねた。望楼五の渡り板の下でも、ちり、と氷砂の擦れる音。風紋術の返りが強まった、ように見える。
「北東位相、〇・一跳ね」
「燐粉の線がずれた」
「鳴るべきでない時刻に鳴った」
三者の規則は厳しい。二者が一致して“異常”を認めた場合、安全停止を要請。鈴を鳴らし、回廊を閉じ、検分を行う。
イルイナの横で、カリームが静かに息を吐いた。薄氷の上の影が太く、鈴が鳴っている。鳴っている、ように見える。
(影幾何を使ったな。鳴らせる風は薄い。だが規則は厚い)
「三者、停止要請。安全検分に移行」帝国士官が淡々と告げる。
「異議は——出さない」イルイナは即答した。「一度止めて徹底的に見る」
カリームは外套を合わせ、氷へ出た。影に指をかざし、鈴の舌の張りを目で測る。鳴りは風にしか出せない位置だ。人の足では届かない。
(風を選んで鳴らせる——風鈴列の調律。喉鳴りが砲を泣かせるように、鈴を鳴かせる周波がある)
「検分、条のとおり」カリームが告げる。「望楼三・五、吊り鈴の撤去。影長の記録を二重化。『異常』を“記録”する側の手を増やす」
「撤去は帝国側の施設だ」帝国士官が眉をひそめる。
「では共同で」イルイナが一歩前に出た。「“安全停止”の条は、“責の共有”を定めています」
鈴は外された。影は一本に戻った。風は何も変わっていない。変わったのは帳面と時計だ。午前の渡りは止まり、昼の枠は押し、犬は座り、油は冷える。鈴は鳴らないのに、止まっている。
黒松に戻る伝令が、粉雪を払って作戦室に入った。
「回廊、午前枠停止。検分のため昼過ぎまで閉鎖」
ザエルは茶碗を置き、湯の縁を指でなぞった。
「足払い、一本」
「敵参謀、現場で鈴を外させています。共同撤去の記録、三者署名」ミルドゥーンが追って報告する。
「“共有”は“責任”を薄めるが、“時間”を濃くする」ザエルは頷いた。「——“白革”第二手。『異常通告』の様式で、『再発防止策提出』を催促。提出までは安全余裕枠を一段縮める」
「提出は明日でも明後日でも」
「“今日”を削れれば良い。明日は今日の借りを取り立てに来**る」
ヘルツが口髭を撫でながら口を挟む。「紙の刃は鈍いが、傷は治りにくい」
「だから冬に使う」ザエルは窓に目を移した。「春に血を見ないで済むなら、それでいい」
回廊の検分は、条に沿って進む。望楼の基礎、渡り板の締結、影長の記録、風位相の標。イルイナは墨の伸びを指で確かめ、帝国士官は印篭の内側を嗅いだ。ルーシ官吏は鈴の素材を舐めて苦く顔をしかめる。真鍮と海の匂い。
(港を経てきた鈴だ。連邦の倉か回漕問屋の棚を通ったのだろう)
「記録、異常音の頻度は三。どれも短く、位相は北下がり寄り」
「影長の跳ね、二。望楼三・五の下のみ」
「氷鳴り、なし」
「“なし”を記すのは難しい」イルイナが独り言のように言う。
「だが“なし”が一番効く時もある」帝国士官が答えた。「“危険”より“安全”の印のほうが、人を止める」
カリームは鈴の袋を結び、望楼の梯子を降りた。犬が一度、短く吠えて黙る。空は薄く明るいのに、音は薄く暗い。
(“沈黙”は言葉だ。昨夜、ザエルは黙る術を見せた。今朝は鳴らす術を見せた。次は書くだろう)
「参謀」副官が耳打ちする。「“再発防止策提出”の通告様式が、帝国経由で起きています。様式番号、連邦式」
「読ませろ」
白革の紙は薄く、印は濃い。“安全余裕枠の縮小・仮適用”の文言。条にはある。実務では使わない箇条——だから効く。
「提出猶予、一日」イルイナが眉を寄せる。「今日は……削られました」
「足払いだ」カリームは短く言い、筆を取った。「“再発防止策”は明朝に出す。こちらから“影幾何の禁止”を逆提案。望楼の仮柱を外し、吊り鈴は三者共同の倉に封緘。——“鳴るべきでない音”の線を、こちらが引く」
「攻めますか」
「防ぐことが攻めになる時がある」
黒松。ミルドゥーンが報を読み上げる。「アムサラ、“影幾何の禁止”を逆提案。共同封緘を要求」
「良い線だ」ザエルは頷いた。「封緘の倉は“共同”。鍵は三つ。——“鈴”の場所をこちらも握る」
「将。これで“白革”の第二手は」
「打った。三者は止まり、枠はずれ、犬は座り、油は冷えた。兵は死んでいない。紙と風で取れる血は取った」
ヘルツが肩を揺らす。「あなたの詩はやはり冷たいが、血が少ない」
「それが良い詩だ」
ザエルは窓辺に歩み、黒松の影が雪の上で二つに割れているのを見た。仮柱の影が真の影に寄り添い、一つに見えたり、離れて二つになったり。
(紙と風で、どこまで切れるか。——春までに答えを出してみせよう)
夜。砦の灯が細く減り、当番だけが暖を許される。ザエルは一人、小さな作戦室に戻り、地図を広げた。北河回廊の印、陽石の倉、犬橇の路、三者詰所、望楼。墨の点が動かない。——動かないから、動かせる。足で動くものは、紙で止まり、紙で動くものは、風で止まる。
「ミルドゥーン」
「はい」
「次の“足払い”だ。“昼の道”を狭めた。明日は“朝の鈴”を重くする。鈴の打ち方に“小休”を挟め。合図は増やせ。多ければ遅い」
「三者で合意が必要です」
「“安全”の名は、いつでも賛成を呼ぶ」
ザエルは薄く笑った。「“安全”は遅延の最も鋭い言葉だ」
「了解」
副官が去ると、ザエルは灯を少し落とし、卓の端に置かれた一枚の写真を手に取った。連邦式の滑空機、“鋼の翼”の翼桁に刻まれた数字。春に使う刃。
(できるだけ遅らせる。紙と風で済むなら——それに越したことはない)
翌朝。三者鈴は新しい手順で打たれ、小休が一つ挟まれた。鈴は重く、音は長い。犬は待つ術を覚え、人は寒さを一枚余計に着る。朝は押し、昼は詰まる。押しと詰まりは、戦の文字で“消耗”と書く。
イルイナは記録に朱で“小休追加”と記し、カリームは窓の外の氷の縁を見た。鈴は重い。だが——鳴らさなければ良いだけの話でもある。
(鳴らさずに済む夜を増やす。結界の縁を厚くし、影のくせを殺す。——冬の宿題は増えた)
「参謀」副官が新しい白革を渡す。「“再発防止策”の相互承認、成立。吊り鈴は共同封緘。影幾何、禁止。——“安全余裕枠の縮小・仮適用”は一旦解除」
「良い。止めた道は戻る。だが戻り際に足を取られる段差は残る」
カリームは星尺を閉じ、窓の曇りに指で短い式を書いた。
“時間 × 距離 × 規則 = 摩擦”
(摩擦の総量を減らす。こちらの摩擦は夜で消し、あちらの摩擦は昼に増やす。——ザエル、次は何を狙う)
黒松。ザエルは窓から雪を払い、遠くの白に目を細めた。砦の上の風は、今朝は鳴らない。鈴は倉で眠っている。
(紙は動いた。風も動いた。人はまだ死んでいない。——春は近い)
「ミルドゥーン」
「はい」
「“灰猫”を冬眠させろ。次は“白革”と“沈黙”で日を削る。喉鳴りは時々でいい。——喉を握るふりをして、足を払い続ける」
「了解」
「それと」ザエルは地図の端に小さな丸を描いた。「春の“刃”の置き場を十に割る。十に割れた刃は折れにくい。整えろ、静かに」
灰色の作戦室に、薄い湯気がまた立った。ザエルは茶碗を持ち上げ、目を閉じて香だけを吸い込む。温かいのに、眠くならない温度。兵を眠らせない言葉と同じ温度だ。
(冬は道**。道は歩くものを選ばない。——選ぶのは、歩き方だ)




