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氷路起工

【本日の用語】

氷路ひょうろ:凍った川面に敷設する一時的な補給路。氷橋・氷倉・氷井戸などで構成。

白旗回廊しらはたかいろう:交戦中でも物資交換と遺体引き渡しのみ許される中立帯。

風返り(かぜがえり):防空結界がつくる位相乱流。上空の飛行に抗力と失速域を生む。

星尺ほしじゃく:星位と影の長さから時刻・方位・風位相を即時計算する折り畳み定規。

見せみせだま:本命を隠すために投じる囮手段。偵察凧や陽動の小競り合いなど。

夜明け前、工兵たちは氷の上に砂を撒いた。

砂は墨の代わりだ。線を浮かせ、滑りを殺し、恐怖に形を与える。


「棹、二丈。割れ目は白墨で囲め。渡りは一人ずつ、歌で刻め。――テンポを落とすな」


「歌、ですか?」若い兵が首を傾げた。


「歩調は命だ。音は恐怖を均す。氷鳴りに飲まれるな」


氷が低く鳴き、夜の芯がわずかに軋む。兵たちは声を合わせた。

「いち、に。いち、に」

足が揃うと、薄い氷の下でさざ波のように走っていた不安が、ひとつの拍に吸い込まれていく。


やがて東が細く白む。北河回廊を示す白旗の列が、凍気に揺れた。

その先、ルーシ国の橇隊が見えた。先頭の犬が雪煙をあげ、橇の鼻先に据えられた古い真鍮の金具が、羅針のように朝の光を跳ね返す。


「アムサラ殿、今季の最初の油だ。松脂油三百樽、約定どおり」

髭に霜を結んだ隊長が、両手を広げて笑う。


「こちらは干し棗・塩・薬草。回廊での交換だ。槍は下げたまま、目は上げて」


「目は上げて?」と、ルーシの若い橇引きが囁いた。


「足もとは疑い、相手の手は信じる。白旗の作法だ」


布印の確認、印璽の擦り合わせ、刻印の読み合わせ――。

形式は多いが、形式は命綱でもある。

氷路は、川の上にもう一本の道を描く。氷橋、氷倉、氷井戸。

どれも朝はよく働き、午後は気難しく、夜は黙る。それを守れば、道は道でいてくれる。


「午後の風位相、〇・一三右回り。結界の風返りが強い。――対空班、射界を一段下げろ」


「射界下げ!? 侵入を許しますよ」対空班長の眉が跳ねる。


「許すのは見せ玉だ。本命は風返りの陰で来る。渦の背骨を折ってやれ」


「渦の背骨?」


「風返りは輪だ。輪には芯がある。芯を叩けば、輪ごと崩れる」


班長は口の端を歪め、頷いた。「了解。輪の芯を割る」


「参謀!」氷路の端から伝令が駆け込んだ。吐く息が白旗にほどける。

「帝国側、回廊監視所の建て替え申請! 高さ三丈、望遠筒二基!」


カリームは一度だけ星尺を開き、影の目盛りを指先で撫で、ぱちんと閉じた。


「三丈は見せ札だ。本命は“低いもの”。――望楼の影が氷に落ちる時間を全部記録しろ。敵は影で測る」


「影……を、測る?」


「塔の影は定規になる。影が氷の弱い帯に届く刻を覚えられたら、昼間でも仕掛けが利く。影は刃先だ」


伝令は唾を飲み込み、踵を返した。


カリームは砂で描いた白線を靴先でなぞり、氷の微かなひびの音に耳を澄ませた。

(冬は道。だが“道”は常に誰のものでもない)


荷の受け渡しが始まる。

樽は樽であり、重さだ。

重さは、いつでも政治よりも口が固い。


「松脂油は何に使う」ルーシの隊長が、目だけで問う。


「継ぎ目を埋める。氷橋にも、心にも」とカリーム。


「心にも?」


「凍ると人は音に敏感になる。軋みのたびに、自分の体重を疑う。油は滑りを殺し、音を鈍らせる。歌と同じだ」


隊長は笑って肩を竦めた。「歌で橋を渡る国は初めて見た」


「歌で渡れぬ橋は、剣でも渡れん」


橇の後ろで、若い兵が荷札を数えながら小声で言い合っている。


「おい、割れ目の白墨が薄い。誰が持っていった」


「さっき帝国の立会人が……いや、回してくれただけだ」


「回した? 薄めてないだろうな」


カリームは横目でだけ二人を見た。「白墨の濃淡は明日から双方で確認。薄い線は刃になる」


「刃?」


「線が見えなければ、罠が見える」


若い兵は一瞬遅れて目を丸くし、慌てて頷いた。


昼前、氷は機嫌を損ねた。

うっすらとした陽のぬくもりに、氷鳴りが低い腹音へと変わる。


「テンポ保て! いち、に。いち、に」

指揮の声が、薄い太鼓の皮を通すように響く。


「隊列、開け! 間隔二人分!」工兵頭が叫ぶ。


最後尾の少年兵が足を滑らせ、棹が遠のいた。

氷に黒い筋が走る。

ルーシの橇犬が吠えた。

隊長が無言で棹を投げ、犬の綱を引き寄せた。

カリームは少年の襟を掴み、歌の拍に戻すように手首を振った。


「——いち、に。いち、に」


少年が呼吸を取り戻し、黒い筋はそれ以上伸びなかった。


「助かったな」ルーシの隊長が笑う。「歌は強い」


「歌は刃の柄だ」カリームは短く答えた。「柄のない刃は自分を切る」


午後、帝国の立会人が白旗の下に現れた。

帳面を抱えた細身の官吏、背後に青い外套の兵二名。

礼は正しい。眼差しが正しくない。


「建て替えの件、三丈でお願いします。理由は視界の確保」


「三丈で何が見える?」とカリーム。


「……氷上の安全です」


「安全を言うなら、ひとまず低い柵で良い。高さは、意図の高さだ」

カリームは星尺を開き、影の線を示した。

「ここからここまで、午後二刻。影が届く。氷の弱帯に重なる。

塔の影は、人を誘導する。見せ玉を置くのに、ちょうどいい」


官吏はわずかに顔を強張らせ、帳面の端を指で整えた。「誤解です。われらは約定を守る国」


「ならば、影の刻も一緒に守れる」


「……具体的には?」


「二つ。

ひとつ、望遠筒の俯角を制限。氷路の白線より下は覗かない。

もうひとつ、影刻の記帳。影が氷路にかかる刻は、そちら側で鐘を鳴らす」


官吏は部下と囁き合い、短く頷いた。「検討します」


「検討は、約束の手前だ」カリームは表情を変えない。「手前で凍るな」


官吏は一瞬だけ笑い、礼を取って退いた。その笑みは、刃の膜のように薄かった。


夕刻、防空結界の縁を見回る。

陽石柱の根は凍てつき、空気は紙の端を撫でるようにきしんだ。


「参謀、風返りが一段きつい。凧が三度、裏返る」


「よし」カリームは頷く。「敵が凧を投げるとき、癖が出る。

糸の指を見ろ。指は嘘をつかない」


「指?」


「凧糸を張るとき、人は怖さの形を出す。指先の震え、糸の角度。高い怖さか、低い怖さか。

高い怖さには低い刃、低い怖さには高い蓋を」


「……理屈は分かりませんが、やってみます」


「理屈はあとででいい。今は手で覚えろ」


兵たちは糸に指を添え、風返りの輪郭を探った。

渦の芯はゆっくり動く。意地悪く、半歩だけ。


「ここです」測手が囁く。


「そこだ。杭を打て。風の骨を留める」


杭が入るたび、空のきしみが一音だけ低くなった。


夜。

ルーシの焚き火が、獣脂の匂いをたてる。

橇犬が丸くなり、兵たちの歌は低く、囁きに近いテンポで続いた。


「参謀殿」ルーシ隊長が、湯気の立つ木杯を差し出した。「松葉茶だ。眠りの前に」


「ありがたい」カリームは一口すすり、息を白く吐いた。


「白旗回廊は、お前が考えたのか」


「星尺が考えた。影と星と、人の怖さの足し算だ」


「星はうそはつかんが、人は……」


「人は歌う。だから、最短では来ない。寄り道を見つける」


ルーシ隊長は笑い、犬の頭を撫でた。「寄り道が長生きの秘訣だ」


「戦では逆だ。寄り道は死ぬ。だから道に歌を貼る」


沈黙が落ち、氷の下を遅い水が流れた。


「参謀」焚き火の向こうで、若い兵が声を投げる。「帝国の望楼、どうします?」


「影刻を取らせる。鐘を鳴らさせる。鳴らなかった鐘は、嘘より重い」


「鳴らなかったら?」


「塔ごと耳だ。耳は、切るとよく聞こえるようになる」


兵たちが小さく笑い、すぐに真顔に戻った。

冗談と命令の境目を、皆が知っている。


真夜中、遠い鐘が一打だけ鳴った。

続けて、上空の裏返る音が、薄く一拍。


「起きろ。凧だ」対空班長が身を起こす。


「音、浅い。見せ玉です」測手が即答する。


「見せ玉?」新人が囁く。


「本命は低い」カリームは立ち上がり、外套の紐を結んだ。

「氷下を見ろ。光の筋が走る」


氷の下、灯が逆向きに揺れた。

帝国側の岸から、布覆いをかけた細い舟が一つ、音の谷を滑ってくる。

風返りの輪の外を、静かに。


「合図、砂灯」カリームが囁く。

兵が小さな灯を砂に埋め、一瞬だけ開いた。

光は低い。低いもの同士だけが見える。


「止まれ——そこから一歩で白革だ!」

歩哨の声が、白旗の縁を鋭く縫った。


舟の音が止まり、布覆いの影が固まる。


「殺すな、境界までだ。紙を裂くな」カリームが低く命じる。

「白旗の作法を、相手にも守らせる」


引き揚げた舟には、酸瓶が四。

瓶の喉に巻かれた紐の結び方が、昼間、帝国官吏が帳面を閉じたときの指と同じだった。


「同じ手だな」対空班長が唇を歪める。


「同じ怖さを持つ指だ」カリームは瓶の喉を軽く弾いた。

「——影刻と鐘。明日から、ひと打ち増える」


「ひと打ち?」


「“誓い”の打数だ。一打は見せ玉、二打は影、三打で人が動く」


新人が目を瞬いた。「数で、嘘を切れるんですか」


「嘘は数の弱さで齧れる。刃の角度は、数で決める」


明け方、氷は再び固くなった。

歌が戻り、棹が列を直す。

ルーシの犬が低く唸り、白い息に朝日が差す。


「参謀殿」ルーシ隊長が手を伸ばした。「次の交換は六日後だ」


「風返りが強い。七日にしよう」


「一日遅れれば、王都で値が動く」


「市場は風より正直だ。値はまだ待つ」


隊長は目を細めて頷いた。「分かった。歌を覚えておく」


「歌詞は簡単だ。いち、に。いち、に」


「短いな」


「短い歌ほど、裏切らない」


ふたりは短く握手を交わした。


カリームは星尺を開き、影の薄い線を読んだ。

氷の下で水が流れ、空の上で風が輪を作る。

白旗は、朝の光で真白に見えた。


(冬は道。

道は歌と影で守る。

そして、人で壊れる)


「——記録開始。影刻、鐘、風返り。今日から数える」


測手が頷き、砂に刻む。

歌が、また始まった。


「いち、に。いち、に」


そのテンポに合わせて、北河の氷路は静かに、しかし確かに起工された。

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