ザエル、灰色の作戦室
【本日の用語】
灰猫:ザエルが立案した第一段。滑空機群で《陽石柱アンカー》の周囲に発生する陰圧域を「撫で」て防空結界の風返りを偏らせ、低高度に細い通り道を作る陽動。
喉鳴り(のどなり):第二段。対空魔導砲の銅製冷却路が共鳴して発する異音。そこに同調周波を当てて早期に“鳴かせ”、連射能力を落とす干渉作戦。
白革:第三段。白旗回廊の約定文言と鐘の打数・影刻の規定を模した偽書類で補給列を“合法的に”停滞させる文書戦。
鋼の翼:ヴァローリア連邦が貸与する最新兵器群。無動力滑空機、魔導母機、観測球などの総称。
陰圧域:防空結界を地形に縫い止める《陽石柱アンカー》の周囲に生じる圧力の窪み。風返りの輪の歪みを誘発しやすい。
帝国冬営・黒松の砦。煤けた天窓から、雪明りが灰色に差し込む。石卓の上には北河の図幅が幾重にも重なり、薄い湯気が目盛りをなぞって漂っていた。湯気の源は、軍用の薄い茶。寒さで冷める前に飲み切るには味が薄すぎる。
ザエルは毛織の上着を肩に引っかけ、黙って北河回廊の印を見ていた。白旗の印、影刻の線、鐘の打点。どれも音がないのに、音を孕んでいる。
「将、連邦から“鋼の翼”の実機が一部届きました。滑空機二十、魔導母機一、観測球十」
副官の報告は簡潔だった。目の下に薄い隈。寝不足は雪よりも白い。
「貸与か供与か」
「貸与。代価は……陽石と通行特権」
ザエルは鼻を鳴らした。
「やれるなら、買わずに借りる。借りたら、試す。試したら、返す。——戦とはそういうものだ」
「……将、返す時に、壊れていたら?」
「壊す前に学べ。学べば、自国語で書き直せる」
副官は小さく頷き、板帳をめくった。「アムサラの結界、風返りの節目が刻まれています。日の出・日没、それと真夜中に位相が跳ねるようです」
「そこに“道”が開く、か」ザエルは顎に手を当てる。「肝は風を信じないことだ。風返りの外側に、別口の影を作れ」
彼は小さな紙片を取り出した。連邦式の計画名が英字で走る。だが、彼は帝国語の音で読み替える。
「第一段、“灰猫”。滑空機で陽石柱アンカーの陰圧域を撫でてやる」
「撫でる? 破壊ではなく?」
「撫でて歪ませる。輪は壊すよりずらすほうが早いし、音が出ない」
「第二段、“喉鳴り”。敵の対空魔導砲の冷却路に同調周波を当てる」
「鳴かせて、早漏れさせる……ですね」
「言葉は選べ、報告書に残る」ザエルは苦笑した。
「第三段、“白革”。回廊の文句をまねた偽約定で、補給列を“合法的に”止める」
「将、それは……」
「書類は剣より強い。時と場所が整えば、だがな」
風が壁板を鳴らした。松脂の匂いが、遠い伐木場から運ばれてくる。
黒松の砦の裏手、凍結した操練場。連邦の技師ミルドゥーンは、鼻の赤い顔で翼を撫でていた。翼は布張り、骨は灰銀色の合金。毛皮の襟からのぞく手袋は、指先が固い。
「将軍、翼は“軽い嘘つき”です。風が強いと従順、風が弱いと正直。それを人が嘘にする」
「人が嘘にする?」
「操縦者が恐怖で翼を曲げるんです。怖い方向に」
ザエルは頷いた。「怖さの形は、糸の角度に出る」
「分かるんですか?」
「凧で育った」ザエルは片目を細める。「氷原の子は、風の温度で嘘が分かる」
魔導母機は、巨きな暖かい腹をしていた。胴の内側に陣式が刻まれ、霊線が網のように張り巡らされている。連邦の術者が唇を白くして、低く詠唱を続けていた。
「母機は曳航と周波数の発信を担います」ミルドゥーンが説明する。「観測球は風返りの輪郭を浮かび上がらせる。ただし——」
「ただし?」
「音が出ます。喉鳴りに近い」
ザエルが副官を見た。副官は即座に頷く。「記録班、銅管と冷却路の“鳴き”を取ってあります。試験場での鳴動帯は、百七十から二百二十ヘルツ」
「母機の音をそこから外せ。灰猫の夜は、囁きで行く」
「囁き?」
「砂の上の声だ」
夜。雪は降らず、空は厚い綿のように重かった。
滑空機の翼に薄い霜が降りる。搭乗者は口に枯草を噛み、背の皮紐を締め直した。
ザエルは翼の前で立ち止まり、搭乗者の肩を叩いた。
「名前」
「トゥマ。北河の生まれです」
「怖さの形は?」
「低いです。落ちる怖さより、見つかる怖さ」
「良い怖さだ」ザエルは微かに笑った。「見つかる怖さは、仲間を見つける」
母機が腹を低く鳴らし、索がピンと張る。
観測球は夜空に紙灯のように浮かび、微細な風の皺を光の縞に変える。
ザエルは星尺を開き、真夜中の跳ねを指先でなぞった。
「離す」ミルドゥーンが囁く。索が解け、翼は風返りの外側に滑り出した。
「撫でろ。押すな。撫でるだけだ」
無線の術式にザエルの声が落ちる。
トゥマの翼は陰圧域の縁を掠め、布の端で空気の毛を梳いた。
輪は壊れず、ずれた。低いところに、細い影が生まれる。
「見えた」測手が息を飲む。「低い道……」
「道と呼ぶな」ザエルは静かに叱った。「道は慢心を呼ぶ。隙と呼べ」
別の翼が、隙をなぞる。
対岸、アムサラの対空陣地で短い灯が砂に埋められては一瞬だけ開く。砂灯。
見張りは生きている。見せ玉の凧も投げられた。
しかし彼らの糸は、高い怖さで張られている。落ちる怖さだ。
ザエルは唇だけで笑った。(今はまだ、撫でるだけでいい)
「灰猫、退け」ザエルが囁く。「喉鳴りの予習は、明日だ」
翌日。黒松の砦の工作舎。
作業台には銅の冷却路が載せられ、環には細かな彫りが走っていた。
工兵の老職人が、指で銅を弾き、耳を近づける。
「ここが“鳴き”の芽だ、将軍。雑音が嫌いな静かな銅ほど、大声で鳴く」
「どのくらいで鳴く」
「温いときほど鳴く。臆病なんだ、銅ってやつは」
副官が記録を読み上げた。「閾値は一・六ケルダ(※帝国工廠尺度)。同調周波は百八十九。三斉射で自鳴、そこから半刻沈黙」
「喉鳴りを先に起こせば、一斉射で沈黙か」
「理屈はそうですが……遠くから鳴かせるのは」
「近くから鳴かせるやり方も用意しろ」ザエルは言った。「銅に耳を当てる虫を作れ」
「虫?」
「観測球の紐に噛ませる共鳴子だ。白旗の下でも虫なら罪が軽い」
老職人が歯を見せて笑った。「作ってみたい」
「作って、壊せ。壊して、学べ」
午後、文庫に移る。
文机の上には、白旗回廊の約定、鐘の打数規定、影刻の運用簿、対岸の写本。
文官サテュロスは、丸眼鏡の奥で目だけ笑っている。
「将軍、“白革”は紙ではなく布です。羊皮紙の縁の削り方で正統が分かる」
「削り方?」
「縁を月にしない。山脈にする。連邦式は月、帝国式は山脈。
——アムサラ式は砂丘だ」
「砂丘?」
「刃先が甘い。喉に優しい。読んだ者が歌える」
ザエルは短く息を吐いた。「歌える書類は強い」
「では、偽の約定を作る時は? 砂丘にする?」
「半砂丘だ」ザエルは即答した。「真砂だと彼らの歌になる。半だと彼らは読み直す。読み直しは足を止める」
文官が頷き、刃物を研いだ。「印璽の白粉は何で?」
「陽石粉だと光る。魚膠で鈍らせろ。鈍い正義はよく通る」
「鐘の扱いは?」
「一打は見せ玉、二打は影、三打で人が動く。四打は嘘の音だ。
——三打で止める書類にしろ」
「了解」
夕刻、作戦室。薄い湯気がまた地図の上で踊っている。
ザエルは駒を三つ置き、順に指で叩いた。
「灰猫で隙を作る。喉鳴りで声を奪う。白革で足を止める。
——順番を間違えるな。声を奪う前に足を止めると、歌が生きる」
「いつ仕掛けます?」
「真夜中だ。位相が跳ねる。風返りが息継ぎする刻」
「規模は?」
「最小だ。勝ちは膨らませると腹が裂ける」ザエルは目を細めた。「時間だけ奪え」
副官は沈黙ののち、頷いた。「将、若いのが英雄譚を期待してます」
「英雄譚は春にやれ。冬は帳尻だ」
夜の北河。
観測球が薄い光を吐き、風返りの輪に細い筋を描く。
母機は囁きで飛び、滑空機は撫でで通す。
アムサラの対空陣地の砂灯が一瞬、低く開き、すぐ閉じる。
灰猫は触れない。触れたと見せる。
「喉鳴りの子、行け」
母機の腹から、虫が降りた。観測球の紐に噛みつき、銅の共鳴を低く流す。
遠くの陣地で、銅が一音、鳴いた。
アムサラの砲班長が、思わず銅の背を叩く声が、術式越しに拾われた。
「鳴いたな。沈め」ザエルが囁く。
「喉鳴り、一打。二打……三打」測手が数える。
砲は沈黙。半刻の沈黙。
「白革、鐘を鳴らせ」
回廊の関門で、帝国の立会隊が鐘を三打鳴らす。
偽約定の条文は、影刻の再点検を義務づけ、通過列を「安全確保のため」留め置く。
書類の縁は半砂丘。読む者は読み直す。
読み直しは足を止める。
「将、アムサラ側の文官が来ました。照合を求めています」
「照合に照合を重ねさせろ。白旗の下で丁寧は武器になる」
ザエルは長机の端で、静かに茶を口にした。
指先は冷え、目の奥は熱い。
若い背中に、無駄な英雄譚を背負わせる気はない。
凍った土と紙で、勝てるところは勝つ。
夜半が過ぎた頃、対岸の闇から一度だけ、風の裏返る音がした。
対空陣地の奥、陽石柱アンカーの影が半歩だけ移る。
灰猫が撫でた隙は、道にはならない。だが刃にはなった。
「撤収」ザエルは立ち上がった。「足跡を残すな。音も残すな」
「成果は?」
「時間だ」ザエルは淡々と言った。「時間が、一番高い」
副官が頷く。「補給列、三刻遅れます」
「十分だ。氷路は午前に働く。午後は気難しい」
彼は窓の外を見た。雪は降らない。空だけが重い。
重い空は、音を遠くに運ぶ。
その夜、英雄譚はどこにも生まれなかった。
代わりに、帳面に小さな遅延が三つ、淡い墨で記された。
翌朝。
連邦技師ミルドゥーンが、手袋を外して翼に触れた。「返す前に、もう一度だけ試したい」
「返す前に、学べ。学んだら返せ」
「あなたは、嫌われますよ」
「嫌われるために来た。好かれて負けるより、嫌われて生きる」
ミルドゥーンは肩を竦め、翼のボルトを締めた。「灰猫は猫のまま?」
「猫で良い。虎は春に来る」
副官が駆け込む。「将、アムサラ側、鐘を二打。影刻の再点検終了を宣言」
「三打を鳴らさない……賢い」ザエルは薄く笑った。「次は“影”を借りよう」
「“影”を借りる?」
「彼らの歌の休符を、我々の刃にする。
——灰色のまま、一歩進め」
灰色の作戦室で、湯気がまた、音のない譜面をなぞった。
ザエルは毛織の上着を肩に掛け直し、北河回廊の印に目を落とす。
白旗、影刻、鐘。音のない武器たち。
彼は、そのすべてを数に変え、刃の角度を決めていく。
英雄の名は、この日も、ひとつも増えなかった。
だが、冬の勝ちは、こうして積み重なる。
春に虎を呼ぶために。




