表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/50

最初の勝利、最後の祝宴

【本日の用語】

橋頭堡きょうとうほ》:渡河後に敵地へ築く足がかりの拠点。

防空結界ぼうくうけっかい》:空域への侵入を阻む広範囲魔術(撃墜より“入りづらくする”のが目的)。

対空魔導砲たいくうまどうほう》:飛行体へ指向性の魔力束を撃つ陣地砲(連続三斉が限度)。

アムサラ王国軍の司令部天幕は、砂と汗、そして歓喜の熱でふくらんでいた。


水晶盤が映す対岸は、もはや伝説の図柄ではない。難攻不落と謳われた壁は崩れ、帝国の番兵は鉄の屑へと化した。古参の将軍たちは肩を叩き合い、十数年前の「閃光戦争」で焼かれた悔しさを、喉の奥から吐き出すように吠えた。


「やった! やったぞ! 我らの息子たちが帝国の鼻を明かした!」


歓喜が天幕を疾った。だが、その中心にいるべき若き参謀カリームだけは、静かに立っていた。瞳にあるのは勝利の光ではなく、冷えた計算だけだ。


「諸君、静粛に」


一声で熱が引く。


「作戦はまだ始まったばかりです。ようやく敵の庭先に足を入れただけ」


ファハド王が頷く。「次の一手は?」


「敵の初動は空から――帝国の空の牙、飛竜騎士団。だが織り込み済みです」


カリームは水晶盤の運河沿いに青い駒を置いた。


「古代の風位相をいじる術を土台にした**《防空結界》**を展開します。撃ち落とすのではない。飛行の位相を乱し、この空域へ“入らせない”。鳥が見えない風の壁に突き当たるように」


「安定に要する時間は?」と副官。


「陽石の柱で結界を地面に縫い止める。四点アンカー。**半刻(約30分)**で最低運用、一刻で安定域。ゆえに今から半刻、空は薄い。そこを越えれば、敵は牙を立てにくい」


そこへ伝令が駆け込む。砂と煤で黒く、眼だけが強い。


「〈報〉第一波・第二波、対岸**《橋頭堡》**確保! 防衛線構築、進捗良! 帝国軍旗、一旒を奪取!」


引き裂かれた軍旗が掲げられ、地鳴りのような歓声が再び天幕を満たした。


ファハド王は席を立ち、軍旗を受け取りながら、天幕の隅の書記官へ命じた。


「名を、順に読み上げよ。この勝利の礎となった者たちの名を」


静まり返った空間に、名が一つ、また一つと落ちる。王はそのたび、小さく反復した。王は担架列に歩み寄り、若い兵の亡骸を覆う布の端を指で直す。その指先の跡だけ、砂の艶が消えた。祝宴と弔いが、同じ天幕の下で同時に始まる。


「申し上げます!」衛生兵が駆け込む。「負傷者の治療水が底をつきます。放水用の魔動ポンプの圧を、少しでもこちらへ!」


「無茶を言うな!」工兵指揮官が噛み付く。「あの圧が壁を剥いだ。今緩めれば、敵の縫い直し(再結界)を許す!」


「このままでは助かる命も助からん! 飲み水を樽一つでいい!」


「ならん!」


声が尖った瞬間、カリームが切った。


「ポンプは半刻だけ二割落とす。半刻で衛生へ回し、処置を終えた者から運搬に付け。助かったら働け。働けば助かる者が増える」


彼は自分の水盃を取り、衛生兵へ渡した。兵は黙って敬礼し、駆け戻る。


砂に穿たれた四角錐の基礎穴へ、陽石柱が吊られて降りる。土嚢で脚が固まり、基部の符に火が走る。空気がきしみ、耳の奥が紙裂きのように疼いた。


「北東、位相ずれ〇・二、保持三呼吸! 楔、もう一打ち!」


乾いた槌音が、見えない壁の輪郭を叩き出す。砂塵が膜に引っかかり、風の縁だけが白く立った。


「同時に対岸の**《橋頭堡》を固めます。塹壕、遮蔽物、《対空魔導砲》**の据え付け。陸の反撃が来る前に喉元を塞げ」


「標定手、偏角七、仰角四、配線(霊線)安定!」砲班長が叫ぶ。


「参謀殿、念のため」班長は続けた。「この砲は三斉射が限度。それ以上は銅の冷却路が鳴く。一度鳴けば半刻は沈黙だ」


「わかっている。鳴いたら沈め。欲張れば銅が割れる」


カリームは水晶盤を指でなぞる。


「工兵の防壁と歩兵の塹壕の間に半歩の段差がある。地図は平らでも地面は違う。その“継ぎ目”を敵の喉にされるな。土嚢で今すぐ埋めろ」


将軍たちは短く頷き、命が走り出す。


外の野営では、干し棗と薄い酒の小盃が回り、若い兵が震える手で仲間の名を木札に刻んでいた。担架が砂を噛む軋み、低い読誦。祝う声と祈る声が、同じ風の中で混じり合う。


「祝うのは良い」カリームは短く言う。「半刻後、各隊作業復帰。結界が安定する前に、空を渡らせるな」


角笛が短く鳴り、小盃が地に置かれた。ファハド王も盃を置き、担架列へ戻る。名がまた一つ読まれ、王は小声で反復した。


——その時、頭上の高みで一拍だけ、風が裏返る音がした。


陽が落ちる。天幕の熱は引き、兵たちは黙々と掘り返しと運搬に戻った。対岸は黒い塊のまま沈黙している。歩哨だけが、変化に気づいた。


「……隊長。対岸に、灯が三つ」


「斥候だろう。数を数え――」


「消えました」


三つの灯は、闇に包帯のような黒布で包まれたかのようにふっと消えた。水面の反射も、布で殺してある。獅子は光の作法を知っている。次の瞬間、川面の皺が逆向きに走った。風の皮が内側へひっくり返る。こちらの風紋をなぞり、どこか一か所で噛み合わせを狂わせる手――。


「見張り線、増員。音で来る。耳を澄ませ」


カリームは天幕の外へ出て、暗い空を見上げた。見えない壁の縁で、薄い擦過音が続いている。半刻が、やけに長い。


その夜、カリームは自室で帳簿と向き合った。戦況ではない。陽石の流通経路と価格の揺れ――市場の地図だ。


出納官が羊皮紙を置く。「先月の備蓄量です。共和国商船の買い付け分も」


カリームは数字を追い、短く吐いた。


「……足りない。超大国が一度本気で手を伸ばせば、一日で空になる。戦場は運河だけじゃない。市場もまた戦場だ」


同時刻。帝都、宰相府。宰相は封蝋を割り、異国の紙を読む。


貴国の苦境、拝察する。我が連邦は最新鋭兵器群「鋼の翼」の貸与を提案する。

対価:陽石の長期供給、運河の自由通行特権。即答を望む。


宰相は紙をたたんだ。窓外の夜空は静かだが、紙片の言葉は、遠い鉄の羽ばたきの音を連れてくる。


アムサラが勝利に沸くころ、帝国の奥深くでは、目覚める側の計算が始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ