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氷霧の猟犬

本日の用語


氷霧ひょうむ:川面から立つ微細な氷の霧。音と光を吸い、影刻と見張りを鈍らせる冬の帳。


猟犬りょうけん:連邦式小型母機が放つ滑空群戦術の呼称。群れで嗅ぎ、噛み、離れる運用思想。


氷倉ひょうぐら:川縁に築く氷の貯蔵庫。壁と屋根を“育てる”構造で、角が弱点になりやすい。


氷砂こおりずな:砕氷と砂を混ぜた消火材。酸素を奪い、熱を奪い、氷面を保護する。


角落とし(かどおとし):屋根や胸壁の角を丸め、火と風の“噛み付き”を防ぐ処理。即席でも効果が大きい。

三夜目。空は鉛。曇天、無星。風は懐に隠した刃のように吹かず、ただ刺す。結界の風位相は安定、風返りは薄い——数字は穏やかだが、胸の奥で鳴る鈍い鐘は止まらない。


「来ない夜もある」若い兵が息を白くして呟いた。「結界、きれいに立ってます。風返り、薄いですし——」


「“来ない”を信じるな」カリームは冷たく返す。「来ない夜は、来る夜を太らせる」


「……はい」


 氷上の見張り線は、昼間に打った白墨がまだ辛うじて残り、布覆いは端を砂で押さえられて、光の目盛りを潰している。鈴は胸元の革紐に二つ、二打で検める作法は身に馴染んだ。影刻は当てにならない夜——代わりに、氷面に伏せた聴氷板が、遠い震えを拾う。


「犬は?」カリームが問う。


「鼻を伏せてます」ルーシの橇頭が答えた。「星がない夜の犬は、耳で歩く」


「なら、こちらも耳で撃つ」


 氷霧の奥で、空気の輪郭が低く唸った。音というより、腹の底を撫でる重み。カリームは目ではなく喉で距離を測る。——鋼の翼の小型母機。猟犬を放つ籠だ。


「来ます」副官が霊線の軽い震えを指で示す。「南東、二百——」


「数を言え」


「二十、いや、四十——」


「違う」カリームは首を横に振った。「二十が“二十に見えるように”飛んでいる。列と列の影で倍に見せてる。二列目の背が本命だ。間を撃つな。“渦の背骨”だけ折れ」


「対空、三射。見せ玉に弾をやるな」


「はっ!」


 一射。二射。白い束が夜空を折り、氷霧が白く弾けた。母機の腹から花のように滑空機がほどけ、霧の筋を切り裂く。影は細く、速く、静かだ。霊線がビリ、と皮膚で鳴った。


「第三射——」


「待て」


 沈黙が一瞬、長い。影は結界の縁に指を這わせるように滑り、風返りのわずかな谷を撫でた。猟犬が嗅いでいる。噛む場所を。


「今だ。撃て」


 第三射が影の背を打ち、四つの点が黒く落ちる。氷面に丸い穴が開き、薄い蒸気が唇を刺した。鈴が二打、止む。


「右! アンカー陰圧、急降下——」


「待て、ガス抜きだ。撃つな」カリームは鼻で風の匂いを嗅ぐ。「穴に空気を噛ませてる。噛み返すな」


 兵が歯を噛み、引き金から指を離す。その一瞬、氷霧が舌を出したように揺れ、第四射台が本能で吠えた。喉鳴り——。


「沈め! 沈めろ!」


 銅の冷却路が悲鳴を上げ、砲身が薄く霜を吹く。鳴いた銅は臆病でいい。臆病は冬の美徳だ。


 影の群れは一息で引き、氷霧に背を解いた。——終わりではない。一機が低く潜り、氷倉の屋根に爪の先で触れた。火が芽吹く。小さな舌が青に変わり、角に噛みつく。


「消火! 氷砂を回せ!」


「氷井戸、蓋を外せ! 布覆い、被せて息を止めろ!」


 氷砂が掬われ、布が走り、氷が唸る。火はすぐに鎮まった。だが屋根の角が薄く裂け、黒い涙のような筋を残す。


「被害、軽微」副官が歯噛みしながら報告する。「——だが、見られましたね」


「見せたんだ」カリームは短く言った。「火に弱い“角”。次はそこを突く。だから、今夜中に角を丸くする」


 兵たちが目を丸くする間もなく、カリームは工具箱を引き寄せ、手斧とやすりを抜いた。


「参謀自ら?」


「図面だけでは“寒さ”が分からない」カリームは屋根に上がり、白い息を吐いた。「手の痺れは、図には描けない」


 角落としは理屈では簡単だ。水で育てた角を、火で噛まれない曲線に削る。だが手は痺れ、靴底は氷の微細な粒で滑り、耳は遠くの低い唸りを離さない。若い兵が下から声を上げる。


「参謀、型板持ってきました! 半径一尺、二尺、三尺!」


「二尺でいく。角の“噛み付き”は二尺で消える。三尺は贅沢だ。時間がない」


 木の型板を当て、氷の角を削り、擦り、撫でる。やすりの歯が氷の鳴きを柔らげ、丸みが火の舌を滑らせる道になる。別の兵が氷砂を薄く撒き、残った熱を吸い取る。


「角、一本完了!」


「次、胸壁の内角だ。部内側からも丸めろ。火は外から噛むが、風は内から抜ける」


 イルイナが布の束を抱えて駆けてきた。


「布覆い、角用の“耳”を縫い付ける。明日からは引っ掛けて一撃で被せられる」


「商人の手が早い」カリームが笑う。


「冬は段取りで儲ける季節ですから」イルイナは息をこらして糸を引く。「角落としの“標準”を一枚で決めましょう。型板、布、氷砂の配分。誰がやっても同じ角に落ちるに」


「標準は刃だ」カリームは頷いた。「誰がやっても“同じ刃”になる」


 工兵長が喉を鳴らして笑う。「“同じ刃”なら、どこも噛み心地は悪い。犬は噛むのを諦める」


「犬は諦めないさ」ルーシの橇頭が肩を竦める。「犬は噛めない角を探して回る。それが猟犬だ」


「だから全部、丸くする」カリームが手斧を振る。「角の“地図”を先に燃やす」


 角落としは氷倉だけで終わらない。胸壁、監視小屋、射台、望桿の基礎まで——角はいたるところに立っている。角は風と火の“入口”で、敵は入口を嗅ぎ分ける。入口を丸く潰せば、嗅ぎ分けは鈍る。


「副官、帳面」カリームが手を伸ばす。「角落としの順。優先は氷倉群、次に霊線の節点、その次が望桿。望桿は影刻の基準だが、今夜は星がない。明日までに地べた基準に引き下ろす」


「了解。“梁”の撓みは信用しない」


「鈴は喉で打て」カリームは続ける。「金属は戻るが、喉は戻らない。三打を喉が嫌がる作法を繰り返し覚えさせろ」


「“嫌がり方の標準”、ですね」イルイナが口端を上げた。「紙では作れない作法」


 角が二つ、三つと落ちていく間、氷霧は薄く呼吸を変えた。犬の耳が一度、僅かに跳ねる。


「……参謀」若い兵が囁く。「また、来ます」


「数」


「十……いえ、二十。ただ——二十が“二十に見えるように”飛んでない。“十”が“三十”に見えるように飛んでる」


「猟犬が“吠える真似”を覚えたか」カリームは息を一度****細くする。「対空、二射。三射目は角が終わってからだ」


「撃つ前に、角を落とす?」


「“噛み付き口”を閉じるのが先。銅は臆病でいい」


 一射、二射。影は散り、氷霧はまた閉じる。三射目の指は引かれず、手斧とやすりが再び歌を刻んだ。角落としの拍と、犬の呼吸が合う。兵の誰かが息の隙間に小さく口ずさむ。


「歩調は命だ。音は恐怖を均す……」


「歌え」カリームが言う。「氷は歌で歩く」


 角が最後の一片を落とした瞬間、影の一機が低く舐めるように再び氷倉の上を走った。噛む場所を探して——ない。舌は滑り、影は取りこぼして去る。


「……抜けました」副官が肩の力を一つ抜く。


「“抜けた”と書くな」カリームは短く言った。「“噛まれなかった”と書け」


「表現の問題、重要」イルイナが笑う。「兵は言葉で動く」


「商いも同じだ」


 小さな笑いが白く散り、すぐ氷霧に呑まれた。


 黒松の砦。同刻。ザエルは灰色の作戦室で、連絡符を受け、短く目を細めた。


「角落とし。二尺標準。布覆い耳付」副官が読み上げる。


「速い」ザエルは湯を啜り、湯気の向こうで薄く笑った。「“噛み付き口”を閉じる作法が現場に落ちた。机から遠ざかったものは、刃になりやすい」


「では、どうします」


「角を丸めたら、面で噛むしかない」ザエルは薄い紙片に二本の線を引いた。「“狼牙ろうが”をやる。面で押し、面で離れる。猟犬が舌を滑らせたら、群れの肩で押せ」


 ミルドゥーンが顎に指を当てる。「母機の低空“面押し”は霜を立てます。聴氷が狂い——」


「狂わせればいい」ザエルは静かに言う。「“読む”をやめた相手には、“感じる”を狂わせる。感じが狂えば、歌も歩調も乱れる」


 副官がためらう。「凍った氷で面押しは危険です」


「戦は危険だ」ザエルは椅子を引いた。「だから“紙”も“氷”も、両方でやる」


 夜半。角落としが一巡し、布覆いの耳が角に噛み付いて待っている。氷霧の息は浅く、風は方向を迷う子犬のようにうろつく。


「参謀」聴氷板の兵が囁く。「面で来ます。線じゃない。唸りが広い」


「“狼牙”だな」カリームは犬の背を撫でるように風を撫でた。「対空、三射の合間を詰めるな。感覚を焦がされる。歌は低く、拍は太く。耳は鈴で冷やせ」


「はっ」


 唸りが面で押してくる。氷の毛穴が一斉に開き、足裏の感覚が半歩ずれる。若い兵の歌が半拍上に浮き——鈴が二打、落ちた。


「戻すな。三打は打つな」イルイナの声が低く走る。「二打で足を出す」


 一射。二射。面の唸りが薄く裂け、猟犬の列が顔を出した。三射——喉は嫌がる前に終わった。弾は節約ではない。拍の節約だ。


 猟犬は氷倉の角に舌を伸ばし——丸みに滑って噛めない。犬は次の角へ走る——丸い。次——丸い。狼牙の肩が面で押し、氷がうなる。聴氷は少し狂った。だが歌は落ちない。低く、太く、足に戻る。


「面で押して引いた」副官が息を吐く。「噛める“角”を探したが、全部、丸」


「“地図”を燃やしたからだ」カリームは言う。「犬は地図で噛む」


 猟犬の影は二度、三度と舌打ちを残し、霧の向こうへ消えた。鈴が二打、止む。氷はしばらく、年を取る音を立てて黙った。


 夜明け前。工具が片づけられ、布覆いの耳が霜で白く光る。角は低く、丸い。氷倉は今夜の噛み付きを忘れたように静かだ。


 若い兵がおそるおそる口を開いた。


「参謀……“来ない夜もある”は、やっぱり“来る夜を太らせる”んですね」


「そうだ」カリームは手袋を脱ぎ、指の痺れを風に晒した。「“来ない”は“来る”の前払いだ。夜は借用書を書く」


「じゃあ、角落としは……返済ですか?」


「ああ。“来る”のための手数料だ」


 イルイナが帳面を閉じ、笑う。


「商人としても、納得ですね。払うべきものを前に払うのは、利が少なくて損が少ない」


「利が少ない戦は、長く続けられる」カリームは空を見た。雲はまだ重い。だが東に薄い灰が透けている。「冬は道。道は角を嫌う。丸ければ、遠くへ行ける」


 鈴が二打。朝成の合図だ。犬がのびをし、鼻が上を向く。星はまだないが、影は短くなりつつあった。


「今日は昼も忙しい」副官が笑う。「印影台帳の更新、三者鈴の点検、望桿の**“地べた基準”——そして角落とし標準の通達**」


「“通達”は——紙に刃を仕込むなよ」カリームが釘を刺す。「紙は倉で偽られる。角は現場でしか嘘をつけない。現場で見て、現場で決めて、現場で歌え」


「了解」


 白旗が一本、遅れて揺れた。氷霧は薄く剥がれ、川の背骨が朝に伸びる。氷は朝の間だけ若返る。夜の年輪は見えないところに沈む。


 ——三夜目は終わった。猟犬は嗅ぎ、噛み、離れた。角は丸くなり、歌は低く太く続く。

 黒松の砦の灰色の作戦室では、紙がまた一枚、静かに研がれているだろう。

 ここでは、角がまた一本、静かに落とされる。


 冬はまだ、長い。

 読むと踏むの競争に、嗅ぐと噛むが加わった。

 鈴は二打。三打は要らない。

 足は歌で出る。

 歌は恐怖を均す。

 そして、恐怖が均された場所だけが、次の道になる。

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